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 インフィニティ ・ エリア  Infinity・area

 8
 二日酔いだったとはいえ昼間に寝すぎた一花は、案の定なかなか眠れず、翌朝寝坊をしてしまった。
 響子は自分で言っていた通り仕事へと出かけたらしい。久しぶりの1人の朝にとまどいながら、一花は慌てて家を後にした。
 1日休んでしまったとはいえ既に単位を取得済みなので、誰にも咎められる事は無いだろうと、いつも通りに教室のドアをくぐる。
 この時期に欠席や遅刻をチェックされるのは、志織のように卒業が危うい面々だ。
 だから始業ギリギリに入ってきた一花を講師も気にしなかった。
 ただ1人、隣の席に座った志織だけが物言いたげな視線をこちらに送ってくる。
 「なに?」と首を傾げると、志織はノートの切れ端を静かに破って何かを書き、一花へと渡した。

『昨日の朝、例のイケメンくんが一花を尋ねてきたよ。何があったのか教えるべし』

(例のイケメンくんって……小野里くんが?!)
 一花は渡されたメモから目を離せないまま、頬を染めた。
 昨日の朝という事は、あのメールをくれた前後だろう。小野里は一花を心配して登校しているか確認に来てくれたのだろうか?
 そういえばメールには学校を「休むのか?」とか「休め」という事は書いていなかった。それはあらかじめ一花が登校していないのを知っていたからかも知れない。
(それだけの為に、わざわざ別棟のここまで来てくれた?)
 メモをそっと畳んでペンケースに入れると、一花はそのまま俯いた。
 嬉しさと期待に胸が高鳴る。
 志織の視線が気になったものの、自分でもどう答えて良いのか判らない。
 客観的に見たら、やはり何も無かったとしか言えない。ただ酔い潰れて送ってもらっただけ。それで心配してくれただけ。普通の人なら当たり前の行為。でも、そんな些細な事がとても嬉しかった。

 いつも通りに授業をこなし、特にする事も無い放課後、一花の足は自然にミーティング室へと向いた。
 行った所でデザイン担当の自分にできる事など、もう無い。他のメンバーの代わりに掲示板の管理をするくらいだ。
 それでもやっぱり小野里の顔が見たかった。
 ミーティング室のドアを開けると、西村と池田がいた。小野里がいない事に少しだけ落胆する。平野はきっと今日もバイトだろう。
「おはよー」
 同じ科とはいえ今日はじめて会ったので、朝と同じ挨拶をした。
「うっす、夏目!」
「……どうも」
 開発用のパソコンをふたりで覗いていた西村と池田がそれぞれ挨拶を返してくれる。
 一花は少し離れた席に座ると持参したノートパソコンを開いた。
「管理用の方チェックしとくねー」
 一言、言ってからいつもの手順で一般用掲示板と管理用を巡回する。
 さっきふたりが見ていた画面にはプログラムらしき文字の羅列が並んでいたので、まだ管理の方は手付かずだろうと思った。
 西村、池田、小野里は、まだプログラム面での改良を少しずつ行っているらしく、自然に管理の中心は一花と平野になっていた。しかし平野は旅費を稼ぐためにバイトに行っている事が多いので、ほとんど一花がやっている。
 面倒と言えば面倒だが、それで小野里の近くにいられるのなら苦では無かった。
 我ながら現金な自分に内心、苦笑する。夏までの一花には考えられない事だった。
「夏目、おととい大丈夫だったか?」
 西村の言葉に管理の手を止めて、顔を上げる。
「あー、ごめんね心配かけて。私かなり酔ってたもんね」
 自分の醜態を思い出して、肩を竦めた。皆と一緒の時はできるだけ平気なふりをしていたつもりだったが見破られていたらしい。
 すると西村は大げさに手と首を振った。
「いやいや、俺たちは大丈夫だろうと思っていたんだが、送っていった小野里が昨日かなり気にしていたんでな」
「え、そうなの?」
「ええ。僕と西村さんに珍しく、夏目さんが来られたかと尋ねていましたからね。彼の性格ではありえない事です」
 一花の言葉に、キーを叩きながら池田が淡々と答える。
 酷い言われようだが、実際かなり面倒くさがりな小野里が朝イチで一花を尋ねたり、同じ科とはいえ専攻の違う彼らに聞いたりしてくれたというのは驚きだ。
「そっか……心配かけちゃったんだね」
 ぽつりと呟くと、西村が苦笑して頭をがりがりと掻いた。
「いや俺たちも気付かなくてすまなかった。どうも酒が入ると周りが見えなくなるクセがあるんでなぁ」
「そんな、飲みすぎた私が悪いんだし」
 ぶるぶると首を振って、西村を見上げる。
「とりあえず小野里に礼言っとけばいいと思うぞ。あいつなりに心配してたみたいだしな」
「うん、ありがと」
 素直に応じると、西村はポケットの中の小銭を出して確認し、そのまま部屋を出て行った。
 すぐ近くの自販機に何か買いに行ったのだろう。
 すっと静寂に包まれる室内。
 小野里とタイプは違うが、池田も無口なので2人きりになるといつもこんな感じだった。
 向こうから話しかけられる事が無いので、一花は画面に視線を注いだまま、ぼんやりと考え事を始める。
(……期待、しちゃいけないよね)
 あの小野里がそこまで一花の事を心配してくれたのは嬉しいが、事実だけを見れば、どうって事は無い。
 一花は気持ちを自制するために、小野里の単なる親切心なんだと思い込んで溜息をついた。
「……さん」
「……」
「あの、夏目さん?」
「は、えっ?」
 突然、池田に話しかけられたので、飛び上がった。
 見ればパソコンの向こう、やはり画面を見たままでこちらに話しかけている。
「あの?」
「ご、ごめん。いま考え事してて気付いてなかった」
 慌てて答えると池田は小さく「そうですか」と呟いた。
 神経質な池田の性格から考えて、話を聞いていなかった事に文句を言われるかと思っていた一花は肩透かしを食らった。
 顔は見えないが、いつもと様子の違う池田を不審に思う。
 いつも以上にそわそわしている気がした。
「……あの、夏目さんは小野里さんを、どのように思ってらっしゃるんですか?」
「ふぇ?」
 いきなり突きつけられた質問に、間抜けな声が出た。
 一瞬、理解できずに瞳を瞬く。
(えーと……『私』が『小野里くん』を『どう』思ってるか? ……それって!)
 池田の質問の意味に気付いて、一花は目を見開いた。
「いや、言い方を変えましょうか。夏目さんは小野里さんとお付き合いをされているんですか?」
「はぁっ?! 無い無い、そんなの全然無いっ!」
 余りの事に声を荒げると、池田はこちらをちらっと見てからふっと息を吐く。
「……実は、昼ごろ掲示板に『夏目さんと小野里さんが付き合っている』という書込みを見つけまして、もちろん削除したんですが、お二人に確認せずに削除して良かったのかと気になっていたんです」
「な、なにそれぇ?!」
「僕にはよく判りませんが、そういった噂になっているようですね」
 池田の淡々とした答えに、一花は眩暈を覚えた。
(ありえないし)
 大体にして、ほとんど一緒にいない一花と小野里が、どうして噂になるのだろう?
 確かにこのミーティング室に2人きりになった事はある、でも全部で3回くらい、しかも10分ほど。飲み会の席で送ってもらっているのは単に帰りの方向が同じというだけ。
 昨日は心配して色々まわってくれたようだが、それをいちいちチェックしている人がいるとも思えない。
 知り合ってからこの数ヶ月、接点が少な過ぎると自分でも落ち込んでいるのに、どこに噂の要素があるのか。
 頭を抱えた一花の脳裏に、意味ありげな視線の彼女が思い浮かんだ。
「池田くん、その書込みしたの誰か判る?」
「ええ。えーと夏目さんと同じ専攻の諸山志織さんですね」
(……やっぱり)
 一花は大げさに溜息をつくと、がっくりと肩を落とした。
 恋愛話、噂、お祭り大好きな志織が、一花と小野里をけしかけようとしたに違いない。もしくはカマをかけたのか。
「それ志織が勝手に言ってるだけだから。削除してくれてありがと。ごめんね気使わせちゃって」
「いいえ、安心しました」
 それで話は終わったと言わんばかりに池田がまたキーを叩き出したので、一花は次第に赤く染まっていく窓の外を眺めた。
 志織のやり方は正直迷惑だが、もしこのまま噂になったら小野里はどうするのだろう?
 少しは自分を意識してくれるだろうかと馬鹿馬鹿しい事を考え、ゆるく首を振った。
 小野里がそんな噂を気にするわけが無い。気になったとしても、どうせすぐ卒業だからと放っておくだろう。そういう人だ。
 いっそ、はっきり告白して玉砕した方が良いかも知れない。
 就職も恋も中途半端な自身を振り返って、一花はそう思った。


『一昨日の事、心配かけちゃったみたいでごめんなさい&ありがと。ちゃんとお礼言いたかったんだけど会えなくて残念。また今度何かおごりまーす』

 パソコンを入れたバッグを肩から提げて学校の門へと向かいながら、一花は片手で携帯メールを送信した。
 結局、小野里は今日ミーティングルームに現れなかった。
 直接会ってお礼を言うのが筋だろうとは思ったものの、このまま会えるまで黙っているのもおかしいのでメールした。
(今日バイトかな)
 改めて小野里の事を何も知らない事実に気付かされる。判っていてもやっぱり寂しい。
 見上げれば黄昏の空に闇が迫っていた。
 ただぼんやりと空を見つめる。冬の低い空は今にも落ちてきそうだ。眩暈にも似た感覚を覚え、一花は立ち止まって目頭を押さえた。
 と、手に持ったままだった携帯が音と共に震えだす。
 突然の事に驚いて慌てて開くと、そこには小野里の名前が表示されていた。
 どくりと跳ねる心臓。一花はおそるおそる受話ボタンを押した。
「……も、もしもし?」
『ああ夏目、もういいのか? ……て、ただの二日酔いだもんな』
 どこかからかうような声音に、ますます鼓動が速くなる。
「う、うん。もう平気。ごめんね心配かけて」
『いや別に。それより礼とかはいいって。ただ送って行っただけだし』
「え、でも、迷惑かけた事に変わりないから……。今度、小野里くんが都合良い時に何かおごるよ」
 もちろん返礼の気持ちから言ったのだが、どこかで小野里と接点を持ちたいという思いがあった。
 食い下がる一花に根負けしたのか、小野里はしばらく無言で何か考えた後、
『それで夏目の気がおさまるならいいか。じゃ、今日おごってくれ』
 と言った。
「えっ、今日?今から?」
 いきなり言われ、一花は咄嗟に自分の服装を見下ろす。
 いつものコートの中は、ダークブラウンのカットソーにデニムのパンツ。色気も何にも無い普段着。
 貯金も少しはあるし、小遣いを貰ったばかりだったので手持ちは良いとしても、2人きりで出かけるのならもう少し良い格好で来たかった。
『あー、駅前のファーストフードのどっかなら大丈夫だろ?』
 一花の慌てぶりを金銭的な事と勘違いしているらしい小野里は、駅前に立ち並ぶ安価なファーストフード店を挙げた。
「そんなのでいいの?」
『そんなのって、俺的には十分ちゃんとした飯だけどな』
 ファーストフードがちゃんとしたご飯だと言い切る小野里の食生活は、一体どうなっているのだろう。
 聞いてみたい気もするが、恐ろしい事を言われそうな気がして、あえて聞かなかった。
「でも小野里くん、どこにいるの?」
『まだ学内。同じ科の奴の課題手伝ってる。もちっとしたら出るわ』
「そっか、じゃ終わったら連絡して?」
『了解』
 ぷつっと切れた携帯を片手にしばし呆然とする。
(……いきなり2人でご飯食べる事になっちゃった)
 こうなる事を期待していたとはいえ、こんなに急に行く事になるとは。
 一花はハッとすると、両手で携帯を持ち直し、急いで響子に夕飯はいらないとメールした。
 それから重いバッグを揺らしながら校舎へ駆け込み、手洗いに入る。
 ファーストフードだから格好はそれほど気にしないとしても、せめて化粧を直したい。手持ちの数少ない化粧道具を取り出して一花は鏡を覗き込んだ。

 1時間半後、帰宅してみると自宅は明かり一つ点いていなかった。
 響子からメールの返信は無かったが、仕事で遅くなっているのかも知れない。悪いとは思いつつも少しほっとする。
 一花は玄関のカギを回しながら、今この瞬間の自分の顔を見られなくて良かったと思った。
 2人だけでご飯を食べに行った事実は、一花を酷く高揚させている。駅で別れてから少し経つし、ご飯を食べた以外これといって何があったわけでも無いのに動悸が治まらない。顔が火照って瞳が潤んでいるのは傍目にも判るだろう。
 リビングの電気だけを点けてそのまま2階へ上がり、一花は倒れるように自室のベッドへと寝転んだ。
 真っ暗な部屋の中でぎゅっと目を瞑る。
 まだドキドキしている胸を押さえて息を吐いた。
 凄く凄く、彼が好きだ。こんなに誰かを好きになる事があるなんて、信じられなかった。
 一花だって普通の二十歳なんだし、これまでの人生で想いを寄せた人が居ない訳ではない……が、今思えば全て憧れに似た淡い想いだったような気がする。相手を思えばドキドキして心が温かくなるものが恋だと信じていたのに。
 一花はパンツのポケットに入っていた携帯電話を引きずり出して、小野里のメールアドレスを表示した。
 メールしようか、悩む。
 途中まで入力して消した。うざい奴だと思われるのが怖い。
 人を好きになることがこれほど切なくて苦しいものだという事を、初めて知った。
 暗闇に青白く浮かぶ画面をしばらく眺め、そのままパタンと閉じる。
 一花は無言で起き上がると、いつものように持ち帰ったパソコンを繋いでインフィニティ・エリアの管理を始めた。
 毎度のごとく小野里の書込みが無いことを寂しく思いながら、新規ユーザーの確認をしていく。
 これが終わったら、すぐシャワーを浴びて寝てしまおう。
 眠れない事は判っていても、起きていたらいつまでも悩んでしまいそうだった。
 手馴れた操作でチェックをしていき、あともう少しという段階で、一花の手がピタリと止まった。
「……何、これ」
 視線の注がれた先には、今日、ユーザーから制作管理者へ送られたメッセージが表示されている。

『はじめまして一花さん。僕はあなたを誰よりも大切に思っている者です。
 これまで僕はあなたを影から見つめているだけに徹して来ましたが、
 今回の事は納得できないのでメッセージを送りました。
 いま学内ではあなたと小野里成が付き合っているという噂が流れていますね。
 でも僕はあなたが誰とも付き合っていないと信じています。
 それなのに、どうして今日、彼と駅前の店で食事をしたのですか?
 しかも地元の駅まで一緒に帰宅するなんて。同じ路線だとしても許されない事です。
 どうか目を醒まして下さい。彼に近付いてはいけない』

 書かれている内容が理解できず、もう一度ゆっくりと読み直した。
 ……ただのいたずら。
 そう思いたいのに心のどこかが警鐘を鳴らす。

『どうして今日、彼と駅前の店で食事をしたのですか?』
『しかも地元の駅まで一緒に帰宅するなんて。』

 送信者は一花と小野里がさっきまで一緒だったのを知っている。食事をして駅まで一緒だった事も。つまりそれは……。
「最初から、見られて、た……?」
 すうっと血の気が引いて、一花は椅子からずり落ち床にへたりこんだ。
「何なの、これ……」
 蒼白でパソコンをみつめる一花の背中を、冷たい汗が流れ落ちていった。

   

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