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 ガラスの靴の行方

 4
 ギュンターが馬車を手配したという期日が翌日に迫った朝、ドレスの寸法直しが終わったと聞かされたミュリエルは、ドリーンによって最終の試着に呼ばれていた。
 普段からドレスを着ているとはいえ、完全な普段使い用で過度な装飾など無い。ゆえにコルセットもペティコートも要らなかったのだが、舞踏会に出るとなれば別だった。
 どこぞの工業先進国で作られたという新素材の硬くしなやかなコルセットをはめられ、その苦しさに目を白黒させたミュリエルは、次に出されたペティコートのボリュームに驚いた。実際につけてみたが動きにくい事この上なく、慣れが必要だと痛感した。
「これをつけて踊らなくてはならないの……よね?」
 幾重にも重なったペティコートの端をつまみ上げて、ドリーンを見る。ドレスに不備が無いかを確認していた彼女は、何を今更という顔をした。
 ギュンターとドリーンがしたらしい打ち合わせでは、1週間という短期間でドレスを新調する事は不可能なので、今ある物の寸法を調整して使う事になっていた。だから、父と継母の結婚式や披露パーティの時に作ったドレスに手を加えるのだろうとミュリエルは考えていた。
 ほつれや留め金を全て確認したドリーンが、メイドと共にドレスを運んでくる。てっきり見慣れた物が出てくると思っていたミュリエルは、その色に驚いた。
 一見、地味にも見える深い青。だが暗い色だからこそ、襟元や袖口、裾にあしらわれた純白のレースが美しく映えている。それに、銀色のラインと、ところどころに縫い付けられた透明のビーズ。足元まで隠れるスカートの部分は、脇から後ろに白の薄布が重ねられていて、腰にある大きなリボンから、後ろに長く広がっていた。
 促されるまま纏い、姿見の前まで移動したミュリエルは、また驚く。色ばかりか何から何まで見た事の無い、新しいドレスだった。
「ドリーン、このドレスは……?」
 自身を見下ろしとまどうミュリエルの後ろで、ドリーンが嬉しそうに顔を綻ばせた。
「ギュンター様がお持ち下さったのですよ。こちらにお出でになる前に、お嬢様に合わせて仕立てておいて下さったのだそうです」
「……ギュンター様が」
 精霊と通じている彼ならば、ミュリエルの容姿を知る事も、事前にドレスを新調する事も可能だというのは判っている。しかしそれでも信じられない。
 落ち着き無く瞳を彷徨わせたミュリエルは俯いて頬を染めた。
「サイズが判っていたと言っても、直接お嬢様に合わせてみた訳じゃございませんからね。お直しが間に合ってほっと致しました。どこか緩くはございませんか?」
 ドリーンの問い掛けに、無言で首を振る。
 彼が自分のためにドレスを用意してくれていたという事実に胸を震わせていたミュリエルは、声を発する事ができなかった。

 衣装合わせを終えたミュリエルはどこかぼんやりしたまま昼食をとり、何をするでもなく庭園へ出ると、眼下の麦畑を見下ろしていた。
 明日からの遠出の準備は使用人たちがしてくれているとはいえ、何もしないのは気が引けるし、来るべき舞踏会のためにダンスの練習を続けた方がいいのも判っている。だが胸に何かが詰まったように苦しくて、動く気になれなかった。
 ギュンターは隣町で待機しているという御者たちと最後の打ち合わせをすると言い、朝から出掛けている。
 麦畑の間を抜けていく街道へ目をやったミュリエルは、その先にある町を思い浮かべ、彼は今どこで何をしているのだろうと考えた。
 麦のなびく音と共に丘の下から吹き上がった風が、ミュリエルの金の髪と赤葡萄色のドレスを揺らす。よれてしまったスカートを正しながら、この1週間、黒のドレスを身につけていない事に気付いた。
(……私、どうしてしまったのかしら?)
 突然現れた強引な魔法使いに振り回されているうちに、いつの間にか罪の意識が軽くなっている。自分のした事を忘れてはいないし、愚かな自分を否定する気も無いが、ただ後悔し泣くばかりの日々に意味を見出せなくなっていた。
 だからと言って、継母や義姉と対決し、紋章を取り返すほどの気概はまだ無い。しかし自分の中の何かが変わったと感じていた。
 庭の真ん中に置いてある小ぶりのガーデンテーブルに手を添える。金属の冷たい感触を確かめたミュリエルは、同じ場所で触れ合った温かい掌を思い出した。
 あの時「一時の夢物語だ」と彼は言った。
 本当にあっという間の夢。明日の朝にはここを発ち、4日もあれば王都へと着くだろう。頻繁に行われている夜会のどれに出席するつもりなのかは知らないが、早ければ来週の末には屋敷に戻り、そこでギュンターの仕事は終わる。
 ……いや、もしかしたら舞踏会が終わった後、王都で別れるかも知れない。馬車があればミュリエルと使用人だけでも戻る事は可能だ。
 この国に、魔法使いである彼の仕事は無い。所属しているというギルドのある国へ帰るのなら、王都から直接向かう事も充分にありうる。
 ちくちくと痛む胸を押さえて、ミュリエルはガーデンチェアへ腰掛けた。無意識に漏れ出る溜息。彼と別れることが何故こんなに辛いのかが判らなかった。
「また、何か思い悩んでおられるのですか?」
 苦笑混じりの声をかけられたミュリエルは、ばっと顔を上げた。見れば、少し離れた位置にギュンターが立っていた。
「……み、見ていらしたの……!」
 思わず顔が火照る。心の内には立ち入れないと教えられてはいても、何を考えていたのかを知られた気がして震えた。
「ええ、すみません。すぐにお声をかけるべきだったのですが、憂う貴女もお美しいので見惚れておりました」
「……」
 僅かに口を尖らせたミュリエルは、ギュンターをじとりと睨め付ける。思わせぶりな事をさらりと言ってのける彼を、本当に罪作りな人だと思った。
「衣装合わせは、いかがでしたか?」
「あ、ええ……あの……ありがとうございます」
「?」
 首を傾げてはぐらかすギュンターに、ミュリエルは立ち上がり正式な礼を返す。
「ドレスを用意して下さったと、ドリーンから聞きました」
 ギュンターは一瞬、顔をしかめると、困ったように肩を落とし顎を撫でた。
「……私からというのは内緒にするように言ってあったんですがね」
「まぁ、どうして……?」
 もしドリーンがギュンターとの約束を守り、頑なにドレスの出所を明かさなかったとしたら、ミュリエルはあれを着なかったかも知れない。いくら立派で美しいドレスでも、素性の判らないものは身につけたくないからだ。
 それに、直接きちんと礼を伝えられただけでも、聞いて良かったと思っていた。なのに、なぜ彼は秘密にしたがるのだろう?
 不思議そうなミュリエルに近づいたギュンターは、辺りに人影が無い事を確認してから、耳元へ口を寄せた。
「仕立て屋以外で、未婚の女性のサイズを知っている男がいるのは、余り宜しくないのではありませんか?」
 どこか楽しそうな、笑いを含んだ囁き。
 ひゅっと息を呑んだミュリエルは、とっさに飛び退いて耳を押さえた。
「ギュ、ギュンター様っ!」
 真っ赤な顔で憤慨するミュリエルに、ギュンターは声を立てず肩を震わせる。掌で自身の口を覆った彼は笑いが治まらないらしく、苦しそうに身体をかがめた。
「くっ……いや、いや、からかったのではありませんよ? この先の貴女のご縁に傷でもついたら大変だと思いましてね」
「そんな心配は無用ですわ」
 どれだけ待ったとしても、複雑な事情のあるやっかいな娘を貰い受けたいなどと言う人が、この先現れる訳が無い。貴族でないギュンターには判らないのかも知れないが、説明する気にもならなかった。
 つんとそっぽを向いたミュリエルは、彼が微笑んだ気配に気付いて振り返る。
「では、その光栄にあずかれるのは私だけ、という事ですね」
「……もう」
 ドキドキしている事を悟られたくなくて、ミュリエルはまた顔を背けた。
 甘い言葉も、思わせぶりな態度も、臆面なくすらすらと出てくるのが憎らしい。言い慣れていると気付く事は、自分だけでは無いと知る事と同じだった。

 ギュンターが戻ってきたので、午後はまたダンスの練習かと思っていたミュリエルは、意外にも散策に誘われた。
 極力、人前に姿を晒したくないミュリエルは気が進まなかったが、使用人たちとギュンターにどうしてもと乞われれば、断り切れなかった。
 以前つけていたベールの代わりに、つば広の帽子を目深に被り、更に日傘で姿を隠すようにして外へと向かう。麦畑の間の道をのんびりと行くギュンターの後ろを、ミュリエルは周りを気にしながら歩いていた。
「やはり、ここは良い土地ですね」
「え?」
 唐突なギュンターの言葉に、ミュリエルは何の事かと首をかしげる。彼は腰をかがめ、道の脇に広がる麦の穂を掌に載せた。
「このように、たわわに実る麦を初めて見ました」
「あ……ええ、この辺りは穀倉地帯として有名ですから。ギュンター様の故郷では麦は珍しいのですか?」
「いえ、領地でも南の地域では栽培しているのですが、やはり気候が合わないようで量がさほど取れないのです」
 魔法使いという職業や、北の土地に多い茶色の髪から、ギュンターが北方の出身なのは判っていたが、そんなに寒い所だとは思っていなかった。
「随分と、お寒いところなのですね」
「そうかも知れません。私は慣れているので気になりませんが……アディンという北の国境の街をご存知ですか?」
「もちろん、存じておりますわ。と、言っても、参ったことはございませんけれど」
 代々王都での勤めを果たしてきた貴族家に生まれたミュリエルは、ここに来るまで王都から出たことが無い。ゆえに知識として街の名や位置は知っていても、どんなところなのか想像がつかなかった。
「私はもともとアディンの生まれなのです。麦は取れませんが、放牧や織物、染物が有名で、それらの売り買いが盛んな都市です」
 国境都市アディンは王都から見てかなり遠方の山岳都市だが、隣り合った国々との交易で発展していると聞く。王都と、南にある海運都市、それに北のアディンは、それぞれ王家とその出身者によって統治されている事からも、この国の3大都市と数えられていた。
 明るい表情で嬉しそうに地元の事を話すギュンターを、眩しい思いで見つめる。ミュリエルは素直な気持ちで、彼の故郷を見てみたいと思った。
「素敵なところなのでしょうね」
「ええ。雪を頂いた青い山々と、麓の牧草地には牛や馬、羊が放牧されています。街中には繊維業者が多く、衣服に関しては王都に引けを取らぬ程、華やかですよ」
 子供のように楽しげに自慢をする彼の様子に、ミュリエルは柔らかく微笑む。絵画のような美しい街並みが目に浮かぶようだった。
「いつか、行ってみたいものです」
「ああ、それは良い。その時は私がお連れ致しましょう」
 にこにこと笑うギュンターに気付かれないように、そっと溜息をつく。
 人目をはばかる今の生活では、旅行など目立つ行動はできないし、資金も無い。かといって、紋章を取り戻し伯爵家の跡取りとなってしまえば、結婚や世継ぎ、執務の責任から出歩く暇など無くなる。
 ジラメネス家の娘である限り、永遠に叶わない願いだと気付いたミュリエルは、手に持った日傘の柄をぎゅっと握り締めた。
(……全て、捨ててしまえたなら……)
 何も考えず、何も持たないただのミュリエルとして、このまま連れて行って欲しいと願ったら、彼はどうするのだろう。
 未来を見据えて行動するように諭す? それとも、願いを叶えよという精霊に従って連れて行ってくれる?
 本当に自分の夢を叶えてくれようとしているのは、彼でなく、精霊なのだと再認識したミュリエルは、胸の痛みを覚えて立ち止まった。
 急に止まってしまったミュリエルに気付いたギュンターが、振り返りこちらを覗きこんだ。
「どうされました?」
「……ギュンター様は、なぜ私の願いを叶えて下さいますの? 精霊に協力する事に、見返りはあるのですか?」
 自分でも愚問だと気付いている。答えの判り切っている問い掛けに意味など無いと、ミュリエルは内心で自嘲した。……それでも、聞かずにはいられない。
 突然ぶつけられた疑問に、ギュンターは一瞬ぽかんとした。が、すぐに何かに気付いたようにふっと目を細める。
「正直に申し上げると、全く見返りが無いという事はありません。事実、こちらに来るまでは、打算で動いておりました」
「そう、ですか……」
 当然の答えに息を呑んだ。
「しかし、今は精霊たちと同じ。ただ純粋に貴女の幸せだけを願っている一人ですよ」
 向けられた優しい答え。自分が傷つかないように「利益だけでは無い」と付け足してくれた彼の配慮が、嬉しくて哀しい。
 ミュリエルは苦しい胸の内をごまかすために、わざと明るく笑った。
「感謝致します」
「礼は無用です。貴女の笑顔が見られるだけで、私たちは幸せなのですからね」
 ギュンターの言葉に、ミュリエルは苦く微笑した。
 どこまで本当かは判らないが、彼がそう望むのなら、いつも朗らかに笑っていようと心に誓う。どのみち期間限定の夢物語。ミュリエルにできるのは、ただ笑顔で相対し、彼を困らせないように振舞う事だけだった。

   

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