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 Bitter  ビター

 4
「ううー…疲れたあぁ…」
帰ってくるなりソファに倒れこんだ旭は、開口1番そう言った。大きな溜め息と共に。
桂吾は食卓に夕飯を並べながら、そんな旭を見やる。
時間は夜の10時半。これでも今日はまだ早いほうだ。
一緒に暮らし始めて1番驚いたのは、旭の帰宅時間だった。
自分で『ほとんど家にいないから好きにしてていい』と言っていた通り、ほぼ毎日午前様。それから夕飯を食べて、風呂に入って寝るだけ。固定休なのが唯一の救いだが、休日以外は家にいる時間イコール睡眠時間だ。
おかげで洗濯以外ほとんど全ての家事は桂吾の仕事となり、居候と言うよりは家政婦に近かった。
「旭さん? …夕飯できたよ」
キッチンに背を向けているソファに周りこんで顔を覗く。
早くもウトウトしてるらしく、瞳がとろんとしていた。
「んー…」
ゆるゆる起きあがる様を見て、えもいわれぬ気分になる。
変な事したらぶちのめすとか言ってたけど、この状態じゃ無理だろう。完全に無防備な旭に苦笑いして桂吾はテーブルについた。
旭もだるそうに続く。
「今ねー、駅前の飲食街のリフォームでてんてこまいなのよねー…」
桂吾の手渡したご飯を受け取りながら、旭は愚痴をこぼした。
旭がどれくらい一人暮しをしているのかわからないが、今までできなかった分、会話をするのが好きらしい。だから、いくら遅くなっても一緒に夕飯を食べるように桂吾はつとめていた。
「リフォーム? …古いファミレスとかあったとこ?」
「そうそう。オーナーがお洒落な通りに変えたいらしくってね」
「へえ。あそこ安いし、いつまで居座っても文句言われなかったから良かったのに」
桂吾は少し前までの気ままな生活を思い返した。
「…今は行ってないんだから良いじゃない。綺麗になった方が客も入るんだろうし」
何の気なしにそう言う旭の言葉が、少しありがたかった。ここにいても良いのだと言ってくれてるような気がした。

翌日、連絡を取り合っている数少ない友達がこの街へ出張してくるというので、昼飯がてら話でもしようという事になった。
いつも通りのラフな服装で出た桂吾は、あたりまえだがスーツでやって来た友人に少し面食らった。自分との違いがそこにあるような気がした。
「いきなりいなくなったからびっくりしたぜ、ホント」
「悪いな、家出た後ちょっと問題あって携帯買えなかったんだよ」
今日び、プリペイドの携帯ですら犯罪使用の恐れがあるという事で身分証の提示が必要だ。以前から使っていたものは家を出る時にもちろん解約してあったから、旭と暮らす前は桂吾から一方的に連絡を取るしかなかった。
それでも、とっくに桂吾の家の事情を知っていた目の前の男、蓮見(はすみ)は、何も言わずにいてくれた。
「お前が家出したのはほとんど知られてないみたいだぜ。捜索願も出てないらしいし、近所じゃどこかで一人暮しを始めたって噂になってる」
駅ビルのラーメン屋に入ってから、蓮見は桂吾に顔を寄せてつぶやいた。
「へえ。やっぱりな」
旭に連絡をとるように言われて1度だけ電話をかけたが、一方的に生きてる事だけ告げて切ったから、詳しい事は何一つ知らなかった。ただ父親の性格を考えると表ざたにしないだろう事は容易に想像できる。いつでも会社経営を優先させてきた人間が息子の出奔を口外するとは考えにくい。
それでなくてもとても他人に言えるような理由じゃないし…。
運ばれてきたラーメンをすすってから蓮見が桂吾を見た。
「で、お前いまどうやって暮らしてるんだ? …仕事とかしてるのか?」
「いや、まだ貯金あるから、それでどうにか暮らしてるよ」
気軽に答えた桂吾に蓮見は少し苦い顔をする。
「それにしたってさ、いつかは無くなるし。家賃だって田舎と違ってバカにならないだろうが」
実は家賃は払っていなかった。
旭のマンションは、彼女が去年の暮れに20年ローンを組んで買ったもので、同クラスの賃貸よりも月々の支払いがよっぽど安いらしい。だから賃料を貰うまででもないとつっぱねられた。もちろん旭が自分を思って言ってくれている事はわかっていたから食い下がったが、逆にその金で自分の道を見つける努力をしろと怒られた。
無言でラーメンを食べる桂吾に蓮見は不思議な顔をした。
言って良いものか思案してから、桂吾が口を開く。
「…俺、いま居候の身分なんだよ。だから、当面は大丈夫」
「女か?」
「んー、まぁ」
2人の間に何も無いとはいえ、男女がいっしょに暮らしている事に変わりはないので曖昧に答えておいた。
蓮見は大げさに溜め息をついて、がっくりと肩を落とす。
「そりゃそうだよなぁ…お前高校の時から女切らしたこと無いしなぁ…」
彼女は中学の時からいたけど。と心の中で訂正したが言わなかった。
蓮見の女運の悪さは仲間内でもピカイチだったから、言ったが最後どんな嫌味を言われるか…。
桂吾はこの話題を切り替えるために、わざらしく溜め息をついて言った。
「俺もお前みたいに将来の夢とか見えてりゃ良いんだけどな」
目の前の男は、父親がやっている小さな建具屋を継ぐ為に、その取引先の住宅建築会社へ就職していた。技術とコネが一遍で手に入るからと笑っていた蓮見に、自分には無い大人らしさを感じたものだ。
もちろん、それは今でも変わらない。
きちんと自分の位置を見定めて先へ向かっている蓮見と、立っている場所も目的地もわからない桂吾。それを思い返すたびに、自分が周りからどんどん置いていかれている気がした。
蓮見はそんな桂吾の気持ちが読めたのか、力無くふっと笑った。
余りお目にかかった事の無い蓮見の仕草に桂吾は首をかしげる。
「…最近、仕事しながら思うんだ。俺このまま歳とっていくんだろうなって。もちろんいつかは親父の店を継ぐけど、やってる仕事なんてそう変わらないし、一生これやってくだけなんだろうなってさ」
「それがお前の夢じゃないのか?」
意外な発言に反論すると、蓮見は桂吾に見えるようにはっきりと笑顔を作った。
「ああ…だから今更辞めたいとは思わない。けどさ、もっと他の道もあったんじゃないかって思ってしまうんだ、時々な」
いつでも自分で決めた事を貫いてきた蓮見にそんな悩みがあるとは思っていなかった。
桂吾は伝票を持って立ちあがった蓮見の背中をただ見つめていた。

『お前が今いちばん好きだとか大切だとか、そう思えるものを守っていく事から始めたらいいんじゃないか?』
別れ際、駅の雑踏の中で蓮見はそう言った。
無言で頷く桂吾に見せた笑顔が、妙に心に残る。
いつも通りの夜中の夕食、今日の出来事を淡々と語った桂吾に、旭は事も無げに言った。
「5月病ってやつね」
「え?」
訝しげに聞き返すと、旭は少し首を傾げた。
無造作に降ろしている黒髪がサラサラと肩からこぼれ落ちる。
「知らないの? …就職して2ヶ月くらいするとね、どうしてもそう思っちゃうのよ。仕事覚えて毎日同じ事を繰り返しているうちに、何がしたかったのか判らなくなってしまうのね」
遠い目をして語る旭に、そんなものだろうかと不思議に思った。
「旭さんにもそういう事があったわけ?」
「そんなの、しょっちゅうあったわよ。その友達みたいに就職してすぐにそう思ったし。仕事のせいで男と上手く行かなかった時もだし、それからマンションのローン払う時と、結婚諦めた時とー…」
「……」
絶句して、指折り数えていた旭を見つめる。
どうしてこう、普通なら言い難いことをあけすけに言ってしまえるのか。
「なによ?」
呆れ顔の桂吾に気を悪くしたらしい旭が、上目使いで睨んだ。
「い、いや…結婚諦めるのは早すぎるんじゃない? まだ20代なんだしさ」
「…あのねえ20代って言ったって、あと1年しないうちに30なのよ? ほとんど家にもいないような仕事してる三十路の女なんて誰がもらうのよ」
溜め息と共にそうつぶやいた旭を、桂吾はじっと見つめた。
本人がくすんできたと言い張ってる肌だってまだまだ綺麗だし、コシが無くなったと嘆く髪だって艶やかでサラサラだ。何よりその力強い光を放つ瞳が人を惹きつけている事になぜ気付かないのか。
もしも桂吾が旭の前の男と同じ立場なら、いくら彼女の仕事が忙しいからといって別れたりはしなかっただろう。
「旭さんは綺麗だと思うよ、本気で。もし俺がまともな男になった時にまだ一人でいるなら、プロポーズするよ」
本気で言ったら困るのが解り切っていたから、わざと茶化して言った。
旭もそれに応えるように、ニヤリとする。
「桂吾くんがまともになる頃なんて、私おばあちゃんになってるんじゃないの?」
「あ、ひでえ。そのうちすっげーイイ男になってやるからな」
「はいはい。期待してるわ」
手をひらひらさせながら投げ遣りに言う旭を見て、桂吾が笑った。つられて旭も笑う。
桂吾は笑いながら、人を愛せるようになりたいと強く思った。
…できることなら旭を愛したい、と。

   

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