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 対の半身

 3
 由奈が目を覚ました時には、すでに朝日が顔を出していた。
 何の夢を見ていたのか思い出せないが、酷く夢見が悪かったのか、首から頭に掛けて鈍痛が残っている。
 一昨日恋人と別れ、昨日啓と再会したせいで荒れ狂っていた心はもう凪いでいて、今日は何とか普通に挨拶ができそうだと思った。
 起き上がると時計はまだ5時半を指している。
 きっと皆まだ眠っているだろうから、シャワーを使うには好都合だ。
 スーツに化粧も落とさないまま眠ってしまったせいで、今の自分は最高にみすぼらしいはず。由奈は皺だらけになった服を見下ろして、溜息をついた。

 身体を清めて、スキンケアまで終える頃には、母親が起き出して朝食の準備を始めていた。
「……おはよう。昨夜はごめんね」
 台所に顔を出して挨拶すると、母親はいつものように微笑んで挨拶を返してくれた。
「いいのよ。それより、啓が気にしていたわ。後で電話でもしたら?」
「昨夜、泊まって行かなかったの?」
 てっきり朝まで啓がいるものだと思っていた由奈は、少し驚いて母親を見る。
 すると母親は寂しそうに溜息をついた。
「仕事が忙しいんですって。昨日寄ってくれたのは、こちらの支社に来たついでだったみたい」
「そう……」
 昨夜、いきなり啓がやって来た事には、特に理由が無かったらしい。
 由奈は肩透かしを食らったような気がしつつも、やはりどこかでほっとしていた。
 今でも付き合っている遥香との仲が、更に進展したのかと勘ぐっていた自分が恥ずかしい。
 しかし、そう遠くない未来、自分と遥香が義姉妹となる事は間違いない無い。そしてその現実に自分が向き合えるのかを考えると、また気持ちが沈んでいった。

 それからまた数週間が過ぎた。
 啓は相変わらず仕事が忙しいようで家には寄り付かなかったし、由奈の心はいつも通りの平穏を取り戻していた。
 時々思い出しては辛く思う事もあるが、近くにいなければ期待する事も、悲観する事も無い。逢いたいと思う気持ちさえ誤魔化せば耐える事ができる。
 それが、啓のいない6年の間に身に着けた、由奈なりの気持ちの処し方だった。
 由奈は誰もいないリビングでカーテンの隙間から覗く夜空を眺める。
 雨こそまだ降っていないものの、不穏な雲行きは嵐の到来を予感させた。時折、遠くから響く低い雷鳴は次第に大きくなっていた。
 町内会の親睦旅行へと出かけた両親が帰ってくるはずなのだが、この天気では無理かも知れない。
 一応、確認する為に由奈は携帯を手に取った。
『も……もし? 由奈……』
「もしもし?」
 母親は数コールで出てくれたものの、電波が悪いのか途切れ途切れにしか聞こえない。
『今、駅な……けど、電車止まっ……。明日帰る事に……そう』
「電車止まってるから、帰ってくるの明日にするのね?」
『そ……う。だから……で……む、に……』
「ごめん。よく聞こえないけど気をつけて、お父さんもね」
 言い終わるか終わらないかのうちに、通話はぷつりと切れた。電波が完全に途絶えたらしい。
 とりあえず今夜じゅうには帰って来れないのだろう。心配だが2人なら何とかなると由奈は思った。
 電話をしているうちに降りだしたらしい雨はすでに豪雨とも呼べる激しさで、雷の轟音はすぐ傍まで迫っていた。風もかなり出てきたらしく、まだ閉めていない雨戸がガタガタと鳴る。
 由奈は嘆息すると、家中の雨戸を閉め始めた。
 時折、雷鳴がするものの、雨戸を閉めてしまった家は静かで何だか落ち着かない。これまでずっと家族で暮らしてきた由奈は、一人にされる経験が余り無かった。
(子供でも、あるまいし……)
 我ながら自立できていない自分に苦笑する。
 つけたまま見てもいなかったテレビを消すと、由奈は風呂に入るために立ち上がった。
 明日は休日だから急いで入る必要は無いが、どうせ何もする事が無いのだし早く寝てしまおうと思った。

 先に身体を洗ってから、お湯に身を沈める。
 狭い湯船の中で精一杯身体を伸ばした。
「きもちいー……」
 ゆっくりと深呼吸してから、目を閉じる。
 思い出されるのは、数週間前に一度だけ会ってしまった啓の顔。
 会いたくないと頭で思っていても、気持ちは抑えられない。あの時は余りの衝撃で気付かなかったが、やはり心の底では啓に会えた事を喜んでいる自分がいた。
 どうして、もっと早くこの想いに気付かなかったのかと思う。思うけれど、早く気付いたところで結果は変わらなかっただろう。
 自分たちの血が繋がっていない事を知っているのは由奈たち家族だけ。幼い頃に記憶を塗り替えてしまった啓は知るはずも無い。
 由奈がいくら早く想いに気付いたからと言って、実の双子だと信じている啓に打ち明けることは絶対にできなかった。
 お湯に沈めていた左手をそっと持ち上げて眺める。
 小さい頃はいつも啓と手を繋いでいた。迷子にならない為でもあったが、常に傍にいるのが当たり前だったから。
 いつから手を離して、別に歩くようになったのだろう……。
 覚えていないほど遠い過去を思って、由奈はまた溜息をついた。
 と、前触れも無く目の前が暗くなった。
「え……っ」
 慌てて上を見上げても、何も見えない。動く自分に合わせて立つ水音がやけに大きく響いた。
「て、停電?!」
 湯船の縁に手をついて恐る恐る立ち上がると、少しだけ窓を開けて外を見た。
 相変わらずの暴風雨で見にくいが、隣家も街灯も全て消えている。
 由奈はばちんと窓を閉めて、またそろそろとしゃがみこんだ。
「やだもー、こんな時に……」
 闇の中で触れるお湯が、先ほどとは逆に薄気味悪く感じた。
 すぐに復旧すると判っていても落ち着かない。
「うぅー」
 いくつになっても暗がりは怖かった。停電なら尚更。
 耐えられなくなった由奈は、滑らないように注意しながら浴室を出た。
 自分さえ見えない中、手探りでタオルは発見できたものの、傍らに用意していたはずのパジャマが見つけられない。
 とりあえず、タオルでざっと身体を拭いて巻きつけると、懐中電灯があるはずのリビングへと向かった。
 廊下の壁づたいにすり足で進む。
 階段脇から南側に曲がりかけた時、大きな音がして玄関が開き、閉まる音がした。
 由奈は息を呑み、身体を強張らせる。
(……誰か入ってきた?!)
 咄嗟に良くない想像が頭を駆け巡り、心臓が縮み上がる気がした。
 さっきまで遠方にいた両親が帰って来たとは思えない。ならば、次に考えられるのは……停電に乗じた犯罪者……。
「…っ!」
 気付かれないように、2階へ逃げようと手を伸ばす。が、意外なほど近くに階段の壁があったらしく、派手に小突いてしまった。
「由奈か? どこだ?」
 聞こえてきた声に振り返る。
「啓っ?!」
 思わず声が裏返った。
「ああ。母さんに電話貰って来てみたんだが。大丈夫か?」
「だ、大丈夫じゃないわよっ! 驚かせないでよね!」
 激しい動悸が治まらずに、由奈は廊下にへたり込んだ。風呂上りに驚いたせいで眩暈がする。
 荒く息をつくと、ゆっくりと啓の足音が近付いてきた。
「由奈、どこにいる?」
 すぐ近くに啓の気配を感じて、由奈は肩を震わせた。驚いたせいで忘れていたが、自分の格好を知られるわけにはいかない。
「それ以上、来ないで」
「なんでだ?」
「なんでも!」
 少し離れようと立ち上がり掛けた時、伸ばされた啓の手が肩に触れた。
「え……」
「やっ!」
 咄嗟に振り払って後ずさると、由奈は壁に背中をつけて自分の肩を抱いた。
「由奈?」
「お、風呂に入ってた……から」
 俯いて、ぎゅっと目を瞑る。自分が何も見えないように、啓にも見えてないはず。それでも見られているという錯覚を覚えた。
 突然、耳をつんざく轟きと共に、廊下が青白い光で照らされる。
 顔を上げた由奈の目に見えたのは、玄関脇の明かり取りから見える眩しい光と、逆光で浮かび上がった啓の影だった。
 そして、一瞬の閃光が消えるのと同時に、由奈の身体は抱き竦められていた。

 一体何が起こったのか、由奈には判らなかった。
 判るのは、何かに拘束されている感覚と、時折上から落ちてくる雫の冷たさ。そして直接触れる肌の熱。
「……」
 互いに何も言わず、ただ抱き締め、抱き締められていた。無言で繰り返す呼吸だけがやけに大きく聞こえる。
(どうしてこんな事をするの……?)
 聞いてみたいと思いながら、由奈は何も言えずに瞳を閉じた。
 何かの間違いだったとしても、いい。ただ啓とこうしている事を覚えておきたかった。
 やがて、啓がそっと息を吐き、腕を緩めた。
「すまない」
 啓の呟いた言葉の意味に、由奈は涙が零れた。
「謝らないでよ」
「……」
「謝るくらいなら、こんな事しないでっ!」
 自分でもめちゃくちゃな事を言っている自覚はある。それでも止まらない。否定された哀しさで気持ちが暴走していた。
 啓を押しのけて離れようとした由奈は、腕を捉まれ引き戻された。
「……謝らなくても、いいのか」
 押し殺した低い声に、顔を上げる。
 見えないはずの啓の瞳が鈍く光った気がした。
「啓」
 先ほどまでとは違う、強く荒々しい抱擁に由奈は身を任せた。
 啓の濡れた背中に腕を回すのと同時に、唇を奪われる。注ぎ込まれる熱と吐息。言葉は無くても啓が何を望んでいるのかは明白だった。
 触れ合う事ではだけたバスタオルがするりと下に落ちた。背に預けていた腕を首に回すと、それを合図に啓の手が身体を探り出す。
「……由奈」
 啓のかすれた声に息を呑む。
「このままは、嫌……」
 精一杯の勇気を振り絞って言うと、啓はふっと笑って首筋にキスを落とした。

   

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