Bitter ビター
6
昼休み目前。
今日も今日とて激務に追われていた旭は、自分のデスクにちょこんと置かれた物に驚いた。
年甲斐も無く大好きなウサギのキャラクターが描かれた弁当袋。
家に忘れてきたはずなのに…。
逆に持ってきていた事を忘れたんだろうかと不安になる。が、いくらなんでもそこまでボケてはいないと首を振った。
だとすれば、何故ここにあるのか…。
とりあえず自分のものに違いない事を確認し、デスクの下にそれをしまった。
理由はわからないが弁当がやって来た事で、今日もなんとか昼ご飯にありつけると思うとホッとする。
と、コピー室から出てきた男性社員に声をかけられた。
「日野さん、お弁当気付きました? さっきナオエさんていう子が置いていきましたよ」
「えっ! …ああ、うん。ありがと」
突然、桂吾の名前を出されたからドキリとした。
…わざわざ届けてくれたのかしら? 勤務先を教えていなかったのに。
ふと、一生懸命、旭の勤務先を調べている桂吾の姿が目に浮かんで、嬉しくなる。
昼休みまであと30分。急の仕事が入らない事だけを旭は祈り続けた。
今日の勤務を終え、ビルを出てみると、外はすっかり雨に濡れていた。
いつから降っていたのか、道路の水溜りも立派な大きさになっている。
旭は常に携帯している折り畳み傘を広げると、いつもとは逆の方向へと歩き出した。
いくら雨模様だと言っても、世の中は花の金曜日。繁華街へ伸びるいつもの帰り道は、酔っ払いでごった返しているだろう。
少し前までは自分もその仲間だったのに、なんだか不思議な感じがした。
一人暮しゆえの人恋しさに勝てず、毎週末バーへ通っていた頃が懐かしい。
それもこれも全て桂吾のおかげだと思うと、また心がほんのりと暖かくなる。
明日は桂吾を連れて何か美味しいものでも食べに行こう。いつも世話を焼いてくれるお礼を兼ねて…。
色々な楽しい計画が頭に浮かんで、旭の足取りは自然に速くなった。
傘の雫が落ちないように気を使いながらエレベータを降りて、自分の部屋を見たとき、旭は何か違和感を覚えた。
何かがいつもと違う…。
首をひねって、もう一度見返すと、原因がわかった。いつもなら点いているはずの明かりが見当たらないのだ。
桂吾は旭が帰って来るまで、いつも玄関の明かりを点けておいてくれる。誰もいない暗い家へ帰ってくる事の寂しさを知っている桂吾だからこその気配りが、旭には嬉しかった。
でも、今日は点いていない。
…点け忘れたのかしら?
それとも弁当を置いていった事を怒っているのか…。
もしそうだとしたら、何て子供っぽいんだろう。もちろん忘れた旭が1番悪いのだけど、その事でむくれている桂吾を想像するだけで可笑しかった。
笑いを堪えながら、インターフォンを押す。
……。
返答は無い。
やはり怒っているのかも。
もう弁当作ってやらないとか言われたら困るなあ、なんて思いながら、旭はキーを回した。鍵の外れる軽い音がしてドアはすんなり開いた。ドアチェーンもかかっていない。
ひとつも明かりの点いていない室内は静かで、ひんやりとした空気が充満している。
「桂吾くん…?」
手探りで電気のスイッチを探した。
一斉に明るくなった部屋に人の気配は感じられない。
「桂吾くん」
声をかけても答えは無かった。そればかりか夕飯の準備すらされた様子が無い。
どこかへ出掛けたのだろうか?
旭は一通り部屋の中を見まわして、桂吾がいない事を確認した。
別に家事をする約束をしたわけでも門限を決めたわけでも無いから、桂吾がどこで何をしていようとかまわないのだが、何故か胸騒ぎがして旭は携帯を手に取った。
桂吾がこの家に来た時に渡した携帯に電話をかける。
『現在電波の届かない場所におられるか、電源が入っていないため―――』
溜め息をついて終話ボタンを押した。
一体どこに行ったのかしら…。
旭は窓から雨の降り続く淀んだ街を見つめた。
30分待っても、1時間待っても、桂吾は帰って来なかった。
不安を打ち消す為に始めた夕飯の準備もすっかり整ってしまい、旭はただ呆然と窓の外を眺めていた。
あれから何度と無く電話をかけているのに、一向に繋がらない。
電源が入っていないに違いなかった。
もし…何かあったのだとしたら…。
旭は恐ろしい想像に身震いする。意図的に身元を証明する物を持ち歩かない桂吾に、何かあったとしても連絡は来ない。もちろん携帯を見てもらえれば旭の番号が出てくるはずだが、この雨では故障したとしてもおかしくない。
それとも出て行ってしまったのだろうか?
この生活に見切りをつけて家へ帰ったのかもしれない。
元々が見ず知らずの2人なのだから、何も言わずに出て行ったのかも…。
それならそれでもいい。事件に巻き込まれるより何倍もましだ。
そう頭では解っているのに、その可能性を考えるとなぜか悲しかった。
ふと時計を見る…11時半。
「もう…早く帰ってきなさいよ」
ソファに突っ伏してつぶやくと、遠くから救急車のサイレンの音がした。
ハッとして飛び起きる。
窓にかじりついて目を凝らしたが、どこを走っているのかまでは解らなかった。
旭はイライラと爪を噛みながら、広告の裏に『帰ってきたら連絡よこせ!』と走り書きした。
それから滅多に履かないジーンズに穿き替えて、マンションを飛び出した。
探す宛てなんか、無い。
それでもじっとしていられなかった。
雨は止むどころか、どんどん酷くなっていた。風も出てきたらしく横殴りの雨が旭を襲う。
ものの5分ですっかり濡れ鼠になった旭は、持って出た傘をゴミ箱に捨てた。
いくら300円のビニール傘とはいえ、まだ使えるものを捨てるのはポリシーに反したが、ただでさえ雨で走りにくいのに、役立たずの傘は邪魔以外の何物でも無かった。
顔にかかる雨を拭いながら、繁華街へと出る。
タクシー待ちの酔っ払いが何事かと振り返った。
ざっと見まわしても桂吾の姿は無い。割と背の高い桂吾は人ごみでも目立つから見逃す事は無いはずだ。
旭は踵を返すと桂吾と初めて出会ったバーの階段を足早に降りていった。
雨にも関わらず盛況な店内に足を踏み入れると、旭の姿を見たマスターが目を丸くした。
「日野さん…どうしたんです?」
かなり酷い格好になっていることは重々承知していた。
すっぴんにジーンズ、その上ずぶぬれ。鏡で自分を見たら笑っちゃう程みすぼらしい事だろう。
それでも構うことなく、マスターに桂吾が来なかったかを聞いた。
マスターは驚きながらも首を横に振る。
旭は短く礼を言って、店を後にした。
…繁華街、駅前、商店街、桂吾が行きそうな所を一通り探したが、結局見つからなかった。時間はすでに零時をまわって、人通りもほとんど無い。
雨は勢いを増すばかりで、旭は身体の芯まで冷えきっていた。
「どこ行ったのよ…ばか…」
聞こえないように、つぶやく。
何だか馬鹿らしくなってきた。もしかしたら、桂吾はもう自分の家に帰って久々に家族との時間を過ごしているかも知れない。自分が変な心配をして駆けずりまわる事自体、無駄なのかも知れない。
濡れた服の重さと冷え、それに疲労。
だるい身体を引きずるように旭は自分のマンションへ向かった。
ちょうど仕事場から繁華街への途中、2人が再会した小さな公園が見える。
『俺ホームレスなの』
あの日。何の感情も表さない声で桂吾はそう言った。
何も感じないうつろな瞳が痛々しくて、思わず怒鳴りつけた。もっと自分を大切にする事を考えて欲しかった。
身勝手なおせっかいだと気付いていたけれど、空虚な瞳に昔の自分を見た気がして放っておけなかった。
冷たすぎて感覚の無い足を公園の前で止める。
ここで出会った事自体、間違いだったのかも知れない…。
桂吾を助けてやるつもりで、逆に自分が助けられていたのだと、今更、気付いた。
桂吾がいてくれる事でどれほど癒されてきたかを―――。
…でも、もういない。
きっと1番恐れたのは、桂吾との生活が終わってしまう事。
いつかは家族と和解して欲しいなんて言いながら、本当は桂吾を失う事が怖かった。
だから、慌てて探そうとした。
追いかければ、まだその辺りにいるような気がしたから…。
とっくにびしょ濡れの顔を涙が伝い落ちる。
身体は冷えきっているのに、涙だけが熱くてなんだか可笑しかった。
涙を拭いながら踵を返した時、足元でぐしゅりと音がした。それから何かを踏みつけた感触。
てっきり濡れた靴が立てた音だと思った。けれど、靴の下には確かに何かが挟まっていた。屈んでその正体を確かめる。泥で汚れているけれどベージュっぽい色をした小さな布、広げると、それが帽子であることがわかった。
「……っ!」
はっとした。
初めて会った時と再会した時に桂吾がかぶっていた帽子によく似ている。
この帽子が桂吾の物だという確証は無い。…でも、もしかしたら。
旭はかぶりを振って、公園の中へと視線を向けた。
弱々しい光を放つ街頭の下、傘もささずにベンチに座っている人影…。
「桂吾くんっ!!」
自分からこんなに大きな声が出るなんて知らなかった。
何度も泥に足を取られながら、やっとの事で駆け寄る。
今まで何をしてたのかとか、なんでここにいるのかとか、どうして帰って来ないのかとか、聞きたいことは山ほどあるのに声がつまって何も言えなかった。
涙が次から次に溢れて止まらない。
探し望んだ人は、駆け寄った旭にも気付かないように押し黙ったまま項垂れている。
旭は桂吾の前に跪いて、硬く握られた手に触れた。
冷たくなりすぎて作り物のような気さえする手をそっと両手で包み込むと、桂吾は視線をゆるゆると旭に向けた。
無表情だった顔が少しこわばった。
「…なんで…旭さんが、泣くの?」
目を瞑ったまま首を振った。そんな事、旭自身にもわからなかった。
ただ、この手に触れるのが嬉しくて、離れてしまう事を考えると悲しくて、何も言えなかった。
|