溺
れ
た
魚
3
春の大阪は活気がある
長い冬を越え、人も物流も盛んになる
「家康」
「おう、三成か」
「秀吉様がお呼びだ」
「分かった、すぐに行こう。わざわざすまないな」
「この程度の用、秀吉様の手を煩わせるまでもない」
私の言葉に家康が笑う
「太閤もお前の様な部下を持ち、恵まれているな」
私などが少しでも秀吉様のお役に立てるならば、この命が散るまで仕え続ける
「貴様も秀吉様の部下だろう」
「ははっ、確かに。ではワシらが仕える太閤は恵まれているな」
晴れやかに笑う家康はさながら太陽の様だ
闇を照らし、温かい光を降り注ぐ
私とは対極に位置する者
「ふん。さっさと行け」
「ああ、そうだな。ありがとう三成」
家康の背を見送り、その先に座す秀吉様を思った
半兵衛様が病に倒れ死去なされてからも、何も変わらない様に見受けられる
だが苦し気に伏せられた目を、無意識にポツリと溢された名前に深く項垂れる様を、私は知っているのだ
「やれ、三成。何を溜め息を吐いておる」
くつくつと笑い現れた刑部が外を見る
「桜も咲き始める頃合いよ、そのように暗い顔ばかりでは桜も咲かぬわ」
皮肉を織り交ぜながらも気を使われていることに気付く
「暗い顔などしていない。気のせいだ」
「そうかそうか、では兵等が近頃のぬしを覇気が無いと見やるのも気のせいか」
刑部の言葉に顔をしかめ、溜め息を吐く
「…私はそんなに解りやすいか」
全てを吐露した刑部だけではなく一般の兵にまでそう思われる程、感情を露にしたつもりは無かった
「そうよなァ、常が苛烈と見られるぬしがぼんやりと溜め息を吐けば天地が返る程には衝撃的よ」
さも可笑しいと言わんばかりにひきつった笑い声を上げ、刑部が私を見る
「ぬしがそのようでは皆調子が狂うのだ。早に常の苛烈で不器用なぬしに戻ることだ。太閤も左腕も沈んでいては、ようやく活気付いて来た城下まで沈みよるわ」
刑部の労る様な眼差しに胸が痛む
秀吉様に夜伽ぎを命じられなくなってから、刑部はよく側に居るようになった
私の代わりはいないのだと、また初めからやり直せばいいと、側に居るとそう言ってくれたのだ
私が心中を吐露した晩、刑部も泣いている様な気がした
それからも言葉を交わし、酒を呑み、戦場を駆け、共にあった
二つの季節を越し、桜が芽吹く今もそれは変わらなかった
自分の中で秀吉様への気持ちが変化しつつあることに薄々気付いていた
あの方の為に尽くそうと、その心は変わらないのに追う瞳がそばだてる耳が、今までの様に高鳴ることが無くなった
半兵衛様を呼ぶ声に悲しみを抱くことが無くなった
今はただ主を悼む気持ちがあるだけだった
「…刑部、貴様には感謝している」
皮肉混じりの言動にどれだけ救われたかしれない
「急に何を言うかと思えば、頭でもぶつけおったか三成よ」
噛み合わない会話に訝しげな顔をする刑部が可笑しく、思わず笑みが漏れた
「いや、そう思っただけだ」
「…やはりぬしは変わり者よ」
刑部を見る目が和らぐのを自覚する
自分に友と呼べる者が出来るなど考えたことも無かった
全てを秀吉様に捧げると決めた時に自分の全ては捨てた筈だったのだ
「貴様もな」
他愛ない会話に刑部の心遣いを感じる
その度に、自分の心が凪いでいくのが分かる
沈もうと浮かれようと眼差しが、言葉が、その腕が、私を平穏に連れ戻してくれる
叶わないと分かりきっていた筈なのに、夢見た自分を恥じ、全てをぶちまけて、嘆いて、絶望したまま死んでしまいたかった
あの夜の自分は確かにそれを望んでいた
その見届け人に刑部を選んだまでだった
それなのにこの男は私を生かすのだ
全てに不幸を願いながら、私に溢れんばかりの優しさをくれるのだ
「どれ、兵の調練へと向かう頃合いよ」
「ああ」
ただ刑部の心が有り難かった
私と刑部は似て非なるものだと思う
どちらかと言えば私と家康の方が似ていると思った
家康は全てに平等に接する
それは自らの内にある決意や誓いによるものだろう
私が秀吉様に尽くす為に全てを切り捨てた様に
刑部が家康を見る目に不信感があるのは気付いていた
だが底抜けに明るい家康は確かに今の豊臣軍には必要だった
精強な三河武士に本田忠勝という力を持ち、しかし驕らず、いつでも人に笑いかける温もりは私や刑部では真似できない芸当であった
それは豊臣軍の誰もが持ち得ぬ力だった
「三成、刑部が探していたぞ」
裏も表も無い家康に歯痒さを感じる
人を晴れやかな心にするその力があれば、秀吉様を覆う暗雲も晴らせるのではないかと思った時期もあった
だが私は私でしかないと、もうすでに知っているのだ
決して半兵衛様にも、家康にも、なれはしないのだと
「まだ庭に居ると思うが…。どうした?ワシの顔に何かついているのか?」
「いや、何でもない。刑部は庭だな」
「ああ。…三成、何だか変わったな。最近のお前は良い顔をしている」
「…そうか」
嬉しそうに頷く家康の言葉に僅かばかり頬が弛んだ
変わったと言われ心の中に温かさが灯るのを感じた
私の中心は秀吉様だけだと思っていた
変わることなど無いと、変わる必要も無いと思っていた
だが刑部の優しさに触れ、私の中は秀吉様だけでは無くなっていた
半兵衛様が、家康が、刑部がいた
秀吉様だけを思うことが無くなり、周りが見える様になった
自分が気遣われていることに、優しい言葉を掛けられることに気付いた
その心を素直に受け取れる様になった
全ては刑部が居たからだ
「私が変わったと見えるなら、それはきっと刑部のおかげだ」
「…驚いたな、三成もそんなことを言うのか」
私の言葉に嬉しそうに笑う家康に背を向ける
「三成、ワシは今のお前の方が良いと思うぞ」
後ろから掛けられる言葉に軽く振り返り家康を見る
「奇遇だな、私もそう思う」
早く刑部に会いたいと思った
空を見上げる刑部を見つけ声を掛ければ驚いた様に振り返った
「家康に会った。用とは何だ?」
「いや、暇をもて余していたところ。茶でも飲まぬかと思ってな」
柔らかい春の陽気に包まれて温かい庭先で語らうなど今までからは考えられなかった
その誘いを嬉しいと思う自分も、刑部と出会わなければ存在しなかっただろう
「平和呆けしそうな程に戦も無い、今はゆるりと過ごすのも悪くはなかろう」
「そうだな、たまには悪くない」
刑部の側に居ると温かい
秀吉様だけを思っていた頃の痛みも悲しさも無い、安らぎと心地好さがあった
「どれ行くとするか。太閤から施された茶菓子もあるぞ」
穏やかな笑みを浮かべる刑部を見ていると自分も穏やかになる
ずっとこんな時間が続けばいいと思った
皆寝静まりまだ冷たい夜の帳が降りる中、一人自室で空を眺める
日中は大分暖かくなったが、朝晩はまだまだ冷える
欠けた月を見上げ首筋がひやりとするのを感じた
冷たい空気は嫌いではない
暖かい空気より澄んでいると思う
深く吸い込めば体の奥まで透明になるような気がするのだ
「今夜は星が無いな…」
静けさの中にぽつんと置き去りにされた自分の声を遠くに聞いた
灯りも点けていない部屋の中は、欠けた月程度では薄ぼんやりとしか見えない
輪郭の朧気な部屋を見回し溜め息を吐く
この部屋には秀吉様の思い出が多すぎる
その殆どが夜伽ぎであっても、あの頃の自分にはそれが至福だったのだ
何をするでもない一人の時間は何をしていいのか解らなくていつも持て余してしまう
終いには置かれた物の一つ一つに秀吉様の影が見える程だ
秀吉様との逢瀬が無くなって大分経つ
「…っ」
自分の手の冷たさに息を飲みながらも裾から手を差し入れ雄に触る
やわやわとしごけばハッキリと形を顕にし、熱く固く天を仰ぐ
秀吉様との交わりが無くなっても浅ましく熱を持つ自分の体を恨めしく思った
静かな部屋に自分の吐息が響くのに背徳感を覚えた
「ふっ…」
空いた手で自分の胸の飾りを弄ってやれば赤く色付きぷくりと立ち上がる
触る度に甘い痺れが腰元に落ちてくるのが分かる
そのまま手を下に降ろしていき邪魔な帯をほどく
躊躇いがちに穴に触れればひくひくと脈打ち、内を抉る熱を求める
「んっ…あぁ…」
体の望むままに指を差し入れればきつく締め付け欲を満たそうとしてくる
激しく抜き差ししてやれば手を添えているだけの雄からだらだらと先走りが溢れ羞恥を誘った
性を覚えたばかりの子どもでもあるまいに、と思いながらも手は止まらない
自分の呼吸が浅くなり、体の熱が上がる
「ぅあっ、んっ…」
良いところをなぞればがくがくと足が跳ね、穴はより一層きつく締まった
ただ熱を下げる為だけの行為だったのに、自分の体に触る度に熱は上がっていく一方だった
秀吉様の影を見て始まった筈の行為は、昂った末に自分でも自覚していなかった感情を露にさせた
「…ぁ、刑部っ」
自分の声に目を見開く
誰も呼ぶつもりなど無かった
自分の愚かしい欲に溺れ、例え自分の頭の中だけででも刑部を呼ぶなど考えてもいなかった
それなのに、自分が発した声ですら刑部の名前だと思うとことさらに欲情した
「…刑部」
部屋に見ていた秀吉様の、その影を振り払うかの様にきつく目を閉じ刑部の名を呼ぶ
初めて刑部がこの部屋に来て、共に酒を飲んだこと
月明かりに照らされて笑う横顔
日溜まりの中での穏やかな姿
気遣う眼差し
思い返せばそのどれもが温かい
「あんっ…ふっ、あ…」
名を呼ぶだけで達してしまいそうな自分に目眩がする
「ん…刑部、あぁっ、吉継っ」
掌に熱い欲をぶちまける瞬間に、強く強く刑部を呼んだ
そうして漸く自分が友としてでは無く、刑部を見ていると気が付いた
こんなにもこの体は、心は、刑部を求めているのだと知った
自分の欲の出汁にして初めて自分の思いに気付くなど、滑稽でしか無かった
罪悪感で胸が潰れそうだと思った
友として自分を支えようとしてくれる刑部をこれ以上裏切りたく無かった
「すまない、刑部…」
冷えた空気を胸一杯に吸い込んで吐き出せば、僅かに火照った体が冷えた
戸を開け放ったまま布団に潜り込む
以前に寝る時くらい戸を閉めろと言われたが、わざわざ私の自室を訪ねる者など刑部くらいのものだ
ならば戸を閉める必要もないと思った
床に落ちる月の影をぼんやりと眺めながら明日を思う
兵の調練をして、清への出兵の為の軍議もある、方々への書簡も書かねばならない
明日も刑部と茶を飲めるだろうか
もし時間があったら将棋を指すのも悪くない
桜が咲いたら共に花見をするのも良い
自分の想像だけで頬が弛むのが解る
やりたいことが出来た
誰かの為にでは無く自分の意思で何かをしたいと思うのは初めてだった
刑部のことを考えるだけでこの胸は温かくなる
何だって出来る様な気になるのだ
だからこそ、この思いは死ぬまで内に秘めようと決めた
大切な、本当に心から大切に思える相手だ
自分の劣情でこの穏やかな関係が終わることは嫌だった
それ以上に、刑部を汚したく無いと思った
何も持たない自分を友と呼び、幾つもの言葉をくれ、側にいてくれたのだ
確かな決意を胸に目を閉じる
ゆっくりと眠りに落ちながら、刑部の姿を思い返した
開け放ったままの扉からは、冷たい風と微かな雨の匂いがしていた
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