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      Bitter  ビター
  
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翌日。 
桂吾はリビングのテーブルの上に突っ伏して、ここにはいない人物にぶつぶつと文句を言っていた。 
「…ったく、信じらんねーよなー。普通、好きだって言ってる男が傍にいるのに、見合いとか行くか?」 
倒した上半身の近くには、サインペンで殴り書きしたチラシが置いてある。 
『今更断れないからお見合い行ってくるね 夕飯までに帰ります 旭』 
土曜だからと旭を起こさないように遅めに起きて書置きを見た時、桂吾は目の前が真っ暗になって倒れるかと思った。 
それでも何とか踏みとどまったのは、旭流の冗談かも知れないと前向きに考えたから。 
もちろん、その考えは、掛けてあった余所行きの服が無くなっている事や、携帯の電源が切られていて繋がらない事や、電話の脇に美容室の予約時間がメモしてある事などで、思い切り裏切られたのだが。 
「くそっ、場所さえわかれば邪魔しに行くのに」 
そんな桂吾の思惑などお見通しなのか、会場の連絡先と相手の写真だけはいくら探しても見つからなかった。 
深いため息をつく。 
今頃、おしゃれなホテルのロビーなんかで、完璧に着飾った旭がどこの馬の骨ともわからない男と楽しげに会話しているかと思うと、いてもたってもいられなくなる。 
旭の気持ちがいくらかこちらに向いていたとしても、桂吾は所詮18歳のフリーター。見合い相手に肩書きで勝てるわけも無い。 
…それに、はっきり気持ちを確認したわけじゃないしな。 
桂吾は旭が結論を出すまで待つと決めたことを、早くも後悔していた。 
「…ああ、もうっ! 悩んだって仕方ねぇ!」 
勢い良くイスから立ち上がると、桂吾は出かける準備を始めた。 
見合い相手と同じ土俵で勝てないのなら、自分にしかできない事をするしかない。 
携帯のメモリから絵美奈の番号を探しながら、桂吾は家を後にした。
  
『けーごくん…』 
誰かに名前を呼ばれた気がして、桂吾は振り返った。 
しかしそこは何も無い真っ白な空間が広がっているだけ。 
…気のせい? 
『けーごくん』 
もう一度、呼ぶ声。 
ああ、なんだ。旭さんの声じゃないか…。 
そう気付いた瞬間、真っ白は世界は形を変えて、映画で見たような緑の平原になっていた。 
目の前には愛しい人。 
白いワンピースを着て髪を下ろした旭は、例えようも無く美しい。 
桂吾が見つめている事に気付くと、本当に嬉しそうに眼を細めて腕に飛び込んできた。 
『すきよ、けーごくん。だれよりも』 
…本当に? 信じてもいい? 
不安を吹き飛ばすように腕の中の旭は桂吾を見つめ…静かに眼を閉じた。 
桂吾は痛いほどの胸の高鳴りを感じながら唇を寄せた。
  
「…おーい?」 
突然はっきりくっきりとした声が聞こえたので、桂吾はふわふわとしたまどろみから現実に引き戻された。 
「ん…旭さん?」 
気付けばいつものリビング。そしていつものソファ。 
桂吾はいつの間にかソファで横になって眠っていたらしい。 
腕の中には、ニヤニヤ笑いながら上目遣いでこちらを見ているパジャマ姿の旭がいた。 
…って何で一緒に寝てんだ?! 
驚いて身を起こすと、旭はたまらないという風にくすくす笑った。 
「桂吾くんってケダモノよねー」 
「けっ…!!」 
ケダモノって…俺なにかしたのかっ?! 
頭のてっぺんから冷水を浴びせられたような感覚に陥りながら、桂吾はあわてて自分の姿を見た。 
そこには眠る前、シャワーを使った時に着替えたシャツとショートパンツ。 
と、突然、旭が爆笑しだした。 
「ぶっ…! 桂吾くん判りやすっ! 面白い!」 
「あ、旭さん、からかったの?」 
ひどい…。 
桂吾は自分が情けないほど格好悪いと判っていながら、口を尖らせた。 
そんな桂吾の唇を、旭は細い指先でちょんとつまんだ。 
思わずドキリとする。からかわれていると判っていても心拍数が上がってしまうことがくやしい。 
「ちょっとだけからかったけど。桂吾くんも悪いんだよ、お風呂上がってから起こそうとしたらブツブツ言って無理矢理ソファに引き寄せてチューしようとしたんだから」 
「う…」 
なんて格好悪い。自覚はしているけど『欲求不満です』と言ってるのと同じだ。 
言葉も無くしょげた桂吾を旭はよしよしと撫でてくれた。 
触れてくれる事を嬉しいと思いつつ、子ども扱いされているみたいで更に落ち込む。 
「まぁ、私も桂吾くん置いてお見合い行ったし。ちょっと悪かったけど」 
そう、そうだ。お見合い。 
朝起きたら旭はさっさとお見合いに行った後で。桂吾は仕方なく絵美奈に頼んである事を手伝ってもらった。 
それから帰宅して夕飯を準備したのだが、旭は帰ってこない。それで不貞腐れてソファで眠ったんだった。 
一通り思い出すと、どっと疲れた気がして桂吾はそのまま又ソファに横になった。ごく自然に旭と添い寝する形になる。 
桂吾は見たことも無い見合い相手にしっかりと嫉妬していた。 
自分の内にある醜い感情を悟られないように旭と視線を合わせず、そっぽを向く。 
「…どう、なったの?」 
「お見合い?」 
「うん」 
恐る恐る訊ねた。思わず身体に力が入る。 
本来なら桂吾に聞く権利はない。 
旭の気持ちはどうあれ、現状、桂吾が一方的に気持ちを寄せているだけで、通じ合っていると確認したわけでは無いから。 
それに、訊ねる事で結果的には桂吾に対する旭の答えを迫ってしまうことになると判っていた。 
それでも訊ねずにはいられない。 
旭は桂吾の複雑な思いを感じたのか、少しの間押し黙り、それから桂吾の胸に顔を埋めた。 
「…相手の人ね。31歳で中堅どころの会社の課長さんなんだって」 
「うん」 
「背が高くて、割とハンサムで。給料も私より貰ってて。結婚後も仕事続けて良いって言うし」 
「…うん」 
「仕事が忙しくて結婚できなかったみたいで、優しそうな人だった」 
「……」 
桂吾には旭の言いたい事が判らなかった。 
年齢も収入も容姿も性格も旭にピッタリのいい男がお見合いに来た。それは判る。 
その事実だけでも嫉妬でおかしくなりそうなのに、なんで旭は自分の腕の中でそんな事を言う? 
混乱したまま何も言えずにいると、旭がやっと聞き取れるくらいの小声でポツリと呟いた。 
「…嫉妬しないの?」 
「そんなの最初からしてる。気が狂いそうなくらい」 
即答すると、旭はおずおずと桂吾の背中に腕をまわした。 
桂吾の胸に顔を押し付けているせいで旭の表情は全く見えない。 
「…ったの」 
「え?」 
「だからっ、断っちゃったのっ!!」 
旭はいきなり叫ぶと、更にぐいぐい顔を押し付けた。 
…断った?そんないい男を?なんで? 
桂吾にとって嬉しいはずなのに、混乱したままの頭と感情にはなかなか浸透していかない。 
横になったまま呆然と見下ろした旭の耳が赤いのは、気のせいでは無いだろう。 
「理由聞いてもいい?」 
「だめ」 
「ねぇ旭さん。顔、見せて?」 
「やだっ!」 
駄々っ子のような言い方に笑みが漏れる。 
「俺…自惚れてもいいのかな?」 
「……」 
桂吾は何も答えようとしない旭を抱きしめて、耳元で囁いた。 
「俺の事、好きだって、言って」 
お願いだから。 
…程なく、桂吾の願いは聞き入れられた。
  
日曜は朝から晴天だった。 
東側の角部屋に位置している旭の部屋は、出窓から眩しい光が入ってくる。 
いつもだったら窓を開けて空気を入れ替え、リビングで桂吾と今日の予定について話している時間なのに、当の旭はいまだに自室のベッドの上に座って唸っていた。 
遠慮がちにノックをした後、桂吾は旭の部屋のドアを開けた。 
朝まで共に過ごしたとはいえ、旭の部屋に入るのはまだ少し緊張する。 
あからさまに機嫌の悪い旭に苦笑いしつつ、片手に持ったミネラルウォーターのボトルを上げて見せた。 
「水飲む?」 
「…飲む」 
奪い取るように受け取った水を、旭は相変わらずのラッパ飲みでごくごく飲んだ。 
桂吾はそんな旭を微笑ましく見つめてから、出窓を少しだけ開けた。夏特有のぬるい風がカーテンを揺らす。 
「今日かなり暑くなるみたいだけど、どっか行く?」 
ごく普通に話しかけた桂吾を旭はギラリと睨みつけた。 
「こんな状態でどっか行けるわけ無いでしょうがっ! 誰のせいだと思ってんのよ!」 
「えー、俺のせい?」 
わざとらしく肩をすくめた桂吾は、さも心外だという顔をした。 
旭は眉間にしわを寄せると、パジャマの襟をはだけて自分の首を指差す。 
「こーれーは、誰のせいかしらね? 恥ずかしくて服着替えられないんだけど?」 
「あ、気付いちゃった?」 
旭の首から胸元に掛けて無数の薄赤い痣ができていた。 
夢中だったとはいえ我ながら随分たくさん付けたものだと、感心にも似た気持ちでみつめる。 
…今までキスマークなんて付けようと思ったことも無いんだけどなぁ。 
桂吾が顎を撫でながら胸元を見つめていると、旭は急に恥ずかしくなったのか頬を赤らめて、そそくさとパジャマのボタンを留めた。 
「どっちにしても身体痛くて動けないから、今日は寝てる」 
「あ、そう?」 
今日ずっと家にいると思えば、やはりどうしても不埒な考えが浮かんでにやけてしまう。 
旭は桂吾の考えなどお見通しなのか、半眼で釘を刺した。 
「…言っとくけど、普通に寝てるだけだからね」 
「えー」 
「私の身体が痛いのは桂吾くんが無理するからでしょ。自業自得よ」 
「そりゃ回数こなしたことは認めるけどさー。旭さんの身体が痛いのは単純に運動不足だからだよ。それ絶対、筋肉痛」 
「うるっさい!!」 
図星をさされたのが気に入らなかったのか、旭は桂吾の反対側をむいて横になってしまった。 
…しょうがないなぁ。 
桂吾は軽くため息をつくと、ベッドの傍に寄り添って囁いた。 
「お姫様のご機嫌を直していただくために、甘いお菓子でもご用意しましょうか?」 
旭は首だけ回してチラリと桂吾を見る。 
「ホントにお菓子?」 
「うん」 
多少の機嫌の悪さは甘いもので何とかなる。気の強い旭もこういう所は女性だ。 
横になったままの旭に腕をまわすと、桂吾は一息に彼女を抱き上げた。 
「きゃあっ!」 
驚いてしがみついた旭の唇に、すかさずキスをする。軽く音をたてて。 
「リビングいこ」 
「もう!」 
にっこり笑った桂吾に文句を言いながら、旭も嬉しそうに笑った。
  
旭を抱き上げたままリビングに到着すると、桂吾はダイニングのイスにゆっくりと下ろした。 
「少し待ってて」 
「ん」 
旭が素直にうなずく。 
昨日の昼、不在の旭への募る思いをどうにもできなくて、絵美奈に無理を言って作らせて貰った。 
桂吾はそれを冷蔵庫から出して、そっとテーブルの上に置いた。 
「はい、どうぞ」 
「これ?」 
「開けてみて」 
旭の前に置かれたのは、それほど大きくない箱。黒い箱に金色のリボンがかかっている。 
解いてみれば、中から現れたのは、一粒のチョコレート。 
「これ…。ビター?」 
「…うん」 
柄にも無くロマンチスト過ぎたかも知れない。桂吾は照れくさくて少し俯いた。 
『ビター』と名付けられたチョコレートは、最初の夜に出会ったバーのつまみ。桂吾と旭を繋いでくれたもの。 
バイトに行くようになってからバーのつまみは全て、昼にカフェを任されている絵美奈が考えたものだと知った。だから以前から絵美奈に作り方を教えて欲しいと頼み込んでいた。 
お互いに時間が取れず教えてもらえないでいたのを、昨日、無理を言って教えてもらい、更に材料とキッチンまで貸してもらってできあがったのが、この一粒。 
「わざわざ買ってきてくれたの?」 
『ビター』がここにある意味を察した旭は、瞳をうるませて聞いた。 
桂吾は俯いたまま、静かに首を振る。 
「昨日、俺が作った。小倉さんに手伝ってもらって。ごめん、小倉さんが作ったのより断然不味いと思うけど…」 
旭は大きな瞳を煌かせて桂吾を見つめた。ふいにこぼれそうになった涙を指で拭うと、ぱちぱちと何度か瞬きする。 
「勿体無くて食べられないね?」 
泣きながらもおどけて言って、ふふっと笑った。 
「食べてよ。これからいつでも作れるからさ…」 
「そう…だね」 
二人で見詰め合ったまま微笑む。旭はチョコレートを口に入れてから、桂吾の方を向いて瞳をゆっくり閉じた。 
当たり前のように重なる唇と、ほろ苦い甘さ。 
旭さんが言ったように、俺たちは年齢も環境も違うから、これから色々な事があるはず。 
…でも、旭さん。覚えていて。 
ほんの少しいびつで味の悪い『ビター』は俺が作る旭さんだけのもの。世界中のどんな素晴らしいものにだって、籠められている想いは負けないから。 
あなただけを見つめているから…だから、ずっと傍にいて。 
照れくさくて口にはできない想いをキスにのせて、桂吾はそっと眼を閉じた。
  
                                          End 
 
    
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