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 薔薇洋館の主

 3
「あの、これ、何ですか?」
朝食のパンと共に出された真っ赤なジャムを見たみちるは、それをつけたトーストを美味しそうに頬張る明典に聞いた。
パッと見はイチゴジャムのようだけれど、イチゴよりもサラサラしているし、何より着色したのかというほど真っ赤なのがおかしい。
「薔薇のジャムですよ」
「は……薔薇?」
そう言われて、よーくよーく見れば小さな花びらのような物が見える。
「ウチで作っている物では無いのですが、隣町の農園さんの新商品だそうです。美味しいですよ」
「えっと、でも、薔薇って花ですよね?」
「ええ。これは花弁とローズヒップも入っているそうですが」
……ろーずひっぷ……て何だろう?
花に縁の無い生活を送っているみちるには、一体なんの事やら判らなかったけれど、とりあえず少しだけパンに乗せて食べてみた。
「あ。美味しいかも」
「でしょう」
嬉しそうな明典に頷く。
薔薇と聞くと芳香剤くらいしか思い浮かばなかったから、どんな恐ろしい味がするのか身構えたものの、予想外にあっさりした味と香りだった。
それにしても……とみちるは周りを見回す。
屋敷に合わせたと思しき、上品な花柄の陶磁器に薔薇のトースト。そして良い香りの紅茶。
これだけなら優雅な朝食なのだけれど、置かれたテーブルがそこらのホームセンターで買ったとしか思えないガラステーブルだし、向かいに座る明典は青作業着、対して自分は赤ジャージだった。
ヘン。もの凄く。
上品な生活なんてした事が無いみちるでさえ、この状態がおかしい事は判る。昨日からありえない事ばかりで混乱していたから流していたものの、この家も、明典も不思議な事だらけだった。
「あのー、すっごく素朴な疑問なんですけど、どうして玄関で生活してるんですか……?」
他人の事情に立ち入るのは良くないと知りつつ、みちるは恐る恐る質問してみた。
みちるの借りている2階の西側だけでもざっと5部屋はあるのに、なぜわざわざ玄関ホールで生活をしているのだろう。あのお姫様部屋以外を覗いた事は無いけれど、何か使えない事情があったりするのだろうか。
……実は20年前に、当時住んでいた家族が全員惨殺されて、部屋はとても使える状態では無い……なんて、ハマりすぎるシチュエーションを想像して、少し震えた。
「それが、屋敷が古い上、広すぎて不便なんですよねぇ。市の有形文化財とかになっているらしくて、インターフォンが付けられないものですから、来客があっても全然判らなくて困るんです」
「へ、そんな理由?!」
「はい」
勝手に想像していただけなのに、酷い肩透かしを喰らった気がしてがっかりする。
「でも、そんなに歴史のあるお屋敷なんですか……」
確かに明典の生活スペースが無ければ、観光用に公開しても良いくらい立派な洋館だった。山奥に建っているし薄暗いから、不気味と言えば不気味だけれど。
「まぁ古いだけなんですけどね。曽祖父が建てたのが戦前だそうですから」
「戦前って」
「ざっと70年以上は経っているんでしょうね。僕はただ相続しただけなので、詳しい事は知りませんけど……」
「へぇ……」
もう一度ホールをぐるりと見渡して、溜息をついた。
「どうかしましたか?」
明典の声に、みちるは彼を見て微笑む。
「ちょっと羨ましいなぁと思って」
「……大きな屋敷が?」
実際、大きくて古いせいで不便を強いられている明典には理解できないらしく、困ったように眉間に皺を寄せた。
みちるは笑いながら首を振る。
現実にこの家をあげると言われても、ちょっと遠慮したい。
「ここはアキさんの曾お爺さんが建てて、ずっと守って来たんでしょう? うちはそういう家が無いから、良いなあって思いました」
素直にそう言うと、明典は面食らったのか目を瞬かせた。
「みちるさんって面白い方ですね」
「えっ」
どう考えても天然な人には言われたくないと、みちるは少しムッとする。
しかしどこか嬉しそうに笑う明典は、結局、朝食が終わるまでずっとニコニコしていた。

これは確かに広くて不便だ……!
埃まみれの部屋の窓を開け放つと、みちるは新鮮な空気を求めて窓枠にしな垂れかかった。差し込む日差しに舞う埃の量にうんざりする。
緊急事態とはいえ、見ず知らずの家で衣食住を世話して貰っている身としては何も返さないのは申し訳なくて、屋敷の掃除を買って出たまでは良かったものの……。
みちるは正直、この洋館をナメていた。
いくら広いとはいえ、ここまで部屋数があるとは思っていなかった。
掃除をすると宣言したときの、明典の微妙な表情が脳裏に浮かぶ。彼が止めた方が良いと言い張ったのは、こういう事だったらしい。
肺炎にでもなったら困るからと強制的に渡されたマスクを外して、みちるは大きく深呼吸した。
窓枠に身体を預けて、外を眺める。2階の南側からは、連なる温室がよく見えた。そしてそれを行き来する青い人も。
「よく働くなぁ……」
みちるが起きた時に明典はもう外にいたから、一体何時から働いているのか判らない。もうすぐ昼になるというのに、朝食前の休憩以外、彼はずっと外で何か作業をしていた。
明典から目を離してぐるりと周りを見る。
昨夜地図を使って説明してもらった事から考えると、山頂の展望台を挟んで市街地とは反対側の中腹に、この屋敷はあるらしい。実際に2階から見渡せば、屋敷と温室の周囲だけが開けていて、後は鬱蒼とした木に囲まれていた。
屋敷から繋がる道路は、みちるが展望台から降りてきた1本だけで他に無い。つまり、ここから他の場所に行くには、どうあってもあの道路を行くしかないという事になる。
……まさに辺境の地。
片田舎とか辺鄙なんて言葉じゃ足りないくらいの立地に驚いた。
しかし明典の曽祖父はなぜこんな山奥に屋敷を構えたのだろう?
現代ですら生活が大変なのに、戦前ならば、ここまで道路をつなげるだけでも一大事業だったはず。しかもこんな大きな屋敷を建てるなんて、一体何者だったのか。
当時の大金持ちだったには違いないけどねー。
頬杖をついて見下ろした先、作業着の明典を見ても、みちるには偉大な先祖の想像がつかなかった。
「みちるさーん!」
「あ……」
2階から見ているのに気付いたらしい明典がこちらに手を振っている。みちるはサボっているのを見咎められた気がして、愛想笑いを浮かべながら手を振り返した。

昼ご飯を食べてからも、明典は陽が落ちるまで黙々と外で仕事を続け、みちるは明典に負けてなるかとおかしなライバル心で掃除を続けた。
「つ……つかれた……」
少し前までは残業もガンガン入れて働いていたのだけれど、ここ2週間は余り家から出ないような生活をしていたせいで身体が鈍っていたらしい。たかが1日動いただけで背中や太ももが痛む事が情けなかった。
対して、この生活をずっと続けているという明典は、全く疲労している様子が無い。
「すみません。無駄に広くて……」
「いいんです。ご迷惑をお掛けしているんですから、これくらいしないと」
それに、何かを夢中でしていた方が色々考えなくて済む。棚上げにしている自身の問題を思い出して、みちるは少しだけ顔を曇らせた。
「でも、2階はほとんど使っていない部屋ですから、頑張らなくても大丈夫ですよ?」
みちるの様子には気付かず、明典は申し訳無さそうに話を続ける。上の空で聞き流そうとしたみちるは、ふと違和感を覚えた。
……2階はほとんど使っていない?
「あれ……今、私がお借りしている部屋って……」
みちるが密かにお姫様部屋と呼んでいる西側の奥の部屋は、目覚めた時からきちんと手入れがされていた。みちるが転がり込んだせいで、急遽、明典が掃除したとは思えないほど綺麗だし、何より1階にも部屋はあるのに、なぜ2階奥に連れて行ったのだろう?
「ああ。あそこは一応、母の部屋なんです。それであそこだけ定期的に掃除を」
みちるの疑問に、明典は何でも無い事のように答える。
「え……お母様の?」
「はい」
明典が1人で暮らす屋敷の中の、美しく整頓された母の部屋。その事実に合う状況が1つしか浮かばなくて、みちるは困惑した。
どうして気付かなかったんだろう。
そもそもこんな大きな屋敷に1人暮らしという状況がおかしい。みちるのように天涯孤独とまではいかないだろうけれど、明典もまた家族を失っているのかも知れなかった。
「あの、すみません。私、全然気付かなくて……そんな思い出のお部屋だったんですね」
「いいえ。僕も言いませんでしたし……て、あれ、みちるさん何か会話おかしくないですか?」
自分の至らなさにしょげているみちるに気付いた明典が、すっとんきょうな声を上げる。
「?」
「僕の母は健在ですよ」
「えぇっ!?」
明典の母親は死んだものと勝手に決め付けたので、みちるは逆に驚いた。さっぱり訳が判らない。
プライバシーの侵害なんてこの際、置いといて、どういうことか問い詰めようと口を開くと、明典がポンと手を叩いて立ち上がった。
「みちるさん、食堂まで来てください」
「は?」
返事も聞かずさっさと歩き出す明典に、みちるは慌てて立ち上がるとスリッパを突っ掛ける。
これまで食事は玄関ホール隅のガラステーブルで食べていたのだけれど、他に食堂があったのだろうか?
「こっちです。ちょっと暗いので気をつけて」
2階に上がる中央の階段の横、玄関のものよりも一回り小さくて同じデザインの施された扉を明典は開けた。
恐る恐る覗くと、確かに薄暗い。一応、真ん中のシャンデリアが点いてはいるものの、電球が足りてるのか疑問なくらいだった。
明典には悪いけれど、はっきり言って薄気味悪い。30畳はありそうな広い部屋に、とにかくやたら長いテーブルが置いてある。掛けられた真っ白なクロスが光っていてぞっとした。壁一面にある大きな窓の向こうは真っ暗で、見たくも無い。
昨夜、この洋館を発見したときの恐怖がまだ抜けきっていないみちるには、遠慮したい状況だった。
……ここに入れって?
薄ら笑いを浮かべて明典を見れば、相変わらずくったくの無い笑顔で頷かれた。
「お、おじゃましまーす」
そうっと1歩踏み出すと、続いて入った明典がみちるを追い抜いて奥に歩いていく。
「これ見て下さい」
明典が指差した先、食堂の一番奥の壁に様々な形をした額縁が沢山掛けてあった。大きさも掛けられた位置も不規則なそれは、古いフォトフレームらしい。
カラー、白黒、セピア。入っている写真も時代を表していた。
「これって……」
みちるは置かれた状況を忘れて、額縁を見上げる。
「この人が屋敷を建てた曽祖父です。それから祖父に、父親」
消えてしまいそうなほど淡いセピア色の写真の中に、かなり立派な髭を蓄えた中年男性が写っていた。その脇の白黒写真には、男性に余り似ていない彫りの深い顔立ちの青年と、彼に抱かれた小さな子供。
「アキさんのお爺様って……外国の方みたい」
はっきり似ていないと言うのは失礼な気がして、みちるは言葉を濁した。
「曾祖母がフランス人だったらしいので、祖父はハーフなんです」
「へぇ……」
振り返って明典の顔と写真を見比べる。隔世遺伝なのか、明典は祖父によく似ていた。
「曽祖父はもともと裕福な家の出で、若い頃フランスに行った事があるそうです。そこで知り合ったのが曾祖母なんです」
想像もつかないけれど、今ほど簡単に海外に行けなかった時代に、外国人と恋愛して結婚するなんて相当ドラマチックな事だろう。
「ステキ、ですね」
みちるの言葉に明典は少し沈黙して、次の写真を指差した。
「これが、この屋敷を建てた当時に撮ったものです……ここは曽祖父が、曾祖母のために建てたんですよ」
「え?」
「国際結婚や外国人が珍しい時代でしたし、曾祖母と子供たちは人の目の晒されて辛い事もあったようです」
「それで……こんな山奥に?」
明典はみちるに見えるように頷く。
昼間、2階から外を見た時に感じた疑問も、解明されてみればちゃんと理に適った理由だった。
遠い異国から言葉も通じない日本へやってきた妻と、その妻を守る為に莫大な資金を使って屋敷を建てた夫。物語のような二人の愛と歴史が、家族のいないみちるには少し羨ましかった。
「曽祖父は家業を継いでいましたから東京に住んでいて、今で言う単身赴任をしていたんです。その後、屋敷は戦時中の疎開先に使われて、戦後は老後をここで過ごしました」
いまいち発色の良くないカラー写真には、柔らかな表情の老夫婦が佇んでいる。傍らの妻は歳を重ねているはずなのに、とても美しかった。
「綺麗な方ですね」
「僕は直接会った事は無いんですが、祖父曰く、曽祖父はかなり美人好きだったそうですよ」
いわゆる、メンクイ?
さっき見たセピアの威厳ある写真の人が、美人に目が無いなんて何だか可笑しい。くすくす笑うと、明典も釣られてふふっと笑った。
「曽祖父母が亡くなった後、祖父母がここを相続して老後を過ごしていました。僕は東京に生まれて両親と暮らしていたのですが、酷く身体の弱い子供で、小学校へ上がる頃に主治医の判断でここに移住したんです。ここは空気が良いですから」
次の写真には、50代くらいの夫婦と目のパッチリした可愛らしい子供が写っている。
「え……これがアキさん?」
「そうですよ」
確かに白い半そでシャツに、サスペンダー付きの紺の半ズボンを履いている……けれど、こちらに向かって微笑む顔はどうみても……。
「かっわいいっ。女の子みたーい!」
みちるの反応が予想通りだったのか、明典は苦笑いした。
「それはよく言われました。どこに行っても女の子と間違われて、果ては親まで女の子だったら良かったと言う始末でしたよ。兄弟が全員男なので、女の子が欲しかったんでしょうが」
「アキさん兄弟いるんですか?」
「ええ、弟が2人。3人兄弟なんです。今は皆大人ですが、子供の頃の写真はここに」
芝生の上でボールに向かって走る2人の男の子と、それを見守る色白の少年。写真の中の明典は、確かに線の細い病弱そうな子供だった。
「今、他のご家族の方は……」
「祖父母は亡くなりましたが、両親と末の弟は東京の家にいます。すぐ下の弟は結婚して別に暮らしていますよ。僕は高校に入るまでここで育った関係で、祖父母から直接屋敷を相続して、園芸農家をやっているんです」
「……それはつまり」
もしや。と思いながら明典を見ると、いつも通りの明るい笑顔を返される。
「はい。だから母は元気ですよ」
ま、まわりくどっっ!!
ただ母親が健在だと証明するために、この家の歴史から解説された事に驚愕した。
「ここは別宅で母親は本宅にいます」と一言言えば済むものをわざわざ写真付きで説明するとは。
呆れ顔のみちるに、明典は不思議そうな顔をした。
ふと昨夜の事を思い出す。この場所を説明するだけなのに、わざわざ詳細な地図を出してきたのだから、これくらいやりかねないと最初に気付くべきだった。何と言っても明典は、みちるが出会った人間の中でトップクラスの天然さんなのだから。
みちるは脱力しつつも、この家の秘密っぽい事がほぼ解明されたので、結果的に良かったのだろうと思い直した。
「でも、私みたいな部外者に、ご家族の話をしても良かったんですか?」
「構いません。特に隠す事でもありませんし……それに、ずっとここで一人暮らしをしていますから、誰かに話したかったのもあるんです」
静かに微笑む明典を、みちるはただぼんやり見上げる。
この家の成り立ちは判ったものの、この若い家主がどうしてこんな隠遁生活を送っているのかという新たな疑問が頭を擡げた。
屋敷と歴史を守る為といっても、実際住まなくたって可能だし、玄関ホールに違和感ありまくりの生活スペースを作るくらいなら、いっそ住まない方が先祖の手前良い様な気がする。
園芸農家をするのに土地がいるという理由を考えても、実家が多分お金持ちなのだし、もっと市街地寄りの土地を借りるか買えば良い。何より片道1時間以上かかる山奥の農家にどれだけ需要があるのだろうか。
……屋敷以上に謎な人だなぁ。
さすがにそこまでは聞いてはいけないような気がして、みちるは無言で踵を返した。
全ての写真を見せてもらったので、玄関ホールに戻ろうとしたのだけれど……突然、後ろから伸びてきた腕に抱きすくめられた。
「え……?」
背中から多い被さる温もりに、目をパチパチする。
……な、にこれ。抱き締められてる……?
認識した途端にかぁっと身体が熱くなった。はっきり言って、この手の経験が少ないみちるは、どうしていいか判らずそのまま硬直する。
「そのまま、動かないで」
耳元で囁かれた声にぞくりと震えた。
「そ、そんな……」
どうしようどうしようどうしよう……っ!
口から飛び出しそうな程ドキドキしている心臓を何とか抑えたくて、手をぎゅっと握る。
意を決して、離して欲しいと伝える為に口を開いた時、みちるを抱えていた明典の右手がスッと目の前の床を指した。
「そこ。カメムシがいますから、そのまま進んで踏むと凄く臭いですよ」
……。
暗くて良く見えなかったけれど、2センチくらいの薄緑な虫がかすかに動いた。
「い」
「い?」
「いーーーーーやーーーーーっっ!!!」
みちるは力いっぱい明典を突き飛ばした。

   

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