インフィニティ ・ エリア
15
翌朝は、いつも通りに平野が迎えに来た。
小野里が来てくれるかも知れないと期待していた一花は少しだけ落胆したものの、どこかでほっとしたのも事実だった。
昨日の駅での事を思えば、恥ずかしくて顔を合わせづらい。
これまでと同じように学校へ向かう途中、一花は気になっていた質問を平野にぶつけてみた。
「……あの、さ。昨日、ほんとは毛虫なんて付いてなかったんでしょ?」
実際に聞きたいのは毛虫の事では無く「いくらダメ押しとはいえ、何故キスの振りなんてしたのか」という事だったが、直接口にするには恥ずかしすぎる。
問われた平野は少し意外そうに一花を見つめた。
「気付いてたの? ……てゆか、ナーリーに聞いた?」
「う、うん」
とっさに肯定すると、平野はしたり顔で笑う。それから、満足そうに何度か頷いた。
「うふふー。作戦大成功。ナーリーとは昨日何かあったー?」
「え! な、なにも無いよ。あるわけ無いしっ」
一花はぎくりと身を強張らせる。まさか平野と同じ事をしたとは口が裂けても言えない。
あえて聞く気も無いが、何かを想像しているらしいニヤニヤ笑いの平野を置いて、一花はずんずん歩き出した。これ以上話すと、余計な事を言ってしまいそうだ。
(あれ……でも……)
ふと歩みを止めて振り返る。つられて立ち止まった平野が首を傾げた。
「どしたのー?」
「作戦って何?」
昨日、平野がキスの振りをしたのは、犯人に一花との付き合いを見せ付ける為だったはずだ。それならば、成功かどうかなんて判るはずが無い。犯人からのメッセージは来ていないのだから。
平野は口元に手をあてて、楽しそうにくふふっと笑った。
「ナーリーにイチャイチャしてるとこ見せ付けちゃおう大作戦だよーん」
「は?!」
「昨日、あそこで学校行く途中のナーリー見つけてさぁ。向こうも気付いたみたいだったから、俺とイッチーがイチャイチャしてたら面白いかなーって」
「な、なんで……?」
余りの事に開いた口が塞がらない。呆然と見上げる一花の前で、平野は人差し指をぴんと立てた。
「もっちろん、ナーリーの嫉妬の炎がメラメラになるようにだよー。あの後ちょっとだけ見たけど、ナーリー超怖い顔してたもん」
それは嫉妬というより、見たくも無いものを見て気分が悪かっただけじゃないのだろうか。
小野里は基本的にだるそうで不機嫌な顔をしているから、遠目に怒っているように見えても不思議じゃない。
それに、小野里はあの行為を「犯人に見せ付けた」と勘違いしているのだし、大成功とは言えない気がする。
「……それは、ちょっと違うと思うけど」
「えー?」
不満げな声を上げる平野を無視して、一花はまた歩き出した。
結果的には抱き締め合うまでいかないものの、それに近い事をしたわけだし、平野の思惑は成功なのかも知れない。ただそこに小野里の気持ちが含まれていないだけで。
一花は急に襲ってきた悲しさを振り払うように、歩く足を速めた。
昨日、小野里と別れ帰宅してからと、今朝起きてすぐにインフィニティ・エリアをチェックしたものの、メッセージは届いていなかった。だから一花の中ではすでに、手の込んだイタズラだったのだろうと思い始めていた。
昼休み、コンビニで買ってきた弁当で昼食を済ませた一花は、相変わらずぶちぶち言いながら課題をこなしている志織を手伝っている。
「ねぇ、志織」
「んー?」
難しい顔で教科書とディスプレイを見比べていた志織に声を掛ける。今まではっきりさせていなかったから言いにくいが、どうしても聞いてみたい事があった。
「私がさ……その、小野里くんを好きなのって……バレバレ?」
「うん」
「そ、そか」
即答され、声だけであははと笑う。
志織といい平野といい、気持ちを言った事が無いのに知られているというのは、やはりそういう事なんだろう。悪い事をしているわけでも無いのに、なんだか落ち込んだ。
「でも、当の小野里くんは気付いて無さそうよね。悪いけど、鈍そうだし」
「うん……そうかも」
志織らしい物言いに苦笑する。
普通なら気付いて欲しいと思うものなのかも知れない。しかし一花は、告白する時まで隠しておきたかった。気付かれて気まずくなるのだけは、どうしても嫌だった。
机に腕を敷いて頭を乗せる。去年のデザイン科の卒業制作を集めて作ったという学校のロゴ入りカレンダーが壁にかかっていた。2月の絵になってから、すでに半月が過ぎている。
卒業式まで、もうすぐ。
そんな一花の心を読んだかのように、志織が頭を抱えて唸った。
「あー、無理。まじ間に合わない。卒業式3月末に変更なんないかなー、もー」
「1日じゃないだけ良いと思うけど……」
一花の学校は毎年3月の第2週末が卒業式と決まっている。それでもすでに1ヶ月を切っていた。
「何でもいいから出せとか言ったくせに、出したらやり直しとかどういうこと?! あのクソ担任!」
フラストレーションの溜まった志織が立ち上がって吠える。
もちろん志織の出した作品が余りに手抜きだったので突き返されただけなのだが、彼女の中では教師が悪い事になっているらしい。一花はほんの少し、教師に同情しながら手を動かした。
と、志織が急に静かになる。
「……志織?」
立ったままの志織を見上げれば、凍りついたように教室の入り口を見ていた。視線の先にいるのは暗い顔をした西村。
(……まさか、そんな)
以前メッセージが来た時と同じ状況に、眩暈がした。鳩尾が急に冷えていくような感覚と共に全身が怖気立つ。
何か支えを求め、とっさに志織の手を握ると、彼女の手の平もかすかに震えていた。
「十中八九、犯人の狙いは小野里だと思っていいと、俺は思う」
西村が珍しく低い声でぼそぼそと意見を言う。
全員が集まるであろうミーティングルームへ行く前に、事情を知っている3人で少し話した方がいいという西村の判断で、一花と志織はマルチメディア課の談話室へ来ていた。平野はバイト中なので、すぐには来られないらしい。
教室での予想通りに、犯人からのメッセージが届いていた。
『どうして何度言っても判らない?
あなたと成は近付いてはいけない。神が許すわけが無いのだから。
お願いだから離れて。それ以上誤った道へ進まないで。
昨日、駅でしていたのは、ただのじゃれあいでしょう?
本気なはずが無い。ありえない。近付かないで。
禁忌だから。絶対に許されない。
離れて 離れて 離れて 離れて 離れて』
短い文面なのに直視できず、顔を反らす。吐き気に似た不快感を感じ、目を閉じた。
これまでとは違う狂気めいた内容にぞっとする。
志織もかなりショックを受けたようで「何よこれ」と呟いたきり押し黙ってしまった。
一花は嫌悪感をやりすごそうと何度か深呼吸して、西村を見る。気合と豪快が身上の西村も、さすがに顔色が悪かった。
「……私も凄く嫌だけど、小野里くんは、もっと辛いよね」
誰へとも無しに呟いた言葉は、ほとんどが震えて声にならない。何もかも放棄したくなるほど恐ろしかったが、小野里を思えば、逃げている場合じゃない事も判っていた。
覇気の無い西村が、腕を組んで難しい顔をする。
「小野里が目的だとすると、犯人は女の可能性が高いと思う。もちろん本人にも聞かなければならんが、あいつと仲の良い女生徒とか知らないか。噂でも構わん」
西村なりに、女の事は同性に聞いた方がいいと判断したのだろう。とりわけ学内の噂に詳しい志織に。
視線を向けると、志織は眉を寄せて考え込んでいたが、やがて静かに首を振った。
「噂らしい噂は無いわね。同じ科で一目置かれちゃいるみたいだけど、他人を寄せ付けないオーラみたいのあるから、女の子は近寄らないんじゃない」
常々、小野里との距離を感じている一花には、とてもよく判る。彼の前には見えないラインがあって、そこから先の、誰も入る事ができない領域というものを持っている気がしていた。
それは、元々の気質なのか。それとも、以前に女性との付き合いを生業にしたせいなのか。
ふと昨日の小野里の言葉を思い出した。
『前の、仕事してる時に……ストーカーまで行かねえんだけど、軽く付き纏われた事があってさ』
そう考えれば、犯人が学内にいるとは限らない。小野里の客だったという人間の方がよほど怪しく見える。
と、急に思い浮かんだある女性の記憶。
過去、小野里の店に出入りしていたという、彼を気に入っていると言わんばかりの態度だった人……。彼女なら、あの時一花が一緒にいた意味を誤解したとしてもおかしくない。
「どうした、夏目?」
様子のおかしい一花に気付いた西村が声を掛けてくれる。が、一花は何でもないと首を振った。
「ううん。小野里くんと仲良い人とか考えたけど、思いつかなくて」
はぐらかした一花の態度はいつもながらおかしかったが、あんなメッセージが来た後だからか、二人には気付かれずに済んだ。
(……でも、まさか、ね)
疑うのは良くないと思いつつも、一花の頭の中は桃子の事で占められていく。次から次へと湧き上がる疑念が、全て彼女に繋がっているような気がした。
あれから、ミーティングルームで小野里と落ち合い話をしたものの、本人は淡々と「心当たりはあるが、しばらく待ってくれ」と述べただけだった。それだけでは納得できないらしい志織は不満そうにしていたが、それきり話は進まなかった。
一花は志織と二人で帰り道を歩く。冬の夕暮れは本当に早くて、すでに東の空はうっすらと暗くなりかけていた。
目的が小野里である可能性が高いのなら、一花と志織が彼に近づく事は、お互いを危険に晒してしまう。心配で胸が痛んでも、一花には傍にいることさえできず、ただ我慢するしかなかった。
「……心当たりがあるのに、待ってくれって、どういう事よ」
相変わらず不満顔の志織が、独り言のようにぶつぶつ言う。
「自分で解決しようとしてるんじゃないのかな……心当たりあるって事は、その人に連絡、できるんだろうし」
胸の一番奥がしくしく痛む。桃子に会った夜、小野里は彼女の名刺を貰っていたはずだ。
「それにしたって、どういう関係の人かって事くらい教えてくれてもいいじゃない。うちらにだって聞く権利くらいあるでしょー?!」
「それは……言えない事情が、あるんだよ。多分」
一花はあの夜、偶然一緒にいたから、小野里が前にホストをしていた事を教えて貰えた。しかし言いにくそうにしていた事から考えれば、彼にとって知られたくない過去なのかも知れない。
(……だとしたら、黙ってた方がいいんだよね?)
小野里から口止めされているわけじゃないが、彼のために黙っていようと一花は決めた。ただ、それが本当に彼のためになるのかを考えると落ち着かない。
憶測だが、全て一人で解決しようとしている小野里の身を案じて、一花は目を伏せた。
わざわざ自宅の前まで送ってくれた志織と別れ家に入ると、中は真っ暗で静まり返っていた。
いつもの事ながら、母親はまた残業らしい。一花としては、健康にさえ気遣ってくれれば構わないが、父親的にはどうなのだろう。多忙を理由に年始から帰っていない父を思い、肩を落とした。
またもや手抜きの夕飯を済ませ、自室でお気に入りのCDを聴きながら雑誌をめくったが、小野里の事が気になって頭に入らない。目線を上げると時計の針は8時を指していた。
響子がまだ帰らないのを心配しつつも、思い出されるのは桃子と出会った夜の事。出勤途中らしいゴージャスないでたちの彼女とすれ違ったのは、確か8時半を過ぎた頃だったはずだ。
(……今から出れば丁度いい……)
ふいに沸いた考えに、頭を振った。
いくら当事者とはいえ、一花が桃子に会ったところで何も解決しないし、そもそも会えるとは限らない。あの時、場所と時間が偶然一致しただけで、いつもは通らない可能性もある。会えたとしても何も教えてくれない事だって。
考えれば考えるほど無駄な事に思える。止めた方がいいと頭では判っているのに、なぜか身体は動き出していた。
いつもより少し濃い目の化粧をして、持っている中でも派手めの服を選ぶ。
何をしたいのか、何ができるのか、自分でも判らないのに、どうしても桃子に会いたい。
全ての準備を終えた一花は、玄関に置いてある姿見の中の自分を力強く見つめてから、夜の街へと出かけていった。
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