インフィニティ ・ エリア
10
「一花ちゃん、お友達がお迎えに来て下さったわよ?」
「え……」
朝、平野との待ち合わせに向かうべく用意していた一花は、ふいに母親から声を掛けられた。
不思議に思いながらリビングから玄関を見れば、全身は見えないもののスカートと細い足が見える。
(急に誰だろ……志織?)
無意識に首を捻った一花に、響子がそっと耳打ちする。
「なんか細くて背も高いし、モデルさんみたいなコね。一花ちゃんも見習っておしゃれしたらいいのに」
「はいはい」
「……もう」
一花のあからさまな生返事に響子は溜息をついた。
親の贔屓目で見てくれるのを感謝しつつも、娘の顔を客観的によく見てから言って欲しいものだと肩を竦める。
一花は授業で使うテキスト類を入れたバッグを持ち上げると、響子への挨拶もそこそこに急いで玄関へ足を向け……その場で凍りついた。
すらりとした細身の身体に、リボンレースのついた甘めの白ブラウス、下にはストライプの入ったブラウンのスカートを穿いて、足元はロングブーツ。日本人形のような黒のストレートヘアをなびかせて振り向いたのは……。
「ひっ……!」
叫び声をあげそうになった一花の口を、思ったよりも大きな手が塞いだ。
「しー。騒いでばれたら面倒だから、このまま出よ?」
口を塞がれたまま無言で頷くと、想像がつかないくらい美しく変身した彼女……は、にっこりと笑った。
電車の中でじとりと睨むと『彼女』になってしまった平野は、悪びれる事も無く首を傾げた。
「色々と聞きたい事があるんだけど」
「なぁに?」
普段よりも心持ち音程の高い声に、呆れを通り越して感心する。
「どうして、うちの場所知ってるの?」
「もっちろん。しおりんに聞いたんだよー」
大方そんな事だろうとは思ったが、一花は軽く志織を恨んだ。女装して家に押し掛けるなんて美味しいイベントに、彼女が協力しないわけは無い。嬉々として手伝う姿が容易に想像できた。
「で、なんでわざわざ、そんな格好?」
「えー、だってコレなら見られても問題無いでしょ」
(問題無い……わけでも無さそうだけど)
一花はチーム内でも平野と一緒にいることが多かったし、今日待ち合わせをしていたから気付いたが、確かにパッと見、平野だと判らないくらいには変わっている。もともとの仕草が女っぽいせいか、モデルかスポーツ選手並みに背の高い女性にしか見えない。しかも美人。その神技メイクを教えて貰いたいくらいだ。
だから、護衛上問題無いと言えば無い。しかし……。
にこにこしながら隣に座る平野を、一花はこっそりと見上げた。
「別に良いけどさ。平野くん、そのまま学校行く気?」
「うん。邪魔だから着替え持ってこなかったしー。あ、でも顔見知りにばれたらマズいからぁ、すぐバイト行く予定」
「そ、そう……」
学校へ行くことすら驚きなのに、平野はこのままバイト先に行くつもりらしい。
いや、むしろ最初から女装していく方が着替える手間の省けるバイトなのかも知れない。そんな一花の考えを読んだのか、平野は意味深に笑った。
「言っておくけどー、お水カンケイじゃないからね」
「えっ。そ、そんな事思ってないよ」
薄ら笑いをしながら身を強張らせる。取り繕うように返事をした事で、逆に「疑っていた」と白状している気がした。
「まぁいいけどぉ」
平野のくったくの無い笑顔にほっとする。
「でも、髪どうしたの? ……せっかく染めてたのに」
センスはともかく、昨日は根元まで真っ赤だった髪が黒くなっていた。
「んー。昨日ガッコ終わってから、ソッコー染め直したわけ。黒もなかなかイケてると思わなーい?」
わざとらしく自分の髪を一房持ち上げてウインクした平野に、一花は申し訳ない気持ちになる。詳しく聞いた事は無いが、平野なりのポリシーがあって赤く染めていたのだろうに、自分のためにわざわざ黒く戻してくれたとは。
「……ごめんね」
車内の雑音に紛れるような小声で呟くと、平野は一花の顔を覗き込んで、これ以上無いくらい満面の笑顔を作った。
「イッチーは気にしすぎ。謙虚は美徳だけど、俺たちに関しては無用だよん。我がリーダー、ダイちゃんに聞いたら『俺たちは仲間だーっ!!』って拳を振り上げるよ、きっと」
「確かに、やりそう……」
西村には悪いが、瞳に闘志をみなぎらせながら高く腕を上げている様がすぐに浮かぶ。
一花と平野は顔を見合わせて、笑い声をあげた。
学校の前で平野と別れた一花は、校舎へ向かう途中で携帯が震えている事に気付いた。平野と話しながら来たせいで、マナーモードのままにしていたらしい。
開いてみると、珍しく池田からメールが来ていた。
『お話があります。授業時間内で空けられる時間がありましたら連絡を下さい。夏目さんのお暇な時間に合わせますので。いつものミーティングルームでお待ちしています』
メールの意味する所は判らないが、一花はとりあえず一番ヒマそうな授業の時間を選んで返信した。
朝一で確認してきたインフィニティ・エリアには、犯人からの新しいメッセージは来ていなかったはずだし、どういう事かと首を捻る。しかも放課後ではなく授業中を指定してきたのも気になる。
(……他のメンバーには言えないような話?)
一瞬、何か良くない事が起きそうな気がして、身震いした。
見上げた空はどこまでも厚い雲に覆われている。メッセージが来てから3日しかたっていないのに、一花はひどく疲れていた。
「お呼びたてして、すみません」
先にミーティングルームにいた池田が、入ってきた一花に向かって一礼した。
礼儀正しいのは良いことだが、どこかよそよそしくてやりにくい。一花は軽く会釈だけ返しておいた。
「別にいいけど。話ってなに?」
冷え切った廊下から、エアコンで温められたミーティングルームに入り、ほっと息をつく。一花の指定した時間に合わせて池田がつけておいてくれたらしい。
「……どこから、お話すればいいか……」
窓の外を眺めながら、しばらくの沈黙の後そう呟いた池田に違和感を覚える。池田はおどおどしていて口数が少ないものの、いつも頭の回転が速くて、物事を理路整然と話すイメージがあった。
「あのメッセージの事だよね?」
池田は一花の視線にゆっくりと頷く。
「僕も、こんな事を考えたく無いですし、話したくも無いという事だけ念頭に置いておいて頂きたいんです」
「……うん」
やはり一花にとって嬉しい話では無さそうだった。覚悟を決めるように一花はごくりと唾を呑む。
「昨日、僕が言った事を覚えておられますか?」
「犯人がわざとインフィニティ・エリアにメッセージを送ってるってやつ?」
池田は確かに『犯人はメンバー全員を牽制するために、わざとインフィニティ・エリアへメッセージを送っている』と言った。だからこそ今日、平野が女装してまで一花を送ってくれたのだ。
「そうです。僕は今でも犯人はわざとインフィニティ・エリアに向けてメッセージを送って来たのだと思っています。でも、あの時言った事の他に思いついた理由があるんです」
「他の理由?」
「ええ。もし犯人が携帯では無くインフィニティ・エリアにしかメッセージを残せないとしたら、どうです? ……直接、夏目さんの携帯にメールを送ると素性がばれてしまう人物だとしたら?」
「そんなの、メールされたって私の携帯に登録してある人しか判らないよ。自慢じゃないけど物覚え良くないし、登録されてないメルアドなんて覚えてな、い……し……」
緊迫した表情の池田が言う意味を理解した一花は、急に寒気を感じて鳥肌が立った。
少し俯いた池田は眉を寄せて、かすかに首を振る。
「つまり……夏目さんの携帯に既に登録されている中の誰か、だとしたら……」
「まさか、ありえないよ。大体、私の携帯に登録されてる男の人なんて……その、少ないし。同じクラスの何人かと、進路の先生と、池田くんたちくらいだよ?」
「……」
納得していないらしい池田に、メモリーを見せつけてやろうと携帯を取り出した一花は、ふと気付いた。
(なんで池田くんは、そんな事を言う為にわざわざ私だけ呼び出したの? 他のメンバーに聞かれたら困ること?)
思い至った結論に一花は目を見開き、さっと顔を上げた。
「どうして。池田くん、他の皆を疑ってるの? だから私だけにそんな話をしたわけっ?!」
「僕だって疑いたくはありません。でもメッセージを送る為だけにハッキングするなんて手間がかかりすぎます。メンバーが犯人で無くとも、何らかの方法で利用されていて、誰かが犯人の登録許可を出している可能性があると思うんです。だから極秘で管理プログラムのアクセス履歴を取るように設定を変えようと考えているんです」
そこまで説明されれば、一花にも納得できる部分はある。ハッキングの証拠を掴むためにも、管理プログラムのアクセスをチェックするのが必要だという事は判った。
しかし何故、一人でこっそりやってしまわなかったのだろうか。メンバーを疑わせるような事を言い出さなくても良いのに、と一花は憤った。
「池田くんの言いたい事は判った。アクセス履歴を取るのには私も賛成。でも他の皆を疑うような事は言わなくてもいいと思う。そんなの聞かされたって、ムカムカするだけだもの」
ここ数日の疲れのせいか、一花のささくれた心では気持ちを抑えられない。
キッと睨むと、池田は口元を引き締めて、勢いよく長机に手を突いた。
「言わないで、あなたに何かあったらどうするんですかっ!!」
池田から発せられたとは思えないほど大きな声で言われ、一花はただぼうっと彼を見つめる。肩で息をしていた池田は取り繕うように視線を逸らして、咳払いをした。
「池田くん……」
「僕だって夏目さんを不快にさせたくなんか無いです。でも変更してチェックするまでは時間がかかる。……何かあってからじゃ遅いんです」
空を見つめたままの池田がどこか悲しげに見えて、一花は彼も本当はメンバーを信じたいのだろうと思った。
「……ごめん。池田くんは心配してくれただけなのに」
「いえ、こちらこそ大きな声を出して、すみません」
お互いに謝り合っている状況が何だか可笑しくて、一花はふふっと笑う。不思議そうな池田に「なんでもない」と首を振ってみせた。
「でも、やっぱり他の皆を疑うとか、できない。バカだって言われると思うけど、信じていたいんだよね」
ある程度、一花の答えを想像していたのか、池田は驚くことも無く、いつも通りに中指で眼鏡を押し上げて溜息をついた。
「……護衛の事については、西村さんと相談してみます。ただ、くれぐれも注意して下さい。僕たちができる事にも限界がありますから」
「うん、ありがと」
西村に志織、平野と池田……そして小野里。皆がそれぞれに一花を心配し、守ってくれている。一花には仲間がいる。
突然送られてきた訳のわからないメッセージを怖れて怯え、守られて泣いているだけだった自分。もちろん今だって怖いし、もし池田の言うように身近な人が犯人だったら、と考えると悲しい。
それでも、ただ逃げ続けていたら何も変わらない。
だから……動く。
どんな結果になっても、一花には仲間がいるから。
「池田くん、私、皆に話したいことがあるの。放課後、集まれるかな?」
池田の近くに置いてあるノートパソコンを見れば、察した池田がスイッチを入れてくれた。
「他の人は判りませんが、僕は空いてます。でも何を話すんです?」
「探すの」
「えっ?」
驚いて聞き返した池田に向かって微笑んだ一花は、力強く頷いた。
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