Bitter ビター
3
雲ひとつ見えない、抜けるような青空。
春にしては少し暑すぎる晴天の午後、桂吾は行く宛てもなくただブラブラと街中を歩いていた。
繁華街とは道を1本隔てた通り。
ごみごみして雑多な向こうとは違い、オフィスビルとマンションの立ち並ぶ静かなところだった。
桂吾はこみあげる欠伸を繰り返しながら小さな公園の側まで来ると、植えられた樹木の根元に腰掛ける。園内では子供達が声をあげながら走りまわっていた。
常に深くかぶっていた帽子を取って頭を振ると、中途半端に伸びた髪がバサバサと広がった。
溜め息をひとつついて目を閉じれば、流れていく風が心地良い。
木陰の陽射しと暖かな風、静かに意識を手放そうとした瞬間、最近聞いた事のある忘れがたい声を聞いたような気がして、桂吾は目を開けた。
視線の先には、心底驚いた顔をして自分を見るリクルートスーツの女。
「…日野さん…」
あれから2週間が過ぎようとしていた。
「これ、どういうこと」
地べたに座ったままの桂吾を前に仁王立ちした旭は、手に紙飛行機を持っていた。使用素材は1万円札。
「どういうって…宿代だって書いておいたけど?」
紙飛行機したのが良くなかったのだろうか、目の前の旭はムッとした顔で1万円紙飛行機を桂吾につき返した。
「返す」
「え、なんで?」
わけがわからずに聞き返すと、旭は更に詰め寄った。
「額が大きいし、それに宿代なんてもらう気ないから」
「…一応、迷惑かけたお礼と2軒目の勘定も入ってるんだけど?」
旭の部屋で目覚めた時、サイフの中身は1軒目のバーで払った分以外、減っていなかった。ということは2軒目は旭がご馳走してくれたという事だ。記憶が無いから2人にどういう話があったのかは知らないが、大方、正体をなくした桂吾の代わりに全て旭が払ったのだろう。
「お礼はいらないし、2軒目は私がおごってあげたのよ…わかったら受け取って」
旭は手を出そうとしない桂吾にイライラした様子でそう言った。
桂吾はといえば、そんな事にはお構いなしで目の前の旭をじっと見つめていた。
あの日も今も真正面からずっと見ているのに、なぜこんなに旭に惹かれるのかが未だにわからない。性的な魅力を感じるのではなく、ただ目が離せない。
いつまでも飽きることなく見続けていたいと思うのは何故なのか…。
ぼうっとしている桂吾を不審に思ったのか、旭はかかんで目線を合わせた。
「…大丈夫? また具合悪いの?」
意外な事を言われて何の事かと首をひねったが、すぐに発作的に起こる吐き気の事だと思い当たった。
「ああ、あれは大丈夫…それよりその1万円、日野さんにあげるよ。いらなかったら捨ててもいいし、誰かにあげてもいい。紙飛行機だから飛ばしてもいいかもね」
冗談めかして、少し笑った。
「もう、ふざけないで。あなただって一人暮しなんでしょ? …お金大事にしなさいよ」
「一人暮しじゃないよ。それに、お金もあまり必要ない生活してるから」
旭が不思議な顔をする。間近で見る旭の表情はやはり目をひいた。
「…だって、親のスネはかじってないって言ってたじゃないの。あれも嘘?」
「いや、本当。一人暮しじゃないのも本当。家が無いのも本当」
「え?」
「俺、ホームレスなの」
ある程度予想してた通り、旭は烈火のごとく怒った。
なんで他人事でここまで怒れるのか不思議なくらいに。
「いやー、俺こんなに説教くらったの初めてかも」
「こんな余裕綽々なホームレスなんて信じられないわよ!」
旭のマンションのリビング。テーブルに向かい合ってそれぞれ感想を述べた。
あれから問答無用でマンションに連れて来られた桂吾は、説教されながら自身の事情を白状させられた。もちろんマズイところは誤魔化したが。
「なー、刑事さん。そろそろ釈放してよ。俺これから寝るとこ探さなきゃいけないからさ」
「私ただのOLよ」
いや、冗談だったんだけどね…。
間に受けられた桂吾が頭をかく。
旭は軽く溜め息をついて、桂吾を見つめた。
「…どうしても家には帰らないの? ご両親、心配してるわよ、きっと」
「それはどうかな。俺、出てくる時、相当ひでえ事言ったし」
桂吾の家は母親が早くに亡くなった為、父親と桂吾の2人家族だった。
男所帯でもそれなりに暮らしていたが、3年前に父親が一回り以上も年下の女と再婚してから生活が一変した。家庭は崩壊し、3年耐え続けた桂吾は高校の卒業式から数日後に、覚悟の家出をした。
あてもなく電車を乗り継ぎ縁もゆかりもないこの街へやって来て、新たな生活を始めるつもりだった。しかし世の中そんなに甘く無い。いくら金があったとしても保護者のいない未成年に、ほいほいアパートを貸してくれるわけない事を不動産屋で知った。
そのうち桂吾は、この悠々自適な生活も悪くないんじゃないかと思い始めた。
街にある色々な場所を利用して贅沢しなければ、食費とほんの少しの生活費で生きていける。幸い貯金はかなりの額を持っているし、住所不定なら見つけられる心配もない。
そうして、実に1ヶ月半の時を過ごしていた。
「どんなひどい事言ったって、家族なんだから心配するわよ」
「そりゃあ真っ当な家族ならね。いかれた継母とそいつに骨抜きにされた父親じゃ、怪しいもんだよ」
旭は顔をしかめると桂吾をたしなめた。
「そういう言い方、感心しないわ。…とりあえず連絡だけはしなさいよ」
「え、やだよ。見つかったら困るし」
またあの家の中に放りこまれたら…と考えるだけでぞっとする。
あんな思いをするくらいなら死んだ方が、いくらかマシだとさえ思った。
鳩尾のあたりがやんわりと重くなる。
そんな桂吾を見て、旭は溜め息をついた。
「…居場所は言わなくてもいいから、元気でいるってだけ伝えて。そしたらここに置いてあげるから」
旭の発言に、桂吾は信じられない顔をした。
「ちょ、ちょっと待ってよ。俺がここで暮らすの?!」
「いや?」
「えっ、嫌じゃないけど…」
思わず本音が出た。衣食住の安定よりも毎日旭を見ていられる事に心が動いた。
「…そんな顔されたら放っておけないでしょ。大丈夫よ、獲って食いやしないから」
普通、獲って食われる心配をするのは逆だ…と思いつつ桂吾は自分の顔に手をあてた。そんなに酷い顔をしているのだろうか。
「でも俺、日野さんから見たら見ず知らずの人間だし。それでもいいわけ?」
「いいわよ、変なマネしようとしたらぶちのめすから。私、合気道やってたから強いわよ?」
きっぱりと言いきった様が旭らしかったのと、なぜか自分の全てが受け入れられたような気がして、思わず笑みがこぼれた。
「あ、なんで笑うわけ?! 本当なんだからね!」
ムキになる旭を見てますます可笑しくなる。
瞳に溜まった涙は笑いすぎたせいなのか、それとも違うものなのか、判断のつかないままそっと指でぬぐった。
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