対の半身
2
「今日もね、ママ帰ってくるの遅いんだって」
そう言って泣きそうになった啓を、いつも「いいこ、いいこ」って慰めてあげるのが由奈の役目。
「じゃあ今日も由奈といっぱい遊べるね? 啓のママ帰ってきたら、一緒におかえりってしようね!」
わざと元気いっぱいに笑うと、啓もにっこりしてくれた。
啓は由奈のママのお友達の子なんだって。啓の家はパパがいないから、ママがお仕事をしていて、遅くなる時は由奈の家で遊んで待ってるの。
由奈は啓といっぱい遊べて嬉しいなって思うんだけど、啓は甘えん坊さんだからママと一緒がいいみたい。でも、いっぱいいーっぱい遊んだら楽しいねって言ってくれるから、由奈は頑張ってるんだよ。
だから、この前買ってもらった取っておきのノートを出してあげる事にした。
くまさんとお花の絵のやつだから、ほんとは由奈が全部お絵かきしたかったんだけど、啓ならいいや。
クレヨンも持ってくると、啓はすぐに青いのを取って笑った。
「ぼく青好きー」
ぐるぐるってお花を描いたり、もくもくって雲を描いたりしてるうちに、良い事思いついちゃった。
「ねぇ、啓。お誕生日ケーキを描こうよ!」
「お誕生日ケーキ?」
「うん。もうすぐ由奈と啓の5歳のお誕生日だから、こーんなおっきなケーキ描くの。そしたらママにこういうのが欲しいってお願いしよう?」
「わーい」
ね、すっごく良いでしょう?
すぐに由奈と啓はノートにおっきな丸を描いたんだ。もちろん丸いケーキだもんね。
由奈と啓はお誕生日が一緒なんだって。だからいつも一緒にお祝いするんだよ。
由奈にはよく判らないけど、由奈と啓はおんなじ病院でおんなじ日に産まれたってママが言ってた。それで由奈のママと、啓のママがお友達になったんだって。
「ローソクもつけようよ。由奈のがピンクで、啓のが青のやつね」
「ぼくサクランボのケーキがいいなー」
サクランボをいっぱい描いてる啓の横から、ケーキの真ん中にローソクを2個描いた。
もうすぐ完成しそうな時に、廊下の電話が鳴った。
電話が来る時はいつも啓のママが、もっと遅くなる時なんだ。だから、啓はまたちょっとだけ口を尖らせてる。
すぐにお部屋から出てきたパパが電話を取った。
「はい、もしもし。新開ですが……」
台所から来たママが後ろから、由奈と啓をぎゅってした。啓のママが遅くなる時は、啓いつも泣いちゃうから、由奈のママがこうやって抱っこしてくれるんだ。
「啓くんのママが遅くなったら、今日いっしょにうちに泊まろうね。ねんねして待ってたら、すぐに帰ってくるからね」
ママはそう言ったけど、啓はもう泣きそうだった。
啓のあごがぷるぷるしてきた来た時、廊下にいたパパがいきなりお部屋のドアを開けた。
バチンって凄い音がして、びっくりして見たら、パパのお顔がとっても怖かった。
「おい。いま電話で、亜子(あこ)さんが事故に遭ったって……!!」
「え……」
ママは抱っこしてた手を離して、後ろにどすんて転んだ。振り向いたらママの顔も泣きそうだった。
それからの事はあんまり覚えてない。
パパの車に乗って皆で出かけた……かもしれない。
ただ……啓が泣いていたのを覚えてる。
それから、啓のママはずっと帰ってこなかった。
高校に上がる時、私の中のおぼろげな記憶を、お母さんに話した。
少し驚いていたようだったけれど「あなたは覚えてたのね」と静かな目をしていた。
啓のお母さんが事故で亡くなってから、お父さんとお母さんはすぐに啓を養子として引き取ったらしい。
4歳の子には事故や人の死は判らなかったけれど、突然、母親と離された啓は少しだけ不安定になって、傍らにいた私達家族を実の家族だと思い込んだらしかった。
お母さん達は、忘れられてしまった啓のお母さんには悪いけれど、啓のために本当の事を告げずに今まで育ててきたと言っていた。
そして、18歳の夏。私達は高校3年生になっていた。
血のつながりが無いといっても、4歳から双子としてずっと一緒に暮らしてきたのだから、私たちは双子の兄妹以外の何者でも無かった。
啓は疑う事も無く、自分が新開家の長男だと思っているし、私は私で今更よそよそしくする理由なんか無いから相変わらず普通に暮らしていた。
「はーるかっ、おはよー!」
いつもの通学路、少し前を行く後姿に声を掛ける。
彼女が驚いて振り向くとサラサラのロングヘアがふわっと広がった。シャンプーのCMみたいに。
「おはよう、由奈」
儚げに微笑む少女は、高校に入ってから仲良くしているコで、木川田遥香(きかわだ はるか)と言う。
「いいねぇ、いいねぇ。朝に清楚な女子高生に会えるなんてたまんないね」
わざとらしくにやにやして見せると、遥香は苦笑する。
「なぁにその、やらしいおじさんみたいなの。由奈だって女子高生でしょう」
「んー『清楚』っていうのがポイントなのよ。私には無い部分だもん」
「……そんなの私の方がよっぽど」
ふっと遥香の表情が翳ったので、不思議に思いながら見つめると、いきなり後ろから肩を突付かれた。
「お前ら、とっとと行かないと遅刻するぞ」
そこには不機嫌な顔をした啓が立っていた。私の後から出たはずなのに、遥香と話しているうちに追いつかれたらしい。
「おはよう啓くん」
「ちょっと、痛いんですけど」
相変わらず爽やかに挨拶する遥香の横から文句を言うと、啓は遥香に軽く挨拶を返してから、さっさと歩いていってしまった。
「あ、無視しないでよねー!」
ぷりぷりしながら啓の後姿を睨むと、遥香が歩きながら、ふふっと笑った。
「なんか、羨ましいな」
「どこが?!」
「私、一人っ子だから兄妹って憧れちゃう」
「……えー……」
兄妹って言ったって、あんなんだよ?
昔はすぐにピーピー泣いてたくせに、中学入ったくらいからやたらと無口になっちゃって。俺は冷静な大人なんです、みたいな澄まし顔してる奴だよ?
私の不満がありありと顔に出ていたのか、遥香は思わせぶりに首を傾げた。
「良いじゃない、啓くんカッコいいし。サッカー部で、勉強もできるし。私が妹だったら自慢しちゃうけどなー」
「実際に妹だと迷惑だけどね」
そう、ムカつく事に啓はモテる。
芸能人みたいにカッコいい訳じゃないけど、それなりの見た目にスタイル。サッカー部でスタメンのくせに、勉強も割とできるから私よりも全然高いランクの大学狙ってるみたい。
そんな訳で、啓の彼女の座を狙ってるコからの質問攻めの毎日に私はうんざりしていた。
「ねぇ、啓くんって何でウチの高校に通ってるの? ここら辺ならもっとサッカー強いとこも、進学校もあるのにね?」
何かを思いついたように振り向いた遥香が、突然そんな事を言い出す。
「さーねー、あいつ中学くらいから何考えてるのかさっぱり判んないもん。お山の大将にでもなりたかったんじゃないの?」
ふざけて冗談で返すと、遥香は納得しきれない顔をしながら考え事をしていた。
あと少しの距離の学校から、音程の怪しいチャイムが聞こえてきた。
「あ!」
「やばっ、遥香急ごう!」
予鈴に慌てて駆け出した私たちを、校門に立つ啓が呆れた顔で見つめていた。
夏休みが過ぎて、秋になり。冬になった。
私は何とか一般入試で地元の大学に受かり、遥香は悩んだ末に関東の短大へと進学を決めた。啓はさっさと推薦で東京の大学に合格していて、私にはそれが少しばかり面白くなかった。
啓は覚えてないけれど4歳からずっと一緒に育ってきた双子なんだし、もうちょっとしんみりしてくれても良いのに、やたらとあっさりしている態度が癪に障る。
それだけならまだしも当時の私は、夏休み明けから元気が無くなっていた遥香が、本当にやつれているのを心配していた。
理由を聞いても「なんでもない」の一点張りで、病気かと疑ったもののそうでも無いらしい。
自由登校になった今では、毎日登校しても遥香に会うことはできていなかった。
「ねぇ」
リビングでソファに寝転んで参考書を読んでる啓を突付くと、凄く不機嫌そうな顔をしてこっちを見た。
「なんだよ」
「遥香から何か聞いてない?」
「木川田から? しばらく見てないけど、何かって何だよ?」
「……わかんないなら、いいや」
溜息をついて床に座り込む。ひんやりとした床が季節を感じさせた。
……もうすぐ2月も半ば。3月になったら卒業して、私達は離れ離れになる。
「そんな言い方したら、気になるだろうが」
読みかけの本をバタンと閉じると、啓はソファに起きてこちらを見た。
さすがの啓でも遥香の事は気になるらしい。まぁ、遥香ってホント美人だもんね。
胸の奥にチリッと痛みを感じだけれど、あえて無視した。
「少し前から元気無いんだよね。病気じゃないみたいなんだけど、顔色も悪いし、ちょっと痩せてきたし。あとボーっとしてる事も増えた気がする」
「何か心配事があるって感じか?」
「そうそう、それ!」
啓の的確な表現に相槌を打つと、奴はまた醒めた目でこちらを見ていた。
……どうせ私は言葉を知りませんよーだ。
言い返したらムカつくほど肯定されるから、心で文句を言っておく。
「ふぅん、木川田がね」
「遥香ってちょっと人見知りなとこあるから、相談するなら私か啓かなって思ってて」
「いや、俺は何も聞いてないけど」
「そっか……。なんなんだろ。もうすぐ卒業だし、やっぱり心配だなぁ」
溜息まじりに呟いて、膝の上に顎を乗せた。
啓は学校が離れる事も、家族と離れる事も、どうでも良さそうな感じだし。親友だと思ってた遥香はあんなに深刻そうな様子なのに、相談ひとつしてくれないし。なんだか孤独を感じてしまう。
体育座りのまま項垂れると、啓に頭を小突かれた。
「わかったよ。今度ちょっと木川田に聞いてみる。でも期待すんなよ、俺らの手に負える問題じゃないかも知れないからな」
「うぁー、ありがとう啓お兄ちゃんっ」
両手を挙げてわざとらしく感謝の気持ちを表すと、啓はものすっごく嫌な顔をしていた。
それから……啓と遥香の間にどういう話し合いがあったのか、私は知らない。
相変わらず遥香は学校に来なかったけれど、啓とは連絡を取り合っているらしく、時々、携帯に連絡が来ているようだった。
啓には話せる事なんだ……。
遥香が心配だったから自分で頼んだ事なのに、私には何も言わないで、啓に話すのを目の当たりにするのは、正直きつい。
高校に入ってからずっと仲良くしてきたけれど、遥香は私の事をそこまで思ってくれていなかったのだろうかと、おかしな独占欲や嫉妬を感じていた。
それでも本当に遥香が心配だったから、私じゃない人にでも相談してくれた方が良いと考え直した。
もうすぐ卒業だし進路も別々だけど、また遥香の悩みが解決したら仲良くなれるって信じてた。あの時までは。
卒業式の数日前、私はやっと登校してきた遥香に会う事ができた。
相変わらず顔色は良くなかったけれど、校門で会った時に笑顔を見せてくれたから、きっと啓のおかげで遥香の悩みは解決したのだろうと、私は嬉しくなった。
「遥香ぁー、もう全然会えないから心配したよー」
「……うん。ごめんね由奈」
線が細くて見ている方が不安なほどなのに、遥香はどこか幸せそうに微笑んだ。それは前の遥香には無かったもので、妙に引っかかった。
「えっと……啓がさ、連絡したと思うんだけど。大丈夫だった?」
「うん。啓くんのおかげで、助かったよ」
淀みなく言い切った遥香はすっと顔を上げる。何か吹っ切れたような表情に、何故か私は焦った。
なんだろう、何かとてつもない事が起きてる……ううん、これから始まりそうな気がする。
「そ、それにしてもさ。卒業式の練習なんて、かったるいよねぇー」
「そうだね」
背中にまとわりつく嫌な予感を無視して、私は昇降口へとずんずん突き進んだ。教室で点呼を取った後、体育館で予行練習をする事になっている。
ちょうど前庭の中ほどまで来た時、春特有の強い風が吹いた。
一応は女子高生だし、慌てて制服のスカートを抑えて遥香を振り向くと、風に煽られた長い髪が重力に従ってゆっくりと戻っていくところだった。
色の白い遥香の項がさっと現れて、私はそこに信じられないものを見た。
うっすらと色づいた、赤い痣。
「……はる、か?」
「え。どうしたの、由奈」
「な、なんでもないっ! あの、先に行くね!」
動揺した私は慌てて走り出した。遠くから遥香の呼ぶ声が聞こえた気がしたけど、振り返る事なんてできなかった。
そのままトイレに駆け込むと、荒く息をつきながら制服の胸元をぎゅっと握る。
あれは、間違いなく、キスマークだった……!
私は誰かと付き合った事はないけど、高校にもなれば彼氏のいるコは沢山いる。進んでてイケイケなコたちは自慢するみたいにキスマークを見せびらかしていたから、私にだってどんなものかは判っていた。
それがどうして遥香についてるの?
答えなんて判り切ってるのに、認めたくなくて頭を抱えた。
遥香の一番傍にいる男子が啓だという事実に打ちのめされていた。
結局、練習に参加することができなくて、体調不良を理由に早退した。
お母さんは卒業式当日に参加できるのかを心配していたけど、そんなの私が聞きたいくらいだった。
真面目に練習に参加してる啓が帰ってくるまでには、普通にしていないといけない。
ベッドの上に仰向けになって、天井をじっと見つめる。
遥香にそういう人がいたとしても、それが啓かどうかは判らない。もしかしたら別に彼氏がいるのかも知れない。しばらく連絡を取っていないうちに、彼氏ができていたっておかしくない。
そう思うと、少しだけ気が楽になってきた。
でも、そこまで考えて、私は一体何に怯えているんだろうと思った。
遥香と啓が付き合ったって別に問題無いはず。2人とも春からは大学生と短大生なんだし、彼氏彼女がいてもいいわけで……。
またズキッと胸が痛んだ。
横になったまま丸くなって膝を抱える。
……これじゃ、まるで私が啓を……。
行き着いた、ありえない答えに首をぶんぶん振った。
違う、違う! 私はきっと啓と、遥香の彼氏に嫉妬してるんだ。ずっと遥香と仲良かったのは私なんだから!
目を瞑って、むりやり考えを捻じ曲げた。
それでもやっぱり、心がシクシクと痛んでいた。
外が暗くなりかけた頃、啓が帰って来た。早退した私を心配して、すぐに部屋を覗いてくれた。
「大丈夫か?」
「うん……ありがと」
とても啓の顔を見ることができなくて、壁を向いたまま返事をする。
「遥香がお前の事、心配してた。あとでメールでもしてやれよ」
啓の口から出た名前に、心臓が鷲掴みにされたみたいな気がした。
自分の鼓動が大きく響く。
「……啓、遥香と付き合ってるの……?」
「なんで急にそんな事」
はぐらかすような、試すような口調に、泣きそうになる。
「だって……遥香のこと、苗字じゃなくて名前で呼んだから」
私がそう呟くと、啓は黙ったまま動かなくなった。
夕方の静かな時間帯。窓も締め切った部屋は物音なんてしないんだから、啓にも私が言ったことは聞こえていたはず。
私はただ、啓の答えを待った。違うと言われる事を期待して。
啓はふうっと大きく溜息ついて軽く笑った。
「やっぱ双子だと、そういうの判っちまうんだな。まだ秘密にしとこうと思ったんだけど……」
「え……」
「自由登校つっても卒業式もあるし、ばれたら色々噂されるから黙ってたんだ。でもまぁ、あとちょっと秘密にしてくれるだろ?」
早口で一気に言われた言葉の意味を理解するまで、時間がかかった。
理解なんてしたくないって叫んでしまいたいのに、できない。
自分の血が繋がっていない事を、啓は知らない。間違いなく血を分けた双子だと信じているのに、それを壊すことは私にはできなかった。
「……うん」
「じゃ、下行くわ。後で母さんが飯持って来るってさ」
ドアの閉まる音と共に、涙がこぼれた。
やっと気がついた想いは、可能性の無い無謀なもの。
初めて知った恋に私はただ泣くだけしかできなかった。
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