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 Bitter  ビター

 2
寝ぼけた目をこすって、周りを見渡す。
見た事の無い部屋。
全体的にベージュから白で統一してあるすっきりとした内装に、朝日が差し込んでいた。
もう一度目をこする。…が、やはり見覚えの無い部屋。
…昨夜はホテルには泊まらなかったはずだけど…。
朦朧とした頭で必死に昨日の記憶を探る。
……。
「あ!」
そう。昨夜は街で見かけた女を追いかけて、妙なことから一緒に飲む羽目になって…それから…それから?
とにかく飲んで飲んで閉店まで居座った2人は意気統合し、2軒目を目指して出発した。
そこまでは覚えているのに、それ以降がさっぱり思い出せない。
桂吾はベット代わりらしきソファから起きあがると、勝手にキッチンで水を飲んだ。
てっきりぬるくてカルキ臭い水道水が出てくるものと予想していたのに、コップに注がれたのは冷たくて何の臭みも無い澄んだ水だった。
どこかに浄水機がついているのかも知れない。
でも、おかげで頭がすっきりしてきた。
再度部屋を見渡す。
全体の造りといい、キッチンの様子といい、どう考えても個人宅だと思う。
バルコニーに面した開放感のあるLDK。壁についている引き戸の奥は多分和室。廊下へのドアを開けると左右に3つドアがついている。少なくとも2LDK以上のマンションだ。
…という事は。
「あら、おはよう直江くん」
まるで計ったように、廊下のドアが開いて寝ぼけ眼の旭が顔を出した。
「…ひ、日野さん…」
余りに予想通りの展開に言葉をつまらせると、旭は不思議な顔をしてリビングに入ってきた。
「なによ、すっぴんじゃ誰だかわかんないとでも言いたいわけ?」
見事なストレートヘアを無造作にガシガシと手で梳いて桂吾に向き直る。
桂吾は思ってもいない事を言われたので、無言で首を横に振った。
確かにすっぴんの旭は化粧した時と違っているが、悪い方向にではなく、良い方向に変化していた。余計なものが無いぶん目の大きさと肌の白さが引き立っている。
「すっぴんのが全然良いと思うけど。俺は」
「またまたぁ。29歳の女つかまえて、すっぴんのが良いは無いでしょ。…もちっとお世辞の使い方勉強なさい」
本気で言ったのに、あっさりとかわされた上お世辞だと思われてるし。しかもダメ出しつき。
それでも少しは気分が良かったのか、旭は鼻歌を歌いながら冷蔵庫から牛乳を出して豪快に飲んだ。パックから直接。
「……」
「ん? なに?」
旭はじっと見つめた桂吾の視線に気付いて、訝しげに振り向いた。
「あ、いや…日野さん彼氏とかにイメージと違うとか言われた事あるでしょ」
パッと見、大人しい几帳面な性格かと思わせておきながら、端々の行動から察する旭の性格は、大胆で大雑把な気がした。
「…ケンカ売ってんなら買うわよ」
低い声でピシャリと言われたので、思わず口をつぐむ。
怒らせたかな…と恐る恐る伺い見ると、旭は声を立てて笑った。
「あはは! 冗談よ、少年。…今更そんな事言われたって何とも思わないわよ」
「しょ、しょうねん…」
完全に子供扱いかよ。
少なからずショックを受けている桂吾を見て、旭は益々おかしそうに笑った。
「私より年下には違いないでしょ。さ、下らない事言ってないで朝ご飯にしよ」
旭は桂吾の返事も聞かずに、さっさとキッチンに向き直る。
なんだか釈然としなかったが口では勝てそうも無かったので、黙ってそれに従った。

てっきりトーストでも作って終り。だと思っていたら、以外にも和食だったので驚いた。
すでに炊き上がっていたご飯に、鮭と納豆と味噌汁。
酒に弱い方じゃない桂吾が記憶を無くすくらい飲んだのだから、付き合っていた旭だって相当ぐでんぐでんだったと思うのに、いつの間にご飯をしかけたのか。
不思議な顔をしていたのを目ざとく見つけた旭が上目使いにこちらを見た。
「もしかして…納豆ダメとか?」
「え…いや、いつの間にご飯しかけたのかなと思って」
「いつって、帰って来てからに決まってるでしょ。…覚えてないの?」
旭の問いかけに答えるようにちょっと肩を竦めて見せる。
「まぁ、直江くんすっごい飲んでたからねぇ」
ご飯を咀嚼しながら、昨夜を思い出すように旭はうんうんと頷いた。
桂吾も昨夜を思いかえす。
昨夜は自分でもペースが早いなと思った。けれど、なんだか止められなかった。酒をあおって旭と笑い合っている間だけ身体に染み付いた嫌悪感を忘れられそうな気がした。
2人でしばし黙々と食べ物を口に運ぶ、こすれ合う食器の音だけが響いた。
と、突然気がついたように旭が口を開いた。
「ってことは…直江くん、どうしてうちに泊まったか覚えてないのね?」
「…すいません」
先ほどから聞こうと思いつつ、きっかけを掴み損ねていた話題が振られたので、素直に応じた。
これが2人とも素っ裸でベッドで寝てました。というところから始まっていたなら、覚えてないとはとても言えないのだが、今の自分では例え酔っていたとしても女を抱く気になどならないだろうと思った。
旭は少し考えてから昨夜の話をしてくれた。
「…2軒目の店を出る頃には私も直江くんも立派に酔っ払ってたから、お開きにしようって事になったのよ。そしたら直江くんがどこか泊まるところを教えてくれって言ったの。もう2時過ぎてたから電車も無いし、家がどこか知らないけど、それでもホテル代出すならタクシーで帰った方が良いでしょ? そう言ったら、家は無いって言うし…それで仕方が無いからうちに来たってわけ」
「あー…ほんと、すいません」
どうやら、とんでもなく迷惑をかけたらしい。
桂吾はテーブルにくっつくくらい頭を下げた。
「うちは私ひとり暮らしだから良いけど、家の方だいじょうぶ? 家族いるなら連絡した方がいいかもよ」
家が無いという桂吾の話は、酔っ払いのたわごとだと思っているらしい旭は、電話の位置を示しながらそう言った。
「いや、大丈夫」
ちょっと苦笑いしながら応じる。
「ふぅん」
旭は気の無い返事を返しながら、鮭の切り身をほおばった。
また、少しの沈黙。
「直江くんってご飯きれいに食べるのね」
どうやら沈黙に耐えられないらしい旭が、ぼそっとつぶやいた。
「…そうかな? 自分ではわからないけど」
「昨日も言ったけど、私食べ物を粗末にできない性格で、他人の食べ方とか観察しちゃうのよねー」
そう言いながら動かす旭の箸使いは、やはり美しく、すらっとした手とあいまって妙な色気があった。
着物とか似合いそうだな…と思った瞬間、脳裏に着物を着たある女が浮かんで、急に吐き気がこみあげた。
「ちょ…ちょっと、直江くん?!」
突然苦しそうな顔をして真っ青になった桂吾に、旭はあわてて手を伸ばした。
桂吾は右手をかざして旭を制すると、上を向いて深呼吸をする。
思い出したくも無い女を消し去る為に、2度3度繰り返す。次第に吐き気はおさまり女の幻影もどこかへと消えた。
大きく溜め息をついて旭の方へ向き直ると、彼女は中腰のまま不安そうな顔をしていた。
「ごめん、驚いた?」
「お、おどろくわよ! なんなの一体?! …どっか悪いの?」
一息にそう叫ぶと、旭は泣きそうな顔をする。
「身体はどこも悪くないんだけどさ。たまーになるんだ。心配しないで」
何でもない事のように軽い調子で返すと、安心したのか一度息を吐いてぷいっとそっぽを向いた。
「見ず知らずの男を心配するほど酔狂じゃないわよ」
「…泣きそうな顔してたくせに?」
茶化す為にわざとからかうと、案の定、顔を赤くしてあからさまに膨れっ面をした。
「わ、私は、こんなとこで倒れられたら、いたいけな少年連れこんだみたいに見られるのが嫌だっただけよ! …直江くん見ようによったら未成年にも見えるし」
「そりゃしょうがないよ、実際に未成年なんだし」
……。
今まで喚いていた旭がピタリと口をつぐんだ。
水を打ったように静まり返る室内。
「……未成年?」
「ん。2月で18歳になったとこ」
「だって…いっしょに飲んでたじゃないの、お酒」
「あー。法律違反?」
テーブルに頬杖をつきながらそう答えると、立ったままの旭が険しい顔をしてこちらを見ていた。静かに拳が震えている。
「『法律違反?』 じゃ、なあぁーーーいっっ!!」
「うわっ」
突然大噴火をおこした旭の声の大きさに、おもわず耳を塞いだ。
「あんたねぇ、大人をからかうんじゃないわよ! …親のスネかじってる身分で酒なんか飲むなっ!」
大声を出した反動で大きく息をつきながら、旭はじろりと桂吾を睨んだ。
桂吾はなぜそれほど親しいわけでもない旭に説教されているのか、いまいちわかりかねたが、本人は睨んだつもりらしいその顔が妙に可愛かったりしたので腹立たしくもなかった。
11歳も年上の女性に可愛いなんて言ったらそれこそ張り倒されるだろうが…。
旭は肩で息をしながら、テーブルのイスにどっかりと座った。
一方的にヒートアップして疲れたらしい。
そんな姿も面白いなと思って眺めていると、かなり憮然とした表情を返された。
「…ちょっと、人の話聞いてたの?」
「聞いてたよ。酒は止める。…でもひとつ訂正したいんだけど。俺、今は親のスネかじってないから」
「ああそう…でも見ず知らずの女騙すなんて最低よ」
騙したんじゃなくて、黙ってただけなんだけど。…と思ったが言わなかった。
さながら燻ってる燃えカスにガソリン撒き散らすようなものだ。
とりあえず殊勝なふりで頭を下げる。
「騙すつもりじゃなかったけど…気分悪くさせたなら謝るよ。本当にごめん」
「…まぁいいわ。過ぎちゃったことだし。私も楽しかったし…でも2度としない方がいいわよ」
旭は淡々とそう言って、立ちあがった。
てきぱきと食べ終わった後の食器をまとめてキッチンへと運ぶ。さりげなく桂吾の分まで持っていってくれるあたりに大人の配慮が見えた。
ふと手伝うかを悩んだが、備え付けの食器洗浄機に入れているだけのようなので声はかけなかった。
壁にかかっている時計は、9時15分。
ソファの横に畳んであった自分の上着をつかんで、中からサイフを取り出す。
札入れから1枚抜き取ると、ちょいちょいと手を加えてテーブルの上に置いた。それから悪いとは思ったが電話の脇にあったメモ帳を1枚失敬して「宿代」と殴り書いた。
…このまま別れるのは惜しいんだけどね。
立ちあがると奥にいる旭に声をかける。
「泊めてくれて、ありがと。俺そろそろ行くね」
「…気をつけて」
むこうを向いたままだったけれど、それでも返事してくれるところが彼女らしい。
桂吾は少し苦笑いして、旭の部屋を後にした。

   

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