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 Bitter  ビター

 1
通りを行き過ぎるほとんどの人達が浮かれている金曜日の歓楽街。
たくさんの人間のざわめきと店の明かりと、星も見えない闇をごちゃ混ぜにしたパレード。誰も彼もが楽しそうに笑い合いふざけ合っているのに、どこかうそ臭い。
帽子を目深にかぶった青年は、歩道脇のガードレールに腰掛けて、そんな人の流れをずっと見つめていた。
騒がしい人の群れにまぎれて誰にも見られず、誰も見ずにいられるここが彼にとっての癒しの場所だった。
このまま誰知らぬうちに消えてしまえたらどんなに良いだろう。
闇に溶けて風の吹く方へ流されていれば、もう何も辛い事など無いのに。
…ふと、赤い唇が頭をかすめた。
綺麗な顔を歪ませて、愛しているから許してくれと言った女。
自分が完全に消えてしまったら、あのひとは泣くのだろうか?
それとも…あの言葉さえも嘘だったのか…。

突然、機械的な音楽が流れ出した。
はっとして目を向けた先は、スクランブルの交差点。
考えているうちに周りの音が聞こえなくなっていたらしい。
そっと溜め息をついて、なにげなく交差点を見る。視覚障害者用の音楽の中たくさんの人たちがこちら側へと渡っていた。
そんな中、先頭を歩く女性に目が止まった。
長いストレートの髪を後ろで結んで、グレーのビジネススーツに身を包んだ女性。
特別きれいだとか、そういうのじゃない。けれど、何故か気になった。
女性は青年の視線に気付かないまま、目の前を過ぎて向かいのビルの地下へと降りていく。看板には「カクテルバー Sion」の文字。
あわててポケットに入っているサイフを取り出す。
中身を確認してから、青年は地下への階段を降りた。

…全く、馬鹿かと思う。
別に声をかけて何かしようとか、そういうんじゃない。
それに、仕事帰りにスーツのままでバーに来る女だ。ここで彼氏と待ち合わせているのかも知れない。
でも、それならそれで良かった。
さっき彼女に感じたものの原因を自問自答したかった。彼女の面影が薄れる前に。
だから、彼女がカウンターにひとりで座っていた時、迷わずに隣の席を目指した。
「…ここ、空いてます?」
一応、声をかける。
不況とはいえ金曜の夜、いくら店が混雑していて空いてる席が少なかったとしても、彼氏の為にリザーブしてある席だったらやっかいだ。
彼女は驚いた顔をして青年をみつめ、少し笑った。
「ええ」
青年も笑顔を返して、静かに席についた。
すかさずマスターらしき男性がおしぼりを出してくれる。
「ジンバックを」
「かしこまりました」
少しかすれた感じの声で応対すると、マスターは優雅な物腰でカクテルを作り出す。
その手元を見つめる振りをしながら隣の女性を少しだけ観察する。
近くで見るとわかるこげ茶の瞳。全然くせの無い髪を後ろで束ねていて動くたびにサラサラと流れる。真っ白な手と短く切り揃えられた爪。目立たない程度に塗られたピンク色のマニキュアがきらきら光った。
ぼーっと見ていると、目の前にさっとカクテルが差し出された。
飾り気の無いシンプルなグラスが、返って中身を引き立てている。
控えめな照明に照らし出されたグラスをしばし眺めていると、隣の女性がすっと身を乗り出した。
やべ…もう帰るのか?
ドキドキしながら見ると、彼女はカウンターへ更にずいっと近づいて言った。
「マスター、『ビター』ちょうだい」
一瞬、耳を疑うが、メニューに『ビター』なるものがあったのを思い出して納得した。
彼女の発言がただの追加注文だった事にほっとしたのも束の間、今度はマスターがじりじり後ずさった。
「ぜ、全部ひとりで食べるんでしょうね…?」
元々低い声を更に低くして、マスターは言った。
「…んー、どうかな…食べれるとは思うけど。…まぁ、残ったって良いじゃないの。残りはマスターにあげるからさー」
それを聞いて、更に顔を険しくするマスター。
さっきとは一変して緊迫した雰囲気になったカウンター席で、青年はわけがわからずにマスターと彼女を交互に見つめた。
と、急に彼女がこちらを振り向く。
「ね、となりの人! …あなたチョコ好き?」
「は? …まぁ、好きですけど」
いきなり話を振られてとっさに答えると、彼女はにーっと笑った。
「好きだって。…この人と半分にするから。それなら良いんでしょ。あ、もちろん私のおごりね」
彼女は勝ち誇ったようにそう言って、すとんとイスに座りなおした。
一体なんなんだ?
全然状況が把握できないまま、呆然としていると、マスターがすまなそうに言う。
「…お客様、こちらの方から差し入れの申し出がございましたが、お出しして宜しいでしょうか?」
「はぁ。…あの、一体なにがなにやら…?」
首をひねると、彼女が笑いながら話した。
「あのね、おつまみのビターっていうチョコすごーく美味しいんだけど、量がちょっと多いの。で、いつも私が食べ残しちやうわけ。でも食べ物を粗末にするなんて私のポリシーに反するから、マスターにあげるんだけど、情けないことにこの人甘いのすっごい苦手なのよね」
いたずらっぽい目をして彼女が見上げると、マスターが苦々しい顔をした。
「嫌がる私に無理に食べさせるのを楽しんでるようなお客様には、お出ししたくないんですがね」
ふと、元々のチョコレートの量を減らせば良いだけなのでは…と思ったが言わないでおいた。彼女なら半分にしたところでわざと残すくらいの事はしそうだと思った
マスターもそれがわかっているから、減らす努力をしないのかも知れない。
しぶしぶつまみの用意をするマスターを尻目に、彼女がこっそり耳打ちする。
「実は、マスターの彼女と知り合いなの。少し甘いものに慣れてもらわないと何作ってあげるにしても大変だって相談されてて。彼女お菓子作り命だから」
「ああ、なるほど…」
男にはいまいちわからない女性心理に適当な相槌を打ったが、耳元で囁かれる声にドキドキしてそれどころではなかった。
それに、至近距離だとふんわりとやさしい香りがする。
青年はらしくない自分に驚いた。年の割には多すぎるくらいの場数は踏んでいるはずなのに、なんだか初めてのデートのように落ち着かない。
間もなくチョコレートを飾り付けた皿を持ってきたマスターがおかわりを聞いた。
何故かはわからないが乾杯することになって、2人はグラスを持ち上げる。
「じゃ、今日の出会いに―――っと、そういえば名前聞いてなかったわね」
「…直江桂吾(なおえ けいご)です」
少し考えてから、本名を告げた。ここで偽名を使うまででもないと思った。
「そ。私は、日野旭(ひの あさひ)。…じゃあ、直江くんと私の出会いと今日の酒とチョコに…カンパーイ!」
グラスとグラスの角が少し触れるくらいにあてると、カチンといい音がした。
それから彼女のカクテルに入ったクラッシュアイスが崩れる音。
予想外の出会いは、こうして始まった。

   

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