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      Bitter  ビター
  
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いつものバイトの最中、桂吾は洗い物の手を動かしながら夕飯の献立を考えていた。 
もう暑いとしか言えない初夏の午後、空調の効いた店内からは日差しの眩しいテラスが見えている。 
バーとカフェテラス兼用の店は半地下にあるのだが、凝った作りをしていて、店の奥からビルの裏手にまわると地上へ吹き抜けのテラスに繋がっている。もちろん地下に変わりは無いが直接空と太陽が見える事と周りに木を植えてある事で充分自然を堪能できるようになっていた。 
そのテラスでさっきまで水撒きをしていた絵美奈がぶーぶー文句を言いながら、店内へと戻って来た。 
「あついあついあつーいっ!」 
もともと小柄な絵美奈が子供のように言う様を見て、思わず笑みがこぼれる。 
「あ、笑わないでよーっ!」 
絵美奈は結べるギリギリの長さの髪を揺らして、プンプンと怒った。 
これで27歳だというから驚きだ。 
「笑ってないですよ…ちょっと微笑ましいなあと思っただけで」 
「年上の女性に対して微笑ましいとか言うなぁっ!」 
桂吾は頬を膨らませてプイと横を向いてしまった絵美奈に見えないように苦笑いした。 
見た目も性格も全然違う旭と絵美奈だが、気の強さと頑張りやな所は一緒だった。そういうところが2人が友達になった所以かもしれない。 
絵美奈はこれ見よがしにオーバーな溜め息をつくと、カウンターに座って、洗い物を続ける桂吾を見た。 
「なんですか?」 
「どーして直江くんって、そんなに余裕なの?」 
「は? …余裕って何がですか?」 
首をひねって聞き返すと、絵美奈はあごに指をあてて「うーん」と唸った。 
「えーと、ね…結構なんでも器用にできちゃうし、何事においても飄々としてるっていうかー。まぁ、つまりは旭ちゃんの事なんだけどー…」 
絵美奈の言っている意味がさっぱりわからない。 
彼女自身も上手く言い表せないらしく、口の中でもごもごと何かを呟いていた。 
しばらくして洗い物の終わった桂吾が振り向くと、今まで考えていたらしい絵美奈が眉間に皺を寄せて桂吾を睨んだ。 
旭と違って絵美奈はどんな顔をしても可愛らしいという形容以外つけられないような気がした。 
「えっと、それで何が余裕なんですか?」 
「あーもう『それとなく』なんて止め止め! …はっきり言って直江くんって旭ちゃんの事好きなんでしょ? だから今でも一緒に暮らしてるんでしょ?」 
どうやら聞きにくい事だからと気を使っていたらしい。 
桂吾は少し考えてから、素直に頷いた。 
「そうですね。旭さんの事は…好きです」 
「でもってー、旭ちゃんは直江くんの事好きだから家に住まわせてるんでしょ?」 
「…さあ? そこまでは解りませんけど」 
これも素直に答えた。 
相変わらず2人の間には何も起こらない。それどころか最近、旭の仕事がいよいよ追い込みに入ったらしく1日に1時間も顔を合わせれば良い方だった。 
「もー!! もっとガッチリ掴んでなきゃダメでしょー!! 旭ちゃんお見合いしちゃうんだよっ!」 
興奮し過ぎの絵美奈が顔を真っ赤にして叫んだ。 
桂吾はそんな絵美奈をただ呆然と見つめる。 
「…え?」 
「昨日メールが来たの! 今度の土曜にお見合いするって。ずっと親戚の人に勧められてたのを断り続けてたのに急にするとか言い出して、しかも土曜って明日だよ? …おかしいじゃない、こんなに急に決めちゃうなんて!」 
絵美奈は畳みかけるように言ってから、お前のせいだと言わんばかりの視線を桂吾へと向けた。 
旭さんが…お見合い? 
一瞬、旭の笑顔が見知らぬ男に向けられるのを想像して、ぞっとした。 
桂吾は足の先から冷たくなっていく感覚に襲われながら、カウンターに手をついた。知らず指先が震えている。 
「だって、結婚はもう諦めたって…」 
「…旭ちゃんだって人間なんだから気が変わる事だってあるし、ひとりじゃ寂しい時だってあるんだよ? そういうとこ気付いてあげなきゃ、他に誰が旭ちゃんを見てくれるの?」 
血の気の無い顔で絵美奈を見ると、彼女もまた悲しそうな表情で桂吾を見つめた。 
それから、ゆっくりと頷く。 
「まだ間に合う。旭ちゃんに全部ぶつけて考え直してもらうの。…旭ちゃんを引き止めてあげて。きっと桂吾くんのこと好きだから」 
「…小倉さん」 
桂吾の言葉に絵美奈はふふっと笑った。 
「旭ちゃんには色々助けてもらったから、幸せになって欲しいの。もちろん桂吾くんにもね」 
ありったけの感謝を込めて、桂吾は頭を下げた。 
また始まる前に終わらせてしまうところだった。 
ずっと好きだったのに、彼女も想いを寄せてくれていたのに、最悪の関係になってしまったひと。 
もうあんな想いだけはしたくない。後悔したくない。絶対に…! 
桂吾は後片付けを済ませると、急いで店を飛び出した。 
今すぐ旭に逢いたい。 
その想いだけが桂吾を突き動かしていた。
  
迷惑になるとか、仕事の邪魔になるとか、そんな常識が浮かばないほど桂吾の中には想いが溢れていたから、真っ先に旭の仕事場へと向かった。 
しかし、以前会った事のある男性社員が応対に出て、すでに帰宅したと告げた。 
もどかしい気持ちでマンションへ向かって走り出す。 
「…くそ…!」 
なぜ気付かなかったのか。自分のふがいなさが口惜しい。 
長い髪を揺らして微笑む旭が目に浮かぶ。 
いつも強気に振舞って、きつい仕事も平気な顔をしてこなす強い女性。反面、急に落ち込んだり、悲しそうな顔を見せたりする。 
元来、感情の起伏の激しい方だし疲れているからだろうなんてタカをくくっていた自分に腹が立った。 
…あれは彼女なりのSOSだったんじゃないのか? 
誰だって人恋しい時も、辛い時もある。何も言わずに抱き締めて欲しいと願う夜だってある。もしも旭がそんな時、桂吾に気付いてもらえるのを待っていたとしたら? 
答えはわからない。 
絵美奈に焚き付けられた自分の自惚れかもしれない。 
だから、はっきりさせる。もう逃げない。 
旭の為に、自分の為に―――。
  
久々の全力疾走で、着く頃にはすっかり息があがっていた。 
桂吾は大きく深呼吸をしてマンションのドアに手をかける。 
まっすぐ帰ってきたとしたら、いるはずだ。 
ぐっと引くと、かすかな音をたてて開いたドアの向こうから何かを煮込むいい匂いと鼻歌が聞こえてきた。 
「…ただいま」 
思わず声が震えた。旭に対して、こんなに緊張する日が来るとは思わなかった。 
桂吾は靴を脱いでリビングへと向かう。 
すると桂吾が帰ってきた事に気付いた旭が万面の笑みをたたえてキッチンから顔を出した。 
「あ、おかえり! …今日早かったのよ。しかも疲れて帰ってくる桂吾くんの為に特製ポトフ作製中!!」 
自身満々に言い切って、ビシッとVサインを決めた旭は桂吾の様子がおかしい事に怪訝な顔をした。 
「ん、どしたの? …なんかあった?」 
ゆっくりと頭を振った。 
心配そうに覗きこむ旭を見つめて、そのまま腕の中に閉じ込める。 
「え…桂吾くん?」 
ゆったりした動作とはいえ、唐突に抱き締められた事に驚いた旭が声をあげた。 
逃げられないように少しだけ回した腕に力を入れる。 
やっぱり…。 
桂吾は旭の困惑した瞳に自分が映っているのを確認して、微笑んだ。 
やっぱり、見守るだけなんて嫌だ。 
知り合ってから今まで、旭は桂吾だけを見ていた。彼氏を作る気も暇も無かったから、いつも1番近くにいる桂吾だけを見つめていたのだ。だから、桂吾はそれに満足した。 
後はただ旭が心安らかに日々を過ごせるようにできればいいと思っていた。 
でもその想いはいつの間にか変わっていた。 
店で旭の見合い話を聞かされたとき、相手の男を幸せそうに見つめる旭を思い描いて胸が締めつけられる気がした。それどころか、そいつが自分の代わりにマンションに住んで旭をいいようにするのかと思うと…。 
「ちょ…桂吾くん、痛い」 
「あ、ごめん」 
知らないうちに力が入り過ぎたらしい。 
慌てて腕をゆるめると、その隙をついて旭が桂吾の背中に手をまわした。 
ぴったりと触れ合う2人の身体。温もりが心地良い。 
「けーごくん、どうしたの? 人恋しくなっちゃったかなっ?」 
旭は桂吾の耳元でおどけて言った。 
「…俺が恋しいのは、旭さんだよ」 
桂吾の真剣な声に旭の身体がギクリと強張った。 
「や、やだー…からかわないでよ」 
「からなかってなんかいない」 
桂吾は即答すると旭の髪を一房すくいとって口付けた。甘いけれどどこかクールな旭の香りがふわりと立ち昇る。 
「…桂吾くん、やめて。笑えない冗談だわ」 
眉をひそめて桂吾を睨んだ旭は腕の中でもがいた。 
桂吾は旭に見えるように微笑んで、いっそう腕に力をこめ旭を引き寄せた。 
「旭さんが俺の事ちゃんと見てくれるまでは、離さないし、やめない」 
「ちゃんとって…ちゃんと見てるわ。今だって見てるでしょう!」 
不自由な中で旭はそう言うと、上半身を反らせて桂吾から逃れようとする。 
「そうじゃなくてさ。男として見て欲しいんだ」 
「なっ! …そ、そんなの見れるわけないでしょ、11歳も年下のコなんて…だめよ」 
言いながら、旭は一瞬辛い表情を見せて俯いた。 
桂吾が18で旭は29、その差11歳。でも桂吾も旭も今までうまくやって来た。 
もちろん男と女の関係では無かったが、旭とだったらやっていける。年齢の差なんて関係無いと強く思った。 
桂吾は旭の顎に指をあてると、上を向かせた。 
大きな瞳が不安げに揺れている。 
「…もし俺が旭さんより年上だったら、ちゃんと見てくれる?」 
「え…そんなこと…急に歳を取れるわけないでしょ」 
桂吾の質問には答えずにはぐらかした旭を桂吾は見つめた。 
「てことは、俺、歳が若いだけでダメってこと?」 
「だ、だって! 11歳も違うなんて変でしょ…んっ…!」 
興奮して叫んでいた旭の言葉は、唐突に重ねられた桂吾の唇でかき消された。 
静寂で覆われる室内。 
そっと旭の頭を押さえて、深く口付ける。しっとりとした柔らかい唇の感触が胸の鼓動を速めた。 
キスなんて数えきれないほどしてきたはずなのに、なぜこんなに胸が熱くなるのか。 
桂吾は夢中でキスを繰り返す、浅く深く。旭はされるがままに桂吾の唇を受け入れた。 
「…はあっ…はあっ…」 
長い長いキスの後、旭はずるずると座りこんで苦しそうに息を吐いた。 
同じ目線までしゃがんだ桂吾が見つめると、怒った顔を向ける。 
「ど…して、こんな、こと…するのよっ…!!」 
切れ切れの言葉と旭の表情に、桂吾は目を見張った。まさか泣いてるなんて思わなかったから。 
光を放つ黒い瞳から、透明の雫がぽろりぽろりとこぼれた。 
やがてそれは旭の頬をすべり落ちて、次々と絨毯へ吸いこまれてゆく。 
綺麗…。 
困らせたのも泣かせたのも自分なのに素直に美しいと感じた。 
誘われるように旭の頬へ手を伸ばす。 
触れた瞬間、まつげの先に溜まっていた涙が立て続けに落ちた。 
旭は苦しそうに瞳を閉じると、触れている桂吾の手を包むように自分の手を添えた。 
「旭さん…?」 
「桂吾くんを巻き込みたく、ないの。辛い想いさせたくない…」 
「え?」 
「桂吾くんはまだ若いんだから、私みたいのと一緒にいちゃダメなのよ。普段ろくに家事もできないし、家にもいない、休みだって疲れて何もしてあげられない。歳だって違うから若い子みたいに綺麗じゃないし、桂吾くんが変な目で見られるのなんて嫌なのよ…!」 
正直、驚いた。同時に愛おしさが更に募る。 
旭が桂吾のことをそこまで考えていてくれたなんて、思いもしなかった。 
…本当に、この人には敵わない。 
桂吾は困ったように笑うと、旭の頬を伝う涙を指先でぬぐった。 
「ねぇ、旭さん。俺は今の旭さんじゃなかったら好きにならなかったと思うよ。29歳の仕事バリバリやってる旭さんが、俺は、好きなの」 
「…でもっ」 
「でも、じゃない。俺は誰に見られても言われても構わない。俺と旭さんの事は俺たちが知っていればいいから。他の誰が何を言っても全然気にならないんだよ?」 
「……」 
旭は桂吾を見つめたまま、辛そうに眉を寄せた。 
その瞳には、まだ納得しきれていない気持ちが見える。 
旭の言葉を信じるならば、彼女の気持ちは桂吾に向いている。本当は無理矢理にでも説得して、その気持ちを認めさせてしまいたい。けれど、それはできない。 
無理に答えを引き出しても、旭は頑なに拒むだろう。自分で答えを出す事のできる人だから。 
桂吾は、待つしかないと悟った。旭が自ら桂吾を選んでくれるまで。 
もう一度だけ、ゆっくりと抱きしめて、呟いた。 
「これだけは忘れないで。俺はあなたを愛してる」 
 
    
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