薔薇洋館の主
4
翌朝、昨日の疲れからぼんやりした頭のまま、みちるは例のお姫様部屋を出て階段を降りていた。
肉体的にはもちろん、精神的疲労が辛い。全ては明典と、あの酷い臭いのする虫のせいだ。
いきなり抱きつかれて動揺したところに大っ嫌いなものを見せられたみちるは、恐慌状態に陥った。叫んで明典を突き飛ばし逃げたのだけれど、入ってきたはずのドアが開かない。混乱した頭ではまともな思考ができずに、みちるは閉じ込められたと勘違いして泣き出したという訳だ。
本当は、押して開くドアを引いていただけだったのだけど……。
よろよろしながら生活スペースへ向き直ると、今朝はまだ仕事に取り掛かっていないらしい明典がソファで背中を丸めていた。
「おはようございまーすっ」
せめて声だけでも覇気があるように、空元気で挨拶する。
ハッとして振り返った明典はあからさまに驚いて、次に困った顔をした。
見れば、明典の手には電話の子機。
……やば……電話中だった?!
みちるは声を出さずに、顔の前で何度も両手を合わせて謝ると後ずさりした。
明典曰く無駄に広いこの屋敷では、声の響き方も凄くて、今の挨拶は確実に電話の向こうに伝わっただろう。
足音を立てないようにすり足で階段まで逃げたみちるは、よく判らないけれど階段の影に隠れた。
電話は続いているらしく、明典のしどろもどろな返答が聞こえてくる。
「え、いや、偶然、道に迷った人が……」
「違いますよ。そういうんじゃ……本当に本当ですって」
「それは困ります。相手の方に悪いでしょう? 別に隠していたわけじゃ……えっ」
「ちょ、ちょっと……!」
焦る明典の声が突然途切れ、それから長い溜息が聞こえた。
……これは、かなりマズイ状況かも……。
階段脇に蹲るみちるの背中に、冷たい汗が流れる。聞いた状況からして電話の相手は、みちるがここにいるのを知られると困る人物。つまり、明典の奥さん……は無さそうだから、恋人というところか。
電話は終わったようだけれど、自分から出て行くのも気まずくて、みちるはそのまま隠れていた。近付いてきた明典がこちらを覗きこんだのを、恐る恐る見上げる。
「……ごめんなさい」
「良いんですよ。それに、その……謝らなければならないのは僕の方です、多分」
初めて見る疲れた表情の明典と言葉の内容に、みちるは首を捻った。
とりあえず出かける用意をした方が良いという明典に従って、急いで朝食を摂ったみちるは、来た時に着ていた服に着替えた。
これまで明典のジャージやTシャツを借りていたから、丸一日着ていなかったのだけれど、やはり自分の服はほっとする。
昨日は終日外で仕事をしていた明典も、薄い長袖シャツに綿のパンツという至って普通の格好をしていた。
「あの、どこかに出かけるんですか? ……というか、橋が直ったんですか?」
展望台から市内へ通じる道路の途中にあった橋が、先日の増水で落ちたという話を思い出して、みちるは明典に聞く。
明典は相変わらず暗い顔をしたまま、静かに首を振った。
「直ってはいないので僕らは出掛けられないのですが、東京の家から、ちょっと面倒な人が来る……と思うんです」
それはさっきの電話の相手……明典の恋人なのだろうかと邪推し、みちるは内心項垂れる。
自分の問題だけでも手一杯なのに、誤解されて修羅場に巻き込まれるのは勘弁だった。
「でも、どうやって?」
みちるの質問には答えずに視線を逸らした明典は、腕につけた時計を見て、もう一度溜息をつく。
「電話を切ってから、そろそろ2時間ですから、もうすぐ来ると思います」
不思議に思って明典を見つめていると、遠くから微かに規則的が音が聞こえてきた。
東京でもよく耳にする、この音は……。
「……ヘリコプター?」
どんどん近付いてくる音は確かにヘリコプターの物だ。明典の返事を聞く前に、みちるは玄関の扉を開けて空を見上げた。
少し離れた空に飛ぶ機影は、もはや爆音としか表現できない物凄い音を響かせながら、こちらへ向かってくる。近付いた機体が巻き起こした風に、みちるが目を瞑った瞬間、ヘリは屋敷の上を越えていった。
ゆるゆる目を開けると隣に来ていた明典が、指先で肩をつつく。
「屋敷の裏にヘリポートがあるんです」
十中八九、お金持ちなんだろうとは思っていたけれど、個人宅にヘリポートがあるという事に驚き、みちるはぽかんと彼を見た。
一瞬、悲しそうな顔をした明典が無言で中へと戻っていく。
みちるは、その表情に何故か胸がざわめいて、声を掛けようとしたものの何を言えば良いのか判らずに口をつぐんだ。
なんだろう? 判らない。でも、気になる。
離れていく明典の背中を見ていたみちるは、慌しく近付いてくる足音に外を振り返った。
「あーきーすーけーさーまーっ!!」
しわがれ声で叫んだ主を見れば、立派な礼服を着た小さな老人がこちらへ駆けて来る。
「えっと……」
どうしたものかと明典見たけれど、本人は老人の声が聞こえているだろうに動く気配が無い。
やがて間近に来た老人は顔を上げ、みちるを見て驚きの声を上げた。
「あ、ああ! あなたは! あなた様はっ!!」
「は、はい?」
老人は両手でみちるの手を掴み、瞳をうるうるさせている。
何か凄い興奮してる……?
みちるは訳が判らずに、引きつった笑顔を浮かべながら少し身を引いた。
「六郷(ろくごう)さん!」
突然掛けられた声の方を向くと、明典が厳しい顔をしてこちらを見ている。
……へえ。あんな顔もするんだ。
天然でぼんやりしていて、いつも笑っているイメージの明典の変わりように、みちるは驚いた。
「おお、明典坊ちゃま。この六郷、この日をどれだけ心待ちにしておりました事か!」
「坊ちゃまはもう止めて下さい!」
頬を染めて涙目の六郷と、眉間に皺を寄せた明典を見比べる。
なんなの、一体?
みちるは六郷の手をゆっくり外した後、明典に顔を向けた。
「とりあえず、部外者の私にも判るように説明して貰えます?」
いつもの玄関ホールのソファに、明典とみちる。向かいの絨毯に六郷とヘリの操縦士が座り、ガラステーブルを囲んでいる。
「つまり。こちらの六郷さんはアキさんのお爺様の秘書で、今は家の相談役で?」
「そうです」
みちるが六郷を示しながら言うと、明典が頷いた。
「アキさんが24歳にもなってカノジョもいないから、超心配していた?」
「左様でございます」
今度は明典を示しながら言うと、六郷が頷く。
「で、私の声を聞いて、カノジョだと思って駆けつけた?」
「とりあえず全速力でこちらに向かえと言われました」
最後に自分を示すと、操縦士が答えた。
みちるは溜息を一つついて、それぞれを呆れ顔で見回す。
「さっきも説明した通り、私ただの遭難者でアキさんとは何も無いんですけど。会ったのも2日前だし」
これ以上誤解されても困るし、何よりみちるの羞恥心から、ずぶ濡れで倒れて裸を見られた事はこの際黙っておいた。
ちらりと明典を見れば、相変わらず難しい顔をしている。
……まぁ、このお爺ちゃん思い込み激しそうだしね。
いくら相談役と言えど、明典に彼女ができた(かも知れない)だけでヘリで乗りつけるのは、確かに行き過ぎだと思う。
それにしても、こんな遠くまでやってきたのに誤解だったと知って、この人達はどうするのだろうかと、関係の無いみちるでさえ気まずさを感じた。
一瞬の静寂。場の空気の重さにうんざりする。
「う……うぅー……」
と、いきなり唸りだした六郷に驚いて、みちるは肩を振るわせた。
「ちょ、ちょっと六郷さん、どうしたの?!」
何か悪い病気の発作でも起きたのかと思いソファから降りて駆け寄ると、六郷はポケットから出した真っ白のハンカチに顔を埋めて泣いている。
「大旦那様と大奥様が亡くなられてから此の方、日向寺家のご家族をお守りする為に生き長らえておりますのに、この六郷めが無力なせいで何のお役にも立てぬ有様。直典(なおすけ)坊ちゃまがご結婚されたというのに、年上である明典坊ちゃまがお相手どころか、このような生活をしているなどと、どうしてあの世に行って大旦那様に申し開きができましょう……!」
一気にまくし立てた六郷が、鼻をぐずぐず鳴らした。
直典坊ちゃま?
みちるは明典を振り返って、首を傾げた。
「すぐ下の弟です」
言わなくても疑問が判ったらしく明典が即答する。みちるも昨夜聞いた「結婚して別に暮らしている弟」がいる事を思い出した。
しくしく泣き続ける六郷の背中をさすりながら、ほんの少し同情する。
確かに六郷は思い込みが激しいし、感情も激しそうだし、周りにすれば迷惑な事もあるだろうけれど、世話をしている明典がこんな山奥で仙人みたいな生活をしていたら、それは心配だと思う。
いくらイケメンでも天然で空気は読めない、実家が金持ちでも本人はしがない園芸農家、山奥在住で出会い無し、住んでる家は幽霊の出そうな古い洋館。
……六郷さんじゃなくても、心配かも。
明典のデータを指折り数えて、他人事ながら凹んだ。
「六郷さんも、苦労してるんですねぇ……」
よしよしと背中を撫でると、六郷はハンカチで顔中を拭った後に鼻をかみ、ポケットにしまった。
「すみません、みちる様。ご迷惑をお掛けしました」
「いえ、判って貰えれば良いんですけど」
何とか落ち着いたらしい六郷にほっとして、みちるは顔を上げる。
六郷が愚痴を言って泣く事など日常茶飯事なのか、特に驚いてもいない明典はどこか冷めた目でちらりとみちるを見た。
何なんだろう、さっきから。
ヘリの音が聞こえてからの、明典の態度がおかしい。ただ六郷が疎ましいばかりでは無い気がする。しかし2日前に会ったばかりのみちるには指摘して良いのか判らなかった。
「とりあえずエンジンを温めておきます」
話が一段落したと判断したのか、操縦士がそそくさとヘリへ戻っていく。
わざわざ東京から来たのにすぐ帰るのだろうかと少し驚きながら見送ったみちるは、明典の言葉で振り返った。
「みちるさん」
「はい?」
「みちるさんも、帰れますよ?」
「え……ああ……そう、ですね」
怒涛の展開に全く気付いていなかったけれど、よく考えれば、みちるも六郷達と共にヘリに乗る事ができる。
やっとここから出られる、家に帰れる。それなのに実感が無いばかりか、嬉しいとは思えなかった。
なんで……家に帰れば不便な事は何も無いし、またいつもの生活に戻れるのに……。
みちるは自分の気持ちが判らずに、胸元をぎゅっと握った。
「みちるさん?」
返事をしないみちるに、明典が不審そうな顔をする。
帰りたいと思っていたはずなのに、帰れると知った今の暗い気持ちはなんだろう? ……でもまだ……。
ふいに、置いてきた人の優しい笑顔を思い出す。
東京へ帰って、彼に会うのが怖いから? ……確かに、まだ笑って会える心の準備はできていない。それでも、ここに残りたいという理由とは結びつかないような気がした。
一度大きく息を吸い込んだみちるは、サッと顔を上げて傍らの六郷に向き直る。
「六郷さん!」
「は、はい。なんでございますか?」
「ヘリは東京にしか行かないんですよね。時間も無いし、ここの市内に寄り道する事はできないですよね?!」
「え……ええ。自家用で急遽参りましたから、人命に関わるような緊急事態で無い限り市内に着陸する事はできませんが」
何事かと目を丸くした2人を尻目に、みちるは腕を組んで宣言した。
「私ここに観光旅行に来たんです。見たい所を全部見るまでは、どうしても帰れませんっ」
「しかし、ここにいても見られない事に変わり無いですよ……橋もいつ直るか判りませんし」
弱々しく進言した明典に、少しだけ気が咎める。
旅行なんて理由はこじつけで、本当は自分でもよく判らない。明典の迷惑になる事も判っている。でも何故か今は帰りたく無かった。
「橋はそのうち直るだろうし、それから旅行続けたいんです。ご迷惑ですか? ……あの、もちろん食費とかは後で全部お支払いします。光熱費とかも」
一瞬きょとんとした明典は、次の瞬間にぷっとふきだして肩を震わせる。
「い、いや。良いですよ。迷惑には思ってませんから」
くすくす笑いながら答える明典に、みちるは少しムッとした。おかしな事を言っている自覚はあるけれど、そこまで笑わなくても良いんじゃないかと思う。
ただ事の成り行きを見守っていた六郷は、相好を崩して、それから静かに立ち上がった。
「では、私はお暇致します」
「あ……」
見上げたみちるに、にっこりと笑いかける。
「みちる様、お会いできたご縁に感謝致します。ご迷惑ついでに、この哀れな爺めを外で見送って頂けませんでしょうか。この先はお会いできないかも知れませんゆえ」
「え。はい、構いませんけど……」
みちるは同じように立ち上がって、隣で恭しく明典に礼を尽くす六郷を見た。
まぁ、早めに橋が復旧すれば、もう会うことも無いし……背中ナデナデしたから気に入られたとか?
六郷は一緒に見送るという明典を押しとどめ、みちるを伴って歩き出す。
無言のまま屋敷を半周すると、意外に開けていた裏手の真ん中にコンクリートが敷かれていて、そこに「Hyugadera」と書かれたヘリコプターが停まっていた。
けっこう大きいんだなぁ。
見上げて感動する。空を飛んでいる時は小さく見えるのに、間近で見るヘリはかなり大きかった。
「大きいでしょう?」
隣に立つ六郷が誇らしげに言う。
「はい。ちょっとびっくりしました」
素直に言うと、六郷は前を見たまま真剣な顔をした。
「みちる様は、どう思われますか?」
「え、何をですか?」
言われている意味が判らずに、目を瞬く。
「日向寺家は自家用のヘリコプターと、ヘリポート。東京の本宅に、こんなに大きな別邸まである。会社も経営していますし総資産は相当な額です。それを、どう思われますか?」
どう、と言われても、みちるには質問の意図が判りかねた。自分とは住む世界が違いすぎて、現実味が無いというのが正直なところだ。
「えーっとー……凄いなー、とか。お金持ちだなー、とか。それくらいしか……」
あはは、と笑ってお茶を濁す。
「羨ましいと、欲しいとは思われませんか?」
声音は穏やかでも、厳しい視線をまっすぐ前に向けている六郷に、みちるはいい加減な答えを返して良い質問では無いのだと気付いた。
少し沈黙して、考える。しかしどこまで行っても、それは所詮他人事でしか無かった。
「ごめんなさい。その……否定する気は無いんだけど、あんまり欲しいとは思わないです」
「どうしてですかな?」
「私には必要無いから、かな。今凄く凄く欲しいものがあるけど、それはお金じゃどうにもならないんです……私が欲しいのは……」
それ以上は言えなくて、みちるは口を閉じる。固く瞑った瞼の裏に見えるのは、いつも同じ人。
こぼれそうな涙を誤魔化すために、少し上を向いて目を開けた。
急にこちらを向いた六郷は、これ以上無いくらい優しく微笑む。
「もし良ければ、そのお考えを明典様にお聞かせ願えませんか?」
「え?」
「無理に、とは申しません。みちる様の気が向いた時で結構ですので、お伝え下さると嬉しゅうございます。私も、明典様も……」
どういう事か聞こうとしたみちるの声は、回りだしたプロペラの音と風にかき消される。笑ったまま頭を下げた六郷の声も、もちろん聞こえなかった。
「なに?! なんですか、六郷さん!」
できるだけ大声で言ったのに、六郷はただゆっくり首を振って、ヘリコプターへ乗り込む。
何も判らないみちるを残して、ヘリはまた爆音と共に空へと帰っていった。
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