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 インフィニティ ・ エリア

 18
 一花は混乱したまま息が切れるまで走り続け、駅前まで出たところでついにうずくまってしまった。
 2月の冷たく乾いた空気を吸い込んだ喉は、びりびりと痺れ、唾を飲み込む事すらできない。肩で息をしながら派手に咳き込んだ。
 ひどく恐ろしいものに追い掛けられているような錯覚を覚えたが、それが一体何なのか、何故そう思うのか、自分でも判らなかった。
 半ば這うようにして街路樹の下に移動すると、携帯を取り出し母親に電話を掛ける。
 1回、2回……はやる胸を押さえて呼び出し音を数えたが、16回目のコールを最後に留守番電話に切り替わってしまった。
「出て……お母さん、出てよ……」
 一花は震える手で何度もリダイヤルする。しかし聞こえてくるのは留守番サービスへの誘導音声だけだった。
 仕事中だから出られないのかも知れない、それは判っていた。このまま夜まで待って、直接尋ねれば良いという事も理解している。それでも一花は今すぐ響子の声で全てを否定して欲しかった。そんな馬鹿な事はしていないと笑う声が聞きたい。
 何度掛けても繋がらない携帯を閉じて、ゆるゆる顔を上げる。家に帰って連絡先を調べ、会社に直接かけてみようかと思いついたものの、社名すら聞いていなかった事に気付いて愕然とした。
「……夏目!」
 遠くから呼ばれた声に視線を向ける。こちらに走ってくる姿を捉え、なぜか泣きそうになった。
「小野里くん……」
「ったく、いきなり居なくなんなよ。心配するだろうが」
 間近まで来た小野里は、腰を折って辛そうに息を吐いた。どうやら一花を探して走り回ってくれたらしい。
 昨日あれほど言われ反省したのに、また心配を掛けてしまった。
 未だ落ち着かない気持ちに申し訳なさが重なって、一花は項垂れた。
「ごめん」
「まぁ、仕方ねぇけど……」
 先ほどの恐慌状態を察してくれたのか、小野里は責めずに一花の頭を撫でる。その仕草は相変わらず荒っぽくて、頭の上で髪同士が擦れ合う音がした。
「ありがと」
 ぐちゃぐちゃになった髪を撫でつけながら、慰めてくれた小野里にお礼を言う。上目遣いに見ると、淡い苦笑いを返された。
「とりあえず、どっかに入ろうぜ。あったけぇ方が落ち着くだろ」
「あ……」
 有無を言わせずに手を引かれた。ときめきよりも先に、その手の冷たさに驚く。見れば、寒がりの小野里が上着を着ていなかった。
(追いかけて来てくれたから……)
 ただただ申し訳なくて、先を行く小野里の背中から目を逸らす。
 彼や皆に迷惑を掛けてばかりの自分が、嫌でたまらなかった。

 駅前のカフェに入ると、小野里はメンバーの誰かへと電話を掛け、一花が見つかった事を告げた。皆が自分を探してくれていたのだと気付いて、ますます申し訳なくなった。
 運ばれて来たミルクティーのカップを手の平で包む。冷え切っていたせいで、驚くほど熱く感じた指先が鈍く痛んだ。
「荷物と上着は、バイト行くついでに平野が持ってきてくれるとさ」
 携帯をジーンズのポケットにしまいながら小野里が言う。一花は向かいに座る彼を見つめると、今度こそきちんと謝罪した。
「迷惑かけて、本当にごめんなさい」
「もういいって。いきなりあんな事言われりゃ、誰だって驚くだろ。俺もあいつらも迷惑なんて思ってねえから気にすんな」
 小野里の優しさが心に沁みる。だからといって自己嫌悪はおさまらなかったが、一花は静かに頷いた。
(あんな事……お母さんが関係しているかも知れない事)
 落ち着いてくるにつれ、その可能性に気付いた時の不安感が思い出される。
 響子が春子の知り合いで、協力している証拠なんてどこにも無いのに、なぜこんなに自分は怯えているのか。何度目かの自問でも答えは見つけられず、一花は慄く気持ちを誤魔化す為に胸元を強く押さえた。
 心配そうにこちらを見る小野里に微笑む。強がりなのはばれているだろうが、彼もかすかに笑ってくれた。
「どうして逃げ出したのか、自分でもよく判らないんだよね。池田くんが言ったのは単なる可能性で、証拠とか無いって判ってるんだけど、凄い怖くて。何か……もっと嫌な事が起きそうな気がして……」
 話しながら、手が震えだす。気付いた小野里に、そっと手を握られた。
「無理すんな。夏目が落ち着くなら、泣いても喚いても構わねえぞ」
 もう簡単に泣くのは止めようと夕べ思ったばかりなのに、嬉しくて涙が浮く。何度か瞬きをして零れ落ちるのを防いだ一花は、ゆっくり首を振った。
「大丈夫、ありがとう」
「ああ」
 テーブルの上で重なる二つの手。最初は冷たく感じたのに、体温が交じり合って段々と馴染んでいく。
 今更ながら急に気恥ずかしくなった一花が、どう言って離してもらえばいいのかを悩み始めると、テーブルの反対側に置いていた携帯が一度大きく震えた。
(メール!)
 空いていた手で引き寄せ開く。響子からの連絡だと思った一花は、緊張から唾を飲み込んだ。
「……」
 そこには、何も言わずに飛び出した一花を心配する志織からのメールが表示されていた。
「お袋さんから……じゃ、無さそうだな」
「うん、志織から。私が黙って学校出てきちゃったのを聞いたみたい」
 志織には悪いが細かく状況を説明する気にはなれなかったので、とりあえず大丈夫だというだけの返信をする。それからもう一度、響子の携帯に掛けてみたものの、やはり留守番サービスに繋がってしまった。
「なぁ、夏目。一つだけ聞いてもいいか?」
「え。うん」
 急に低くなった小野里の声音に、内心首を傾げる。見れば、何かを思いつめているような顔をしていた。
「……お前に兄貴とか、いねぇよな?」
「え。私、一人っ子だって言ったこと無かったっけ?」
 随分前に何かの話のはずみで、西村に弟が2人と、平野に姉がいる事。一花と小野里、池田は一人っ子だと教えあった気がする。
「いや、聞いたけど。例えば、産まれる前に亡くなっちまった兄貴とか、そういう人」
「いないよ。そんな話、聞いた事無いもの」
「……そうか」
 息を吐きながら、肩の力を抜いた小野里に疑問を抱く。突然、深刻な顔で兄弟の有無を聞かれても、何の事やらさっぱり判らない。
 一体何だったのかと尋ねようとした一花は、目の前のウィンドウが翳ったのに気付いて顔を上げた。
「平野くん!」
 両手に2人分の荷物と上着を抱えた平野が、すぐ外に立っている。いつから見ていたのか、にやりと目を細めた。
 一花はまだ握られたままだった手を振り解いて、テーブルの下に隠す。俯いた顔が赤くなっている事は、頬の熱で判った。
(恥ずかしい)
 結局一花はその後、平野が立ち去るまで顔を上げる事ができなかった。触れていた手の甲が熱く火照っていた。

 平野がバイトへ行ってしまった後も、響子に何度か電話を掛けたが一向に繋がらない。今までこんな事は無かったと困惑しつつ、やはり帰宅を待つしかないと諦めた。
 数日前、小野里とキスしている振りをした最寄り駅から、自宅までの道を歩く。駅前の一花の家までは徒歩でもほんの数分なのに、やたら長く感じた。
 なにげない素振りで斜め後ろを振り返ると、視線の先の人が少しだけ首を傾げる。学校での一花の取り乱しようを見た小野里が、心配してついてきていた。
「どうした?」
「ホントに駅前だから、大丈夫なのに……」
 申し訳ない気持ちから思わず拗ねたような口調になった。言われた小野里は、肩を震わせてくつくつと笑う。
「お前って、面白ぇよな」
「え?」
「いや、何でも無い。夏目の家が見てみたいだけって事にしとけよ」
 いきなりそう言われても納得できない。商店を営んでいたのは何十年も前で、今は何でもないただの一般家庭なのだから、見ても面白くも何とも無いだろう。
「そういえば、小野里くんてどういう所に住んでるの?」
 歩きながら尋ねる。親がいなくて1人暮らしだと聞いた事はあるが、一花には小野里の住まいの方が想像がつかなかった。
「別に。普通のアパートの2階。コーポって言うのか、判んねーけど」
「ふぅん」
 相槌を打ちながら、どんな感じだろうと頭に描いてみる。外観はともかく、片付けも面倒くさいとごちゃごちゃに散らかしていそうな気がして可笑しかった。
 駅前のロータリーを抜け、大通りと交差している道を入って3軒目が一花の家。両親が結婚する時に建て直したという家は、新しくも古くも無い微妙な年代を感じさせるデザインだった。
 立ち止まった一花と、門柱の表札を見た小野里が顔を上げた。
「ここか?」
「うん。すぐだったでしょ?」
「ああ」
 一度曲がる為、家の前から直接駅は見えないが、行き交う電車の音がはっきり聞こえるほど近いのだ。
 普段通りに門扉を押し開け振り返った一花は、ふいに違和感を覚えて立ち止まった。志織や平野に家まで送ってもらった事もあるのに、その時とは何かが違う。内心首を捻り、空を見上げて気が付いた。
(……まだ、お昼過ぎだったっけ)
 朝一で池田に呼び出されたという事を、すっかり忘れていた。感情の変化が激しすぎて、時間の感覚を失っていたらしい。
 一花は少しだけ考え、そっと視線を落とした。
「えと、寄っていく? まだ時間早いし。小野里くんがヒマならだけど」
 結果的に一花のせいで、小野里はこんな時間にこんな所にいるのだから、お茶くらい出さなければならない気がしてきた。彼ともっと一緒にいたい気持ちも……少しはある。
「特に用無ぇから、寄ってく」
「えっ」
 てっきり断られると思っていた一花は、予想外の返答にかなり驚いた。
 小野里はそんな一花の態度を勘違いしたらしく、難しい顔をする。
「って、邪魔ならこのまま帰るけど」
「ち、違うの。誘ったら逆に迷惑かなって思ってたから……」
「なんだそりゃ」
 ははっと軽く笑う小野里にどぎまぎしながら、一花は家の鍵を取り出した。
 朝、出掛けに中をきちんと片付けたかが気になる。掃除は母親がある程度やってくれているから良いとして、脱いだ後の自分用スリッパを乱雑に放置していたり、玄関の姿見の前に髪留めやらを散らかしたりしていたら恥ずかしい。
 一花は鍵を回すと、ドアの隙間から素早く中を覗き込んだ。視線だけ動かしてざっと見回す。スリッパも、姿見の前も確認し安心したものの、たたきのタイルの上に見慣れた黒いパンプスが転がっていた。
「あれ?」
「どうした?」
 すぐ後ろに来ていた小野里が声を掛ける。一花ははっきりとした違和感を感じながら、ドアを大きく開いた。
「お母さんの靴があるの……でも……」
 指差した先の靴は、それぞれがちぐはぐな方向を向いていて、とても行儀が良いとは言えない。まるで子供が脱いでそのままにしたようだった。通りすがりに引っ掛けたらしく、傘立ても傾いている。
 几帳面な響子がこんな脱ぎ方をするとは思えず、一花は不安な表情を小野里に向けた。
 一花の上から中を覗き込んだ小野里は、その奇妙な様子に気づいたのか、眉間に皺を寄せた。
「お袋さん帰って来てんのか? それにしちゃ静かだな」
 外とは違い、中は静まり返っている。小野里の言う通り、誰かがいるような感じはしなかった。
「1回帰ってきて、靴替えてまた出かけたのかも」
 ありそうな例えを口にしながら、一花はパンプスを脇に寄せる。倒れそうな傘立ても直すと、先に上がって来客用のスリッパを出した。
 やはり何の物音もしない室内に人の気配は無く、響子はまた出かけたのだろうと決め付けた。
 一花は家にあるはずの食べ物を頭に描く。
(小野里くんて、何が好きなんだろう?)
 今更ながら、食べ物の好みが判らない。お茶菓子に、飲み物は何が良いだろうかと頭を悩ませたつつ、リビングの方を向いた。
 その瞬間、目に飛び込んで来た状況に息が止まった。
「っ!!」
 背筋に悪寒が走り抜ける。瞬きさえできずにただそれを見つめた一花は、何かを言おうとしたが唇が震えてどうにもならなかった。
 靴を脱ぎかけた小野里が、突然黙ってしまった一花に視線を向け、不思議そうな顔をする。
「……夏目?」
 掛けられた声は確かに聞こえたが、頭まで届かない。目の前の事に思考が停止した一花には、返事ができなかった。
 ただ事では無いと悟ったらしい小野里に肩を掴まれる。一花はびくりと大きく震えて、廊下の先を指差した。
「あ、あれ……」
 やっとの事でそう言うと、小野里は一花を抱えるように押しのけ、廊下の奥へ視線を走らせた。
 廊下からリビングへ続くドアが開け放たれていて、その床に白い足が2本横たわっていた。上半身はドアの影に隠れて見えない。足はまるで人形のように、ぴくりとも動かなかった。それはどう考えても、倒れている人間に見える。
「なっ……」
 さすがに小野里も驚いたらしく、ひゅっと息を呑んだ。しかし、次の瞬間には倒れている人へ駆け寄っていった。
 小野里が離れたせいで支えを失った一花は、その場にへたり込む。視点が下がる事により見えた左手には、いつかの結婚記念日に父が母に贈った腕時計が巻かれていた。
「お、母……さん?」
「おい、夏目! 救急車呼べっ!」
 小野里の声に弾かれた一花は、玄関に置いてあった電話の子機を慌てて取った。混乱したまま119番を押す。
(どうしよう、どうしよう……!)
 受話器を握る手がぶるぶる震える。繋がった電話口には、落ち着いた声の男性が出た。
 慌てながらも何とか聞かれた通りに状況と住所を伝えられたのは、相手の男性の冷静な応対と、子供の頃からずっとここに住んでいたからに他ならない。
 相手が『すぐに行きますから、落ち着いて待っていて下さい』と言った所まで聞いて、力の抜けた一花は電話を取り落としてしまった。
 ごつっと鈍い音を立てて落ちた子機をそのままにして、小野里と響子のいる場所に這い寄る。震えっぱなしの足では歩けそうに無かった。
 一花が何とか近付くと、小野里は仰向けに倒れている響子の襟を開けていた。
 響子のやつれた顔は蒼白で、嫌でも不安になる。もしもの事が思い浮かんで、動悸と眩暈がした。
「お母さん……お母さん……」
 自分でも知らない内に涙を流しながら、一花は母親を呼び続ける。
 小野里は手早くスーツの合わせを外し、ベルトを緩めると、響子の耳元で大きな声を出した。
「しっかりして下さい! 聞こえますか?! 春子さんっ」
 その声に、一花は限界まで目を見開いた。
(いま……何て……)
 ぎこちなく首を回して、小野里を見つめる。響子に声を掛け続ける小野里が、急に遠くなったように感じた。
 やがて、近付いてくるサイレンの音が大きくなっても、一花はただ2人を見つめ続けていた。目も耳も、何もかもの感覚を全て失ってしまったような気がした。

   

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