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 薔薇洋館の主

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当たり前の事だけれど、服が大きすぎて歩きづらい。
男が持ってきてくれた服は紳士物のTシャツとスウェットというか、昔ながらのジャージで、袖と裾と捲り上げてウエストの紐を絞れば何とか着れなくも無かった。ただ下着が無いので、着心地はこの上なく悪い。
……しかも上下真っ赤ってどういうセンスよ?
みちるは溜息をついたものの、全裸よりは何百倍もマシだと思い直した。
目覚めたお姫様の部屋から出ると、そこは左右に伸びる細長い廊下だった。明かりが弱いせいで薄暗いけれど、全面黒っぽい板張りで天井にはやっぱり小さめのシャンデリアが下がっている。見た事は無いけれど、欧風仕様とでも言うのだろうかと、みちるは思った。
それにしても広い。みちるのワンルームアパートとは大違いだ。
20メートルくらい歩くと、廊下よりも明るい開けたホールに出た。そこから階下へと階段が伸びている。みちるが歩いてきた廊下の反対側には、同じような廊下があって、この家がとんでもなく広いという事を如実に表していた。
階段を数段降りた途端に視界が開けた。どうやら大きな吹き抜けの部屋に通じているらしい。
そして降りきった突き当りには、見覚えのある重厚なドアと、ブルーシートで補修された窓。
いい加減、冷静になってきた頭で見当はついていたものの、やっぱりここは、あの窓の割れていた洋館の中らしかった。
1階は上に比べると、かなり明るくて、恐ろしい感じは全く無い。見渡せば、そこは部屋というよりかなり広い玄関ホールだった。
かすかに聞こえる音の方に歩いていくと、ちょうど階段から死角になる位置に8畳くらいの絨毯が敷いてあって、そこだけ生活感丸出しな家財道具が置いてあった。大きめのテレビに、サイドボード。小さいガラステーブルとソファ。電気ポット、ノートパソコンもある。全部黒で統一してあるものの、古めかしい洋館の中にある現代の生活空間は、違和感ありまくりだった。
ソファに座ってテレビを見ているのは、さっきの男。やはりこの人が洋館の住人らしい。
みちるはぐっと眉間に力を入れると、奴に裸を見られたという事実はこの際忘れようと自分に言い聞かせた。
「あ、あのっ」
振り返った男は少し眉を上げたあと、先ほどと同じようににっこり笑った。
「ああ、何とか着れたみたいで良かった。あなたの服は今洗濯して乾燥機に入ってますから、それまでちょっと辛抱していて下さいね」
「はい。あ、いえ、その、すいません色々と」
「いえいえ。それよりこちらにどうぞ?」
手でソファの空いている所を示されたものの、見ず知らずの男とソファに座るのもどうかと思ったので、みちるはテーブルの前の絨毯に座る。
「そのー……ご迷惑ついでにちょっと聞きたいんですけど、私、状況が良く判ってないっていうか。ここどこなんでしょうか?」
みちるが上目遣いに見ると男はちょっとだけ考えるそぶりをしてから、サイドボードの脇にあったコンビニによく置いてあるシリーズの道路地図を手に取った。
それをガラステーブルに広げて指で一点を示す。
「ここですよ」
「…………いや、そういう事じゃなくて」
「?」
色々と世話してもらっておいて失礼だとは思いつつ、男の天然ぶりにツッコミを入れた。
「んー、と。私、山頂の展望台に観光に来たんです。で、凄い雨になって、電話も通じないし車も無いし、それで何とか歩いて山を降りて来たんですけど……後はよく覚えてないんですよ、ね」
実際は、この洋館に怯え、女らしからぬ叫び声を上げて倒れた事まで覚えているのだけど、さすがにそこは誤魔化しておきたい。
そんなみちるの女心など気にもしていないらしい男は、さっき地図を差したところから左上に指をすべらせ新しい所を示した。
「ここが展望台です。そこから少し降りると道路が分かれているでしょう。これを左に行くと市内。右にいくとこちら側に降りられます」
「つまり、それって私が途中で道路を間違えた?」
「そうなりますねぇ」
のん気に微笑む男を尻目に、みちるは頭を抱える。真っ暗な豪雨の中だったから仕方ないとはいえ、何もかも裏目に出ている気がして凹んだ。
「それでその、私を助けてくださったんですよね……?」
「いやー、あまりに凄い雨だったので温室を確認に行って帰ってきたら、門のところであなたとぶつかってしまいまして。そのまま転んで起きないので、頭を痛めてしまったんじゃないかと慌てて家に連れてきたんです。どこか痛むところとか無いですか?」
「えっ、いえ、全然全然。ほんと大丈夫です」
精神的なショックで失神したとはとても言えず、みちるは恥ずかしさから縮こまる。
「本来ならすぐにでも医師に診せた方が良いのですが、どうやら市内に通じる橋が壊れてしまったようで、復旧するまでは動けないんですよねぇ」
「へぇー、そうなんですかぁ……って、まじでっ?!」
何でも無い事のように言われた驚愕の事実に、本気で目の前が暗くなった。

翌朝、みちるは相変わらずの赤ジャージで、テレビのニュースに噛り付いていた。
いつもの見慣れたアナウンサーが、真顔で淡々と昨日の被害を伝えている。
みちるが思っていたよりも広範囲に甚大な被害をもたらしたらしい豪雨は、各所で浸水や孤立地区を発生させたようで、同じように孤立しているはずの、この家の事は取り上げられてすらいなかった。
……ということは、救助後回しって事よね。
橋が破壊された事によって孤立はしているものの、浸水している訳でも、土砂崩れの危険があるわけでも無い。市内まで普通に行ける時でも車で1時間以上かかるらしい辺鄙な一軒家だから、逆に色々と備蓄しているそうで、暮らしに困っているわけでも無い。となれば後回しは当然の結果だった。
みちるはぐーっと伸びをすると、テレビを消して立ち上がる。窓の外は昨日の豪雨が嘘のように晴れ渡っていた。
パジャマ代わりに着ていたジャージから、昨日着ていた服に着替えようかと思ったけれど、どのみち靴が濡れていて外に出られないからとそのまま扉を開けた玄関口に座り込んだ。
真夏とはいえ、まだ朝方だし、都会と違って吹き抜ける風が心地良い。
「きーもちいー……」
「それは良かった」
突然降りかかった声に顔を上げると、早朝から外で働いていたらしい家主が笑顔でこちらを見下ろしていた。
牧場の人とかがよく着ている上下繋がった青い作業着に、黒い長靴。そして白いタオルを頭に巻いている。格好は完璧な農夫なのに、いまいち似合っていないのは、本人がモデル張りの容姿をしているせいだろうか。
「おはようございます、日向寺さん」
とりあえず起きて初めて会ったので挨拶すると、彼は笑顔を消して少しだけ渋い顔をした。
「一つお願いしても良いですか?」
「はい?」
「僕の事は名前で呼んで頂けませんか? ……正直、日向寺の名は好きじゃないんです」
昨日会ったばかりで、この先も数日しか一緒にいないであろう人を名前で呼ぶのはどうかと思ったけれど、本人が嫌だというのなら仕方が無い。みちるは昨夜聞いた名前を思い出して口に出した。
「……明典さん、でしたっけ?」
「アキで良いですよ。親しい人は皆そう呼ぶんです」
「じゃあ、アキさんで」
「はい。おはようございます、みちるさん」
満面の笑みで名前を呼ばれたみちるは、反射的に頬を染める。
明典はそのままみちるの脇に腰を下ろして、頭のタオルを外すと空を見上げた。吹き抜ける風が茶色の髪を揺らす。
みちるはただぼんやりと彼の横顔を眺め、他意の無い素直な気持ちで、綺麗な人だと思った。
外で働いている割には色白で、髪も瞳も茶色。全体的に色素が薄い。メリハリのきいた顔立ちも、かなり格好良い部類に入るだろうし、客観的にもてるんだろうな、と思った。
……天然ボケボケだし、こんな山奥で隠遁生活してるけどねー。
あまりじっと見るのもどうかと思い、視線を前に戻せば、薔薇のアーチでできた門とその先にある多数の温室が見えた。疑っていた訳では無いけれど、明典が園芸農家というのは本当らしい。
門の方から流れてくる甘い香りの風に包まれていると、面倒な事は何も思い出さないし、どうでも良くなってくる。
隣に座る人の事情は何も知らないけれど、こんな生活をしていたら常に心穏やかでいられるのだろうかと思った。
「田舎暮らしも良いかなぁ」
「え?」
「いえ、何でも無いです」
しばらく無言で日向ぼっこをしていると、思いついたように明典がこちらを見た。
「みちるさん、ご家族に連絡とかは良いんですか?」
「あ……」
「ここ携帯は圏外ですけど、家の電話は繋がってるから連絡できますよ?」
テレビの脇にある電話を指差した明典に、みちるは困り顔をする。
一瞬、適当なでまかせを言って誤魔化すか、電話を掛けるフリをしようかとも思ったけれど、別に境遇を隠す必要も無いと思い直した。
「家族はいないんです。珍しいでしょうけど天涯孤独ってやつで。今は東京で1人暮らしをしてます」
この話をすると、大抵の人は大げさに同情するか、興味本位で根掘り葉掘り聞いてくる。みちるはほんの少しだけ、明典がどう対応するのか気になった。
「ああ、そうなんですか」
「……」
きょとんとして明典を見ると、相変わらず前を見たまま気持ち良さそうに微笑んでいる。
何の飾りも無く、ただ漠然と受け止めただけという反応が新鮮で、何だか可笑しかった。
……さすが天然というところ?
思わず吹き出したみちるに、明典は不思議そうな顔をする。
「え、何かおかしな事を言いましたか?」
「いいえ。何でも……」
「?」
首を捻る明典を放っておいて、みちるは晴れた空に目を向けた。
家族じゃないけれど、連絡するべき人は、いる。心からみちるの事を思ってくれている、大切な人達。どこへ行くかも告げずに飛び出したから、心配しているのも判っている。
でも、もう少しだけ隠れていたかった。傷ついた自分を隠し通せるようになるまで……。

   

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