水島 数雄 
明治35年(1902)~昭和47(1972


                        


                         佼成吹奏楽団楽長・指揮者だった頃


 北海道出身。大正10年陸軍戸山音楽学校に入校。卒業時は最優秀生徒として教育総監から銀時計を授与された。

 同校卒業後、同軍楽隊の隊長を務めながら、多数の作編曲を行った。終戦時は陸軍軍楽中尉で、習志野市にお住まいであった。

 長高の指導をされるようになった経緯は不明。

 昭和23年からのヴァーノン・ブラウン氏の御指導は、氏が関東民事部経済課へ御栄転されて終わり、その後は氏から依頼された千葉高校の佐野教官が、昭和24年10月から来校されるようになっていた。

 推測だが、佐野教官のつてで御指導をお願いしたのかもしれない。戦前から、旧軍楽隊の隊員がスクールバンドの指導に当たった事例は少なくない。   
                                                     昭和16年~

  昭和24年末から月に1、2度、習志野から来校して熱心に指導してくださった。1年足らずの指導だったようだが、指揮ぶりは厳格で部員はたいそう緊張したそうである。
                                                     昭和20年

 先生はその後、千葉県吹奏楽連盟常任理事、関東吹奏楽連盟監事を歴任する一方、当時の船橋ヘルスセンター(昭和30年〜昭和56年。現在のららぽーとTOKYO-BAY)の「少女音楽隊」の音楽監督や、千葉工業高校(昭和37から)など県下のバンドの指導にあたった。

 昭和35年(1960)「佼成吹奏楽団」(現「東京佼成ウインドオーケストラ」)発足に伴い、軍楽隊の先輩であった河野貢造からの誘いに応じ、初代指揮者及び楽長に就任し、第1回(1963)~7回(1967)の定期演奏会を指揮するなど活躍された。





長高マーチ 
昭和25年(1950)

 昭和24年3月に現在の校歌ができたので、当時の部員がブラスバンドでも演奏できるよう先生に編曲を依頼し、翌昭和25年完成し、同年10月体育祭での入場行進で初演された。
 当時は「長生一高行進曲」という名であったが、その後、「長高行進曲」「長高マーチ」と名称を変えて受け継がれてきた。
                                       
                                                     長高マーチ

希望に燃えて 昭和8年(1933)

 昭和8年8月26日の日比谷公園新音楽堂の公園奏楽において、伊藤隆一一等楽長の指揮により陸軍戸山学校軍楽隊の演奏で初演された。
 楽譜は管学研究会から発売されており、戦後もしばらくの間はスクールバンドによってよく演奏された。

                                                     希望に燃えて 

序曲「悠久」(共作) 昭和15年(1940)

 日本放送協会の懸賞募集に入選した、紀元二千六百年建国祭本部制定曲で、昭和15年7月1日に日比谷大音楽堂開設記念日の陸海軍合同特別大演奏会において、大沼哲隊長の指揮で初演された。
  
 プログラムには次のような解説が付けられている。

 「本曲は紀元二千六百年を記念し、我が皇国の威力と愛国の至誠に燃ゆる国民性を強調せる豪壮なる序曲にして、遠く神代を偲ぶティンパニーの震音(トレモロ)に始まり、雅楽調の悠久なる序奏に次いで急速調の旋律は大和民族の意気を表し、やがて緩徐なる三拍子の挿入部は太平の夢を彷彿たらしめるがごとく表現され、再び続く急速調は無限に伸びゆく皇国の将来と偉大なる国民性を闡明し、次いで国運の興隆を祝福する荘厳なる四拍子が全楽器を以て強奏され全曲を終わる」

 堀内敬三は、紀元二千六 百年記念曲発表演奏会後、この 曲について次のように高い評価を与えている。 (中略) 陸軍々楽隊の序曲「悠久」は吹奏楽曲としては最も困難な技巧を駆使して作られた作 品で、雅楽調の応用に清新さがあり変化対照も適切であった

 共作者の須磨洋朔は、戸山音楽学校の4期下で、水島と同じく首席卒業の銀時計であった。
 戦後、陸上自衛隊中央音楽隊の初代隊長となり、公式行進曲である『大空』をはじめとして多くの行進曲を作曲した。

行進曲「紀元二千六百年」 昭和15年(1940)

行進曲「銃後の守り」 昭和15年(1940)

円舞曲「輝く興亜」
 昭和16年(1941)

円舞曲「空中進撃」 昭和17年(1942)

 他

       編曲は「輝く星」など多数










           千葉工業高校第12回定期演奏会 プログラム 昭和44年(1969)

                   

        ご挨拶   
関東吹奏楽連盟理事 千葉県吹奏楽連盟常任理事 水島 数雄

  本日は多数皆様の御出でを頂いて感謝に堪えません。
 「光陰は矢の如し」とか申しますが、私か本校のクラブ活動でタクトを握ったのが、昭和37年5月の初めでしたから早や七ヶ年を向えました。

 その当時は、合奏も余り上手とは言えず、先ず音作りから始めねばなりませんでした。 欠点のイントネーション(抑揚)や、アテイキュレージヨン(発音)を譌正しバランスのとれた、よい演奏をと心掛けました。そして常にチューニング(調律)を厳密に行い正しい音程で、美しい響きを出すことに努めて参りました。

 現部員一同は、OB諸氏が在学中に残した融和と積極的な訓練の伝統を受けつぎ、常に溌刺として心技の錬磨に精進し、よりよいバンドカラーの実現に努力していることは、誠に喜ばしいことです。昨年は県の代表として関東コンクールに出場しましたが。少差で入賞を逸し、遺憾に思って居ります。よく反省して、足りない点を補い皆様に喜ばれるバンドとして育って行ってもらいたい一念に燃えております。

 演奏は未熟の点もありますが、日頃練習の成果を聞いて頂き、御高評頂ければ幸いに存じます













                      
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