MEMORY                        昭和16年~





                                      

                                         昭和16年6月20日 長生中学校報国団鼓笛隊 発足

                                         (前列中央は初代顧問の金子一郎先生)


                                
創世記の思い出                   千葉 東弥 S17卒



                                 昭和16年正月。千葉家では3日が親類友人を含めた新年会の日である。(中略)
           
                               この年は相談事があるらしく、長生中学の伊藤校長のほか、同窓会、東条鳳平氏、

                              板倉花巻先生が同席した。

                              
                                 これには理由がある。昭和15年(1940年)、皇紀二千六百年の慶賀すべき年を迎え、

                              (長生中学の)祝賀記念事業として校庭拡張や滑空部、鼓笛隊創設について資金面での

                              相談があったのだ。

                             
 西村 繁(注)伯父はあらかじめ知っていたらしく、将棋を指しながら、

                               「どうだ、長中にも軍楽隊を作ったら。

                              今日、校長をはじめ諸先生方がお出でになっている。学校も熱望している…」と、

                               父弥次馬に話を持ちかけた。当時生徒だった私にも相談があった。

                              資金の一部は千葉家で援助し、楽器と指導者は西村伯父が世話する。これで話が決定した.
                             

                                         (注)西村 繁

                                          西村氏は大正・昭和期の日本における農業経営の重要性に着目し
                                         大正10年に欧米諸国に赴き各国の農業教育について視察し、帰国後
                                         の同12年に八街農林学校(現 千葉黎明高校)を創設しました。
                                           農業教育の他にも、学校音楽隊を作り自から指揮を執りながら県下
                                         の各種行事に奉仕応援をしたり、また、スポーツの奨励にも取り組み、
                                         町営グランドの建設にあたっては私有地を提供されるなどに尽力され
                                         ました。                   (八街市HPより)

                              




                         
長生中学報国団鼓笛隊の誕生     千葉 東弥 S17卒


                               昭和16年(1941年)6月20日、長生中学鼓笛隊は正式に認可され、誕生した。

                              しかし、肝心の楽器については、4月12日、日管楽器本社と折衝を重ね、5月17日に上京し、

                              受領ということになった。校史によると、平川書記、金子教諭が生徒4名を引率し受領に、とある。


                               その生徒の一人、吉田寛氏(御宿町在住)によると、雨の中、銀座山野楽器十字屋へ。

                              そのとき昼食に入った
銀座キムラヤでアンパンを食べ、

                              美味に驚いたことを今でも忘れないという。


                               彼の話によると、1、2、3年生を中心に部員募集をしたところ、合計57名が集まった。

                              それ故、
学業成績、人物、素行、健康状態(ラッパを使用するので、とくに

                              肺活量と胸部疾患を重視)などで選抜し、これらのうちから30名の部員を決めたようである。

                              楽器も15箇のためあまり多くの部員は必要なかった。
 
                               ところで、楽器は手に入れても、誰もラッパに触れたことのある者はなく、ただ、物珍しげに

                              眺めるのみであったという。

 

                               この時購入した楽器は、コルネット、トランぺット、クラリネット、バルブトロンボ-ン各2個、

                              バリトン、アルト、小バス、大バス、シンバル、小太鼓、大太鼓各1個。

                               経費は、校史によれば、1,284円40銭、その他合計1,606円13銭となっている。

                               (千葉家からは記念事業費1,000円を納入している。)

                               後の話になるが、私からもアルトサックスとクラリネット各1本を現品で寄贈させて戴いた。                 

                                さて、前出の吉田氏の話を続ける。

                               レパ-トリ-は行進曲が主で、「君が代」「軍艦」「大日本」「分列行進」「双頭の鷲」

                              「颯爽たる兵士」、日本ものが「六段」「春雨」などであった。

                            
                              (編注)初演奏は同年10月1日「体育錬成会」(現在の体育祭に当たる)で。曲名は不明。
                            
                             


 
                              
          
                
 「千葉県立長生中学校報国団鼓笛隊沿革」(長生高校所蔵)  長生中学校時代の校門付近



                        
演奏会よもやま話          千葉 東弥 S17卒


                               昭和17年10月ごろ、千葉先輩、金子先生とともに、先輩学校、八街農林(現 千葉黎明高)


                    
で合同演奏会を開くため、部員18名で出かけた。秋の良い日であったと記憶している。

                               八街駅からリヤカ-に楽器を載せ、約2キロメ-トルぐらい歩いた。松林に囲まれコテ-ジ風の

                              練習室で1時間半くらい演奏会を開いた。昼食は梅干入り握り飯、大いにご馳走になった。
      
                                八街農林は「行進曲スペアミント」「日の出行進曲」「国民進軍歌」など演奏した。

                              ここに、当時の八街農林第18回生、現計理士 阿部宇助氏(トランペット)の回想録があるの

                              で記載するとしよう。


                              
 『昭和17年10月ごろ、長生中学校のバンドが我が校にやってきました。新しいバンドがで

                              きたのです。見たこともないサキソフォン、黒い変な楽器のクラリネットが混じった新

                              品の楽器編成で、大バスがなく、私の目には奇異にうつったものです。

                               聞かせてくれました。編成は確か15名、海軍の斎藤丑松氏作曲の行進曲「大日本」をこな

                              すにはかなりの力量だったはずです。難曲です。

                               いままでわれわれだけがひとり得意になって吹いてきたものをライバルが現れ、なぜか複雑

                              な気持ちでした。嫉妬のようなものです。

                               合同演奏は「軍艦行進曲」か「君が代行進曲」か忘れましたが、日本調の「春雨」も無難にこな

                              すことができました。

                               後日の話ですが、当時の楽譜が長生高校に残っているか同校出身の友人に聞いてもらいまし

                              たが、やはりありませんでした。……』



                               同期のトランペット小川倉司氏(筆者友人)に電話で聞いたところによると、西村先生作・編曲の

                              「丘風行進曲」を千葉さんの希望で演奏した。また、同時期に《スク-ルバンド》を所有した学校は

                              八街農林、千葉中、長生中であったそうです。 

                                    (編注)演奏曲 大日本行進曲 軍艦行進曲 君が代行進曲 春雨 


              




                              


                                               昭和17年3月卒業アルバムより(写真提供 金子正博氏)

                                        (前列右から四人目が初代顧問の金子一郎先生

                                                五人目が長生中学校長伊藤仙蔵先生

                                                六人目が外部講師の沢田中政氏


                                     OB会HPを見て下さっ金子正博氏(S30卒)からのメール

                               昭和10年代に古い写真が2枚ございますが、昭和16年の写真の中央と、

                              昭和17年の写真の右の教師は私の父の「金子 一郎」のようです。

                               父の「金子 一郎」はあだ名を「ダイナマイト」とかで、昭和5年ごろ

                              から約30年間、国語漢文の教師として長高に勤め、昭和16年に、長生中学校の

                              初代のブラバン担当教師として、鼓笛隊(ブラスバンド)を創立させ、タクトを振ったと

                              聞いております。

                               残念ながら約60年前に死去しておりますが、その時長高のブラスバンドの楽器の

                              音が聞こえるところに埋葬したいと家族で相談し、長高の南門の前のサーフショップの

                              横に墓地があり、皆さんの練習のメロデー聞いていると思います。

                              

                        

                              
顧問 金子一郎先生               中島 哲二 S21卒


                               
音楽の教師はおりませんで、顧問の金子先生は漢文の教師でした。

                              怒ると非常に怖く、「ダイナマイト」というすさまじいあだ名を持った先生も、部員には

                              優しかったのですが、不本意だったのでしょう、笑顔を見たことはありませんでした。


                              

                                           
                                      
                                          
当時の練習場所 旧校舎 講堂



                              
講師 沢田忠政氏                   中島 哲二 S21卒
 


                               昭和16年の6月頃より放課後、講堂において練習が始まった。1回目、2回目は八街

                              農林の西村先生が指導してくださったが、その後先生の推薦で、沢田忠政氏が吹奏楽の

                              ABCを教示してくださった。氏は元陸軍戸山学校出身で現役除隊、自由の身であったよう

                              に覚えている。チョビひげを生やし軍服は着用せず常に背広であり、スマ-トな体格をして

                              いた。

                               最初トロンボ-ンを手で押さえ、「これはバルブトロンボ-ンと言う。普通スライドトロンボ-ン

                              を使用するが、音階に慣れたらスライドに代えればいい」

                              「口をつけるところをマウスピ-スというが、つけたら
ぶどうの種を吐き出す

                    
要領で息を吐く。ほれこのように」と、手や口をもって教示する。

                               土曜日ばかりでなく、ウィ-クデ-にも来校しておられたので、時間的には余裕があったの

                              ではないか。学校にたずねたところ外部講師とのこと。

                               昭和18年ごろ原隊に戻り、25軍スマトラ派遣野戦音楽隊で終戦。郷里石川県珠洲市に帰り、

                              専門のクラリネット音楽教室を開いた。平成12年1月肺炎のため永眠。享年85歳、ご遺族は

                              大阪にいらっしゃる。       



                               講師 沢田忠政氏                    千葉 東弥 S17卒


                               数ヶ月に一度、東京から沢田先生という専門家が指導に来校しました。

                               初めて指揮ジェスチャーを見たときの驚きが日記に書かれています。

                               タクトを振りながら、「ファラソ、ファラソ、タタター!」大声で指導されたことを覚えています。






                             
 ■郡戦没者慰霊祭で演奏 昭和17年(1949)7月7日 茂原町にて 曲名 不明


                              ■関東中等学校吹奏楽大会(コンクール)出場 昭和17年(1949)10月17日 日比谷野外音楽堂 

                                 課題曲 大詔奉戴   自由曲 大日本行進曲  部員26名

                              ■関東中等学校吹奏楽大会(コンクール)出場 昭和18年(1950) 4月 ?日 日比谷野外音楽堂

                                 課題曲 愛国行進曲  自由曲 大日本行進曲 春雨  部員18名

                              ■佐倉連帯軍旗祭での招待演奏  昭和18年(1943) 12月4日 佐倉57連隊屯営部隊

                                 演奏曲 行進曲(曲名不明) 六段の調べ   部員 15?名

  

 
                               





                       



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