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 シンデレラ・ミッション

 2

 雪こそ降っていないものの、十二月の夜風は痛みを覚えるほど寒い。
 駅の入り口の近くに立つ凛は、今日のために用意したファーコートの襟を手で寄せて、はあっと息を吐いた。
 営業課長に引っ張られて二次会に向かった篠原は、帰宅するためにもうすぐここを通るはずだ。
 堂々と「妻を溺愛している」と言ってはばからない営業課長は、二次会にかならず時間制限をつけて、二十二時にはお開きになるよう調整する。妻が眠る前に家へ帰り、顔を見なければ落ち着かないらしい。
 同僚の中にはそのあと三次会に繰り出す酒豪もいるそうだが、篠原はいつも二次会までで帰宅するのだと以前に言っていた。
 凛はぐるりと辺りを見まわし、篠原の姿を探すのと同時に、全が近くにいないかをチェックした。
 全は凛にメイクをしてくれたあと「夜に女ひとりでいるのは危ない」と主張して、用事が終わるまで待っていると言い出した。
 心配してくれるのは素直にありがたいと思うが、男に告白してふられる場面を弟に見られるのは気まずい。しかも、そうやって片想いを終わらせた凛が、平気でいられる保証はなかった。
 実る可能性のない想いを、告白することで諦めると決めたのは凛自身だ。
 しかし当然、失恋はつらいし悲しい。強がって平静を装っても、全に労りの言葉をかけられたら、きっと取り乱してしまうだろう。弟の前で泣き崩れるのは、姉としてみっともなさすぎる。
 凛はひとりで大丈夫だと言い張り、なんとか全を先に帰そうとしたが、結局は「少し離れた場所で待っている」と返されてしまった。
(……困ったな)
 短く溜息を吐いて、凛は視線を前方へ戻す。
 全がどこで待っているのかは知らないが、できるだけ見えない場所であるように願った。
 自身の吐き出す呼気が寒さで煙り、風に流されていく。一瞬、白く染まった視界が、だんだん透き通っていくなかで、凛は正面から向かってくる人物に気づいた。
 細身の引き締まった身体に、かっちりしたトレンチコートと暗い色のスーツを纏った男は、飲み会のあととは思えないほどしっかりした足取りで歩いている。
 それが自分の想い人だと気づいた途端、凛の心臓は大きく跳ね上がった。
(篠原さん……)
 せわしなく拍動する心臓を、服の上から押さえる。手のひらに触れたコートをキュッと握り締め、凛は前方の篠原を見据えた。
 無意識に強いまなざしを向けてしまっていたのだろう。足を止めた篠原が、不思議そうな表情で凛を見返してくる。
 凛は震える足に力を込めて、一歩前に踏み出した。
「あの、篠原さん、ですよね」
「えっ? うん、そうだけど……」
 篠原はひどく驚いたように目を瞠り、ぱちぱちとまばたきを繰り返す。篠原にすれば見知らぬ女にいきなり呼び止められたのだから、困惑するのも無理はなかった。
 一度大きく深呼吸をして、凛は篠原を見つめ直した。
「お邪魔をして、すみません。どうしても言いたいことがあって……」
 緊張で瞳が潤み、唇が震える。告白をやめて逃げてしまいたい。
 しかし、想いを終わらせるために、恋したことを忘れないために、凛は声を発した。
「私、あなたが好きです」
 キュッと篠原の身体が強張り、息を詰めたのがわかった。
 誰にでも優しく誠実な篠原だからこそ、こんなまるきりの他人から告白されても受け止めてしまうのだろう。
 それが嬉しくて、申し訳なくて、凛は静かに頭を下げた。
「ごめんなさい。ただ好きだって伝えたかっただけで、付き合ってほしいとかじゃないんです。知らない人間にそう言われても、困るだけだってわかっていますから……」
 篠原の負担ができるだけ少なくなるように、凛は言葉を重ねる。身勝手な想いを押しつけてしまったことに対して、いまさら後悔の念が湧き上がってきた。
「あの、本当に気にしないでください。聞き流して、忘れてもらっていいので」
 篠原がなんの反応も示さないので、ますます不安が募る。
 おそるおそる顔を上げた凛は、少し離れていたはずの篠原が、すぐ目の前に立っていることに気づいて飛び上がった。
 その表情は、これまで見たことがないほど厳しい。
「え……し、篠原さ」
「そう言われても、忘れられないよ。というか、忘れたくない。さっきの告白は、冗談とか、からかっているとかじゃないんだよね?」
 言葉を遮るように問いただされて、凛の心はギュッとすくみ上がる。
 眉間に皺を寄せた篠原は、はっきり言って怖い。直接「迷惑だ」と非難されるのも恐ろしい。しかし凛は自分の想いに嘘をついてごまかすことができなかった。
「……はい。すみません」
 篠原は凛がうなずくのを見届けて、はあっと深い溜息を吐く。
 思わずこぼれそうになった涙を隠すために顔を背けたところで、凛の腕が強く掴まれた。
「俺のことが本当に好きだって言うなら、一緒にきて」
 驚いて声を上げるより早く、篠原は凛の手を引いて歩きだす。
 いったい何が起きているのかわからない。呆然とした凛は篠原に引きずられるようにして駅へ連れ込まれた。
 篠原からICカードを出すように言われ、混乱したまま改札を抜ける。
 誰かに名前を呼ばれた気がして後ろを振り返ると、改札の脇に立つ柱の陰から全が小さく手を振っていた。
 全はしてやったりという顔で左手に持った携帯電話を示し、右手の人差し指をくるくるまわしている。何か問題があれば電話をかけてこいという意味だろう。
 問題ならとっくに起きている。別人になりすまして告白し、後腐れなくふられて帰宅する予定だったのに、何故いま凛は篠原に手を引かれているのか。どこへ向かっているのか。
(どういうことなの……?)
 足早に進んでいく篠原には疑問をぶつける隙さえない。揺れるトレンチコートの背を見ながら、凛はただオロオロし続けていた。

 緊張と混乱を心の中に押し込め、身を固くしていた凛は、まだ新しいマンションの一室に引き入れられた。
 中はリビング兼寝室に水まわりがついているという、典型的な単身者用住宅のようだ。
 整頓されてはいるものの、ハンガーに掛けられた衣類や、読みかけの雑誌が置かれているところに生活感が見える。ここが篠原の自宅だと気づいて、凛はさらに身を縮めた。
 いくら恋愛経験が乏しくても、夜遅くに男性の家に招かれることの意味はわかる。しかし誠実な篠原が、見知らぬ女であるはずの凛と、行きずりの関係を望むとは思えなかった。
「あの、なんで、ここに?」
 凛は部屋の入り口に立ったまま、たどたどしく問いかける。
 荒っぽい仕草でコートとジャケットを脱ぎ捨てた篠原は、ネクタイをはずしながらクッと笑った。
「なんでって……男が女を家に連れ込む理由なんて、わかりきっているでしょう」
 どこか皮肉っぽい物言いに、凛は薄らと寒気を覚えた。理由はわからないが、篠原はひどく機嫌が悪いらしい。
 もし篠原が自分を慰み者にしようとしているとしても、凛は構わなかった。一度だけでも触れ合えるのなら、嬉しいとさえ思う。
 しかし彼の機嫌を損ねて、怒らせるのは怖い……。
 また混乱の極みに落とされ硬直していると、近づいてきた篠原に抱き上げられた。
「あっ」
 浮遊感に慄いているうちに、ベッドへと下ろされてしまう。
 とっさに起き上がろうとしたところで、馬乗りになった篠原が凛の両手首を押さえつけた。
 密着する篠原の気配に、凛はぶるりと震える。緊張と羞恥のせいで顔が火照り、目に涙が浮いた。
「し、篠原さん……」
 縋るように篠原の名を呼ぶと、呆れ混じりの吐息が降ってきた。
「……まったく、もう。そうやって泣くくらいなら、俺をからかって煽ったりしないの。本当にこのまま喰っちゃうよ、石野さん?」
(え……えっ!?)
 隠していたはずの名前を出され、凛は大きく目を見開く。涙がこぼれ落ちるのも構わずに篠原を見上げると、気まずそうに視線をそらされた。
「エイプリルフールでもないし、ハロウィンは終わったし、なんのイタズラ? それともバツゲームか何か?」
「ち、違いますっ。けど、なんで、私だって気づいて……!?」
 うろたえた凛はブルブルと首を横に振る。篠原はもう一度、溜息を吐いて、凛の耳元に口を寄せた。
「確かに今の石野さんは普段と雰囲気が違うけど、声は同じだからね。それに、耳たぶのほくろも同じだった。……知ってる? きみのここに小さいのがみっつ並んでいるって」
 実際に触って確認させているつもりなのか、篠原は凛の耳殻を舐め上げる。ゾクゾクした震えが背中を駆け抜け、凛は首をすくめて息を呑み込んだ。
「んっ」
 心臓の鼓動が激しくて、胸が痛む。凛は覚えてしまった淡い快感をなんとかやり過ごし、篠原の言葉を思い返した。
 左耳の裏にみっつ並んだ特徴的なほくろがあることは、凛自身も知っていた。耳たぶを前に倒さなければ鏡に映らないから、普段は気にしていないが、目ざとい人たちに何度も指摘されてきたことだ。もちろん、家族からも。
 ふいに、駅で見た全の姿が浮かんできた。あの時やけに得意げな表情をしていたのは、ほくろのせいで凛の素性がバレると見越していたからかもしれない。
(……そういえば、髪を整えてくれた時、わざと私の耳が出るようにしていたかも……)
 全の思惑について考え続けていると、突然、凛の脇腹に冷たいものが押し当てられた。
「ひゃあっ!?」
 叫び声を上げて見れば、いつの間にか身を起こしていた篠原が、凛の着ているセーターの裾から手を入れていた。凛の肌を撫でているのは、篠原の掌らしい。
「ああ、ごめん。冷たかったかな」
「や、あ、あの、何、を……?」
 驚き過ぎて声が途切れる。篠原は手を除けないままで凛を見下ろし、不思議そうに首をかしげた。
「ん? きみの服を脱がそうとしてる。さっき『本当に喰っちゃうよ』って言ったからね」
「えっ」
 名前を当てられたせいで混乱し、流してしまっていたが、確かに篠原は凛に向かってそう言っていた。しかも冗談ではなかったようだ。
 目を剥く凛の前で、篠原はにっこりと微笑む。一瞬その笑顔に見惚れ、抵抗するのが遅れた隙を狙って、インナーごとセーターをめくり上げられた。
「わあぁっ!!」
「うん。いい眺め。このピンクの下着、可愛いね。下もお揃い?」
 襟元に寄せられたセーターで視界が遮られていても、篠原が何を見ているのかは言葉でわかる。
 凛は腕をまわして胸元を隠そうとしたが、篠原によってあっさりと払われてしまった。
「み、見ないで」
 篠原のすることに嫌悪や恐怖は感じない。ただ、恥ずかしい。
 凛が弱々しい声で懇願すると、篠原は少しのあいだ黙って何かを考え、はだけた服を元通りに直してくれた。
「起きて。話をしよう」
 凛の目の前に、篠原の手が差し出される。僅かでも篠原と触れ合ったせいで高揚し、息を弾ませている凛にはありがたい行為だった。
 お礼を口にして、引き起こしてもらう。ベッドの上で向かい合った篠原は、ゆるい笑みを浮かべているものの、どことなく寂しそうな空気を纏っていた。
「……どうして俺を騙そうとしたのか説明してくれたら、これ以上のことはしない。ちゃんと家に帰してあげるから、全部話して?」
 思わず「話さなければ、続きをしてもらえるの?」と訊いてしまいそうになり、凛はぐっと唇を噛む。そんなことが言える状況でないのは、よくわかっていた。
 凛は自己嫌悪に陥りながら、小さく頷く。
 自分の恋心が篠原の負担になるようなことはしたくなかった。職場での関係を壊したくもなかった。それでも膨れ上がる気持ちが押さえきれなくて、全にまで協力を頼んで……。
 きっとすべてを知った篠原は、凛の想いをひどく迷惑に思うだろう。
(ごめんね、全くん。ごめんなさい、篠原さん)
 巻き込んでしまったふたりに向かって心の中で謝り、凛は自分の計画を話し始めた。

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