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 ガラスの靴の行方

 3
 庭園でギュンターと相対したとき、つい流されて彼の言うまま頷いてしまったミュリエルだったが、時の経つに従い、やはり無意味だと思うようになった。しかし彼から詳細を告げられた使用人たちは大喜びし、すっかりお祭り気分の今となっては「やっぱり止める」などとはとても言い出せなかった。
 ミュリエルの屋敷へ来る前から用意をしていたというギュンターは、一週間後に御者と警備兵を乗せた馬車が来ると言い、それまでドレスの寸法直しや、ダンスの特訓をするようにと宣言した。
 伯爵令嬢として教育されたミュリエルは、もちろんダンスの指導も受けているが、父を亡くしてからというもの一度も踊っていない。足運びや速さなどの基礎は判っていても、数年のブランクは馬鹿にできず、身体がついていかなかった。
 そして……自分の身体がなまっている事さえ、彼に見透かされていたのが悔しかった。

 練習の合間の休憩時間。ぎしぎしと痛む身体をソファに沈め、隣に立つ男を見上げた。
 王都ならいざ知らず、こんな田舎にはダンスの練習相手ができる人間などいない。ミュリエルは嫌々ながらも、踊れるというギュンターに手伝って貰っていた。
 朝からの練習で疲れ切っている自分と違い、彼は壁に寄りかかって涼しい顔をしている。
「……随分と、体力が、おあり、ですのね……それに……魔法、使いって、ダンスも、なさるの?」
 ぜいぜいと呼吸をしながら問い掛けると、汗だくでぼろぼろなミュリエルの姿が可笑しかったのか、彼は口元を押さえてくっと笑った。
「まぁ、体力はある方だと思いますよ。魔法使いというのは意外に色々な要求をされるのです。それに、お得意様は貴族階級の方が多いですからね。一通りダンスや礼儀作法を勉強していないと、やっていけません」
 庭園での貴族式エスコートが様になっていたのを思い出したミュリエルは、納得すると同時に、あの時の恥ずかしさも思い出し俯いた。
「そ、そう。私はてっきり、力のつく魔法でも、あるのかと……」
「無いとは言いませんが、魔法は一時的にしか効かないのです。原始的な方法でも実際に身体を鍛えた方が、長い目で見たら有用な場合もあります」
「……」
 暗に「だから魔法に頼らず、練習しろ」と言われた気がして、ミュリエルは口をつぐむ。
 彼の口車に乗せられて社交場に出る事にはなったものの、終わればまたここへ戻り、これまで通りの静かな生活をするつもりだった。
 舞踏会の為に体力をつけたとしても、たった一度きりなのだから長い目で見る必要など無いと言いたかったが、自分を心配してくれているドリーンや他の使用人たちに知れるのが怖くて口にできなかった。
 ミュリエルは溜息をつくと、ドリーンが用意しておいてくれた飲み物を口に含んでから立ち上がる。が、朝から何十回とステップを踏んだせいで、膝が笑ってしまっていた。
 ふいに膝と足首の力が入らなくなり、ミュリエルの身体が、がくんと傾ぐ。ハッとした次の瞬間には、ギュンターの力強い腕に支えられていた。
 突然の急接近に驚いたミュリエルは自身に非があるのも省みず、とっさに身を引いた。しかし逆に抱き締められるようにして、引き寄せられる。驚きと羞恥で顔を上げたミュリエルは、彼に苦笑いを返された。
「練習熱心なのは結構ですが、無理は禁物です。それに……男に不慣れでも、こういう時は頼った方がいい」
「あ……ご、ごめんなさい……」
 自分でも、どちらに対してなのか判らないまま謝罪し、目を逸らす。背中に回された腕と距離感に顔が火照った。
 ギュンターはふっと微笑むと、ミュリエルの背を支えるようにして静かにソファへ座らせた。それから、緊張で強張ったままのミュリエルの前に跪く。
「失礼、レディ」
 唐突な断りの言葉にきょとんしたミュリエルは、彼の手がいきなりドレスの裾を捲り上げ、ふくらはぎを撫でたのに驚いて声を上げた。
「きゃあっ!!」
「……ふむ、単なる筋肉の疲労ですね」
「な、な、なにをなさるのっ!」
 震えながら顔を真っ赤にして憤慨するミュリエルに、ギュンターは優しく笑いかける。
「魔法使いは医術も嗜んでおります。後で、疲労を和らげる薬湯をお作りしましょう」
「……」
 他意の無い真っ直ぐな彼の瞳に、ミュリエルは溜息をついた。
 慣れないせいで、意識しすぎだとは判っているが、酷く疲れる。身も心も疲労困憊なミュリエルは、項垂れたまま小声で礼を言うのが精一杯だった。

 午前中の練習だけで歩くのが困難なほど疲れてしまったミュリエルは、午後の練習を取り止め休む事にした。
 身体の疲労もだが、精神的な疲れが辛い。伯爵令嬢として貞淑を常にせよと教え込まれたミュリエルは、これまで教師や使用人、牧師以外の男性と接する事がほとんど無かったし、あんな風に足を触られる事も無かった。
(……いくら医術の心得があるといっても、不躾だわ)
 自室の椅子に納まったミュリエルは、密かに憤慨する。彼の振舞いをいちいち気にしてしまう事も、全く不愉快だった。
 こんな時は心を落ち着けるために、聖典を読むに限る。敬虔な神教徒であるミュリエルは、辛いときはいつも聖典を眺め過ごしていた。
 膝の上に聖典を広げ、目で追っていく。神と精霊のはじまりのくだりまで読み進んだミュリエルは、顔を上げ窓の外の空を眺めた。
 精霊の声が聞こえるというのは、どんな感じなのだろう?
 ただ人のミュリエルには判らない世界。もし、彼らと会話ができるのなら、天にいる両親の想いを知る事ができるのだろうか……。
 優しかった父と母の顔が青空に浮かんでは消える。涙を浮かべたミュリエルは、遠慮がちなノックの音に気付き、慌てて目頭をぬぐった。
「どうぞ」
「失礼致します」
 返事に続いて入ってきた人物にミュリエルは目を見張る。そこにはティーセットを手にした男性が立っていた。
「ギュンター様……」
「薬湯をお持ちしました。お加減はいかがですか?」
「あ……ええ、先ほどよりは大分良いです。ありがとう」
「そうですか。良かった」
 気が動転していたから聞き流してしまっていたが、確かに彼が「薬湯を作る」と言っていたのをミュリエルは思い出す。それにしても、直接持ってくるとは思っていなかった。
「メイドに運ばせれば宜しかったのに……」
 自室に彼がいるという事にどぎまぎしながらミュリエルが答えると、ギュンターはいたずらを仕掛けた子供のようににやりと笑う。
「貴女と2人きりになれるチャンスを、私がみすみす逃すとお思いですか?」
「なっ……」
「まぁ、そうでなくても、ドリーンさんとメイド嬢はドレス直しで忙しいようですがね」
 彼お得意の軽口だと悟ったミュリエルは、俯いて頬を染めた。
 他の人を知らないが、このくらいの年代の男性は皆こんな思わせぶりな事を言うのだろうか。ミュリエルは恋愛や結婚をする気が無いから良いようなものの、言葉の通りに受け取ってしまう女性がいそうだと思った。
「ギュンター様はいつもそのような冗談を、ご婦人方におっしゃっていますの?」
「これは心外な。冗談では無く本気で言っておりますし、こんな事を言うのは貴女だけです」
 そう言う彼の笑顔が、妙にうそ臭い。ミュリエルは冷ややかな視線を向けたまま、薬湯を受け取り礼を述べた。
 ほんのりと暖められたカップから漂う甘い香り。覗き込んだ先の白い液体には見覚えがあった。
「これは……」
「ええ、牛の乳です。それに砂糖を少しと、疲労に効く薬草をいくつか煮出してあります。よく効きますよ」
 息を吹きかけて表面を冷ましてから、一口含む。牛の乳独特の優しい香りと甘さが口に広がった。
「おいしい」
「良かった」
 薬湯というのは総じて、薬草を煎じた青臭くて苦い汁だと思っていた。
 ドリーン以外には内緒にしているが、実はミュリエルは薬湯が苦手だ。病や怪我を治すためと知っているし、貴族の娘がはしたなく嫌がる訳にいかないので、いつも我慢して飲んでいた。
「こんな薬湯もあるのですね」
「これは私の故郷にだけ伝わる薬湯なのですよ。この辺りでは湯で作るらしいですが、苦いものはお好きでないと聞いたので止めました」
 精霊経由で筒抜けとはいえ、自分の好みまで知られていた事に驚く。
 他所の国で魔法使いが重用されているという事実も、逆にこの国の先人たちが彼らに頼らないと選択したのも頷けると思った。良くも悪くも有能過ぎるのだ。
 ミュリエルは薬湯を舐めながら、ちらりとギュンターを見上げる。
「あの……お聞きしたい事があるのですけど」
「私に判ることなら、何なりと」
 うやうやしく会釈した彼を見つめ、ミュリエルはきゅっと口元を引き締めた。
「精霊というのは、天界にも通じているのでしょうか?」
 口にした内容に驚いたらしいギュンターは、僅かに瞼を下ろし、表情から微笑みを消した。
「……それを聞いていかがされます? ご両親の反魂でも願われますか?」
 新大陸の国の中には、死した者を生き返らせる反魂の法を使う呪術者がいるとも聞く。しかし、ミュリエルが望むのは、そのようなおぞましいものでは無かった。
「まさか。もし通じているのなら、私のふがいない振舞いに対する謝罪を伝えて欲しいと思ったのです」
「……残念ですが、通じているかまでは私にも判りかねます。精霊たちは天界について何も語りません。おそらく人が知る事では無いのでしょう」
「そう、ですか」
 魔法使いが実在するとしても、そんなに都合のいい方法があるとは最初から思っていない。もしかして、と思って聞いてみただけ。しかし、成人の歳を迎えた大人がするには、余りに幼稚な質問だったかも知れないと後悔した。
 気まずさに視線を泳がせていると、サイドテーブルを挟んだ向かいの席に、ギュンターが断りも無く腰掛けた。
 驚いて見れば、優しいまなざしを返される。淑女の自室で勝手に着席するなど、本来は無礼だが、咎める気にはならなかった。
「私も、いくつか知りたい事があるのですが、宜しいですか?」
「ええ……でも、私がお答えできる範囲に、ギュンター様の知らない事がありますの?」
 他人に隠し通してきた事のほとんどを見透かされているミュリエルは、意外な心持ちで彼を見る。
 ギュンターは眉を上げると、大げさに肩を竦めてみせた。
「おや、随分と買い被っておられる。精霊は事実と言葉を見聞きしますが、人の心の内には立ち入りません。私は貴女のお考えが知りたいのです」
「考え?」
「私と庭園でお話した時、貴女は自分には希望など無いとおっしゃった。態度からそれが本心だというのは判りますが、望めばいくらでもあるはずです。失った紋章を取り返す事も、貴女をこんな目に遭わせた者への復讐も、願えば叶う。なぜ、それをなさらないのです?」
 一番暴かれたくないところを突かれ、ぐっと言葉に詰まる。彼の視線を避けるように俯いたミュリエルは、やっとの事で声を絞り出した。
「……それは……どうしても、お答えしなければなりませんか?」
 ギュンターに知られるのが怖いのでは無い。口にして、自分のした事をもう一度振り返るのが、耐え難い痛みとなってミュリエルを苦しめる。
 声だけでなく、全身を小さく震わせていたミュリエルは、伸ばされた彼の手が自分の頬に触れたのに気付いて顔を上げた。
「貴女がお辛いのなら言わなくても構いません。でも私は、美しい瞳の中に燻っている憂いの理由を知りたいのです」
 まっすぐに重なる視線。透き通る緑の瞳に射抜かれたミュリエルは、顔を背けることもできずに、ほうっと息を吐いた。
 これまでの想いと哀しみが湧き上がる。孤独を恐れた子供の頃の自分は、まだ心の隅で膝を抱えてうずくまっていた。
「……紋章を取り返す資格は私にはありません。盗まれたのではなく、私が、この手で、義姉上にお渡ししたのです。お父様との約束を違えて……」
 今でもはっきりと思い出せる、浅い呼吸と共に伝えられた父の最期の声……。
 仕事先で馬車の事故に遭った父は、すぐに屋敷へ運び込まれた。医師も手の施しようが無いほど酷い状態ではあったが、枕元にミュリエルを呼び紋章を手渡すと、この先何があっても肌身から離してはならないと言い残した。それはミュリエルに託された遺言。永遠の約束。
 しかしミュリエルはあっさりとその言いつけを破った。心の弱さゆえに。
「その件は存じております。紋章が無く社交界にも出られない義姉上殿に頼まれ、お貸ししたのでしょう」
ギュンターの言葉に、ミュリエルはただ静かに頭を振った。
 いくら貴族とはいえ紋章を直接身につけて参加する舞踏会など数年に一度、王族が主催する時だけだ。他の場では紋章を印として押した証書だけで事足りる。
 当時まだ成人していなかったミュリエルも、当然その事には気付いていたし、義姉には証書を渡すつもりだった。
「すぐ返すから証書ではなく紋章を貸して欲しいと言われて……いいえ、あのまま返して下さらないんじゃないかと、本当は思っていたのです」
「では、なぜ……」
 驚くギュンターの声が心に刺さる。堪え切れなくなった感情が、涙となって瞳からこぼれ落ちた。
「怖かったの。どんな方たちでも、独りにされるよりは傍にいた方がいいと、思っていたの。紋章が取り上げられるかも知れないのは気付いていたけれど、もっと嫌われたらと思うと、どうしていいか判らなくて……」
 幼い頃に母を亡くし、突然父をも失ったミュリエルは、孤独を恐れて継母と義姉に縋った。
 貴族の娘としてただ真っ直ぐに育てられた当時のミュリエルには、他人の表裏を察知する事も、疑う事もできず、人が変わったように辛くあたる継母と義姉に傷つきながらも慕い、波風を立てないように生活し続けるしか無かった。
「だから……仕返しなんてできない。紋章を失ったのは、あの方たちの本心に気付けなかった私のせい。本当に復讐したいのは、愚かな私自身よ……!」
 溢れる涙を隠したくて、両手で顔を覆う。
 こぼれてしまいそうな嗚咽を必死で飲み込んだミュリエルは、椅子と床の触れ合う硬い音を耳にした次の瞬間、温かいものに包まれていた。
「……そんなに、ご自分を責めてはいけない」
 間近から聞こえた声にハッとする。ミュリエルは椅子ごと彼に抱き締められているのを知った。
 未婚の、恋仲でも無い男女が、このように触れ合う事が良くないのは判っていた。しかし、抗えない。抗いたくなかった。
 身体を包む腕の温かさが、自分の罪に許しを与えてくれる気がする。それが単なる錯覚だと知っていても、今は彼に頼っていたかった。
「もう何も悩まずともいい。貴女は充分に苦しまれた。罪はあがなったのです……後は私に任せなさい。貴女をお救いする事が、私の務めなのですから」
 神の福音のように頭上から降りてくる声。大きな手がゆっくりと頭を撫でるのに気付いたミュリエルは、ギュンターに身体を預け、そっと瞳を閉じた。
(……何故かしら。彼の事は無条件に信じられる)
 優しい温もりに護られながら、ミュリエルはギュンターの存在を不思議に感じた。今更、彼を疑ってはいない。だが、精霊に言われたからといって、ここまで親切にしてくれる理由が判らなかった。
 王都に向かうまでに、彼の真意を聞いてみたいと思う。舞踏会が終われば、もう会えないと言う事は気付かないふりをした。

   

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