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 Bitter  ビター

 8
6月。
初夏の陽射しが強くなってきた頃、桂吾は新たにアルバイトを始めた。
旭と出会ったカクテルバーが昼間やっているカフェテラスの手伝いだ。
元々こぢんまりした店で募集はかかっていなかったのだが、そこのランチが美味しかったので頼み込んで入れてもらった。

旭と抱き合って泣いた日から不思議なくらい落ち着いた自分がいた。
散らかった場所がきれいに片付いたような感覚。
そして自分がまっすぐ立てるという事に気付いた。
旭は全てを知ったからといって態度を変えることもなく、また干渉もしてこなかった。おかげで桂吾にはゆっくりと考える時間が与えられた。
何をしたいのか、何ができるのか。
時々連絡をくれる蓮見の言葉も後押ししてくれた。
『お前が今いちばん好きだとか大切だとか、そう思えるものを守っていく事から始めたらいいんじゃないか?』
…桂吾がいま1番守りたいものは、旭との時間。
彼女がより快適だと思える時間を作りたい。だから調理の仕事を選んだ。もっと面白くて美味しい物を作ってあげられるようになりたかった。
旭自身が聞いたら、他人を中心に考えるなと怒られそうだが、仕方ない。
桂吾の望みの全てが旭に繋がってしまうのだから。

ランチのしこみの最中、密かに思い出し笑いをした桂吾にバイト先の主任が訝しげな顔をした。
彼女の名前は、小倉絵美奈(こくら えみな)若干27歳でこのカフェテラスの料理全てを任されている調理主任だ。どうやら本職はパティシエだったらしいのだが、本人曰く『オーナーに騙されて』現在に至るらしい。オーナーというのはもちろんバーのマスターだ。
「直江くん、どうかした?」
「え…いえ、俺がここでバイトしてることを旭さんが知ったらどんな顔するんだろうなって思ったら、面白くて…」
桂吾の言葉に絵美奈もニヤリと笑った。
旭は営業や打ち合わせの時にこの店をよく利用する。今は桂吾が弁当を持たせるから滅多に来ないらしいが以前はランチにも顔を出していたらしい。
そういうわけで絵美奈も旭の事はよく知っていた。常連と店員と言うよりは友達に近いようで、忙しい合間にメール交換なんかもしているとか。
「でもそろそろ教えてあげても良いんじゃないのー? あんまり内緒にしておくと知った時に怒るかもよ。私だけ知らなかったなんて許せないーっとか言って」
「ああ、そういうとこありますよね」
顔を見合わせて笑った。今ごろ旭は相当大きなくしゃみをしてる事だろう。
桂吾はバイトを始めた事を旭に言えないでいた。
始めたは良いが続けられるかどうかも解らなかったし、何よりも仕事が決まった事で、マンションを追い出されるかも知れないのが怖かった。
絵美奈は、きちんと話してあげれば解ってくれるはずだと言うが、果たしてどのように説明すればいいのか自分でも解らない。
バイトも決まったし貯金もあるんだけど、旭と一緒にいたいから置いてくれ?
これじゃただの居候より性質が悪い。本気で怒られて追い出される可能性大だ。
桂吾は頭を悩ませた。
旭の事は、多分好きなんだと思う。一緒にいたいと思うのも、何かしてあげたいと思うのも、そこから来る感情だ。でも普通の恋のように自分の方を向いて欲しいという強い欲求が起こらない。そりゃあ向いてくれたら嬉しいとは思う。だけど、一緒にいて旭が幸せそうにしているのを見ているだけで桂吾は満足してしまう。口先だけで旭が欲しいというのは簡単だが、本気で無いとすぐにばれるだろう。今の淡い想いを説明する事は容易じゃなかった。
それに、状況も悪すぎる。
義母への想いを見抜かれた桂吾が今旭を好きだと言ったところで相手にされるとは思えないし、何より自分は11も歳下の未成年。
だからせめて自分の気持ちがもっとはっきりするまでバイトの事は黙っていようと決めた。
桂吾の気持ちが固まるまで、旭が出ていけと言わないように祈りながら…。
ここでのバイトがばれた時の反応が楽しみな反面、その先が無いような気がして不安になる。
…それでも、いま自分にできる事をやる。
桂吾は強い眼差しで前を見つめた。

「あ、ああ…そこ、いい…!」
馬乗りになった桂吾の下に横たわる旭は、嬌声をあげてのけぞった。
桂吾は大きな溜め息をつくと、背中を向けて寝そべっている旭を見下ろした。
「ちょっと旭さんさぁ、いちいち声出すの止めてくれない?」
「えー、そんな事言っても、気持ちいいんだからしょうがないじゃない」
首だけ動かして桂吾の意見に反発した旭は、また、だらりと身体を伸ばしてうつ伏せになった。かろうじて動かせる手足をばたつかせて続きをせがむ。
桂吾は疲れた手首を何度か回してから、旭の肩に手をかけた。
「んんんー…」
一応は自制しているらしい旭だが、くぐもった声はさっきよりも尚更いかがわしく聞こえる。
肩にかけた手を放さずに、桂吾はされるがままの旭を見た。
これで2人とも裸だったりしたら、そりゃあもう、お子様にはお見せできないシーンのはずなのに、悲しいかな桂吾に許されたのは旭の専属マッサージ師という何とも辛い権利だけだった。
いくら自分の失恋に気付いたばかりの桂吾とはいえ、もはや心も身体も癒えてきた健康男子には、いささか苦行めいている。
確かに旭を焦がれるほど欲しいというわけではないが、桂吾だって十代の男だから、どうしても意識してしまうのだ。
マッサージをお願いされる度に、自分を試しているのか、それとも誘っているのかと疑うが、だらしなく伸びている様を見る限りでは何も考えていないのが正解だろう。
「旭さん、俺が変な気起こしたらどうするわけ?」
旭の背中を揉み解しながら聞いた。
「…だからぁ、ぶちのめすって言ってるでしょー…」
けだるそうに答える旭と自分の身体の位置を確かめる。
…どう考えても無理だ。旭が格闘技の達人だとでもいうなら別だが、ちょっと習ってたくらいの人間じゃこの体格差は埋められないだろう。
果たして、ここまで警戒されないというのはどうなのか。
「旭さんて時々すっごい残酷だよね…」
「はぁ?」
わけがわからない旭は素っ頓狂な声をあげて首を傾げる。
桂吾は自分の複雑な想いなど気付く様子も無い旭に頭を悩ませた。
難しい顔をしてこめかみを押さえた桂吾を不思議そうに伺っていた旭は、ちょうど背中から手が離れた瞬間、器用に身体を反転させた。
ひざをついて旭に跨っていた桂吾の足の間でくるりと向き直る。仰向けに寝た旭に桂吾が覆い被さっているような状態。
…これは、やばい。
マッサージをするのに邪魔にならないようにと薄手のピッタリしたシャツを着ているせいで、胸のあたりがやけに目立つ。桂吾を見上げた大きな瞳がキラキラと輝いていて、化粧もしていないのにふっくらとした唇はピンク色に見えた。
桂吾はあわてて目線をそらして旭の上から離れようとしたが、彼女に手を取られて引き寄せられた。
その柔らかい手の感触に一瞬ドキリとする。
「な、なにを…!」
桂吾の抗議もどこ吹く風、旭は桂吾と繋いだ手を自分の目の前に持っていって、じっと見つめた。
「あれてる」
「え…?」
旭のつぶやいた言葉の意味がわからずに聞き返すと、彼女は眉をひそめて桂吾を見上げた。
「桂吾くんの手、荒れてる」
「あ、ああ…そういうことね」
納得した気持ちとがっかりした気持ちが同時に襲ってきた。
『桂吾くんの事好きよ』なんて言われてしまうんじゃないかと少し期待してしまった。
そんな自分が恥ずかしい。
桂吾は繋いだ手を引っ張って、旭の身体を起こした。それから自分の手をまじまじと見つめる。
確かに少し荒れてる…か?
ちょっとカサカサするような気はするが、男の手なんて荒れてもどうって事無いだろうと桂吾は思った。
「私が圭吾くんに家事させてるからよ…」
いたわるように手を撫でながら旭が悲しげにつぶやいた。
しっとりした旭の手指が撫でまわるのは気持ち良い反面、ゾクゾクした。
桂吾は慌てて手を引っ込めると、旭の目の前でにぎったり閉じたりしてみせた。
「ほら、全然平気だから。痛くも何ともないし。多分季節代わりのせいだから、旭さんのせいじゃないって」
本当はバイトで水仕事をするからだと解っていたが、笑って誤魔化した。
すると、それを見た旭は少し怒った顔をして桂吾ににじり寄る。
さっき引き起こしたおかげでお互いに座って話をしているから、いくらか良くなったものの余り近づかれるとやはり意識してしまう。何と言っても旭は薄着なのだ。夏場の薄着は目に毒だ。
近づいた旭はおもむろに手を伸ばして桂吾の頬を引っ張った。
「嘘つき。桂吾くんが優しい笑い方する時は大体嘘ついてる時なのよ。もうお見通しなんだから!」
「旭ひゃん、いひゃい…」
いつの間にか桂吾が嘘をつくときのクセまで見抜いたらしい。
旭は掴んだ手をそっと離してから桂吾を覗きこんだ。
「私、桂吾くんに色々と甘えてるよね…ごめんね。家事はやらなくていいよ。男の子なのに主婦みたいな生活なんて嫌だったでしょう? …ホントごめん」
まるで自分が強要してやらせていたかのように、旭は謝った。
桂吾には旭が本気ですまないと思っている事も、他意がない事も解っていたが、それでも『いなくても大丈夫』と突き放されたような気がして震えた。
「ち、ちが…家事は俺が好きでしてる事だし、こういうの全然嫌じゃない。手が荒れたのだってバイトが―――!」
しまったと思って口を塞いだ時には遅かった。目を丸くした旭が桂吾を見つめている。
「バイトってなに?」
「い、いやぁ…その…」
さっき指摘されたにも関わらず顔が笑顔になってしまう。調理専門とはいえ客商売の性か…。
「まさか私には言えないようなバイトなの?」
何か誤解してるらしい旭が怒気をはらんだ声で言う。見ると、半眼になっていて非常に迫力があった。
桂吾はその気迫に圧されながら、しぶしぶバイトの事を話した。
「うそ! 恵美奈ちゃんとこの新人バイトって、桂吾くんだったのっ!?」
聞き終えた旭は口をぽかんと開けたまま桂吾を見た。
どうやら絵見奈は店に新人が入った事だけはメールで伝えていたらしい。
「黙ってて、ごめん…その、俺、料理好きだからいいかなと思って…」
嘘ではない。確かに料理は好きだし、絵美奈にも向いてるとお墨付きを貰うくらいの腕前はある。本当のところは、それ以上に旭の役に立ちたい気持ちが強かったから動いたのだが。
「…どうして黙ってたの?」
「えっ、だって、続かなかったらカッコ悪いし…だからもうちょっと秘密にしておこうと思ったんだよ」
言い訳しながら、やっぱり笑顔が出てきてしまう。
桂吾はそんな自分が憎らしかったが、旭は今の笑顔をただの照れ笑いだと受け取ったようだ。
それでも旭の性格からして、てっきり怒られるだろうと思った桂吾は、旭の意外な表情に驚いた。さっきまで輝いていた瞳はすっかり鳴りを潜めて暗い顔をしている。
桂吾がどうしたのかと尋ねようとすると、旭はパッと表情を一変させて桂吾を見つめた。
「今度からはカッコ悪くてもいいから、ちゃんと教えて。私ひとり除け者なんてつまんないでしょ。…それから、仕事ちゃんとできてアパート見つかるまではココにいていいからね!」
元気良く言い切って旭は立ち上がった。それから反動で背伸びをして大きな欠伸を漏らす。
桂吾はそんな旭の後姿をただ見つめていた。
追い出されなかった事に浮かれていた桂吾には、後姿の旭がどんな顔をしていたのか全く解らなかった。
まして、深い溜め息をついた事など気付きもしなかった。

   

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