犬と私の一つの約束
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情報収集の為南下している最中
主の声が聞こえた気がした
幻聴かとも思ったが、小太郎の体は
気が付けばもう走り出していた
二月前に別れた川辺に一人きりでたたずみ、
切ない声で自分を呼んでいた
出て行ってもいいのだろうか
主はもう怒っていないのだろうか
沢山の感情が、思考が、
ぐるぐると頭を回り立ち尽くした
だが、主の涙が頬を伝うのを見た瞬間に
体は勝手に動いてしまっていた
久しぶりに触れた主の温度に、
懐かしい香りに、
涙が出そうなほど心が震えた
小太郎と名を呼んでくれる
あの頃のように笑ってくれる
嬉しくて嬉しくて、
小太郎は自分が少し浮いているような気さえした
「すまなかった」
やっと笑ってくれた主と肩を並べて
近くの岩に腰を下ろした
《なんのことかわからない》
主の手は細く白い
自分の手と比べると極端に小さく見える
あまり物を口にしようとしないせいか、
体も細くいつも心配になる
「小太郎が、嘘を吐いていないと信じられなかった
酷いことを、沢山言ってしまった
本当に、すまなかった」
たかが忍の自分に対して頭を下げるなど、
ましてやそれが主などと、
慌てて肩を掴み起き上がらせた
《あやまることではない》
《きにしていない》
ふるふると首を振り、
土下座でもしそうな勢いの主を諌める
《あなたがわらっていてくれればそれでいい》
そう言葉を記せば困ったように微笑まれ、
冷たい指が首筋をなぞった
犬であった時と同じにわしゃわしゃと
撫でられるのが気持ちよくて、
無意識に小太郎は主にもたれ掛かっていた
「北条に戻ったと聞いた」
撫でる手はそのままに、
静かな声で主が話す
その言葉に主の肩に顎を乗せたまま頷く
「…本当に敵同士になってしまったな」
主の悲しそうな、切なそうな声音に
心臓がきゅうと鳴って、
どうしていいか分からず主の肩に額を擦り付けた
「それでも、私は小太郎が好きだ
だが秀吉様の、半兵衛様の前に立ち塞がるというのなら
……容赦無く斬る」
力のこもった声に顔を上げ、
何度目か分からない主の手を取った
《だいじょうぶ》
主が太閤と軍師を敬愛していることはよく分かっている
死ねと言われれば喜んで死ぬ位には
心酔しきっていることも知っている
《あなたのたいせつなものを
うばうつもりはない》
「…それが、北条の言葉でもか?」
《はい》
なぜこんな言葉を記しているのか
自分でも理解出来なかった
今の主は北条氏政だというのに、
その命令を聞かないと言うなんて
ただの雇われの一介の忍が、
そんなことを言っていい訳が無い
それでも、自分には殺せないと思った
今目の前に居る主の、
何の契約も無い、
自分が勝手に主だと思っているだけの
彼の涙はどうしても見たくないのだ
雇い主の命令は絶対な筈なのに、
それが目の前の主を泣かせるようなものなら、
小太郎は間違い無く拒否するだろう
それだけは、分かった
「北条を裏切るのか?」
険しい顔をして、主が睨みつけてくる
その言葉にふるふると首を振り、
冷たい手を握る手に力をこめた
《ほうじょうはすきだ
でも、あなたにこころをもらった
あなたのなみだはみたくない
くびになったほうがいい》
主に心を貰ってから、
氏政様が俺を好いてくれていることを知った
まるで孫のように、
接してくれていることを知った
それを心地よく思っている自分がいることに気付いた
心から大切だと思った
守りたいと初めて思った
それでも、主を傷つける命令には従えない
雇い主である氏政様よりも、
自分には目の前の主の方が、
大切なのだと知った
「…馬鹿者」
俯いて、手を握る力を強めた主が
心から大切だと思うのだ
自分が勝手に主だと思っているだけだけれど、
心をくれた恩人と言ってもいい
かけがえのない人だと思った
何よりも誰よりも、尊い方だと思うのだ
側に居たいと思う、たった一人の人なのだ
主の体をそっと抱きしめて、
今はただこの邂逅を喜ぶように目を閉じた
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