15 ←  → 17  小説  index

 インフィニティ ・ エリア

 16
 最寄り駅に着いてから、電車が来るまでに時間がかかったせいで、一花が繁華街へ着いたのは8時45分を少し過ぎていた。
 突然思い立って飛び出したのだから仕方ないとはいえ、このタイムラグは痛い。週の半ばという事もあり、さして人の多くない通りをぐるりと見渡しても、それらしき人は見当たらなかった。
 あの時の桃子の服装からすれば、ホステスをしていると思って間違いないだろう。一花はとりあえずの見当をつけ、電飾の眩しい横道へ足を向けた。
 それほど長くは無いネオン街をざっと見ながら行き過ぎ、反対側の通りに出ても、やはり桃子を見つける事はできなかった。
 こんな行き当たりばったりな行動で見つかるわけが無いと判っていても、気落ちする。
(もう、帰った方が良いのかな)
 思わず出てきてしまったが、母親が帰宅するまでに戻らないとまた面倒な事になりそうな気がする。一花は息を吐いて、来た道を引き返した。
「おじょーちゃん、さっきから何してるの。用無いなら帰った方が良いよ」
 俯き加減にとぼとぼ歩き出した一花は、突然掛けられた声に振り返った。
 一見して頼り無さそうな、黒服の男性が壁に寄り掛かったままこちらを見ている。歳は40手前くらいだろうか。客引きのために立っているらしいが、声を掛けるべき客もまばらなせいで暇そうだった。
「あ……もう、帰ります」
 見知らぬ人間に事情を話すわけにもいかず、やっとそれだけ答える。男はどうでも良さそうに「ふぅん」と鼻で答えて肩を竦めた。
「ここいらで働きたいってんなら、ウチで雇ってもいいんだけどねぇ。おじょーちゃん若いし、可愛いしさ」
「え。いえ、そういうんじゃなくて。ちょっと人を探していて……」
 いきなり勧誘めいた事を言われ焦った一花は、つい本音を漏らす。
 よほど暇らしい男は、面白そうに眉を上げた。
「へえ、それって男かい。それともこの辺の女? ……俺が知ってる奴だったりして」
 冗談めかして言われた言葉に、ぴくりと震える。もし桃子がこの辺りの店で働いているとしたら、男が知っていても不思議は無い。
 一花は少しだけ躊躇したものの、一縷の望みをかけて口を開いた。
「……桃子さんっていう、多分、ホステスさんだと思うんですけど」
「桃子?! 『クラブ華』の桃子かい?」
 すっとんきょうな声を上げた男を凝視する。見つめられた男は照れたように笑って誤魔化した。
「お店までは知らないんですけど……そこに行ってみます。ありがとうございました」
 大方この界隈にあるのだろうし、店の名前さえ判ればどうにかなる。
 一花は礼を言ってその場を去ろうとした、が、男はにやりと口の端を上げた。
「いきなり行ったって会えるわけ無いよ。休みか同伴じゃなきゃ、時間的に店には居るだろうけどね。どうだい、おじょーちゃん。俺に手間賃払う気があるなら、呼んでやってもいいぜ?」
「え……」
「そーだなぁ、桃子に1万。俺に5千。どうだ?」
「……」
 つまり情報料を払えという事らしい。言われている意味は判ったが、答えに詰まる。
 学生の一花にすれば1万5千円は大きな額だが、それで桃子に話が聞けるのなら払っても良いと思った。手持ちも問題無い。ただ本当にこの男が信用できるのかが心配だった。
 そんな一花の不安が顔に出ていたのか、男は思い切り吹き出す。
「あんた判りやすいな。いいぜ、桃子を呼び出して、あいつが来たら払ってくれよ」
「……来なかったら、払いませんから」
 笑われた事に少しムッとした一花がつっけんどんに言うと、男は気にも留めずに携帯を操作した。会話の内容からすれば、どうやら『クラブ華』に電話を掛けているらしい。ややあって、通話を終えた男は一花を見て顎をしゃくった。
「客引きしてくるっつって出てくるらしいから、店の前で待っててくれとさ。行こう、こっちだ」
 どうやら桃子が出てくるのに立ち会うつもりらしい。男は駅のほうに向かって歩き出した。異存の無い一花もそれに続く。
 店やビルを6軒ほど過ぎ、間口の狭い雑居ビルの前で立ち止まる。入り口の脇にかかっている看板には、上から下までクラブとパブの名が入っていた。4階の表示に『クラブ華』を見つけて、一花は緊張から身を固くした。
 入り口からすぐの階段部分はコンクリートの打ちっ放しらしい。誰かが降りてくるヒールの音が外まで響いてくる。そこにサッと影がさしたと思うと、軽快な足取りで桃子が姿を現した。
 薄ピンクのフェミニンなスーツに白い毛皮のコートを着た桃子は、一度ぐっと伸びをしてから、一花と男を眺める。
「私に話があるのって、あなた?」
 不思議そうな桃子に、一花は頷いて見せた。と、ふいに肩を突付かれる。見れば、男が左手をこちらに差し出していた。
「おじょーちゃん、約束は守ったぜ。部外者は話を聞かない方がいいだろうから、貰うもん貰って俺は戻るよ」
「……ありがとうございました」
 金目当てとはいえ、男のお陰で桃子に会うことができた。一花が礼を言ってから5千円を渡すと、男は手馴れた仕草で札を弾き、片手を挙げて去っていく。その後姿を見送っていた一花は、後ろから刺さる視線に振り返った。
 桃子の値踏みするような瞳を受け止め見つめ返す。彼女は何かに気づいたのか、少しだけ眉を寄せた。
「あなた……どこかで会ったことあるわね。どこだったかしら」
「小野里くんと、一緒にいました」
 一花は緊張しながらも、はっきりと口にした。
 もしも桃子が犯人ならば、聞かずとも一花が誰であるかを知っているはずだし、名前だって判っている。そうでなければメッセージを送れる訳がない。
 今こうして桃子が一花の素性を訪ねるのは、はぐらかす為のフェイクなのか、それとも本当に知らないのか……。
 桃子の挙動を見逃すまいと強く見つめる。が、彼女は訳が判らないという風に首を傾げた。
「小野里って誰よ?」
「……秋の終わりにそこで会いました。小野里成くんです」
 少しだけ苛立った一花が言うと、桃子があからさまに驚いた。
「小野里って、ナリの事?! ふぅん、そんな苗字だったのねぇ」
「知らなかったんですか?」
「そりゃそうよ。ただの客にフルネームなんて教えてくれるもんですか。もちろんこっちも本名は教えないけど、店の中だけの関係なら必要ないでしょ」
 一花には判らないが、そういうものなのだろうか。
 あっけらかんと答えた桃子は、ポケットから薄いシガレットケースを取り出すと、確認せずに煙草に火をつけた。突然やってきた一花に遠慮する必要も無いと思ったのだろう。一度大きく吸い込んで吐き出し、横目でこちらを見た。
「で、あなたの話って何。ナリに関係ある事?」
 何をどう尋ねるかを考えていなかった一花は口ごもる。桃子に会うまでは、少なからず彼女が犯人だと疑っていたのに、今では何か違うような気がしていた。
 見た目だけで判断するのは危険だが、桃子ほどの美人が一花を牽制する為だけに、あんな陰湿な手段を取るとは考えにくい。それならば、犯人は桃子と同じようにホストクラブへ通っていた別の人間という事になる。
 一花は桃子への疑惑を一旦置き、情報を集める事にした。
「小野里くんが前のお店で働いていた時、誰かに付き纏われていたとか聞いた事ありませんか。多分、お客さんだと思うんですけど」
 桃子は煙草を指に挟んだまま、難しい顔をする。寒空に細い紫煙が昇っていった。
「そう言われても、4年も前の事だしねぇ……ああ、でも、かなりご執心な客はいたわよ」
「その人の名前って判りますか?」
「名前……そうね、ナリが一度だけ呼んでるの見たわ。確か……春子って言ってた」
「春子」
 オウム返しに呟いた一花は、自分の記憶を探ってみる。しかしいくら考えても春子という名前に心当たりは無かった。もちろん学内の知り合いにもいない。
 もう少し春子の事を詳しく聞きたいと思い顔を上げると、桃子の携帯のものらしい着信音が高らかに鳴り出した。
「あら、ごめんなさい。ちょっと待っていて」
 桃子はコートの反対側のポケットに入れていた携帯を取り出し、身を翻す。そのままビルの入り口に置いてあった灰皿に吸殻を捨て、壁に寄り掛かった。声の調子からして、相手は客の誰かなのだろう。楽しそうに笑いながら、連絡が遅すぎると甘く詰っている声が聞こえる。
 一花は他人の通話を聞くべきでないと判断し、ガードレールの方に離れた。
 腕時計を見れば、すでに9時半を回っている。帰るまでには10時を過ぎてしまうだろう。母親がまだ残業中かどうかは知らないが、先に連絡した方が良さそうだ。
 バッグから携帯を取り出しコールすると、間を空けずに繋がる。
『……もしもし、一花ちゃん?』
「あ、お母さん。もう家にいるの?」
『えっ。いいえ、でももう少しで家に着く所よ』
 電話の向こうは静かで、かすかに風の音がする。一花は家へ向かう響子の姿を想像して、少し安堵した。
「そっか。私、志織と一緒にご飯食べたんだけど、話してるうちに遅くなっちゃって。もう少ししたら帰るけど、心配しないで」
 後ろめたいと思いながらも電話越しだからか、緊張せずにすらすらと嘘が口をついて出た。
『そう。お母さんも遅くなってごめんね。帰り道が危ないから、タクシーで帰ってらっしゃい。お金は出してあげるから』
「ん、後で志織と相談してみる。それじゃね」
 余計な事を言わないうちに話を切り上げ、通話を終える。
 てっきり今の時間まで連絡しなかった事を叱られると思っていた一花は、肩透かしを喰らった気分だった。そこに気が回らないほど、響子が疲れているという事だろうか。
 振り返れば、ちょうど桃子の電話も終わったらしく、こちらに手招きしていた。
「ねえ、あなた。私に情報料で1万くれるって言ってたでしょ。私はいらないから、そのお金でちょっと店に寄っていってくれない?」
「えっ?」
 突然の申し出に驚く。
 こういった店は、男性をもてなす為の場所なのに何故、自分が誘われるのか。瞬時に身構えた一花を、桃子が心底おかしそうに笑った。
「お金さえ払ってくれれば、誰が来たって良いのよ。今日は客がいなくてママがピリピリしてるし、中で話しましょ。今の電話の相手が、もう少ししたら店に来るって言うから、待ってる間にあなたの質問に答えてあげるわ」
 早口で言い切った桃子は一花の返事も聞かずにビルへ入っていく。肩を竦めて足を擦り合わせたのを見るに、どうやら寒かったらしい。桃子との対面に緊張していた一花は寒さなど感じている余裕も無かったが、気付けば手が冷え切っていた。
 打ちっ放しの薄暗くて狭い階段を上がっていく。
 前を歩く桃子の女性らしい後ろ姿に、今更ながら劣等感を抱いた。

 それほど広くない店内は、全体的に濃いワインレッドで統一されていた。黒のレザーソファが4席とカウンター、明かりは間接照明が置いてあるだけなので、やけに薄暗い。
 桃子の言った通り店内に客の姿は無く、ママと呼ばれた女性は一瞬怪訝な顔をしたものの、一花が客と判ると美しい笑顔を作った。
 ソファにおさまり、桃子に勧められるまま、おつまみのナッツとカクテルを1杯だけ頼んだ。次の客が来るまで春子の事を教えてくれると彼女は言ったが、単に同じ店に出入りしていた客同士というだけで、それほど詳しい事は知らない様子だった。
 結局のところ、客が来るまでの桃子の暇つぶし相手をするはめになったが、昔の小野里の話を聞けたので、それなりに楽しかった。
 時間が経つにつれ、一人、二人と客が入ってきて、店内はにわかに騒がしくなる。遅くても11時までには帰りたい一花は、時計を確認し、顔を上げた。
「あの、私そろそろ帰ります。これでお勘定お願いします」
 約束の1万円を渡すと、桃子は丁寧に受け取ってにっこり笑い、営業用らしい甲高い声と仕草で礼を言った。
「確かに、ありがとうございまぁす。……でも、もうちょっとだけいてよ。そろそろ来るはずだから」
「?」
 どこか思わせぶりな桃子に、内心首を傾げる。と、誰かが入ってきたらしく、かすかにドアの軋む音が聞こえてきた。
 背を向けている一花からは見えないが、ほぼ対面に座っていた桃子が立ち上がってパッと顔を綻ばせる。
「やっと来てくれたのね。いらっしゃい。待ってたわ、ナリ」
 桃子の言葉に一花は凍りついた。
(……うそ……)
 すっと身体の底から冷えていく感覚。嫌な汗が背中を伝い落ちる。嬉しそうに笑う桃子とは対照的に、一花は身を固くしたまま少しも動けなかった。
 無断で調べていた事を、どう言えば良いのか。
「……お前、こんなとこで何してんだ」
 自分の聞き間違いであって欲しいという一花の望みを打ち砕くように、聞き慣れた声が頭上から降ってきた。
 あからさまな呆れ声に、一花はぎゅっと目を瞑った。

「ごめん、なさい」
 『クラブ華』からの帰り道、他に人のいない通りを歩きながら、一花は小野里に謝った。
「なにが」
 憮然とした口調で返される。前を向いたままの小野里の表情は見えないが、機嫌が良くない事は判りきっていた。
「……勝手に、調べたりして」
「それは別にいい。ちゃんと説明しなかった俺も悪いからな」
 溜息と共に吐き出された言葉に、胸が痛む。
 どうしても気になって行動を起こしたが、結果的に小野里の過去やプライベートを詮索したに過ぎない。誰だってそんな事をされれば怒るだろう。
 一花は自分のした事の深刻さに今更気づいて、項垂れた。
「ごめん……」
 繰り返した謝罪に小野里が立ち止まる。はっきり聞こえる程大きな溜息をついて振り返った彼は、見た事がないくらい苛立っていた。
「あのな、お前なんか勘違いしてるだろ。俺が腹立ってんのは、そういう事じゃねえんだよ」
「え……」
 真正面から睨まれて、一花は怯んだ。
「俺の事を調べたのは別にいい、お前にはほとんど話してるし、隠してた訳じゃねえし。だけど、何で一人で行ったんだよ。俺に言えねえなら他の奴でも誘えばいいだろ?! 桃子さんが教えてくれたから良かったけど、ああいうとこに一人で行くのが危ねえって判ってんのか?」
「それは」
 とっさに何か言いわけしようとしたが、小野里の瞳に圧倒され言葉にならなかった。
「それに、犯人が俺目当てでも、お前が危ねえ事に変わりねえだろ。俺らが思ってるより危険な奴だったとしたら、逆恨みして何かされるかも知れねえんだぞ。巻き込んだのは多分俺だし、夏目には悪いと思うけど、気をつけてくれよ……頼むから」
 言葉尻に悲痛なものを感じて、一花は何も言えずにただ頷く。俯いて閉じた瞳から、堪え切れない涙がぽつりぽつりと零れた。
 乱暴な言い方だが、小野里は一花の身を案じてくれたらしい。後先も考えずに飛び出した自分の浅はかさを改めて痛感する。
「ごめ……。ごめん、ね」
 みっともなく声が震えた。きちんと謝って、反省しなければいけないのに、どうしても涙が止まらない。勝手な事をして、叱られて、泣いて。まるで子供と変わりない自分が情けなかった。
 ふいに、暖かいものに包まれる。それが小野里だと気付くまでに時間がかかった。
「悪い、言い過ぎた。もう謝んな」
 耳元に囁かれた声に、首を振る。
(……悪いのは、私。心配をかけて、ごめんなさい)
 声にならないから、心の内で何度も何度も繰り返した。
 彼に抱き締められていると判っても、ただ申し訳なくて、顔を上げられなかった。

   

15 ←  → 17    Copyright (C) chihiro sasa all rights reserved  小説  index