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 インフィニティ ・ エリア

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 犯人の真の目的を探るため、あえて平野との噂を流した日から、一花はほぼ毎日平野と登下校を共にしていた。
 志織に頼んだインフィニティ・エリアへの書き込みは丸一日放置した後、削除してあったが、それを見た小数のユーザーと、毎日二人きりで登下校する姿を見られている事で、噂は大々的に広まっていた。
 といっても、一花は学内でも地味で目立たない存在だし、平野は目立ってはいるものの奇抜すぎてモテているとは言いがたいしで、周りの反応も実に薄いものだった。

 今日も一花の最寄り駅で待ち合わせ、学校へ向かう。
 平野とは路線も別だし、バイトの時間もずらして貰っているので申し訳ないと思いながらも、彼の厚意に甘えていた。
 電車に揺られながら、指折り数える。あの書き込みの日から、すでに7日が経過していた。
「もう、7日になるね」
「あーそうだねー。イッチーと話すの楽しいから、全然気付いてなかった」
 屈託無く笑う平野に、苦笑する。意図的なのかは判らないが、平野ののんびりした調子に少し癒された。
「メッセージ、来ないね」
 平野との噂を流しても、二人きりで登下校しても、犯人からのメッセージは届いていなかった。
 果たしてそれは、単に犯人が一花を諦めただけなのか、メッセージを送れない状況なのか、それとも……。
 一花だけならず、誰もが犯人の目的を図りかねていた。
「もう来ないんじゃないのー? タチの悪いイタズラだったー、みたいな」
「うん。そうだったら、いいね」
 素直に頷いて、笑顔を向けた。
 これまで頻繁に送られてきていたメッセージが、もう1週間以上届いていない。平野に感化されたわけじゃないが、時間の経過と共に一花の心も軽くなり、もしかしたら本当にただのイタズラだったのかも知れないと、楽観する気持ちが芽生えていた。
 向かい側の車窓が湿気で曇っている。それだけ外が冷えているという事なのだが、月日がたつにつれ日差しは柔らかくなっていた。
 一花は目を細めて窓の外の光を見つめる。気持ち的に平穏な生活が戻ってくるに従い、間近に卒業が控えているという事実がのしかかってきていた。
 学校生活の終わり。仲間たちとの別れ。このまま行けば、春からはバイトでもしながら就職先を探す事になるのだろう。そんな近い未来にすら現実味が持てず、一花は困惑していた。
(それに……)
 ここしばらく会えていない小野里の顔を思い出し、かすかに溜息をついた。

 またあれやこれやと話をしているうちに電車は学校の近くの駅へと到着し、一花は平野と連れ立って駅前へ出た。平野がバイトしているという美容室も見える。
「ねえ、平野くん。いちいち学校まで送ってくれなくても、このままバイト行っていいよ?」
 本人曰く、放浪の旅のための資金を稼いでいる平野は、一花を家から学校まで送っていった後バイトへ行き、夕方また学校へ戻ると一花と一緒に下校していた。
 犯人の目的を探るためとはいえ、平野にそこまでさせているのは申し訳ないし、問題のメッセージが来ないのだから、もう護衛も恋人の振りも必要ないような気がしたのだ。
 平野は一花を見ると、少し考え込むような仕草をしてから周りをきょろきょろ見回し、にっこり笑った。
「今日だけは学校まで送るよーん。後はー、まぁ最後の確認かなぁ」
「最後の確認って?」
 何のことか判らずに聞き返すと、口を開きかけた平野は、唐突に大げさな身振りで驚いた。
「イッチー、髪に虫ついてるっ」
「えっ、む、むし? 嫌だ、どこにっ!?」
 中途半端に手を浮かせたまま硬直した一花は、そのまま青ざめる。髪についていると言われても、手で払い落とすのさえ嫌だ。そのまま髪の中に潜り込んだら、とか、落ちてきて首に触れたら、と考えて震える。
「とりあえず、そこの壁に寄りかかって。毛虫っぽいから吹き飛ばすから、じっとしてて」
「け、け、け、毛虫!!」
 ぞわぞわと鳥肌が立ち、倒れそうになった。が、落ちてくる事を考えると身動きが取れない。一花は摺り足で移動し、素直に駅ビルの壁に寄りかかった。
「目閉じててね。入ったら危険だから」
「ひっ!!」
 いちいち恐ろしい。一花は言われた通りにぎゅっと目を瞑り、じっと耐えた。
 平野が近付いてくる気配がして、左のこめかみの少し上に、ふっと息がかかる。反射的にびくっと震えると、平野が吹いたところを指で払ってくれた。
「もういいよー。どっか飛んでっちゃった」
「ほ、ほんとに!?」
 恐る恐る目を開けて、服を見下ろす。それから自分の周りや足元を見たが、どこにもそれらしき虫は見当たらなかった。
「吹いて飛んでくくらい小さかったから、見えないと思うよー。服にもついてないみたいだし、だいじょぶだいじょぶ」
 いつもの平野の笑顔を見て、一花は盛大に溜息をついた。急にどっと疲れた気がする。
「もーやだ。虫大っ嫌い!」
「まー、平気な人のが少ないもんねぇ」
 ぶつけようのない憤りと恥ずかしさで赤くなりながら、一花はよろよろと歩き出した。苦笑した平野が支えてくれる。
「あ、ごめんね。取ってくれて、ありがと」
「いいよー。でも、後で怒らないでね?」
「え?」
 また平野の言う事が判らない。見上げると、平野はさっと顔を逸らして、どこか遠くを見つめていた。珍しく真剣な表情だったから、一花もつられてそちらを見たものの、行き過ぎる沢山の人が見えるだけで何を見ているのかは判らなかった。
(……何だろう。変なの)
 もう一度、息を吐いて、ゆっくり歩き出す。これから始まる自習同然の授業さえ、受ける気力が無くなっていた。


『今日はちょーっとバイトが忙しいので、まだ帰れませーん。遅くなりそうだから、代役をナーリーにお願いしましたー。よろしくぅ☆』

 放課後、いつもの待ち合わせ時間に門へと向かっていた一花は、ギリギリのタイミングで送られてきた平野のメールを見て、驚いた。
(小野里くんと、帰るって事?!)
 途端に、心臓が大きく鳴る。
 噂の信憑性を上げるために平野とばかり帰宅していたのもあり、池田を手伝っていた小野里とは、あの休日以来会っていなかった。
 小走りだった歩みを止めて、じっと携帯を見つめる。ただ一緒に帰るだけなのに、平野が小野里に代わっただけなのに、動悸がおさまらない。手に汗までかいてきた。
 それに、なぜ急に小野里なのだろう。単純に平野が忙しいだけなら、全ての事情を知っている西村の方が良かったはずだ。
 ふいに「最後の確認」と言った平野を思い出し、一花は身を強張らせた。
(そういう事、なの……?)
 犯人はこれまで一花と平野に対してのメッセージは送って来なかった。その理由はいくつか想像できるが、直接問いただす術が無い以上はっきりさせる事はできない。しかし、一花がまた小野里に近づいてみれば、少しだけは判るのだ。
 もしそれでもメッセージが来ない場合、犯人が諦めたか、送れない状況という事。逆にまたメッセージが来るのなら、それは……。
 余り考えたくない結論に、気持ちが沈む。
 一花は軽く首を振ると、小野里が待っているであろう校門へゆっくり歩き出した。
 秘密にしていた作戦を、隠し通せる自信が無かった。

 会えた嬉しさと、緊張と、気まずさと。ごちゃごちゃに混ざった気持ちで一花は小野里の横を歩いている。
 ほぼ1週間ぶりに会った小野里は、疲れているのか、いつにも増して無口で不機嫌な気がした。
「……あの、ごめんね。急にお願いしちゃって」
「別に。急に頼んだのは夏目じゃなくて平野だろ。夏目は悪くねえよ」
 相変わらず、ぶっきらぼうな返事。自分に対して怒っているのでは無いと安堵しつつも、平野の代わりをさせられている事が面白くないと判ってしまい、逆に落ち込んだ。
 小野里に内緒で賭けのような事をしている気まずさはあっても、一花は小野里に会える事が嬉しい。もし彼を好きでは無かったとしても、一緒に下校するのを嫌だとは思わなかっただろう。平野と帰っていた時と同じように、仲間意識から楽しいと感じたはずだ。しかし、小野里は違うようだった。
 一花だって、自分が小野里に好かれているとは、これっぽちも思っていない。だがここまで疎まれているとも思っていなかった。
 眉間に皺を寄せたまま、ずんずん歩いていく小野里を盗み見て、気付かれないようにそっと息を吐いた。
「……夏目は、平野と付き合ってんのか」
「え?」
 低い呟きに思わず聞き返す。余りに突然で、内容が理解できない。
「だから、お前ら付き合ってんのかって聞いてる」
「ま、まさかぁ。それは無いよ。ただの噂だし!」
 一花は小野里にまで誤解されたくない一心で、思い切り否定する。が、次の瞬間に「しまった」と焦った。
「付き合ってねぇなら、何であの書き込み消すなって言ったんだよ。それに、今朝……」
「……?」
「いや、それはいいけど。そもそも諸山の書き込み自体、おかしいだろ」
 歯切れの悪い小野里を不思議に思ったが、そんな事を気にしていられない程、一花は追い詰められていた。子供の頃から上手く嘘のつけない一花は、内緒事というのが苦手だった。
「そ、それはその……また、志織が勝手に……」
「なら、すぐ消せばいいじゃねーか」
 何とか取り繕おうとしたものの、ばっさりと切り捨てられ、ぐうの音も出ない。平野や志織ならノリで誤魔化すのだろうが、一花にそんなスキルは無かった。
(うう、どうしよう)
 誤魔化そうとすればするほど、ドツボに嵌っていく気がする。
 結果的にばれるのなら、素直に白状した方がお互いダメージが少ないんじゃないかと、一花は思い始めた。
 立ち止まって、上目遣いにじっと見つめる。
「お、怒らない?」
「何か判んねーけど、努力はする」
 それでも憤慨するだろうと思いながら、おそるおそる口を開いた。
 密かに行っていた計画を最初から説明する間、一花は心の中で西村と平野、そして志織に謝罪し続けていた。

 てっきり勝手な事をするなと怒り出すか、馬鹿にされると思っていたのに、小野里は途中から難しい顔をして何かを考え続けていた。
 いくらなんでも「自分が本当の被害者かも知れない」なんて言われたらショックだろう。
 一花はそんな小野里を気遣い、彼が思案を続ける内は声を掛けないでいた。
 無言のまま電車に乗り、会話らしい会話もしない状態で電車を降りる。特に用も無いのでまっすぐ一花の最寄駅で降りたのだが、なぜか小野里がついてきていた。
 私鉄も乗り入れている連絡駅だから、構内はいつも混んでいる。護衛という名目でついてきてくれたのだろうかと思い黙っていたのだが、さすがに改札の手前で振り返った。
「小野里くん、ここまででいいよ。家すぐそこだし」
 声を掛けられた小野里は、今更、存在を思い出したかのように瞬きして、一花に視線を合わせた。
「あ、ああ。悪い夏目、ちょっとだけ時間いいか?」
「? いいけど」
 小野里の手招きに従って、改札とは反対側の壁際に寄る。まだ帰宅時間には早いせいか、待ち人も少なく広いスペースが開いていた。
 二人並んで壁にもたれると、難しい顔をしたままの小野里が呟くように話し出した。
「さっきの話だけどな。夏目の言う通り、犯人の目的は俺だと思う」
「……それは、まだ判らないよ。確証なんて無いんだし」
 新しいメッセージが来ていない以上、何とも言えない。一花は無意識に小野里を庇おうとしたのだが、彼はゆっくりと首を振った。
「夏目には言ったけど、前の、仕事してる時に……ストーカーまで行かねえんだけど、軽く付き纏われた事があってさ」
 去年、最初の飲み会の時に、小野里が以前ホストをしていたと聞かされたのを思い出す。
「お客さんに?」
「ああ。何人か、そういうのがいて。俺なりにちゃんと断ったんだけど、判ってくれねぇ人もいて、まぁそんなんで辞めたってのもあるんだけどな」
「……そなんだ」
 ああいった店に出入りした事の無い一花には判らないが、どうやら大変な職業らしい。無表情で話す小野里はどことなく辛そうに見えて、一花は密かに心を痛めた。
「あんときの客に俺が見つかってたとしたら、目的は俺って事になるだろ」
「それは、そうかも知れないけど……」
 街自体が広く無いとはいえ、そんな偶然があり得るのだろうかと、一花は首を捻る。
 小野里のために否定したい気持ちはあったが、言ったところでどちらの証拠も無い以上、想像の枠を出ないのは判りきっていた。
「もし俺が狙われているんだとしたら、迷惑かけて悪い。すまない」
 まるで自分と同じ事を考えている小野里が何だか可笑しくて、思わず苦笑いがこぼれた。
「気にしないっていうか、もうどっちでも同じじゃない。私が狙われてたら、逆に小野里くんがとばっちり受けてるんだよ。それに、謝るのは小野里くんじゃなくて犯人だよ、違う?」
 一瞬きょとんとした小野里は、手の甲を口元にあてて、さも可笑しそうに笑い出した。
「いや、違わねえ。そりゃ、そうだな」
「でしょ」
 ほとんど初めてと言ってもいいくらい快活に笑う小野里を見て、一花は静かに微笑む。状況は何も変わっていないが、小野里の負担を少しでも軽くできたのなら嬉しい。
 ひとしきり笑った後、何かを思い出したらしい小野里がちらりとこちらを見た。
「もひとつ聞きてえんだけど、今朝、駅前で平野と何してたんだ?」
(今朝……駅前で……?)
 何か変わった事があったろうかと考え、ひとつだけ思い当たった一花は思い切り顔をしかめた。
「毛虫が髪についてたらしくて、取って貰ったけど。その事?」
 思い出すだけでも、ぞっとする。もうついていないと頭では判っていても、気持ちが悪くて身震いした。
「毛虫? ……あんなとこでか?」
「どこからくっついてたのかなんて判らないよ。平野くんが気付いたのが駅前だっただけだし、すっごい小さい奴だって言ってたし」
 家の前からずっとくっついていた可能性を自ら指摘してしまい、一花は青褪める。数本しか無い自宅前の庭木が原因だろうか。
「夏目は見たのか?」
 なぜ小野里はそんなに毛虫が気になるのか、一花は訝しみながらも首を振る。
 少しの間、何かを考えていた小野里は、横目でこちらを見ると、思わせぶりに口角を上げた。
「なに?」
「……いや。あいつ頭良いな、と思って」
「え?」
 眉を寄せて首を傾げた。一体何の事か、さっぱり判らない。話の展開から考えて、平野の事らしいというのだけは察した。
 一花が全く理解していない事に気付いているらしい小野里は、かすかに苦笑いして、寄り掛かっていた壁から離れた。
「教えて欲しいか?」
「うん」
 即答して見つめると、小野里は身体を反転させて一花の真正面に立った。それから開いた両手を壁につけて、一花を腕の中に閉じ込める。
(え……)
 一花は急に狭まった二人の間に驚いて顔を上げた。まさに息のかかりそうな距離から見つめ返され、かっと頬が火照る。耳の奥で鳴る心臓の音がうるさい。何か言わなければと焦りながら、結局ただ唾を飲み込んだ。
 小野里は更に身を屈め、一花の耳元で囁く。
「髪についた虫取ってやるっつって、こうすりゃ、他人からはキスしてるみたいに見えね?」
「キ……!!」
 そういった事に免疫の無い一花は、目を見開いて硬直した。
「つまり、朝に平野がしたのは、こういう事」
 小野里が何かつけているのだろうか、控えめで爽やかな香りが漂っている。
 一花は突然の接近にくらくらしながら、やっとの思いで声を絞り出した。
「……でも、なんで?」
「夏目と付き合ってるって事を、犯人にダメ押ししたんだろ」
「そ、か」
 そう言われれば、全てが納得できる。平野が言った「後で怒らないで」の言葉の意味も。判ったからと言って釈然とはしないが。
「そういう訳で。俺もダメ押しに使わせて貰うから、少しじっとしててくれ。悪いけど」
 これは、賭けだ。
 平野と小野里が同じように一花と触れ合えば、次に来るメッセージで犯人の目的が判る。来なければ、単なるイタズラだったと断じても良いだろう。
 小野里の言う意味を理解して、一花は静かに頷いた。
 頬に触れる彼の髪と、包まれている温もりに涙が出そうになる。愛しくて嬉しくて、苦しい。賭けの結末を思えば、少し怖い。一花は複雑な気持ちを抱えたまま、そっと目を閉じた。
 カモフラージュの為の嘘でもいい。今はただ彼の存在を感じていたかった。

   

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