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 薔薇洋館の主

 7
屋敷に「落ちていた橋が復旧した」と電話が来たのは、みちるが遭難した日から7日目の夜だった。
ただ、復旧したとは言っても完全に直ったわけではなくて、土嚢と木材でとりあえず人が渡れるようにしただけらしい。それでも、明典に橋の手前まで送って貰い、渡ったところにタクシーでも呼んでおけば帰る事はできる。
六郷がヘリで乗りつけた時のように、一瞬、躊躇したけれど、もう一週間も過ぎてしまったし、何より早く帰って心配しているであろう富田と理乃にきちんと話をしなければならない。
まだ完全に諦め切れていないから、決着を考えると辛くなる。でも、2人の前で笑顔を作るくらいはできそうな気がしていた。
それは、きっと……。
玄関脇のガラステーブルで、メモ紙へ何かを書き付けている明典を盗み見る。
……アキさんのおかげ。
明日送っていって貰う時に、きちんとお礼を言おうとみちるは思う。この先もう会う事が無いという事実は、あえて思い出さないようにした。

早めの昼食を摂って、昼少し前に軽トラに乗り込んだみちるを、明典が運転席から少し呆れ顔で見つめた。
なんだろうと眉を上げる。
「なんですか?」
「いえ……何も帰る直前まで手伝わなくても良かったんですよ?」
明典はどうやら、午前中の仕事をみちるが手伝った事を言っているらしい。
昨夜までいつ橋が直るのか判らない状況だったので、みちるは白薔薇を貰った日の翌日から、明典の仕事を手伝っていた。屋敷の掃除をしても良かったのだけど、この先も使わない部屋だと言うので、より彼の役に立てる方を選んだ。
手伝いと言っても、園芸の知識なんてまるで無いみちるにできるのは、指定された場所への水撒きや、剪定した後などに出る葉茎の残骸を片付けるくらい。それなのに、明典は負い目を感じているようだった。
「んー、でも、私がやりたかったんですよね。楽しいっていうか……私、農業関係に就職しちゃおうかな?」
やりたかったのは明典の手伝いであって、内容は何でも良かったのだけれど、みちるはわざと茶化した。
「……そう、ですね。みちるさんならできると思います」
明典は一瞬言葉に詰まってから、優しく微笑んだ。冗談だったのだけど、素で受け取られてしまったので、みちるも苦笑いする。
走り出した車窓の外を眺めながら、戻ったら仕事先も見つけなければならないと思った。

15分ほど登り、三叉路を左に曲がって更に30分下ると、小さな川が見えた。最初は道路と平行に流れていたけれど、やがて大きく左に曲がりだした。
路肩には『通行止め』とか『危険』とか『工事中』とかの看板がごちゃごちゃに並べられている。
「……こちら側から来るのは僕だけなのに、こんなに看板置かなくても良いんですけどねぇ」
明典ののんびりした口調に、みちるも笑った。
「それもそうですね」
橋があったらしきところの手前に車を停めて、降りる。ここからは歩いて渡るらしい。
改まってお礼を言うのが、ちょっと気恥ずかしくて言わずにここまで来てしまったけれど、最後なんだしちゃんと言わないといけない。ついでに一週間分の生活費の振込先か、住所も聞かなければならなかった。
手持ちでは足りないだろうし、何より来た時にバッグ類全てびしょ濡れになったから、お札がぱりぱりで渡すには気が引ける。
相変わらず良く判らない寂しさが心の隅にあるけれど、笑みを顔に貼り付けて、みちるは振り返った。
……と、車の傍に明典がいない。驚いて見渡せば、みちるより先に川の方へ歩き出していた。
「みちるさーん、行きますよー」
「……て、何でアキさんまで行くんですか?!」
「え。食料品の買出しですが……一週間ぶりですし」
普通に考えて当たり前の事を言われ、みちるはガクッと脱力する。
……そうよ、そうよね。一週間閉じ込められていたんだもん、当たり前よね……。
結局お礼を言うチャンスを逃したみちるは、先を行く明典に向かって駆け出した。
本来の橋があった場所から5メートルくらい離れたところに、これでもかと土嚢を積み上げて、それを足場に簡単な木の橋が掛けてある。今は小川と言ってもいいくらいしか流れていないけれど、コンクリートの橋を押し流すほどの水量と勢いがあったのだと思うと、恐ろしさを感じた。
みちるは、あの豪雨の中を思い出して、あそこに明典の屋敷があった事を今更ながら感謝した。
渡りきったところには、見張りの警備員と、頼んでおいたタクシーが停まっている。運転席の窓を開けて、警備員とのんびり談笑している顔は……。
あの運ちゃん!!
展望台まで送ってくれた後、結局、来てくれなかった運転手だった。といっても、迎えを頼んだわけじゃないから、みちるが勝手に期待していただけなのだけど。
運ちゃんはこちらに気付くと、へらりと笑って手を挙げた。
「おー、嬢ちゃん無事だったかぁ」
「……おかげさまで」
不機嫌な顔で返したみちると、運ちゃんを交互に眺めた明典は、訳が判らずに首を傾げる。
「お知り合いなんですか?」
「えーと、多分……」
知り合いと言っても展望台まで乗せてもらっただけなので、簡単に説明した後、みちると明典はタクシーに乗った。
来る時は時間を気にしていなかったけれど、市内までは更に40分くらいかかるらしい。細かい時間を知るにつれ、屋敷が本当に山奥なのだと改めて感じた。
後部座席に並んで座っているみちると明典をミラーで確認した運ちゃんがにやにやしている。
「嬢ちゃん、薔薇洋館の坊ちゃんに助けて貰って良かったなぁ」
「バラヨーカン?」
「うちの屋敷は、この辺では『薔薇洋館』と呼ばれているんです。通称という奴です」
何のことか判らずに声を上げたみちるに、明典が教えてくれた。薔薇のジャムがあるのだから、薔薇の羊羹があるのかと一瞬疑ってしまったみちるは、黙って頬を染める。
その様子を何か勘違いしたらしい運ちゃんは、面白そうにひっひっと笑った。
「その様子じゃ、うーんと仲良くなったみたいだなぁ。まぁ一週間も同じとこで寝起きしてりゃ当然か」
……この、エロオヤジがっ。
運ちゃんの言う『仲良く』にどんな意味が含まれているかなんて、恋愛経験のほぼ無いみちるにも判る。居心地の悪さを感じながら明典を盗み見ると、これっぽちも気付いていないらしく、のほほんと笑顔を返された。
全然気付かないのも、どうだろう……。
急に疲れた気がしたみちるは、明典のために一応、否定しておく。
「おじさんが期待してるような事は、なーんにも無かったですけどね」
初日に裸見られてるとか、六郷に勘違いされたとか、展望台で大泣きしたとか、薔薇貰ったとか、みちる的には色々あったけれど、下世話なおっさんが期待しているのはそういうことじゃないだろうと思った。
「なぁんだ、つまんねーなあ。坊ちゃんと宜しくやりゃ、将来は玉の輿だろうによ」
本人が山奥で農家をしていても、実家が金持ちだったら玉の輿と言うのだろうか……?
なんて、どうでもいい事を考えていたみちるは、明典が息を飲んだような気がして隣を見た。
どことなく顔色が悪いし、表情が固まっている。
「……どしたの、アキさん。車に酔った?」
「え。あ……いえ、大丈夫です」
「?」
ハッとみちるを見た明典は、少しだけ困ったような顔をしてから、窓の方を向いてしまった。
この一週間で何度か見た表情の意味が、未だに判らない。知りたいと思いながらも、もうすぐ別れるみちるにはどうする事もできなかった。

みちるが泊まっていたホテルの前でタクシーを降りた。理由が理由だし、予約は全てキャンセルしてあったけれど、荷物だけをそのまま預かって貰っていた。
「みちるさん、これからどうするんですか? ……このまま旅行続けるんですか?」
明典の言葉に少しだけ考え、首を振る。
本来の目的は傷心旅行だった。富田と理乃から離れて、気持ちの整理をつける為に旅に出た。でも遭難して、明典に出会って色々あって……勇気を貰った気がする。だから……。
「帰ります、東京へ。今なら、ちゃんと言える気がするから」
笑顔で言うと、明典も笑ってくれた。
「そうですか」
少しだけ、沈黙。これで最後だと思うと、尚更言葉が出てこない。
まず始めにきちんとお礼を言って、感謝を伝えて、それから住所を聞いて……。
頭の中でちゃんと順番を決めたのに、最初に口をついて出たのは
「アキさんちの住所、教えてください! あと電話も!」
という言葉だった。
「それは構いませんが……いま書く物が無いんですよね。どうしましょう?」
なぜ? と聞かないところが明典らしい。
別れ難くて、つい住所から入ってしまったみちるは混乱した。とっさに明典の手を掴んでホテルに入ると、フロントに引っ張っていく。
「か、紙とペンを貸してください……!」
わざわざ尋ねなくても、カウンターの上に自由使いのメモパッドが置いてある。みちるの剣幕に驚いたフロント嬢がおずおずとそれを差し出した。
受け取った明典が住所を書いている間に、少しだけ落ち着いてきたみちるは自分の荷物の事を尋ねる。
山奥で遭難してホテルをキャンセルした客なんて、後にも先にもみちるだけだろうから、荷物はすぐに出てきた。
明典も書き終えたらしく、みちるは綺麗な字の並んだメモを受け取った。
「上に書いたのがここの屋敷で、下が東京の家です。あとは僕の携帯電話番号……といっても屋敷では繋がりませんけど」
いや、そこまで詳細じゃなくて良かったんだけど……じゃなくて。
「携帯持っていたんですか」
「はい。出かけた時用なんです」
屋敷周辺が圏外なので、持っていた事に驚く。外出した時しか使えないなんて、便利なんだか不便なんだか判らないと思った。
「あのー、鈴下様?」
別れを意識したくなくて、どうでもいい話を続けていたみちるは、掛けられた声に振り返る。見れば先ほど荷物を出してくれたフロント嬢だった。
「はい?」
「実は一昨日から鈴下様にお会いしたいと、待っておられる方がいまして。お呼びしても宜しいでしょうか?」
「へ……?」
突然起きた予想外の展開に、みちるは間抜けな声を出した。

良く判らないまま、ロビーの喫茶コーナーで待っていたみちるは、エレベーターから飛び出してきた人物を見て立ち上がった。
腰まであるふわふわのロングヘアをなびかせて駆けてくるのは……。
「理乃?!」
「みちるっ!」
呆然と見つめたみちるに、理乃は抱きついて顔を埋めた。
「……どうしてここに……」
呟いて、見下ろす。みちるよりもいくらか背の低い理乃は、会っていなかった3週間の間に痩せたような気がする。一体なにがあったのかとみちるは顔を曇らせた。
それに何故ここにいるのか。
しばらくじっとしていた理乃は、静かに離れるとみちるの向かい側に座った。きちんと眠れているのか疑問な程に顔色が悪いし、目も赤い。心配するみちるの視線に気付いたのか、少し俯いた。
「みちるがいなくなって、心配だったからアパートの前まで行ったの。そうしたら六郷さんていうお爺ちゃんに会って、みちるがここにいるって聞いたのよ。それで来てみたら、ホテルの人がみちるは遭難して帰って来られない所にいるっていうし。携帯は繋がらないし……私凄く心配で……」
「六郷さんが? ……なんで?」
隣のソファに座って、事の成り行きを見守っていた明典を見る。と、渋い顔をして大きな溜息をついた。
「……大方、みちるさんの身辺調査にでも行ったんでしょう」
「なんでそんな事……」
最初勘違いはされたけれど、会って説明した時に誤解は解けたはず。みちるは怪訝な顔をして首を捻った。
見つめるみちるを避けるように、明典が不自然に視線をはずす。心なしか顔が赤い……気がする。
「みちるさん気に入られたんですよ。その……本気で僕の奥さんになって貰いたいと思ってるんじゃないですか。だから勝手に調査してるんだと思います」
「お……っ!」
奥さんー?!
いきなり何を言うのかとドギマギしたけれど、皆の前でわんわん泣いていた六郷を思い出して、彼ならやりかねないと思った。思ったものの、やはり釈然とはしない。調べられて困る事は無くても、プライバシーを探られるのは面白くなかった。
憮然としたみちるに、明典が小さく謝る。謝って貰うべきは彼じゃないので、無言で首を振った。
もともと華奢な子なのに、ますます痩せてしまった理乃は、ハンカチを出して両手で目頭を押さえている。こんなに心配させてしまった自分を恥じたみちるが、声を掛けようとした時、逆に理乃が声を上げた。
「みちる、ごめん……!」
「え、何?」
理乃に謝られる事なんか、無いはず。困惑したみちるの目の前で、理乃は涙を零した。
「気付いてたんだよね? ……私の気持ち。だから、何も言わないでいなくなったんでしょう?」
理乃の言いたい事が判って、みちるはぎくりと身体を強張らせた。
みちるの彼氏である富田を密かに好きになってしまった理乃。みちるがその事に気付いていたのを、彼女も知っていたらしい。
驚いて呆然と理乃を見る。細くて小さい肩が震えていた。
「違うよ……私が旅行に来たのは……」
確かに旅に出たのは、この三角関係とも言える環境から逃げたかったから。でもそれは理乃や富田のせいでは無く、自分自身を嫌悪しての事だった。
理乃は、悪くない。
好きになる事が自分の意思じゃどうにもならないのは、みちるが一番よく知っていた。
今こそきちんと話さなければいけない。みちるは静かに息を吸って、口を開いた。
「り……」
「理乃さんっ、みちるちゃんが見つかったって……!?」
みちるが言葉を発するより早く、ロビーの入り口から声が響いた。耳慣れた声に驚いて、立ち上がる。
ずっと会いたくて、会いたいから会えなかった……その彼が目の前にいた。
「……保先輩……」
思わずこぼれたみちるの言葉に、明典が驚いて顔を上げる。
何の心構えもできないまま富田と対峙したみちるは、見える景色が歪んでいくのを感じた。

   

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