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 ガラスの靴の行方

 5
 翌朝早く、ミュリエルとギュンターは手配してあった馬車へと乗り込み、一路王都へと向かった。
 全員は無理としても、ドリーンとメイドの1人くらいは同行するのだろうと思っていたのだが、どういう訳か、屋敷からの供はいらないと言われた。
 ミュリエルとしては、いくらギュンターが一緒でも、昔から仕えてくれている者が1人もいない状況はやはり不安だし、何より同性の人間がいないのは色々と困る。せめてドリーンだけでも連れて行って欲しいと頼んだのだが、ギュンターばかりかドリーン本人からも断られてしまった。
 ギュンターが訪れてからというもの、ドリーンの様子がこれまでと違う事には気付いていたが、これにはミュリエルも驚いた。
 子供の頃から仕えてくれているドリーンは、まるで母親の代わりのようにミュリエルの世話を焼き、時に過保護と思える事さえあった。その彼女が、自ら同行を拒否するなど信じられない。どこか身体でも悪いのかと心配したミュリエルがしつこく追求してみたものの、どうしても屋敷を離れられない用向きがあるのだと答えるばかりで、本当の理由はついに判らなかった。

 屋敷を発って、馬車で北へ向かうこと3日と半日。
 王都をぐるりと囲む運河のたもとから街並みを見上げたミュリエルは、自分の故郷を見知らぬ場所のように感じた。
 この街を去ったあの日、田舎町へと向かう馬車の中から振り返った景色は、今もはっきりと記憶に残っている。建物や通りも寸分違わず同じ場所にあるというのに、なぜ懐かしく感じないのかを不思議に思った。
「どうされましたか?」
 ふいに掛けられた声に振り返る。傍らに座るギュンターを見つめ、ミュリエルはまた鈍い痛みを胸に感じた。
「……いいえ、何も」
 ゆっくりと頭を振り、もう一度街並みへ視線を戻す。
 ここで過ごした年月と思い出では覆い切れない大きな傷が心に残っている。昔も……そして今も、ミュリエルにとって王都は別れの地でしか無かった。

 都へと入った馬車は城下の繁華街を抜け、まっすぐに王城近くの居住区へと向かう。
 運河を越えてから外を眺め続けていたミュリエルは、ジラメネス家の本邸とは違う方向に移動している事に安堵していたが、よもや王城近くに向かうとは思っていなかった。
 はっきりとした身分制度が確立されているこの国では、城の近くの土地に屋敷を構えることができる者が限られている。王家の縁戚になっているか、もしくは、国の為に特に秀でた功績を挙げた選りすぐりの貴族だ。
 ミュリエルは、自分の生家よりも遥かに高い地位にある貴族の屋敷を見渡しながら、大変な事になったと青ざめた。
 馬車は居住区の中でも一番奥まった、大きな屋敷の門をくぐって行く。こちらに向かって礼を尽くす門番や、のんびりしたギュンターの様子から、予め決められていた事らしいが、こんな高位の貴族の屋敷を訪ねる理由が判らなかった。
 石造りの大きな邸宅の前に着けられた馬車が、外から開かれる。既に陰り始めた陽の眩しい光が差し込み、ミュリエルは僅かに顔をしかめた。
 先に降りたギュンターに手を取られ外に出て見れば、ミュリエルの屋敷とは比べものにならないほど多くの使用人が立ち並び、一斉に頭を下げた。
「あの……これは……?」
 予想外の光景に驚いたミュリエルが顔を上げると、視線の先のギュンターは口の端を上げ、片目を瞑って見せた。
「魔法ですよ」
「え……」
 間近で笑顔を向けられたミュリエルは、頬を染め呆然と彼を見つめ返す。
 微笑むギュンターと、強く震える胸に息を詰めたミュリエルの前で、屋敷の扉が静かに開かれた。

 状況が良く判らないまま客間をあてがわれたミュエリルは、事情を尋ねる間も無く湯浴みをさせられ、メイド達によって飾り立てられた。
 着付けや化粧の合間に、どういう事かと聞いても、彼女たちはギュンターから教えて貰うようにと優しく笑うばかりで埒が明かない。舞踏会用に仕立てられたはずの青のドレスを身につけたミュリエルは、通されたテラスでぼんやりと庭を見つめていた。
 すっかり日の落ちた庭園は、ところどころにランタンが置かれ、幻想的な雰囲気に包まれている。
 今、ミュリエルが暮らしている屋敷とは比較できないほど広く立派で優雅な邸宅と庭。立地から考えても、王族か公爵家のものであろう屋敷に、自分がいる事が不思議でたまらなかった。
 ただここでギュンターを待つようにと言われたミュリエルは、手持ち無沙汰から胸元に手をあてる。指先に触れた首飾りの感触に、自身を見下ろした。
 目を見張るような美しいドレス。豪華な装飾品。彼が用意してくれた品々は素晴らしいものだったが、きちんと着こなせているか不安で仕方が無かった。
(ほんの僅かでも、美しいと思って下さるかしら……)
 お世辞の上手い彼の事だから、不似合いだとしても歯の浮くような賛辞をくれるのは判っている。しかし、本当に欲しいものは言葉などではない。
 精霊の導きによって、ほんの数週間接した自分の事を、心の隅で良いから留めて置いて欲しいとミュリエルは密かに願った。
 かすかな木の軋む音に気付いて、ミュリエルは振り返る。ホールとテラスを隔てているガラス扉に手を掛けたギュンターと視線が絡んだ。
 いつも無造作に下ろしている髪を後ろに流した彼は、普段よりも凛々しく見える。完璧な正装では無いものの、白い折襟のシャツに細身のベストとトラウザーズを身につけたギュンターは、物語の挿絵に登場する紳士そのもので、ミュリエルの心を切なく焦がした。
 しばし、何も言わず見つめ合う。息苦しさを覚えるほどの胸の鼓動に、ミュリエルは身動きができなかった。
 やがて僅かに顔をしかめたギュンターが、視線を外した。
「……参ったな」
 辛そうに息を吐く彼の様子から、失望させたと感じたミュリエルは俯き唇を噛む。悲しくて、申し訳なくて涙がこぼれそうになったが、必死でこらえた。
「全く、貴女という人は私の予想をことごとく覆してくれる。こんなに美しく変身するなんて、反則ですよ」
「えっ……」
 耳に届いた言葉が理解できずに顔を上げる。いつの間にか、すぐ傍まで近づいていたギュンターに手を取られ、ミュリエルはさっと頬を染めた。
「食事まで、まだ間がありますから、少し庭を散策するとしましょう」
「あ……」
 拒否する理由の無いミュリエルは、胸の高鳴りにぼうっとしながら頷く。そのまま手を引かれ、庭へと降りた。
 芝の中に敷かれた狭い石畳を静かに進んでいく。淡いランタンに照らされた神秘的な景色。先を行く彼の背と、繋がったままの手を見つめたミュリエルは、自分に都合の良い夢を見ているような錯覚に陥った。
 少し行くと、石畳は丸く開けた場所へと繋がっていた。野外演奏会でも開けそうなほどの広さに、ミュリエルは目を見張る。
 緻密な細工の施されたベンチがいくつかと、装飾用に置かれた石柱。きちんと手入れされた草木や花々が、夜風に揺れていた。
「なんて立派なお庭……」
 ミュリエルの口からこぼれた感嘆の呟きに、ギュンターがくすりと笑った。
「それを聞いたら、家主は喜ぶでしょうね」
「家主?」
 ハッと我に返ったミュリエルは、彼を見上げる。夢のような雰囲気に呑まれ、すっかり失念していたが、ここが誰の屋敷で何故訪れたのかをまだ聞いていなかった。
「……ここは、アウデンルート侯爵家の別邸なのです」
「アウデンルート侯爵様……?」
 口に出して見たものの、長いこと王都から遠ざかっていたミュリエルは、その名に心当たりが無い。王城近くに居を構えている事からも、有力貴族であるはずなのに、全く聞いた事が無かった。
 不思議そうなミュリエルに気付いたギュンターが、優しく微笑んだ。
「ご存知無くとも仕方ありません。アウデンルート侯爵家は、私の故郷アディンの領主。一応、侯爵家として固有の名がありますが、他の貴族の方々は王家の縁戚としてしか見ませんから、家の名は余り出てこないのですよ」
 国の三大都市であるアディンを統治しているのが、王家の由来の方々だというのを思い出したミュリエルは、無知を恥じるのと共に、場違いな自分を知り震えた。
「いけませんわ。そのような高貴な方のお屋敷に無断で立ち入るなど……!」
「無断ではありません。ご当主の許可は得ています。言ったでしょう、魔法使いのお得意様は貴族階級の方々なのですよ。私は同郷という事もあり、彼とは昔から懇意にさせて頂いているのです」
「だからと言って……」
 簡単に納得できるような身分差では無い。地方の領主とはいえ王族の一員である方の屋敷に、爵位はあれど一介の役人の娘が寝泊りするのは恐れ多い事だ。
 何とかしてこの邸宅を辞去し、どこか他の場所に滞在できないかと頭を悩ませていたミュリエルは、繋がれていた手がするりと離れたのに気付いてギュンターを見た。
 視線の先の彼は、ミュリエルの前にうやうやしく跪き、頭を垂れる。
「申し訳ありません、ここへお招きしたのは私の我侭なのです」
「ギュンター様?!」
 突然の行動と謝罪に驚いたミュリエルが声を上げると、ギュンターは自嘲めいた笑みを浮かべた。
「どうしても、今宵ここで貴女とお逢いしたかった。もしかすると、二人きりで逢えるのはこれが最後かも知れませんゆえ」
「え……」
 最後という言葉に背筋が冷える。
「急な日程になってしまいましたが、明日の夜に催される舞踏会にお連れ致します。明日は昼から準備がありますし、こうしてお逢いできるのは、おそらく……」
 途切れてしまった言葉に言い様の無い寂しさを感じたミュリエルは、浮かぶ涙をこらえ、ぎこちなく微笑んだ。
「……ギュンター様」
「はい」
 まっすぐにこちらを見上げる緑色の瞳。かすかな夜風になびく薄茶の髪。優しく細められる目元も、すっきりとした鼻梁も、思わせぶりな事ばかり言う口も、全てが愛しい。
 初めて彼と出会った時には、ただただ不審で、こんな気持ちになるなんて思いもしなかった。後悔と罪の意識から泣き暮らしていた時のミュリエルには、知る事ができなかった想い。
 黒の服を脱ぎ、ベールを外せたのも、過去への後悔が薄らいだのも、あの農村から出る事ができたのも、全て彼のおかげ。
 だから……。
「ありがとう」
 心にあるありったけの想いを込めて、ミュリエルは感謝を伝えた。
 どんなに深く彼を想っても、ミュリエルはジラメネス家の娘である事から逃れられはしない。もし、継母と義姉に全てを託して出奔し、彼についていったとしても、貴族以外の教育を受けていない自分が足手まといになるのは判りきっている。それに、自分には彼に愛される要素など、どこにも無かった。
 魔法使いと、貴族の娘。
 貴族である事を誇りとせよと教えられてきたミュリエルは、生まれて初めて、自分の出自を恨んだ。
「……レディ。私と踊って下さいませんか?」
 差し述べられた掌に、自分のをそっと重ねる。
「ええ、喜んで」
 月光とランタンの明かりの中、虫の音だけが響く中庭で、ふたりは静かに踊り続けた。
 瞳から零れ落ちた一粒の涙は、暗がりに慣れた目に映るランタンの明かりが痛いせいだと思い込んだ。

   

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