シンデレラ・ミッション 1 よくある大衆居酒屋の二階席。 少し早めの忘年会のために会社が貸し切った会場を、石野 凛(いしの りん)は見まわした。 貸し切りといっても専用の宴会場ではないから、六人掛けのテーブル席がずらりと並んでいるだけだ。 他人の視線を遮るための衝立は外してあるものの、それぞれの部署ごとに分かれて座っているおかげで、全体的に盛り上がるというよりは、少人数のささやかな集まりのような雰囲気だった。 凛は自身の在籍している第二事業部営業課の席に座り、他のテーブルからチラチラと送られてくる視線に気づかないふりをしながら、内心で溜息を吐いた。 注目を集めているのは、間違っても凛ではない。視線の送り主は別部署の女性社員たちで、目的は凛の隣に座る同僚の篠原 明生(しのはら あきお)だった。 篠原はいわゆるイケメンだ。 爽やか系の小綺麗な顔に、すらりとした体型。学生の頃は水泳部に所属していたらしく、いまも泳ぐのが趣味だとかで、服の下は流行りの細マッチョに違いないと噂されていた。 塩素焼けなのか、淡い茶色の髪をいつも綺麗に纏めて、ダークグレーのスーツを着た篠原の姿は、そのまま飾っておきたいくらい格好いい。 飛び抜けて仕事ができるわけではないが、勤務態度は真面目で、性格も優しく謙虚。「二十七歳、独身、彼女なし」と公言している篠原は、社内の王子様として、いつも女性社員に追いかけられていた。 (それにしても、今日のまなざしビームは一段と凄いなぁ……) 年に一度の忘年会という特別な場が、女性たちの気合いを増しているのだろう。 しかし彼女たちは熱っぽく篠原を見つめても、近づいてはこない。こういう飲み会でアプローチをしようものなら、篠原の直属の上司である営業課長に追い払われてしまうからだ。 営業課長は今でこそ既婚者として恋愛対象外のポジションに落ち着いたものの、独身の頃は篠原と同様に人気があり、なかなか大変な思いをしたらしい。 そういう色恋沙汰にあまり縁のない凛にはピンとこないが、モテすぎるのは意外につらいことのようだ。 同じ苦労をしている部下を見かねた営業課長は、まるで年頃の娘を守ろうとする父親さながらに篠原をかばうようになり、飲み会の席で群がる女性をあの手この手で払い除けていた。 営業課長がそんな調子だから、当然、同じ部署にいる他の社員も協力せざるをえない。 必然的に篠原の周りは男性社員で固められ、何かの理由で男性が足りない時には、凛が彼の隣に座ることになっていた。 気の置けない友人に言わせると、凛には若い女性にあるはずの「色気」というものがまったく感じられないらしい。 小さくて細い目を覆う眼鏡と、きっちり縛った黒髪、ナチュラルすぎるメイク。平均以下の地味顔を持つ凛は、実年齢が二十五歳とは思えないくらい枯れている……そうだ。 年頃の女性にとってあるまじき事態なのだろうが、育ってきた環境と経験のせいで、おしゃれをすることに消極的な凛は、自身を変える努力をせずに悪評をそのまま放置していた。 結果的に、凛はライバルになりえない行き遅れ候補として、篠原に想いを寄せる女性たちからスルーされる、安全牌な存在になった。 ふとした瞬間に篠原と目が合う。 物言いたげな視線を向けられた凛が、僅かに首をかしげてみせると、篠原は「ごめん」と囁いて苦笑いを浮かべた。 おおかた「自分のせいで同僚に居心地の悪い思いをさせている」と、罪悪感に駆られているのだろう。 凛は表情を変えずに頭を振った。 「気にしていませんから、大丈夫です」 「それならいいんだけどね……」 凛が平気だと伝えても、篠原は申し訳なさそうにしている。 さほど大きくない会社だから同じような立場の独身男性が少ないとはいえ、ここまで女性の目を引くことができれば、いい気になってもおかしくない。だが篠原は自身のモテぶりを鼻にかけることなく、凛に対していつも丁寧に接してくれていた。 「あの、本当に大丈夫です。私なら他の部署の方にヤキモチを焼かれることはありませんし、向こうも安心だそうなので」 「えっ、何が? 安心って、どういうこと?」 篠原は身を乗り出して、凛の顔を覗き込む。顔の近さに驚いた凛が仰け反ると、篠原は不思議そうな表情でまばたきを繰り返していた。 営業課長がわざわざ座る位置を指定してまで、篠原の隣に凛を置く意味を、彼は理解していなかったらしい。 「ええと……その……私と篠原さんなら、間違っても、これ以上お近づきになることがないので、皆が円満で安全安心と言いますか……」 どう説明したものかと迷いながら、凛は理由を口に出す。 社内一のモテ男に、自分の色気のなさを語るのは非常に気まずい。 凛のたどたどしい説明ではうまく伝わらなかったのか、篠原は一瞬大きく目を見開き、あからさまに落ち込んだ様子で重い溜息を吐いた。 「もしかして石野さん、俺のこと、あんまり良く思ってなかった……?」 「はい?」 篠原の予想外な答えに、凛は目を瞬かせる。 困惑して見つめると、篠原は凛の視線を避けるように顔を背けてぼそぼそと説明し始めた。 「……そういう可能性が絶対にないって断言できるくらい、気に入らないところがあったのかな、と」 どうやら篠原は、恋愛対象外にされるほど凛に嫌われていると勘違いしたらしい。 やっと篠原の言わんとしていることを理解した凛は、慌てて首を横に振った。 「それは違います。篠原さんに問題があるんじゃなくて、私が恋愛とかに向いてないっていうだけのことで。……まあ、忘年会なのに、このやる気のない格好を見ればわかると思いますけど」 凛は普段と変わらない仕事用のカーディガンを摘んで苦笑する。 篠原に熱い視線を送る女性たちは、仕事のあとにどこかで服を替えてきたようで、皆、華やかに着飾っていた。 さりげなく凛と他の女性たちを見比べた篠原は、納得できないと言うように眉を寄せて首をかしげた。 「そうかな。俺は石野さんの格好のほうが好きだけど」 「えっ」 予想外に好意的な言葉を向けられ、凛の頬がみるみる赤く染まっていく。 何も言えなくなった凛は、うつむいて顔を隠した。 篠原の発言はただのお世辞で特別な意味はないのだろう。しかし、思わせぶりなことをさりげなく言う姿に、凛の心は大きく揺さぶられた。 誰もがこうして篠原への恋心を募らせていったのに違いない。そして、凛もまた叶わない想いを密かに抱く一人だった。 篠原の気持ちが動かないという意味での「安全牌」だったとしても、凛の心は違う。 毎度のように隣に座っているのだから、どうしても相手のことが気になってしまうし、優しくされれば嬉しくてドキドキするのは当然だ。 少しずつ積もっていく温かい気持ちは、いつの間にか凛のなかで大きな想いになり、やがて篠原への恋心に変わっていった。 もちろん篠原の恋人になれるとは思っていない。 張り合う気が湧いてこないほど美人で性格の良い家族を持つ凛は、自身の欠点をよく理解している。格好良くて優しい篠原と釣り合っていないことも、ちゃんとわかっていた。 (無理なんだから、せめて篠原さんに迷惑をかけないようにしなきゃ、ね……) 凛は顔を下げたまま口元を引き、苦笑いを浮かべた。 突然わっと上がった営業課長の笑い声で、凛と篠原の会話が断ち切られる。 凛は何事もなかったように周りに合わせて相槌を打ちながら、こっそりと頼んだノンアルコールビールに口をつけた。 会社主催の忘年会がお開きになったあと、凛は二次会に向かうという一行と別れ、近くのカラオケボックスへと急いだ。 そこには凛が考えた「計画」のために、人を待たせてあった。 とうに到着しているらしい相手からは、部屋の番号が書かれたメールが送られてきている。カラオケボックスに駆け込んだ凛は、受付に声をかけてから目的の部屋のドアを開けた。 中にいるのは若い男。ひとり静かに本を読んでいたその人物は、物音に気づいて顔を上げ、ふわりと微笑んだ。 「凛、お疲れさま」 「うん。待たせてごめんね、全(ぜん)くん」 「いいよ。今日は特に予定ないし」 色素の薄いヘーゼルの瞳が穏やかな光を帯びる。まるで外国の宗教画にある天使を写し取ったような容姿の男は、石野 全と言い、凛の弟だった。 まっすぐな黒髪につぶらな黒目を持つ日本人然とした姉と、色白で彫りが深く欧米系の面影がある弟は、まったく似ていないが実の姉弟だ。 遺伝というのは本当に不思議なもので、姉はどこにでもいそうな容姿の父親に似て地味、弟は異国の血を引く美人の母に瓜ふたつだった。 全は手に持っていた文庫本をパタンと閉じて、小さく溜息を吐く。 「じゃあ準備しようか。正直に言うと気乗りしないんだけど、凛の頼みだからね」 「ごめんね。でも、お願い」 凛はもう一度謝り、深く頭を下げる。 姉の謝罪を受けた全は諦めの表情を浮かべて、ソファの横に置いてある鞄を取り上げた。 中から出てきたのは鮮やかな色が詰め込まれたメイクパレット。凛の肌に合わせた化粧水に乳液、ベースクリーム、ファンデーション……それと沢山のメイク道具。 凛はこれから、メイクアップアーティストの卵である弟に協力してもらい、変身するのだ。 眼鏡を外して髪を下ろし、美人ではないにしても、歳相応に飾ったそれなりの女に。 全のテクニックがあれば、きっと誰も中身が凛だとは気づかないだろう。 このあと、その名もない女は、素性を隠したまま想い人である篠原に気持ちを打ち明ける予定だった。 当然、見も知らぬ相手に告白された篠原は断るに違いない。だが、それで良かった。 想いを告げることで凛がかかえてきた行き場のない恋心は昇華され、篠原は知らない女からの告白などすぐに忘れて気に病むこともない。……そして、会社での凛と篠原の関係は何ひとつ変わらないはずだ。 できるだけ篠原に迷惑をかけずに、凛の想いを収めるための計画。それを今日実行する。 静かに微笑む凛を見た全は、眉間に皺を寄せ、しぶしぶといった体でメイクを施していく。 「凛は充分に可愛いんだから、わざとふられなくてもいいと思うよ。普通に告白したら彼女になれるかもしれないんだし」 見た目と同じにかげりのない性格をしている全には、最初から諦めて後ろ向きな選択をする凛の気持ちが理解できないのだろう。 だが実際には、そんな夢物語のようなことは起きない。 シンデレラはもともと美人で綺麗な心を持っていたからこそ、ドレスを身に纏うだけで王子に見初められたのだ。 素地のパッとしない凛が美しく飾ったとしても、メイクを落とした瞬間、ただの灰かぶりに戻ってしまう。 凛の持論にどうしても納得できないらしい全は、ぶつぶつと不満をこぼし続けている。 家族の欲目がたっぷり含まれた言葉に、凛は心の中で感謝して小さく笑った。 → 2 |