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      薔薇洋館の主
  
 6 
早朝のコンビニのバイトは、6時過ぎまでやたら暇で、その後は目が回るほど忙しい。 
5時から勤務のみちるは赤い目を擦りながら、ぼうっと時計を見上げた。 
……しんどい。 
約1年前に唯一の血縁であった祖母を亡くしたみちるは一人暮らしで、微々たるものでも収入が無いと困る。祖母の残してくれた遺産があるから、1日休んだところでご飯が食べられなくなるという事も無いけれど、いきなり休むのは他のバイトに気が引けた。 
みちるはレジで突っ立ったまま、ここのところ続いている色んなゴタゴタに頭を悩ませる。それは友達同士の事であったり、掛け持ちしている他所のバイト内の揉め事であったり、一つ一つは些細な事なのだけど、一辺に起きたせいで酷いストレスになっていた。 
祖母の一周忌を終え、やっと立ち直れる気がした直後だから尚更辛い。思い出を一つずつしまっていけるような静かな時間が欲しいのに、現実はそれを許してはくれなかった。 
長い溜息を吐き出す。身体の中の嫌な気分も全部出切ってしまわないだろうかと、無理な事を思った。 
「みちるちゃん、どうかしたの。元気無いけど」 
落ち着いた声に振り向くと、同じバイト仲間の富田保則(とみた やすのり)が陳列を終えて戻ってきていた。 
近所の大学生だという富田は、みちるより長くここでアルバイトをしているらしく、なんとなくリーダーのような位置付けになっている。性格も穏やかで、底抜けに優しい富田は心配そうな顔をみちるに向けた。 
「保(やす)先輩……」 
みちるはずっと続いているらしい富田のニックネームで彼を呼んだ。 
「まだ忙しくならないから、それまで奥で休んでいても良いよ。オーナーには黙っておくからさ」 
富田の気遣いに、みちるは首を振る。同じ時給で働いているのに、自分だけ休むなんてできなかった。 
「大丈夫です。なんか最近色々ゴタゴタしてて、気疲れしてるだけなんで」 
本当のところは、あんまり眠れていなかったりするのだけど、無関係な富田に言う事ではないと思う。 
「そんな事言って顔色かなり悪いよ。誰か他に出られそうな奴、呼ぼうか?」 
「いえ、いいです。友達の事で悩んでるっていうか、そういう感じなんで」 
優しい富田に、思わず本音が出る。あっ、と思った時には、彼は腕を組んで難しい顔をしていた。 
「そうか……友達の事じゃ、他の友達にも相談できなくて辛いよな。みちるちゃんは一人暮らしだし」 
「……はい」 
学生の頃から続けているバイトだから、みちるの境遇は皆が知っている。だからこそ上辺の同情じゃなく、純粋に心配してくれている富田の気持ちが嬉しかった。 
富田はみちるの頭にポンポンと手を置いてから、ニッと笑う。 
「そういう時はさ、俺を頼ったら? ずっと同じバイトしてるんだし、家族代わりって言ったら、ちょっと図々しいかも知れないけど」 
みちるは驚いて富田を見た。 
疲れ果てていた心に、言葉がじんわり広がっていく。 
「はじめて……そんな事を言われました」 
「あれ、そうなのか。俺の事は家族同然と思ってくれて構わないよ。呼んでくれれば、いつでもどこでも行くからさ」 
何も言えなくて、みちるは黙ったまま頷いた。嬉しくて泣きそうで顔が上げられない。 
……今まで気付けなかった本当に簡単な事が、やっと判ったような気がした。
  
あの時、富田がどういうつもりでああ言ったのかは判らない。でも、言葉通りに受け取ったみちるは、時々悩みを打ち明けるようになり、次第に2人で出掛ける事が増えていった。 
一人っ子だという富田は、みちるを妹のように見てくれたし、みちるもまた彼を兄のように慕っていた。しかし、いくつかの季節を過ぎる頃には、みちるの中で富田の存在が大きくなり、やがてそれは恋心へ変わっていく。 
就職活動に専念するという理由でバイトを辞める事になった富田の最後の出勤日、送別会にかこつけて彼を呼び出したみちるは、生まれて初めて想いを伝えた。みちるを異性として意識していなかったらしい富田はとても驚いたようだったけれど、付き合う事を了承してくれた。 
嬉しくて嬉しくて舞い上がっていたみちるは、すっかり忘れていたのだ。彼は……とても優しい人だという事を。
  
富田と交際を始めてすぐに、みちるは親友と呼べるくらい仲の良い友達を彼に紹介した。彼女の名は、秋山理乃(あきやま りの)と言う。みちるの幼なじみ。 
幸せ過ぎたみちるは、2人がどう思うかを考えもせずに、自分の大切な人どうしも仲良くなって欲しいと安易に考え、彼らを引き合わせた。 
みちるが思う通りに2人はすぐに打ち解け、時々、3人で出掛けたりもしていた。 
大好きな彼氏と、優しい親友。温かい関係にみちるは満足していた。 
ところが、次第にそれぞれの付き合いがぎくしゃくしだす。 
富田は理乃の事を、理乃は富田の事を気に掛け、みちると2人きりの時にも話題にするようになった。そこにどんな感情があるのか、富田への想いを持つみちるに判らない訳は無い。 
酷い裏切りだと思った。実際に2人がみちるに隠れて会っているなんて事は絶対に無いし、他人を想う気持ちを抑える事ができないというのも頭では判っている。それでも、嫉妬に駆られたみちるは、自分から身を引く事だけはしたくなかった。 
後で考えれば、みちると富田の仲が全く進展しなかった事も、彼の気持ちの現れだったのかも知れない。付き合いだした当初に手を繋いだ事はあっても、それ以降のデートは以前と同じ、兄妹で出かけた時のような、ただ楽しいだけのものだった。 
みちる1人がそれぞれの気持ちに気付いただけで、何も変わらずまた一月が過ぎた。 
理乃から来るメールに、富田はどうしているかという内容が時々入っていて、悲しくなる。 
富田は本当に優しいから、何も言わない。 
理乃も優しいから、全てを黙して微笑んでいる。 
ふたりの想いに気付いていながら、自分の事だけを守ろうとする卑怯でみじめな自分。 
ちょうどバイト先のオーナーが隠居を理由に廃業するというので、無職になったみちるは2週間近く家に引き篭もった。泣いて落ち込んで、また泣いて。涙も出なくなった頃に、富田に電話を掛けた。 
一方的に別れを告げて、その足で旅行に出た。きちんと向き合う決心はつかないけれど、早く彼を解放することが、みちるにできる最善だった。
  
「……要はよくある簡単な話なんです。彼氏と幼なじみが好き合ってるって気付いたくせに、いつまでもずるずる引っ張って。それでも思い切れなかったから、旅行を理由にして逃げたんです」 
星空の展望台。いきなり泣き崩れてしまった気まずさから、みちるはこれまでの事を早口でざっと説明した。 
明典は終始無言で、相槌も打たずにただみちるの独白を聞いている。 
語り終えたみちるは、本当にほんの少しだけ心が軽くなった気がして、ほうっと息を吐いた。 
訪れる静かな時間。虫の音や蛙の声があるから無音という訳じゃないけれど、そのかすかな雑音が逆に心地良かった。 
どれくらいそうやっていたのか、明典がぽつりと呟く。 
「みちるさんは、優しいです」 
凄く意外な事を言われ、みちるは明典を見た。 
「どこが、ですか。彼の気持ちに気付いてたのに、知らないふりをし続けたんですよ」 
「でも、最後には決断したのでしょう? ……それに、優しいから悩むんだと、僕は思います」 
「……私は、もっと早く別れれば良かったって……思って」 
最後まではっきり言えずに、口をつぐむ。本当の本当は、別れたくなんて無い。こうしている今も愛しくて大好きで、忘れられない人だから。 
「本気で好きなら、そんなに簡単に割り切れるものじゃない。それでも決断したみちるさんは、優しくて強い人です」 
みちるはぎゅっと目を瞑って、力いっぱい頭を振った。固く閉じた目にまた涙が浮かぶ。 
「違う。ホントは誰にも渡したくない。保先輩が好きなの、誰よりも好き……でも、好きだから、もう一緒にはいられない……」 
彼に幸せになって欲しいから。もちろん理乃にも。 
横から伸びた明典の手が、みちるの頭をゆっくり撫でる。 
男の人特有の大きくて暖かい手が「わかった」と言っているような気がして、みちるはそっと瞳を開けた。睫毛の先に乗っていた雫がスローモーションみたいに、落ちていく。それはまるで自分自身の気持ちのように、地面にぶつかって弾けた。 
終わったんじゃない、もうとっくに終わっていた。それにも気付いてた。何も判らない振りをしていただけ……。 
涙目に映る星空は、綺麗過ぎて哀しかった。
  
次の日、陽が高くなってから目覚めたみちるは、鼻を押さえて顔をしかめた。 
恥ずかしい上に、身体も辛い。2日連続で泣いたせいか、鼻の奥がじわじわ痛かった。こういうのを鈍痛というのだろうか。 
窓の外を見れば明典はすでに働いているらしく、例の青い人が庭園と温室を行き来している。 
はっきり時間を確認していなかったけれど、昨夜は大分遅く帰って来たはずなのに、よく早起きできるものだと驚いた。 
ベッドに座ったまま目を瞑り、静かに息を吐く。全部すっきりしたとは言えないものの、今までいっぱいいっぱいだった心に少しだけ隙間ができたような妙な気分だった。 
ただ親切なだけの無関係な明典に、洗いざらい全て話した事を悔いてはいない。けれど、やはり顔を会わせ辛い……。 
みちるはベッドの上に体育座りをして、どう言い訳しようかと考える。が、結局良い案が浮かばなかったので開き直るしかないと思った。 
明典だって、あと少ししか一緒にいないみちるの事なんて、気にしていないだろう。 
そこまで考えて、ほんの少しだけ寂しいと思った。 
すでに昼に近い時間だけれど1日中寝ているわけにもいかないので、みちるはベッドを降りた。ふと、ドアの下に挟まれている紙が目に入る。 
……なんだろ、これ。 
引っ張ってみると、どうやら明典からの伝言らしい。
  
『服が届いたので置いておきます。お見せしたいものがあるので、体調が宜しければ午後からお付き合い下さい』
  
服が届いた? 
訳が判らないまま扉を開けると、廊下にボストンバッグが置いてあった。 
バッグの中には女性用のTシャツにハーフパンツ、それにフリーサイズの下着が3組ずつ入っていて、ご丁寧に圧縮してある。 
「……な、にこれぇ……?」 
みちるは呆然としたまま、首を傾げた。
  
みちる一人であれこれ考えても埒が明かないので明典に聞いたところ、今朝方ヘリコプターがやってきて、バッグを屋敷前に投下して去っていったらしい。 
「確認していませんが六郷さんの計らいでしょう。直接みちるさんに渡しても、遠慮して受け取らない可能性があるから、拒否できないように落としていったんじゃないですか」 
なんて明典はのほほんと語っていたけれど、まさに緊急支援物資としか言えない届け方に内心つっこみを入れた。 
ともあれ自前の服は着てきた1着しかないのだし、明典のジャージを借りっ放しというのも気が引けるので、有難く受け取る事にした。 
それに……荷物に驚いて、気まずさなんて忘れてたしね。 
みちるは前を歩く明典の背中を見て、苦笑した。
  
午後、見せたいものがあると言っていた明典に従って、みちるは庭園へ向かっている。屋敷の東側がこぢんまりした庭園になっていた。 
アーチをくぐると、真ん中に小さめの噴水。それを囲むように小道があって、小道の外側が花壇になっているらしい。 
所々に花は咲いているものの、ほとんどが赤茶から緑の葉っぱばかりで全体的に地味な印象だった。噴水も出ていないばかりか、水すら張られていない。 
「噴水、出てないんですね」 
「ええ。見る人がいないので節水節電で止めています。水も抜いておかないとボウフラが湧くので」 
「……」 
小さいとはいえ豪華な彫刻が施された噴水の現実を知ったみちるは、聞かなければ良かったと思った。 
……これも薔薇、なのかなぁ。 
みちるは花壇に植えられている棘のある木を見た。花も咲いていないし、もちろん香りもしないので良く判らない。 
「これです」 
庭園の入り口の反対側、奥まった場所を明典は指差す。そこには、腰の辺りまで茂った薔薇が植えられていた。 
みちるになぜ判ったのかと言えば、一輪だけ花が咲いているから。 
「薔薇ですよね?」 
見上げたみちるに、明典が頷く。 
部屋に飾ってあるものよりも一回り小さい花は、少し花弁が縮れていて、透き通るように白い。 
「正確な品種は判らないのですが、曾祖母はブランシュと呼んでいたそうです」 
「え、そんなに昔からあるんですか?」 
そんな風には見えないけれど、屋敷と同じくらい古いのだろうかと驚いた。 
「あ、いえ。これは挿し木で増やしたものなので、曾祖母が植えたものではないんですけれどね」 
肩を竦めた明典が首を振る。 
「挿し木?」 
「えーと、この薔薇の枝を切って土に挿して置くと、そこから根が出て、もう一本の木になるんです。今風に言うと、クローンみたいなものですかね」 
「へえー」 
薔薇の侮れない生命力に、更に驚いた。 
「これは曾祖母が結婚する時に自分の国から持って来た薔薇で……大げさに言うと、うちの象徴みたいなものなんです」 
少しだけ照れくさそうに言う明典に微笑む。 
「そういうのって、良いですね」 
「……はい」 
嬉しそうに笑った顔が無邪気で、年上の男性なのに少しだけ可愛らしいと思ってしまった。 
明典は腰に下げているシザーバッグに入っていたハサミを取り出すと、花の咲いている枝に手を添える。そして、みちるが不思議に思う間もなく、バチンと切り落とした。 
「あっ!」 
思わず声を上げる。 
うろたえるみちるを気にせずに、明典は花のすぐ下を指で挟んで一気に引き下ろした。ビリッという音がして棘が地面に落ちる。 
「白い薔薇の花言葉ってご存知ですか?」 
手袋をしているとはいえ、直接棘を触って痛くないのだろうかと思っていたみちるは、明典の言葉に顔を上げた。 
「……え?」 
「僕も詳しくは無いのですが『尊敬』なんだそうですよ」 
「はぁ」 
唐突に振られた話題についていけず、気の抜けた言葉を返す。 
枝をくるくる回して棘の残りが無いかを確認した明典は、次に大きめの葉がついた枝を切って、同じように棘を落とした。 
「それから、薔薇の葉の言葉は『希望』 ……どうぞ、みちるさんを尊敬している僕からの贈り物です。おまけで希望付き」 
明典が冗談めかして、花と葉を合わせただけの質素な花束をかざす。思わず受け取ってしまったみちるは、目を見開いた後、瞬いた。 
「え……と……」 
「昨夜も言いましたけど、みちるさんは優しくて強くて、素敵な人です。だから、大丈夫。きっとこれから嬉しい事が沢山待っていますよ」 
明典の言わんとしている事に気付いて、みちるはとっさに俯く。 
励まして、くれてるんだ……。 
みちるの中に暖かい気持ちがじわりと広がる。嬉しくて、胸の奥がいっぱいで、顔が火照った。 
「もー、アキさんナチュラルに気障だし……」 
「そうですか?」 
下を向いたまま、茶化す。冗談ぽく誤魔化さないと、また泣いてしまいそうだった。 
優しさに弱くなっている自分を情けないと思いつつ、少しだけ嬉しい。甘えても受け止めて貰える幸せを、みちるは久しぶりに感じていた。 
「……ありがと」 
花を抱き締めて、呟く。 
下を向いているみちるには見えないけれど、明典が微笑んだような気がした。 
「さ、戻りましょうか」 
「うん……でも、ごめんなさい。私の為に大切な花を切ってくれたんでしょう?」 
嬉しい反面やっぱり申し訳なくて、みちるは恐る恐る顔を上げる。明典は少し意外そうな顔をしてから、静かに首を振った。 
「実はそれ、狂い咲きなんです。本当は春にしか咲かない薔薇なのに、何故か一つだけ今咲いたんですよ。ですから気にしないで下さい。いずれにせよ剪定しなければならなかったので」 
「そういうものなんですか?」 
花屋に年中置いてあるから、みちるは咲く時期なんてものがある事すら知らなかった。 
「はい。みちるさんが来た時に咲いたので、運命的だと思って、これにしたんです」 
さらっと言われた言葉に、また赤面する。 
「あ、アキさんて、何でそうフツーに気障なんですかー! もー!」 
「はい?」 
顔を見られまいと、みちるは急いで踵を返した。小走りで駆け出した腕から、薔薇が落ちないように抱え直す。 
みちるに合わせて揺れる花からは、甘いだけじゃない凛とした香りが漂っていた。 
 
    
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