Bitter ビター
5
朝は戦争だって誰が1番始めに言ったのだろう?
必死の形相で右往左往する旭を、桂吾はテーブルにひじをついて見つめた。
桂吾としてはノーメイクの旭の方が好きなのだが、本人がそれを良しとしないので化粧に時間をかける。更に朝ご飯はしっかり食べる派なので時間をかける。しかし常に寝不足だから早く起きれない。となると必然的に時間が足りなくなるわけで、出掛けはいつも大騒ぎだ。
「やだ、ピアス無い!!」
通勤鞄に書類を詰めながら、旭が叫ぶ。
桂吾はおもむろに立ち上がるとローチェストの引出しからピアスを取り出して渡した。
昨夜外したままテーブルに置きっぱなしにしていたのを片付けておいたのだ。
「後は? 忘れ物無い?」
「あー、大丈夫…多分」
ざっとカバンの中を見返した旭は、受け取ったピアスを手早くつけて玄関へと急いだ。見送りのために桂吾も後に続く。
ただの居候なのに玄関先でお見送りはどうかと思うのだが、いつも大慌てで出かけていく旭に、気をつけるよう声をかけないと妙に不安になってしまう。
「車に気をつけて、慌てないようにね」
「ん、わかってる。行ってきます!」
桂吾の挨拶を聞く間も惜しむように、旭は飛び出していった。
ドアから少し顔を出して、戻って来ないのを確認してから鍵をかける。
溜め息をついて振り返った先のリビングは、まさに戦場跡だった。
毎朝、旭があちこち引っ掻き回した残骸を片付けて掃除し、自分の分の洗濯と旭がチェックしている番組の予約録画をするのが、桂吾の日常になっていた。
すっかり主婦業が板についた自分に疑問を感じない事も無いが、旭の役に立てるならそれで良かった。
いつも通りの家事をこなし、残りの今日の過ごし方を思案する。
旭は色々なことをしているうちにやりたい事も見つかるはずだと言って、桂吾の過ごし方をとやかく言わないから何をするにも自由だった。
…そういえば天気悪くなるって言ってたな。
桂吾は朝に聞いた天気予報を思い出しながら窓の外を見た、と、窓際のローテーブルの上に置いてある物体が目に止まった。
オレンジ色の布地に白いウサギのキャラクターが入った巾着。中身の形にそって四角く膨らんでいる。
「…弁当忘れていきやがった」
思わず憎まれ口が出た。
旭は毎朝あんな調子だから、しょっちゅう忘れ物をする。
これまでも色々なものを忘れていったが弁当を忘れていくとは…。
桂吾はがっくりと項垂れた。
弁当は、たまに昼ご飯を買いに行く暇が無かったりする旭の為に桂吾が率先して作り始めた。飲食店や弁当屋でのバイト経験があった桂吾には簡単な事だった。
一人暮しで店屋物に飽きていた旭もとても喜んでくれたから、よもや弁当を忘れていくとは思わなかった。
女性用にしては少し多いくらいの弁当を片手に、桂吾は電話帳をめくる。
今から届ければ昼までには間に合うはずだ。
目指す会社の住所を控え、桂吾は曇った街へと出かけて行った。
初めて訪れた旭の勤務先は、2人が再会した公園のすぐ側だった。
5階建てのシンプルなビルは全てのフロアに旭の勤める企業が入っているらしい。
案内用の看板をなぞりながら旭のいる部署を探すと、4階フロアに『店舗開発部』とある。詳しく聞いた事は無いがおそらくここだろうと見当をつけた。
ボタンを押して、エレベータが来る間に桂吾は自分の事をどう話すか、少し悩んだ。
1階にでも受付があれば、家族だと名乗って頼む事ができたのに、受付どころか部署に直接訪ねなければならないらしい。
とりあえず家族だと名乗って、詳しく聞かれたら従弟だと言い張ろうと決めて、桂吾はエレベータに乗り込んだ。
あっという間にエレベータは4階フロアに着いた、歩いて登れる程の階層しかないのだから当たり前だが、少し緊張する。
音もなくドアが開いた途端、静かだった1階とは正反対の騒がしい音がフロアから響いてきた。
電話の鳴る音と人の声、オフィスにある様々な機械の動く音。
ほとんどの人間は自分の仕事に集中していて、部外者の桂吾が入ってきた事にすら気付いていない様子だった。
さてどうしたものかと桂吾が考えた時、右側の給湯室からコーヒーを片手に若い男が現れた。少し会釈すると不思議そうな顔をした男も頭を下げた。
男はそのまま桂吾に近づいて、エレベータホールとオフィスを仕切っていたガラス戸を閉める。途端に騒がしい音が消え去った。防音のドアか何かなのだろう。
「すみませんねぇ、うるさくて。行き来が面倒だから、つい開け放しちゃうんですよね」
人懐こい笑顔を見せた男は、そう言って頭をかいた。
桂吾はもう一度きちんと頭を下げて、旭がこの部署にいるかを聞いた。
「あ、もしかして。君、日野さんの家にいるっていう知り合いの子かな?」
「え…はい。直江と言います」
答えながら、桂吾は男の発言を意外な気持ちで聞いていた。
まさか旭が桂吾のことを社内で公言しているとは思わなかった。
「日野さんなら…ほら、あそこにいるよ。呼んでこようか?」
男の指差した先、フロアの最奥に旭の姿が見える。
数人の男性社員に混じり、書類を指し示しながら何かを指示しているようだ。それから近寄って来た女性と何か話して、デスクの電話を取る。
桂吾が見ている少しの間にも、旭はめまぐるしく動いていた。
「…いえ、忙しそうなのでこのまま失礼します。あと、これ渡してもらえますか?」
男に頼むのは少し気がひけたが、仕方がないので弁当を差し出した。家にいる時は気にならなかったウサギの絵が妙に恥ずかしい。
そんな桂吾の思いなど知る由もない男は何の反応も見せずに受け取った。
「はい、確かに。君が来た事伝えておくよ」
「よろしくお願いします」
頭を下げると、男はにっこり微笑んでからガラス戸の向こうへ入っていった。
桂吾はいつの間にか1階へ戻ってしまったエレベータがやって来るまで、旭を見続けていた。
男に混じって働く彼女は、桂吾が見たどの姿よりも輝いていた。
旭の会社からマンションまでの、そう遠くない道を桂吾はゆっくりと歩いていた。
脳裏には、忙しく働いていた旭の姿が焼き付いている。
人は生きがいを見付けた時1番輝くと言う。…ならば、仕事こそが彼女の生きがいなのだろう。
『死ぬ時に後悔したくないのよ』
いつかの夜、旭はそう言った。
…だから、仕事に理解の無い男は切り捨てたし、結婚も諦めた。
人生の取捨選択をして少なからず傷ついた旭は、強い。
その強さに、桂吾は惹かれた。
自分には無い強さを秘めたひと。側にいれば、いつか自分の弱さを克服できるような気がした。
でもそれは、ただの思い違いだと気付く。
旭が強いのは彼女自身が努力して勝ち得た力だ。
傷ついたまま立ち止まってしまった桂吾には、手が届かない。まして、旭の強さを分けてもらう事などできるはずもない。
桂吾は動かしていた足を止めた。
目線の先のアスファルトに次々と現れる雨粒のしみ…。
周りを歩いていた人間が、声をあげてそれぞれの方向へ走り出す。
次第に重くなっていく上着と冷たくなっていく身体を抱えたまま、桂吾はその場に蹲った。
自分を縛り付ける悪夢からは、永遠に逃れられないような気がした。
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