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 インフィニティ ・ エリア

 17
 小野里に送ってもらった後、余り眠れぬ夜を過ごした一花は、朝一で書き込まれた池田からメンバー全員への呼び出しを見た。
 詳しい事までは書いていなかったが、アクセスチェックの件でとても重要な話があるらしい。
 以前、個人的に呼び出された時の事を思い出し、気が重くなった。
 至急の用件らしいので、放課後を待たずに集まる事になったが、志織は単位がぎりぎりでサボらせるわけにいかない。一花は渋る志織をなだめて、何とか教室を抜け出した。
 ミーティングルームへ向かう途中の廊下、階段と交差する場所で小野里と行き合う。
 昨日の事を思えば気まずいが、一花は意を決して笑顔を向けた。
「おはよう。昨夜は、ごめんなさい。ちゃんと言えなかったけど、ありがとう」
「いや、俺も悪かった」
 小野里に見えるように、ゆっくりと首を振る。一花は自分の身を顧みない事の愚かさを教えてくれた彼に感謝していた。
「池田くんの話って、何だろうね」
 確証は無いが、良くない事のような気がする。そんな予感を振り払うように明るく言った一花に、小野里は真顔で向き直った。
 余りに真剣な表情だったので、思わず一花も立ち止まる。
「本当は一人で何とかしようと思ってた。けど、それじゃ夏目に心配かけるし、あいつらも納得しねえだろうから、全部話す」
「……うん」
 彼の決意を見て取った一花には、それしか言えなかった。
 昨夜、小野里は「隠しているわけじゃない」と言っていた。それでも積極的に自分から言わなかった理由があるのだろう。
 一花は、それがどんな理由であれ、受け止め、最善の方法を探そうと思った。

 志織を除く全員がミーティングルームに集まるのは、本当に久しぶりだった。年の明ける前、何とか間に合わせようと毎日顔をつきあわせて必死で作業していたのが、とても懐かしい。
 あの頃は、お互いがこんな暗い表情で揃う事になるなど、想像もしていなかったのに……。
 胸に広がった悲しみを隠して、一花は池田を見た。はっきりと顔色が悪い、少しやつれた感じもする。
「池田くん、大丈夫? 調子悪そうだけど」
 一花の声にはっとした池田は、何かを隠すように視線をそらして静かに首を振った。
「大丈夫です、体調の問題ではありませんから」
「?」
 おかしな事を言う池田に違和感を覚える。体ではなく精神的に辛いという事だろうか。不思議に思いながらも、どう尋ねていいか判らず、一花はそのまま椅子に座った。
 言いようの無い重い空気が漂う。池田がパソコンを操作し何かの準備をしている間、それぞれが無言だった。
 小野里の様子が気になってそっと盗み見ると、行動を読まれていたのか視線を返される。他のメンバーとは違う穏やかな表情に、少し安堵した。
「なぁ。池田の話の前に、俺からも話あんだけど、いいか?」
 おもむろに発せられた小野里の言葉に、全員が彼を見た。それをきっかけにするように、平野が緩い口調で続ける。
「おっけーおっけー。でも、イケちゃんは後でもいーの?」
「構いません」
 即答した池田は、普段と違い後回しにされることを嫌がらないばかりか、どこかほっとしているように見えた。
 妙な違和感が少しずつ一花の中に積もっていく。
 小野里はいつものように浅く腰掛け、パイプ椅子に寝そべるような姿勢で腕を組んだ。
「あー、どっから話したらいいか判んねーから、最初から話すわ」
「判った」
 各々が頷く中、西村が代表して返事をする。
 大体の事情を知っている一花は、小野里以上に緊張し、爪が食い込むほど強く手を握り締めた。
「……4年ちょい前、専門入る金貯めようと思って、1年だけホストやってたんだよ、俺」
 一瞬の静寂。
 今の小野里からは想像できない過去に、西村と池田が困惑しているのが、はっきりと判った。
 と、平野がなぜか嬉しそうに声を張り上げる。
「えー、ナーリーかっこいいじゃーん!」
「はぁ? んな良いもんじゃねえよ。面倒くせーし、疲れるし、うぜぇし」
 眉間に皺を寄せて嫌そうに呟く小野里が、とても彼らしくて、一花は肩の力が抜けていくのを感じた。
 緊張がほぐれるのと同時に、笑いが込み上げる。
 不謹慎だと思いつつ忍び笑いをしていた一花に、西村が怪訝な顔をした。
「どうした、夏目?」
「……っふ。ご、ごめん。小野里くんがホストだなんて、すっごい合わないなぁって思ったら可笑しくて」
 とっさにそう答えたが、こんな状況でも小野里が少しも変わらないというのが本当の理由だった。
 いつも通りの彼が嬉しくて、心配しすぎていた自分が可笑しい。
「確かに、小野里さんはサービス業に向いていないと思います」
「俺もそう思うぞ」
 畳み掛けるような池田と西村に、小野里がムッとする。
「平野と夏目はともかく、お前らに言われたくねえんだけど」
 その掛け合いも面白くて一花はお腹を抱えて笑い続けた。やがて落ち着いた頃には、室内の雰囲気がいくらか柔らかくなっていた。
「で、そのバイトがどうかしたのか?」
 一花のせいで脱線してしまった話を戻すために、西村が仕切りなおす。
「ああ。そんとき、ちょっと変わった客がいて。今考えれば、あれってストーカーだったかも知れねえって思うんだよな」
「……つまり、その人がまた小野里さんを付け回し始め、何らかの状況で知ったインフィニティ・エリアを使い、夏目さんに宛ててメッセージを送ったという事ですか?」
 先回りした池田に、小野里は頷いた。
「どうやってんのかは知らねぇけど、その可能性が高いと思ってる」
 ここまでは一花も直接聞いて知っている。だからこそ、桃子を疑っていたのだが。
 予想外な話に驚いたであろう西村が、難しい顔で腕を組み低く唸った。
「しかしその客とやらが、どうやってインフィニティ・エリアを知ったんだ。まさか学内にいるのか?」
「いや、それは無いと思う。いれば俺が気付くだろうし、若く見えるけど、あの人は40過ぎてるはずだ」
 てっきり桃子くらいの歳だと思っていた一花は、少なからず驚いた。この学校に入学年齢制限は無いが、40代の学生がいるという話は聞いた事がない。
「その人が……春子さん、なの?」
 聞いても良いものか悩んでいた問いを口にする。過去、小野里に執着していたという客の名前。
「……ああ」
 言わなくても一花が桃子から聞いた事を察したのだろう、小野里は静かに肯定した。唐突に出た春子の名に、他の面々も不思議そうな顔をしていたが、あえて追求はされなかった。
 少し離れて座っていた平野が、長机に肘をついて大げさに溜息をつく。
「あーあ。容疑者が特定されても、なーんか判んないコトだらけだよねー。その春子さんには連絡つかないんでしょー?」
 話を振られた小野里は無言だったが、その苦い表情から答えは聞かなくても判った。
 春子という中年女性。それだけでは何も判らない。桃子が昨夜言っていたように「店の中だけの関係なら必要ない」のだから、本名かどうかすら怪しい。
 また居たたまれない空気が漂い始めた部屋で、池田が静かに立ち上がった。
「小野里さんの話が終わったようなので、僕からの説明を始めます」
 小さな囁き声。そこにわずかだが池田の躊躇を感じて、一花は何度目かの疑問を抱いた。
 先ほどセッティングしたパソコンの画面を、全員に見える位置に動かした池田は、女性のような細くて白い指で一部を指し示した。
 表示されている英数字の羅列だけで、何かに気付いたらしい西村が声を上げる。
「おっ!」
「見ても判る通りですが、管理者用のアクセス履歴です。細かくデータを取る為に時間はかかりましたが、何とかできあがりました」
 池田が数週間を掛けて行っていた改変が終了したらしい。ざっと見ただけでは、どこがどう変わったのかさっぱり判らないが、目を見張る西村の様子を見る限りでは、画期的な事のようだ。
「はーい。見ても全然わかりませーん。説明プリーズ」
 一花と同じく、デザイン専門の平野が手を挙げる。池田は眼鏡越しに一瞬冷ややかな視線を向けたが、二人の為に画面構成を説明してくれた。
 何となく理解できた気がした一花が頷くと、彼はもう一度さっきの部分を指差した。
「まず、これは昨日メッセージが来た時のユーザー記録です。今回はわざと削除していませんので、そのままになっています」
「……鈴木明、情報処理科情報管理専攻3年……」
 表示されているユーザー情報をそのまま読み上げる。誰に聞かずとも、それが架空の人物である事は判りきっていた。
 池田は画面を切り替え、少しだけスクロールさせた。それが先ほど一花達に説明してくれた管理者用のアクセス記録だと気付く。
「ここです。鈴木明というユーザーは、一昨日の夜の8時32分に登録されています。もちろんハッキング等の痕跡はありません。登録許可管理者は……」
 ふいに途切れた池田の声に画面を見つめた一花は、驚きの余り声が裏返った。
「えっ、私!?」
 ぎょっとして何度も見返したが、やはりそこには『夏目一花』と書いてある。
 一様に驚きを隠せない顔で、全員がこちらを見ていた。
「おい、池田。これはどういう事だっ?!」
「僕にも判りません。ただハッキングされた可能性が低いので、架空ユーザーの登録許可を出したのが夏目さんだという事です」
 眉間に皺を寄せた西村が詰め寄るも、池田は淡々と事実を述べる。
(……何よ、これ。何なの?)
 全く身に覚えの無い一花は、髪が乱れるのも気にせずに力いっぱい首を振った。
「知らない、知らないよ! 私こんなの許可してない!」
 思わず叫ぶと、池田の表情が更に曇る。
 はっきりと混乱していた一花は自分の潔白を言い募ろうとしたが、後ろから伸びた手に肩を叩かれた。
「落ち着け。何か理由があるはずだ、お前が許可するわけねえって判ってるよ」
 少し低い声が響く。振り返った先の小野里の瞳を見て、一花はぎゅっと目を瞑り身を縮めた。
 立ち上がって説明していた池田は小さく息を吐くと、疲れたように椅子に座り、前かがみに項垂れた。
「この状況に合致する可能性は、大きく2つあります」
「……それって、もちろんイッチーがやったんじゃないって事だよねぇ?」
 あからさまに刺々しい言い方をした平野に、池田は浅く頷く。
「一つは、夏目さんが使っている管理プログラムとパスワードを盗み、且つ、夏目さん宅の回線を外部から使用して許可した。……ただ、これには他人の回線に侵入する技術が必要です。もし夏目さん宅の回線にセキュリティが施されていなければ容易いですが」
 一花には、自宅の回線のセキュリティがどうなっているかなんて判らない。そっちの勉強をした訳でも無いし、もともと母親が前職の時に、仕事に必要だからと設定したものをそのまま使っているからだ。
「ごめん、そういうの判らない。親が設定してるから」
 しかし詳しく知らないとはいえ、IT系の職に就いていた響子がセキュリティを怠るなんて事が有り得るのだろうか。
 一花の疑問を他所に、池田はもう一つの可能性を語っていく。
「もう一つは……夏目さんの、ごくごく身近な人が勝手に許可した……」
「え?」
 池田の言っている意味が判らずに聞き返した。
「夜に一緒に自宅にいても不思議でなく、勝手にパソコンを使用できれば、全てを簡単に行う事ができます」
(……何を、言っているの……)
「おい!!」
「……」
 小野里の非難めいた声に答えず、池田はただ下を向いている。
 夜に家にいて、一花のパソコンをこっそり使う事のできる人物なんて……考えるまでも無く一人しかいない。池田の指摘に気付いた一花は、余りに突拍子の無い考えに馬鹿馬鹿しくなった。
「そんな事あるわけないよ。確かに、お母さんなら可能だけど、なんでそんな事しなきゃいけないの? 意味わかんない」
「僕は可能性を言っただけです。しかし想像力を働かせれば、いくらでも理由付けはできると思います」
 回りくどい池田の物言いに顔をしかめる。
「例えば?」
「先ほど出てきた春子という人がお母様の知り合いで、騙されて利用されている、とか」
 鼻で笑ってやろうと構えていた一花は、池田のもっともらしい例え話に何も言えなくなった。
 確証なんて無いのは判っていたが、そう考えれば辻褄が合う。ありえないと頭で理解しているのに、胸がざわついた。
 ふいに、響子が以前の会社の先輩に頼まれてアルバイトを始めると言っていたのを思い出す。
 ……もしも、その先輩に頼まれたとしたら?
 ……仕事先の同僚に、春子が在籍しているとしたら?
 いくら母親とはいえ、無断でそんな事をするとは思いたくない。しかし適当な理由で実害が無いと騙され、些細な事だからと言いくるめられれば、どうだろう。実際、ユーザーの申請許可なんて、クリック一つで事足りてしまうのだから。
 一花は堪えきれずに立ち上がった。
「……私、お母さんに直接聞いてみる」
 驚いたメンバーが顔を上げる間も無く、一花はミーティングルームを飛び出した。
「夏目!」
 閉まりかけたドアから小野里の声が聞こえたが、振り切るように駆け出す。急いで走っても、行く宛なんて無い。いつも通り仕事に出かけた響子が、家にいるわけは無かった。
 それでも一花は走らずにはいられなかった。胸に溜まった汚泥のような不安に、気ばかりが急いていた。

   

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