薔薇洋館の主
8
眩暈を覚えて目を瞑ったみちるは、肩に触れた暖かさにハッと意識を取り戻した。
見れば、すぐ傍らに明典がいて倒れそうなみちるを支えてくれている。
「大丈夫?」
「あ……はい……」
気遣う明典に小さく返事をして、またソファに座った。
ゆるゆると顔を上げると、理乃と同じように少しやつれた富田が、こちらを心配そうに見ている。
「みちるちゃん、無事で良かった……」
安心したのか、大きく息を吐いて肩を落とした富田が、明典を見て不思議そうな顔をした。
余りの急展開にすっかり忘れていたけれど、理乃と富田に明典を紹介していない。まだ少しぼうっとしたまま口を開きかけた時、明典が軽く肩を叩いて、みちるに見えるように微笑んだ。
「僕が言うから、いいよ」
「……ありがとう」
厚意に甘えて、頷く。
もう大丈夫だと思っていたのに、何をどう話して良いのか判らないほど、みちるは混乱し憔悴していた。
明典は理乃と富田に笑顔を向けると、自己紹介を始める。それは、みちるが今まで見てきた表情とは違う、どこか不自然な笑みだった。
「初めまして、日向寺明典と言います。お二人の事は、みちるから聞いて存じています」
「……そう、ですか」
いきなり現れた明典に困惑しているらしい富田が挨拶を返す。ただ泣くばかりの理乃は無言で頷いた。
ぼんやりとやりとりを聞いていたみちるは、ふと違和感を覚える。
……今、呼び捨てにされた?
初めて会った時から、明典はずっと、さん付けでみちるを呼んでいた。それに富田が来てから、みちるに対して敬語も使っていない気がする。
失礼だとは思っていないし、どうでも構わないのだけれど意外だった。丁寧な明典が態度を変えた真意が判らない。
「先ほど秋山さんが、みちるの旅行の理由が自分にあるとおっしゃっていたのですが……」
みちるに代わって説明してくれようとした明典の言葉を、富田が遮った。
「違う。理乃さんは関係ない。俺が……俺が君を裏切ったからだ。そうだろう、みちるちゃん?」
真っ青な顔で辛そうに眉根を寄せる富田を見る。
どうして、こんなに良い人達なんだろう……。
お互いに相手の気持ちを知らないとはいえ、邪魔者のみちるがいなくなったのだから喜んで良いはずなのに、わざわざこんなところまで探しに来て、自分のせいだと責める。優しくされればされるほど、辛い。でも辛いのに、自分を思ってくれる気持ちが嬉しかった。
……もう、ほんとに、おしまいにしなくちゃ……。
これまで何度思っても諦められなかった事が、心にすとんと収まった。
みちるは顔を上げ、力強く首を振る。
「そうじゃないの。保先輩も、理乃も、悪くない。誰のせいでも無いの」
「……まぁ、強いて言うなら僕のせいなんですけどね」
みちるの言葉に繋げて発せられた声に驚いて明典を見た。
「アキさん?!」
何事かと一斉に見つめられた明典は照れながら苦笑いする。
「実は、みちるとはインターネットで知り合いましてね。その頃、彼女はちょうど富田さんとの関係に悩んでいて、僕が相談に乗っていたんです」
「?!」
なっ、なに言ってるの、この人!
いきなり始まった明典のメチャクチャな作り話に、みちるは目が点になった。富田と理乃も、ぽかんとしている。
頭の中がクエスチョンマークでいっぱいになったみちるが、何も言えないでいるうちに、明典は、さも事実のように語っていく。
「で、この街にうちの別荘があるから気晴らしに行こうって誘ったんですよ。まぁ、もちろん僕としては、みちるを良いなあって思ってましたし、ご存知の通り、あの豪雨で別荘に1週間も閉じ込められてしまったので、結果的には良かったんですけどね」
「な……」
「ごめん。言わない方が良かったかな」
みちるが口をぱくぱくさせていると、明典はじっとこちらを見つめ、思わせぶりに片目をつぶった。
口ぶりも仕草も楽しそうなのに、向けられた目が真剣だったのでハッとした。
何だろう……黙ってろって事……?
「みちるちゃん、本当にそうなのか? 俺と別れるっていうのは、そういう事だったのか?」
「みちる……」
困惑する富田と理乃に、はっきり嘘もつけず曖昧に誤魔化す。
「えっ、あ……えーと。ごめんなさい」
みちるの謝罪を肯定と取ったらしい富田は目を閉じて溜息をついた。
理乃も合わせたように苦笑する。
「もう……心配したんだから……」
「ごめんね」
泣き笑いの理乃に、もう一度、謝った。
それぞれ疲れた表情の中に少しだけ安堵が見えて、みちるは良かったと思いながらも、哀しみを感じた。
「そういう事で、みちるには僕がいるので心配いりません。お二人も……これからの事をきちんと考えてください。それが、みちるの希望でもあるから」
「アキさん……」
みちるを覗き込んだ明典に、耳元でそっと囁かれる。
「……笑って」
それが何を意味するのか、もう、みちるには判っていた。
本当の決別。富田とではなく、自分自身の想いとの別れ。
一度ぐっと唇を噛んだ後、みちるは皆に見えるように顔を綻ばせた。
「もう、本当に大丈夫だから。保先輩と理乃にも幸せになって欲しいよ」
ずっと泣き通しだった理乃がハッと顔を上げ、目を伏せる。富田は視線を彷徨わせた後、そっと理乃を見た。
みちるはそんな二人に苦笑する。
これで、いい……。
二人の性格を考えれば「気にするな」と言っても、みちるに遠慮して、すぐに付き合う事はしないのだろう。でも、いつか、そう遠くない未来に、同じ道を歩んでいくと信じている。まだ手放しで応援はできないけれど、それまでには心からの笑顔で二人に会えるはず。
だから、さよなら。
……あなたの事が誰よりも、大好きでした。
言葉にできない想いを込めて、みちるは富田を見つめ、瞳を閉じた。
ヒグラシの声が聞こえ始める頃、みちると明典はオレンジに染まった駅の階段を登っていた。
諦めると決めたとはいえ三人で帰るのはさすがに気が引けて、富田と理乃とはホテルで別れた。わざわざ探しに来てくれたのに申し訳ないと思うけれど、二人を見続けるのは、まだ辛い。
左手に持った旅行鞄をぶらぶらさせていたみちるは、先に階段を駆け上がって後ろの明典を振り返った。ちょうど夕日がみちるの背中にあるので、顔を上げた明典はまぶしそうに目を細める。
「どうしてあんな作り話、したんですか?」
ホテルを出てから、ぼんやりしているうちに駅に着いてしまったので、みちるはあの話の理由を聞きそびれていた。
「……勝手な事をして、すみません」
ばつの悪そうな明典は、みちるからそっと視線を外す。
責めていると思われたのかと、みちるは焦り、手をぶんぶん振った。
「あ、違うんです。結果的に良かったし助かったし、嬉しいんですけど、どうしてかなって思って……」
顔を上げた明典はいつも通りにふんわり微笑む。
「富田さんと秋山さんがみちるさんの言う通りの性格なら、もし別れても、みちるさんに気兼ねして一緒になる事は無さそうだと思いました」
脳裏に二人を思い描いて、みちるも頷いた。
「……まぁ、そうだと思います。でも、私が良いって言えば……」
「これは憶測なんですが、みちるさんに別の恋人でもできない限り、お二人の罪悪感が薄まる事は無いんじゃないかと」
「……」
それは薄々気付いていた。みちるが本当に心の底から二人を祝福できる状態にならなければ、富田と理乃はいつまでも自分たちを許さないだろう。かといってすぐに気持ちを切り替えられはしないから、大丈夫だと平気だからと何度でも言うつもりだった。それで、信じてもらえるかは別にして。
「自分のせいで誰かが不幸になるのは辛い。お二人も、そしてみちるさんもそうでしょう? 彼と別れて辛いのに、急いで別の恋人を見つけるなんて大変です。だったら、もう最初から、みちるさんが心変わりした事にすればいいと思いました」
ゆっくりと階段を登ってきた明典を、上目遣いに軽く睨む。
「アキさんは、いいひと過ぎですっ」
……全然関係ない私なんかの為に……。
「それは、褒め言葉として受け取っておきますね」
苦笑いした明典から、みちるは視線を逸らした。可愛げが無いけれど、素直になったらまた泣いてしまいそうだったから。
落ち着いたセミの声だけが聞こえるホームに、電車の到着予告が響いた。駅員が独特の節回しで、間もなく到着すると案内している。
もう5分も無い。みちるはバッと顔を上げた。
「いっぱい。いっぱいいっぱいありがとう。全部アキさんのおかげだから……っ」
一瞬驚いた明典が、にっこり笑う。
「僕も楽しかったです。ありがとう、みちるさん」
「あ、あの。お世話になった分のお金は送ります、手紙も、電話もします。だから、また、いつかきっと……!」
焦るみちるは、思い浮かぶ事をまとまりなく次々声に出していく。明典は全て判っているように、ゆっくり頷いた。
「でも、お金はいいです。もし、みちるさんが良ければ、そのお金でまた遊びに来てください」
「……絶対にまた来ます。ありがとうアキさん、本当にありがとう」
みちるの声を掻き消すように、音と風を巻き上げて電車が滑り混んできた。西日に晒された温い風が二人の髪を揺らして治まる。
電車の到着を告げる大音量の放送の中、みちると明典は一度握手をして、別れた。
最後まで「さよなら」とは、どちらも口にしなかった。
「アキさんっ!! どーなってるんですか、あのひとっ」
『え、えーっとですねぇ……』
ある秋の夜、みちるは自室のベッドに胡坐をかいて、電話の子機に向かって怒鳴っていた。
遭難して明典の洋館に世話になった日から約2ヶ月。暑さは大分落ち着いて、朝夕は長袖が必要なほど季節は変わった。
明典はあの洋館でいつも通り農家として暮らしているし、みちるは東京に帰り以前の生活に戻る……はずだったのだが。
「職場じゃ、お爺ちゃんのストーカーに狙われてるって噂になってるんですよ!」
『それはまた……』
声には出さないけれど明典が笑っている気配がして、みちるはカチンと来た。
みちるは東京に戻ってすぐ、募集のかかっていた近所のホームセンターに採用されていた。担当はガーデニング。明典の屋敷に滞在した影響……も無くは無い。
何も判らないながら、頑張って仕事を覚えようとしていた矢先、3日と空けず小さな老人が尋ねてくるようになった。
「ホント何とかしてください、六郷さんはアキさんちの人なんでしょう?」
『……そう言われましても、僕にどうにかできるような人では……』
「それは、そうですけどー」
家と職場に何度となくやってきては、明典との縁談を勧める六郷の顔を思い出して溜息をつく。
断っても、突っぱねてもへこたれない。彼の歳に合わないエネルギーとバイタリティーは一体どこから来るのだろうか。
『まぁ通報すれば、さすがに止めるとは思いますけど。目的は違っても、やっている事はストーカー行為ですし』
冗談交じりの明典の言葉に、みちるは押し黙った。
祖母に育てられたみちるは基本的に老人に弱い。今も心の底から迷惑だと思いながらも、六郷を傷つけたくない自分がいる。
でも……。
「このままだと、職場にいづらくなるんですけど……せっかく仕事楽しくなってきたのに……」
アルバイト募集を見たときに、あの温室で頑張って仕事をする明典の姿を思い出した。そして、花瓶に活けられた花々と、白い薔薇を。
あんなに楽しそうに早朝から遅くまで働く理由が知りたい。花を咲かせる喜びに触れてみたい。そう思って働き始めたのに。
『みちるさんは、園芸に興味があったんですか?』
六郷が押しかけてくるせいで頻繁に連絡を取っていたから、当然、明典もみちるのバイト先を知っていた。
「えっ。えーと……興味が出てきたって言うか……。アキさんがやってるの見て、楽しそうだなーとか思ったりしてー」
理由をはっきり言うのは気恥ずかしくて、わざと軽く言う。
明典は何かを考えているように黙り込むと「あっ」と小さな声を上げた。
『それなら、みちるさん、ウチで働きませんか?』
「は?!」
言っている意味が判らずに聞き返す。
『この先ずっと僕一人で農家をやっていくのも大変ですし、みちるさんが手伝ってくれませんか? ……あ、もちろんお給料もきちんと出しますよ』
いきなりな明典の提案に驚いた。
みちるはまだ鮮明に残っている薔薇洋館を思い描き、青い作業服姿の優しい人を脳裏に浮かべる。
たった1週間しかいなかった他人の家を、なぜか懐かしいと感じた。まるで自分の家のように。
明典の申し出は願っても無い事だし嬉しい……しかし……。
「それって、住み込みでって事ですよね?」
以前置いて貰った時は緊急事態な上、みちるは傷心旅行中だった。いくら明典が底無しに良い人でも心は動かなかった。
あれから時が過ぎ、富田と理乃もやっと交際を始めた。今のみちるは素直な気持ちで彼らを応援している。
……完全にフリーな男女が仕事とはいえ、一緒に暮らすのはどうなのだろう。
そんなみちるの微妙な心配には全然気付いていないらしい明典が、のんびり返事をした。
『そうですねぇ、街から通えない事も無いですが往復3時間近くかかりますし、家賃が勿体無い気がします』
「いや……そういう事じゃなくって」
『?』
みちるはがっくりと脱力する。考えすぎな自分が馬鹿らしくなった。
まぁ……いいか。なるようになれ、だ。
家族の無いみちるには今住んでいる場所に居続ける理由が無かった。富田と理乃も、もう大丈夫。一度きりの人生、行き当たりばったりも楽しいかも知れない。
受話器を握り直すと、みちるは晴れやかな表情で顔を上げた。
「私、アキさんの所で働きます。あ、でも、六郷さんにはちゃんと言っておいて下さいね?」
『ええ。それはもちろん』
含み笑いしながら答える明典に釣られて、みちるも笑う。
みちるは、これから先に起こるであろう、ちょっと変わっていて優しい人との生活に想いを馳せた。
第一部 完
|