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 対の半身

 1
 落ち着いた内装に、明度を落とした照明。押し付けがましくないジャズが静かに流れるバーで、新開由奈(しんかい ゆな)は居心地の悪い沈黙に耐えていた。
 目の前に座る男を静かに眺め、3ヶ月付き合ってきた恋人の顔がこんな風だったのかと改めて気付いたりした。
 膝の上に置いた手に着けている腕時計を静かに撫でる。
 男はふっと息を吐くと、テーブルの隅にあった灰皿を無言で引き寄せた。おもむろに背広の内ポケットからタバコを取り出し、少しだけ眉を上げる。
「……今更だし、吸っても構わないだろう?」
「どうぞ」
 極度のタバコ嫌いな由奈のために、男は逢瀬の時は吸わない約束をしていた。
 ゆっくりと煙を吸い込むと、由奈にかからないように静かに吐き出す。
 由奈は特有の香りに包まれながら、細く立ち上る紫煙をぼんやりと眺めていた。
「由奈がタバコ嫌いなのは、だれかさんが吸わないから?」
「え?」
 唐突に言われたので、由奈は何のことかと聞き返した。
 すると、男は自嘲するように軽く笑う。
「由奈は俺に抱かれている時、絶対に名前を呼ばないだろう? 口にしそうになると、慌てて飲み込んじまう。あれは、俺じゃない誰かを呼びそうになっていたからだ、違うか?」
「……」
(気付かれて、いた……?)
 自分の内側から急速に冷えていくような感覚に襲われ、由奈はテーブルの下でぎゅっと手を握った。
「いいんだ。俺が無理に言って始まった関係だし。まぁ最初は、それでも振り向かせる自信があったけどな」
「……ごめん、なさい」
 静かに俯くと、男は吸いかけのタバコを灰皿に押し付け、最後の煙を短く吐く。
「気にするな、責めているんじゃない。ただ……どういう理由があるのか知らないが、自分のために、その男との事に決着をつけると約束してくれ。そいつは死んじまったわけじゃ無いんだろう?」
「ええ、元気でいると思う」
 脳裏に一人の顔が浮かぶ。
 愛しくて、愛しくて……でも手が届かない人。
 男はさっと立ち上がると、俯いたままの由奈を見下ろし、静かに呟いた。
「短い間だったが、お前を好きだった俺からの最後の注文だ。報告はいらないが決着はつけろ。じゃあ、元気でな」
 一方的に言い切りテーブルに万札を置くと、男は足早に店の入り口へと向かう。
 返事ができないままだった由奈は顔を上げ、男の後姿を視線で追ったが、そこには閉まりかけたドアだけが見えていた。

 重い足取りで帰宅した由奈は、両親に軽く声を掛けただけで、すぐに自室へと向かった。
 あたりまえだが朝と変わらない私室にほっと息をついて、スーツのままベッドへと倒れこむ。
 いつかこうなることは判っていた。
 何度も、何度も経験したこと。
 向こうから告白されて断るも食い下がられて、情熱的に愛を囁かれれば、ほんの少しだけ期待してしまう。
 もしかして、この人なら彼を忘れさせてくれるかも知れない。この身に巣くう炎を包み込んでくれるかも知れない。私でも幸せになれるかも知れない……。
 でも、そんな思いはすぐに間違いだと気付く。
 キスをすれば、その唇が。抱かれれば、その身体が。彼のものだったら良いのにと思ってしまう。
 そんな事を考える自分に吐き気がした。付き合っている男を彼の身代わりにしか見れない、汚れきった心と身体。
 罪悪感に押しつぶされ、由奈は長くても半年しないうちに相手に別れを切り出した。
 今回もそう。
 由奈の勤める会社の取引先の人だった。何度も断ったのに、それでも説得された。5つ上の彼は24歳の由奈から見れば立派な大人で、もしかしたらと期待してしまった。
 ごろんと寝返りを打つと傍らの携帯を取って、さっき別れたばかりの男の番号を出した。何度かボタンを押して、消去する。
「ごめんなさい……」
 届くはずも無いのに、由奈はただ謝罪を繰り返した。涙が幾筋も流れ、枕を濡らす。
 しゃくりあげながら震える手で携帯を戻そうとした時、由奈の瞳には登録されている一つの名前が飛び込んできた。

 ―――新開啓(しんかい ひろむ)

 由奈は咄嗟に携帯を放り投げると、枕に突っ伏したまま両手を布団に叩きつけた。
「馬鹿! ……馬鹿っ!!」
 叫ぶ由奈の声は自身の内側へと響いていた。

 翌日、体調の悪さも然ることながら、泣きはらしたせいで酷い顔のまま由奈は出社した。
 大学を出て就職してから、まだ2年。安易に休むわけにはいかなかった。
 朝に顔を合わせた父母も、社内の人間も、そんな状態の由奈に何が起きたのかを察し、何も言わなかった。それでも気を使ってくれたのか、仲のいい同僚が残業を買って出てくれたおかげで、由奈はいつもより早く帰宅した。
 生まれた時から住んでいる2階建ての1軒家。2階の東側が由奈の部屋。そして西側は6年前まで兄の部屋だった。
 いつも通りの通勤路を逆に辿り、夕暮れに佇む家を見上げた時、由奈はその場で硬直した。
 カーテンが閉まっていて判りづらいが、明らかに2階の西側の部屋に明かりが灯っている。
(……まさか)
 由奈は逸る鼓動を抑えながら、恐る恐る玄関のドアを開けた。
「ただいま……」
 狭い玄関にある、見慣れない紳士物の革靴。大きさから父親の物ではない事を知り、由奈は固く目を瞑った。
 こんなタイミングで帰ってくるなんて。偶然にしても余りに残酷だ。
 そのまま動けないでいる由奈を訝しんだのか、母親が台所から顔を出した。
「おかえり、どうしたの?」
「あ……ううん、何でもない。帰って来たの?」
 主語が無くても母親になら通じる。今その名前を口にする勇気が由奈には無かった。
 由奈の状態など全く気付いていないらしい母親は、手に持った菜ばしを振りながら、うきうきと身体を揺らす。
「そうなのよー、さっき突然帰ってきてね。いきなり帰って来られても何も用意してないのに、困るわよねぇ啓にも」
「……そうね」
 簡単に相槌を打つと、母親はすぐに台所へ戻っていった。
 困った振りをしながらも、できるだけのごちそうを作るつもりなのだろう。母のそんな優しさが由奈には苦しかった。
 リビングには顔を出さず、とりあえず部屋へ行こうと階段に足を掛ける。
「由奈?」
 上から降りてきた低く心地良い声音に、由奈は身体を強張らせた。
 ゆるゆると上げた視線の先、ワイシャツにダークグレーのスラックスを穿いた男が2階からこちらを見ていた。
「……啓……」
 会いたいから、会いたくなかった、双子の兄。
 由奈の心は悲鳴を上げていた。

 高校を卒業してから東京の大学へと進学した啓は、そのまま向こうで就職し、ここ2年帰ってきていなかった。
 その啓が突然帰って来た意味を、由奈は考えたくなかった。
 無意識に浮かぶのは、自分たち兄妹と同じ学校を卒業した一人の女子生徒……。
 頭から追い出そうと足掻くのに、記憶の中の兄と美しい少女が交互に現れては由奈を苛んだ。
 挨拶もそこそこに部屋へと引き篭もった由奈は、前日と同じように仕事着のままベッドに寝転んでいた。
 遠慮がちなノックの音に顔を上げると、ドアの向こうから啓が声を掛けてくる。
「由奈? 母さんが飯できたって言ってるけど?」
 カギを掛けてあるから入って来れないのは判っていても、反射的に身体が強張った。
「……いらない。悪いけど食べれそうに無いから、そう言って置いて」
「お前なんか変だぞ、何かあったのか?」
 やっとの事で言葉を搾り出したのに、啓は食い下がる。何も知らないで純粋に心配してくる姿に腹が立った。
「放って置いて! 昨日、彼氏と別れたの。そんな気分じゃ無いのよ!」
 苛立ちを込めて手近な枕をドアにぶつけると、啓は一言「悪い」と呟いて階下へと降りていった。
 また訪れた静寂に身を縮こませる。
 本当は、彼氏と別れた事なんかじゃない。
(……好きだから近付かないで。不用意に優しくしないで。いつまでも消えてくれない炎に飲み込まれて、何をするか判らないから)
 いつの間にか零れた涙を拭うと、由奈は静かに目を閉じた。
 心に吹く嵐に疲れきっていたせいで、意識が霞んでいく。
「……はる……か」
 途切れる直前、由奈の脳裏に浮かんでいたのは、忘れることのできない親友の姿だった。

   

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