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 インフィニティ ・ エリア

 7
 翌日、陽も高くなってからベッドに起き上がった一花は、鈍い頭痛と吐き気に頭を抱えた。
(き、もちわる……)
 実際に吐き戻すほどでは無いが、胃の少し上あたりがムカムカする。酷い胸焼けになったような感じだった。
 どこをどう考えても二日酔い。しかも全ての記憶が飛んでいればいいものを、ぼんやりとだがほとんど覚えているという始末に負えない状態。
 人生初の泥酔という醜態を、よりにもよって小野里の前で晒すとは。
 一花は恥ずかしさから布団の中で丸くなった。
(ああ、もうダメだ。2度と小野里くんの顔見れないよー!)
 まだ酒が残っているのか、一花はかなり大げさに結論づけ、この世の終わりと言った風情で唸りだした。
 自業自得とはいえ体調不良と精神的ダメージのダブルパンチで何もする気が起きない。
 いつもだったら起きてすぐインフィニティ・エリアに繋いで、小野里の書込みが無いかチェックするというのに、それすら嫌だ。
 管理プログラムは今のところ使用者がメンバー5人に限定されているので、あえてアクセス履歴を残していない。だから今、一花が管理者用掲示板を覗いたって誰にも判りはしないのに、小野里に知られてしまうような気がした。
 最悪な体調を持て余しながら溜息をつくと、部屋のドアが静かにノックされる。
「……一花ちゃん、そろそろ起きたほうが良いんじゃない?」
「起きてるよ」
 問いかけに何とか答えると、そろりとドアが開けられて響子が顔を覗かせた。
 いつもの事だが昨夜も寝ないで待っていた響子は、一花の状態を知っているので、できるだけ負担にならないようにしてくれているらしい。
 ありがたく思いながらも、やっぱり心配性過ぎるのはどうかと思った。
「大丈夫? 何か食べる?」
「ううん、食べる気しない。食べたら吐いちゃいそう」
 青い顔をした一花に、同情の眼差しを向けてから響子は優しく笑う。
「梅干湯でも持ってくるわ。お父さんの二日酔いの定番なのよ」
「……ありがとう、お母さん」
 素直に礼を言うと、響子は少し驚いた。
「いいのよ。寝てなさい」
「うん」
 最近余り聞くことが無かった母親の優しく諭す声に微笑んで、一花はゆっくりと寝返りを打つ。
 すぐ戻ってくるつもりか、ドアを少し開けていった響子は、さっそく階下のキッチンでお湯を沸かしているようだった。
 ベッドサイドに放り出してあった携帯のストラップを掴んで引っ張る。
 予定外に学校をサボってしまったが、単位も修得済みだし今日は特に約束もしていないから、誰からも連絡は無いだろう。
 手持ち無沙汰から何気なく携帯を開くと、メール着信の表示が出ていた。
(なんだろ?)
 パスワードを入力し、誤動作防止代わりに掛けているロックを外す。と、自動表示で『小野里成さまからメールが届いています』と出た。
 名前を確認した途端に跳ねる心臓。
 一瞬、頭痛も吐き気も忘れて、メールを開いた。昨日の醜態すらも忘れていた。

『体調どうだ? べろんべろんに酔ってたから二日酔い確定だろ。用が無いなら今日は寝とけ。以上』

 絵文字も何も無い、ぶっきらぼうなメール。
(……心配、してくれたんだよね?)
 着信は朝の8時46分になっていた。
 今頃返すのもどうかと思ったが、よほどの用が無い限り連絡して来ない小野里が送ってくれたメールだから、返事をしたい。

『ありがと。今日は素直に寝てます。昨日ごめんね、あとでお礼しまーす』

 わざと語尾には花の絵文字を入れた。
 昨夜は酔った勢いできわどい事も言った気がする。もしかしたら一花の気持ちに気付いているかもしれない。できれば、あれはただのおふざけだと、酔った勢いで言っただけだと思って欲しい。
 卒業するときに告白するにしても、ぎりぎりまで気まずくなりたく無かった。
 送信済みの画面を確認すると、いつものようにロックを掛けてベッドの脇に転がした。
 返事が来ないのは判りきっている。心配してメールをくれただけでも奇跡。
 一花はベッドの上でだらりと広がって、軽く息を吐く。昨日の事で嫌われていなくて良かったと安心した。
 程なく階段を上がってくる足音が聞こえたので、廊下を見ると、小さいお盆に、梅干湯が入っているらしき湯飲みと少しのお粥、水、頭痛薬を乗せた響子が微笑みながら部屋へと入ってきた。
 こうなる事を見越してお粥を用意しているのが実に響子らしい。
 一花は重い身体をそろそろと起こすと、差し出された湯飲みを受け取った。
「熱いから気をつけて」
「ありがと」
 今しがた沸かしたばかりのお湯はすぐに飲める状態ではないが、梅の香りの湯気にほっとする。
 寝ていたのでヒーターをつけていない室内はひやりとしていて、冷たい指先に湯飲みの熱がじんと染みた。
「一花ちゃん、メール見た? さっき来た時にランプが光ってたわよ」
「ああ、うん。学校休んじゃったから友達が心配してたっぽい」
 恥ずかしさから、早口で返事をする。
 二つ折りの一花の携帯は、メールも通話も一度着信すると外側についているLEDが光るようになっていた。
 3年前まで外で働いていた響子は元の職種のせいか、歳の割には携帯に詳しい。
「またそんな事言って、彼氏じゃないの?」
 いたずらっぽい笑顔の響子に、わざと肩を落としてみせる。
「まさか」
 そうだったら、どんなにいいか。
 一緒に卒業制作に取り組む仲間ではあるが、友達かどうかも判らない小野里との関係を思い、溜息をついた。
「昨夜送ってくれた子とか、どうなの?」
「え、見てたの?」
 驚いて視線を向ければ、どことなくそわそわしている。娘の恋の話を知りたくてたまらないらしい。
 昨夜は絶対待っているだろう響子に小野里を会わせたくなくて、家の少し手前で彼と別れた。会わせたら最後、色々としつこく聞かれるのは目に見えていたから。
「いいえ。でも一緒に活動してる男の子達の誰かに送ってもらったんでしょ? 介抱してくれる子なんて良いじゃない」
 年甲斐もなく、頬に手を添えうっとりとしている響子を見て、呆れる。
 一花はまだ少し熱い湯のみに口をつけてから、ベッドサイドのお盆に戻し、そそくさと布団に潜り込んだ。
「全然そんなんじゃないし。もうだるいから寝るね」
「あら、そう……」
 きっぱりと否定されて、溜息をついた響子は、落ち着いたらお粥を食べて薬を飲むように言い置いて部屋を出て行った。
 来たときと同じように静かに閉まるドアを見つめ、一花は息を吐いた。

 一花の予想通り、その後、小野里からメールが来る事は無かった。
(そっけないなぁ……)
 判っていた事なのに、少し寂しい。
 1時間ほどごろごろしていると、いくらか楽になってきたので、お粥を食べ薬を飲んだ。薬のせいか単にお腹が膨れたからか、程なく眠気に襲われ、次に気がついた時にはすでに夕飯時だった。
 いくらなんでも寝過ぎだろうと思ったが、身体を起こすと予想外に楽になっていたので、眠ったのは正解だったようだ。
 階下へ降りる前に、なんとなくインフィニティ・エリアへと繋ぐ。
 こちらも予想通りに新しい書き込みは無かった。
 キッチンへ顔を出すと、響子はちょうど夕飯を作り終えたところだったらしい。
 眠ったせいでいくらか食欲の戻った一花は、いつものように食卓へとついた。
 体調の悪い一花が食べられるように、いつものメニューよりもあっさりした柔らかいものが中心になっている。照れくさくて言えないものの、一花は内心、響子の心遣いに感謝した。
「体調はどう?」
「うん、だいぶ良くなったよ」
 一花の言葉に響子はほっと顔をほころばせる。
「良かったわ。でも一花ちゃんは女の子なんだから、酔い潰れるまで飲んではダメよ?」
「はしたないって事?」
 今回の件から二日酔いの酷さは知ったので、もう2度と飲み過ぎることは無いだろうが、あえて聞いてみた。
 すると響子は静かに頭を振る。
「今回は良かったけれど、もし誰も介抱してくれなくて放置されたらどうするの? ……それに考えたくは無いけれど、送り狼という事もあるのよ」
「そんなことっ……!」
 仲間を貶された気がして一花が声を上げると、判っていると手で制された。
「もちろん一花ちゃんのお友達の事は信じてるわ。でもこの先、就職すると他人との宴席も増えてくるのよ。だから気をつけなくてはね」
 キャリアウーマンとして第一線で働いていた響子の言葉には重みがある。
 一花はバツが悪い思いをしながらも素直に頷いた。
「わかった」
 自分の言いたい事が伝わったのを悟った響子は、優しく微笑んでから食器を下げ始める。
 無意識に手伝いながら、一花は昨夜を思い返していた。
(もしも……小野里くんが……)
 キッチンから瀬戸物同士の触れ合う鋭い音がして、ハッと我に返る。見れば、響子がキッチンの流しに皿を置き水道を捻っていた。
 自分用の茶碗を持ったまま、ぼんやりと立ち尽くしていた一花を響子が不審げに見つめる。
「どうしたの、まだ体調悪い? ……あら、顔が赤いわね。熱あるのかしら?」
「な、なんでもない!」
 一花はあわててカウンターに洗い物を乗せると、残りの皿に手を掛けた。
(何てバカな事を。小野里くんがそんな事するわけない。大体あんな綺麗な知り合いがいたら、私なんて……)
 ふと、以前会った桃子を思い出した。
 あの時の雰囲気では小野里と桃子の間に特別なものは無さそうだったが、歳も経験も違う小野里は、きっと一花が想像するよりも遥かに沢山の女性と知り合いなのだろうと思う。
 今更ながら全く勝ち目の無い自分を思い、そっと視線を落とした。
「あ、そうだわ。言うのを忘れていたんだけど、お母さん明日からちょっと仕事に出るわね」
「え、そうなの?」
 物思いに耽っていた一花は突然の言葉に響子を見る。
 前職を人間関係のごたごたから退職して3年、その後まったく就職活動をしていなかったので、一花はかなり驚いた。
「ええ。昨日のお昼に電話があって、前の会社から独立された先輩が少し手伝って欲しいと言ってね。急なんだけど」
「ふぅん」
 職種が違うのだろうし、比較できるものでは無いが、就職できない一花には羨ましい話だ。
 娘の就職がうまくいかないのを知っている響子は、自分が仕事に出る事を心苦しく思うのか、どことなくぎこちない。
「アルバイトみたいなものよ。もちろん一花ちゃんが帰るまでには家に戻っているけれど、一応言っておこうと思って」
「いいんじゃない。お母さんは働いてる方が良いと思うよ」
 働いていた頃の母親の姿を思い、素直にそう言うと、響子は心底ほっとしたように微笑んだ。
「一花ちゃんの起きる時間にもよるけど、朝、お母さんいないかも知れないから宜しくね」
「はーい」
 中学生のときと全く同じ事を言われ苦笑する。
 響子に妙な気を使わせない為にも、卒業し、きちんと就職しなければいけない。
 1月半後に迫った卒業と将来を思い、一花は気持ちを引き締めた。

   

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