犬と私の一つの約束 2











小太郎は途方にくれていた
大好きな主に捨てられてしまったのだ

(何がいけなかったのだろう…)

ぼんやりと空を眺めてため息を吐く

ただ今までの礼を言いたかっただけなのに、
なぜ主があんなに悲しい顔をしたのか小太郎には分からなかった

(涙…)

殺すと言われた
眉をしかめて、瞳に涙を溜めて、とても苦しそうな顔をしていた
犬のままなら、すり寄って頬を舐めても良かったのだろうか?

だが、それでは礼を言えない
人の姿に戻ったところで声を伝えることは出来ないが、それでも小太郎は自分の姿で伝えたかったのだ

『石田三成』

主の名前を呼んでみても喉は掠れた空気を吐き出すばかりだ
もう遠の昔に自分の声も忘れてしまった

(…会いたい、な)

主が自分の為に共に歩いてくれるから一緒に散歩に行くのが好きだ
主が毛艶を褒めてくれるから櫛で整えられるのが好きだ
主がたくさん話をしてくれるから撫でられるのが好きだ
主が名前を呼んでくれるから声を聞くのが好きだ

いつも人に厳しい主の、二人になった時の穏やかな表情
触れる時の優しい手
抱き締めてくれる時の静かな鼓動
笑った顔、怒った顔、悲しそうな顔、困った顔

たった一月だったけれど小太郎には夢のような日々だった

温かさに包まれた、優しさばかりの毎日だった

北条のところも悪くはなかった
ただ、働きに見合った報酬が出ないのだ
それでは里の者を食わせてやれないし、部下に報酬をやることも出来ない
契約切れで北条を去ったはいいが困ったことに次のあてが無い
しばらくは自分が今まで貯めた金でどうにかなると思い、フラフラと里を出た先で拾ってくれたのが主だった

犬としての暮らし
殺すこともなく、情報収集もしなくていい
眠る時間はたくさんあるし、忙しい中でも主はかまってくれた

嬉しいを覚えた
楽しいを覚えた
寂しいを覚えた

小太郎は離れた今でも主が大好きだ

本当に幸せだったのだ

仲間も里も忘れて、このまま犬として朽ち果ててもいいと思う程に満ち足りた暮らしだった

今までに無く穏やかな時間に、小太郎は胸が一杯だった
嬉しくて、幸せで、それをどうしても主に伝えたかった
まさかこんなことになるなんて思ってもいなかったのだ

(主を傷付けた…)

最後に見た主はとてもとても辛そうだった
小太郎は悲しかった
大好きな主を泣かせてしまった
苦しそうな顔を思い出すだけで心臓がねじ切れてしまいそうだった

次に会ったら殺すとまで言われた
もう主の側に寄ることは叶わないのだと思うと上手く息が出来なかった

(なぜ主は怒ったのだろう?なぜ主は泣いたのだろう?)

小太郎には分からないことばかりだった

(…会いたい)

まだ一日しかたっていないのに主が恋しかった

犬の形をとっていたら耳も尻尾も垂れ下がっていただろう
殺されてもいいから、もう一度だけでも主に会いたかった

だが会ってまたあんな顔をされたらと思うとどうしようも出来なかった

(主は俺が嫌いなのだろうか?小太郎の時はたくさん笑ってくれたのに…)

真っ暗な夜道に置き去りにされた子供のような気分だった
小太郎には人の気持ちなんて一つも分からなかった
そもそも、人としての生など与えられたことがないのだ

怪我をすれば痛くて泣いた
腹が減ればひもじくて泣いた
叱られるのが怖くて泣いた

その感情を殺したのが忍なのだ

物言わぬ道具
そうならなければ生きられなかった
楽しいも嬉しいも知らなかった
怒りも涙も知らなかった

全ては主が与えてくれたのだ

犬としての生だとしても、小太郎は心を貰ったのだ

(…もし俺が人だったら、主を泣かせずにすんだのだろうか)

草の者

頭領
伝説の忍
風の悪魔
風魔小太郎

そのどれもが自分の名前ではない

親の顔も、付けられた名前も忘れてしまった
自分の歳すらも小太郎は知らないのだ

『こたろう』

主が付けてくれた名前だけが大事だった
嬉しそうに小太郎と呼んでくれた
誰かが自分の為だけにくれたものなんて、今までに一つも無かった
何の駆け引きも無く、ありのままで居てもいい場所なんて初めてだった

主に会いたくて仕方なかった

(…分からない)

暮れていく空にトンボが泳いでいる

(…俺には、分からないことばかりだ)

すいすいと風をきる姿を見ているとひどく惨めな気持ちになった

消えろと言われたのに大阪から離れることも出来ず、近付くことも出来ないでいる
何をするでもなく一日が終わっていく

(…俺は一体何なんだろう?)

人の形をしているのに人ではない
人には及ばない道具
感情を、心を無くしたただの人形
そう教え込まれて生きてきた
そう振る舞って生きてきた
いつの間にか本当にそうなっていた
その前にどう生きていたのか、何を思っていたのか、気が付いたら忘れてしまっていた

それでもよかった
何の不便も無かった

だが、主からたくさんのものを与えてもらった
人形ではない自分を教えられた
主と過ごした時間がある今、昔を思い出すととてもひどいことばかりだった気がして、
体が冷や水をかけられたように冷たくなるのだ

(……主)

名前を呼んでくれた
撫でてくれた
たくさん話をしてくれた

もう一度主の元へ帰ることが許されるなら、二度と人の姿にはならないのに
主が望むままに何だってするのに
どんなに願ったって、最早それは遠い夢なのだ

いつの間にか真っ暗な空に星が輝いている
冷たい空気を震わせて虫が歌っている
寂しくて悲しくて、項垂れて膝を抱えた

(ここに主がいてくれたら、世界はとても美しいのに)

今まで幾度も見上げた空も、森も、町も、花も、主と一緒ならとても輝いて見えた
小太郎の世界は、主と出会って色付いたのだ
些細なことも嬉しくて楽しくて、駆け出したくなる気持ちを知った

(…戻らなくては)

誰にも行き先を告げずに出てきたのだ
のたれ死んでいると思われているかもしれない

(いっそ新しい頭がたっていれば、影から主を見守って生きていけるのに)

そうも言っていられないが、小太郎は本気でそう思うのだ

遠目からでも主の元気な姿を見られれば、気付かれなくたって平気だ
二度と名前を呼ばれなくても、撫でられなくても、笑いかけてもらえなくてもいい

元々過ぎた幸福だったのだ
与えられないのが普通だったのだ
欲張ったから失った
主が幸せなら、小太郎はもう何もいらなかった

「長、探しました」

闇から突然表れた部下の姿にため息を吐く
もう遠目からでも主を見れないのだと思うと悲しくて仕方なかった

「各軍より契約したいと依頼が来ています。一度里に戻りましょう」

部下の言葉に頷き一度だけ大阪城に目をやる
遠すぎて主の気配すら分からない

こんな別れを望んだわけではなかったのに

『…幸せでした』

声にならない声を紡ぎ前を向く
風魔の頭領の顔で、何も語らず、感情も無く、ただ闇に紛れて空を駆けた

色の無い世界
血の匂い
裏切りと殺戮
物言わぬ人形

(……元に戻るだけだ)

小太郎には、自分の頬を濡らす涙の意味も分からなかった





久しぶりに戻った里には何の感慨もなかった

「お帰りなさいませ」

(待っていたのは風魔の頭領で、俺じゃない)

むなしい気持ちで仲間たちを見つめる
小太郎の帰りたい場所は主の元だけだった

「長、届いた書簡は部屋にお持ちしました」

片手を挙げて部下を下がらせる

一人になりたかった
何かを考えることも、誰かが側に居ることも、
ひどく億劫だった

自室の戸を開け必要最低限の物しかない部屋を見回す
誰かが片付けてくれたようで埃一つ無かった

戸に背をつけてずるずると座り込む
部屋の中は温かいのに、とても寒いと感じた

(風邪…では、ない)

ゆらゆらと揺れるロウソクの火に手をかざす
確かに熱は伝わるのにまだ寒いと感じた

何の音も聞こえない部屋は静かすぎて落ち着かない
文机に置かれた紙に手を伸ばすが、文字を追っても頭に入らない

(…明日、考える)

何もする気になれなかった

畳の上に大の字に寝転び目を閉じる
真っ暗な闇が降ってきて、小太郎は意識を手放した



「小太郎」

(主が笑っている)

「小太郎…」

(主、待ってください)

「………」

(主、主、聞こえません。どうか置いて行かないでください)

『っ!』

腕を伸ばして飛び起きた
だが伸ばした手は何も掴めず、ただ静かな部屋に自分の息遣いが響くばかりだ

(……夢)

辺りを見回しても誰も居ない

(…寒い)

体は汗ばむ程なのに、身を抱き締めてみても寒さは消えない
体調も悪くないのに何故寒さを感じるのか分からなかった

じっとりと濡れた背が気持ち悪く、湯編みをしようと立ち上がる

何だかとても心細かった



湯気のたつ湯に足を浸ければたちまちに体の芯まで熱が伝わった
気持ちよさに目を細めゆっくり体を沈めていく
主が笑って体を洗ってくれたのが遠い昔のことのようだった

(…主との風呂は、楽しかった)

広い湯槽に二人で浸かった
主の手が体を滑っていくのがくすぐったくて身じろぎして叱られた
湯から上がれば大きな布を被せられ、じゃれ合いながら拭いてもらった
楽しそうな主を見ていると小太郎も楽しかった

思い出すだけで涙が出そうになって勢いよく立ち上がる
今泣いてしまったら、今までの自分を形作っていた何かが壊れてしまいそうだった

手早く体を拭き着流しに着替えると冷たい布の感触に身が引き締まった

自室へ続く廊下を歩きながら幾分か冷静になった頭でこれからのことを考える
主とはもう二度と笑い合えることはないのだとぼんやりと思った

無駄な期待はしない
この身は風魔の長なのだ
勝手な行動は里を危険に晒す
それだけはあってはならないことだ

(…長は里を守る為の物)

先代から厳しく言われ続けた言葉が小太郎を支配する

忍に心は必要無い
忍は殺す為の道具

それは忘れる筈もない当たり前のことだ

忍に生まれた瞬間から人では無い
先代から名を譲られてからは里を守ることだけを考えてきた

例え風魔小太郎が死んでも、新たな風魔小太郎が生きる
遺言は済ませてある
いつ小太郎が死んでもいいように手筈は整っているのだ
小太郎は里の歯車の一つにすぎない

一月の間に忘れかけていたことを改めて自分に言い聞かせた

自室に戻り布団を敷く
ロウソクを消し冷たい寝具に潜り込む

(…寒い)

やらなければならないことは山積みだ
里の現状確認に、書簡の内容も確かめなくてはいけない
忍たちの鍛練の成果も見たい

(…俺は風魔小太郎だ。もう、小太郎は居ない)

真っ暗な部屋で心を研ぎ澄ませる

(風魔小太郎に、感情は必要無い)

主との穏やかな暮らしは終わったのだ
幸せな夢はいつか醒めるものなのだ
目を閉じ、遠い主を想う
幸せな時間を、柔らかな温もりを、優しい心を貰った

(…主に出会えて、よかった)

これからはまた血に濡れた日々に戻るのだろう
昼夜を問わず全国を駆け巡るのだろう
たくさんの命を奪うのだろう

(…心より、お慕いしておりました)

胸の内に氷でもあるような冷たさに身を震わせる
ここには主の声も、姿も、温もりも、優しさも、匂いも無い

(主が居ないと、こんなにも寒い…)

主と出会う前はこれが普通だった
喜びも楽しさも無く、ただ無感情に任務をこなした
主との日々がどれだけ満ち足りたものだったか浮き彫りになって、より一層の孤独に落ちる
ぽっかりと、心に穴が開いたようだった

『…小太郎は死にました。
……さようならです、主様』

言葉にするともう後戻りは出来なかった
声は無くとも主に別れを告げてしまったのだ

静かに涙が溢れた

嗚咽を漏らすことも、涙を拭うこともせずに泣いた
苦しくて悲しくて寂しくて、どうにかなってしまいそうだった
今動いたら体がバラバラになってしまうと思った
握り締めた手のひらからは血が出ている
結局礼は言えずじまいだと虚ろな頭で考えた

(…何も、言えなかった)

伝えたいことがたくさんあった
主の名前を呼んでみたかった
だがもう全ては終わったことだ
頬を流れる涙の冷たさに震える吐息を吐いた

(……さようなら、三成様)

静かな部屋の中で、真っ暗な部屋の中で、小太郎は一人きりで別れを告げた

大好きな主に
犬であった小太郎に

部屋には痛いほどの沈黙が降りるばかりだ

涙を止めようともせず痛む心を抱えてゆっくりと眠りに落ちていく

夢の中ではせめて主が幸せであればいいと思った






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