二人ぼっち
10
雨が降っている
水底から見上げれば水面は波紋を作り、不確かに揺らめいている
降り注ぐ光は消えてしまいそうにおぼろげで、水の底は凍える程に冷たい
手を握られているような温かさに、胸が痛んだ
”みつなり”
突然降ってきた家康の声は、涙混じりに掠れていた
「…家康?」
家康の涙など、今まで一度だって見たことが無い
いつだって笑って、仲間が死んだ時さえも周りを気遣って、
辛そうに眉を寄せるばかりで、弱音さえも吐いたことの無かった家康が泣いている
今、何を思っているのか、どんな顔をしているのか、
私には何も分からない
声をかけることも、触れることさえも出来はしない
そうやって何も出来ずに水面を見上げることしか出来ない自分が、
どうしようもなく無力だと感じる
「…家康」
許せないという思い
側に居たいという想い
相反する心、自分のことさえもままならない
「…っ、泣くな」
それでも、今はただそれだけが、私が願う唯一つの真実
この声も、想いも、届かないと分かっている
それでも絞り出される声が、止まらない想いが、無意識に伸びる手が、
私自身認められない家康への感情の全てを物語っている
どれほど憎もうと、消えなかったこの愛が、
憎しみの消えた今、止め処なく溢れてしまう
こんなものは秀吉様への裏切りだ
どれほどの贖罪をしようとも許されはしない
そう思うのに、伸びた手は下ろせず、想いも声も止まることは無い
「ああ、秀吉様…
どうか、私に許しを請う許可を…
家康を想う、許可を私に…」
止むことの無い雨が、揺らぐ光りが、切なくて堪らない
家康が泣いているかと思うと、どうしようもなくこの胸が痛む
「…泣くな、家康」
私の何もかもが家康には届かない
声も、想いも、伸ばした手も、届くことは無い
”みつなり”
そっと水面に差し入れられた大きな手
見間違えることなど無い、家康の手
”ワシには、三成が必要なんだっ…”
迷子になった子供のような切ない声
不安そうに揺れる苦しい泣き声
この手を取れたら、目を覚ますことが出来るのだろうか?
家康に泣くなと言って、抱きしめてやることが出来るのだろうか?
もしそれで私が断罪されて死んだとしても悔いは無い
ただ、秀吉様を裏切ることになるという思いが、腕を伸ばすことを許さない
尊敬し、敬愛し、秀吉様のお役に立つことが喜びだった
褒められ、笑いかけてくだされば、それだけで何にも勝る誉れだった
秀吉様の手足となって死ぬことが、私の存在意義だと思った
私にとって、神よりも尊いお方だった
「…っ」
家康の泣く声だけが響く
揺らめく水面に降りしきる雨
冷たく凍える水底
これが、家康の今感じているものなのかと思うと居ても立ってもいられなくなる
それでも、秀吉様を裏切ることは私には出来ない
拳を握り締め、差し伸べられる手を見つめた
歯を食い縛って、家康の泣き声を聞いた
「…家康っ」
私の目から溢れそうな涙も、千切れてしまいそうに痛むこの胸も、
家康を求めているからだと分かっている
それでも秀吉様に受けた御恩を、頂いた信頼を、裏切るわけにはいかないのだ
たとえ秀吉様がお亡くなりになったとしても、私は豊臣の、秀吉様の家臣なのだ
どんな理由があれ、秀吉様を殺した家康の側に居るなど、
秀吉様への侮辱でしかない
裏切りでしかない
それは、私自身が最も許せない行為だ
「……っ」
どんなにこの心が家康を求めても、私はそれを許せない
「…秀吉様、どうか私に許しを請う許可を」
うなだれ、水に涙が溶けるのを見た
「…家康を想う私に、罰を」
ふいに背中に当てられた温かな手のひら
幼い頃に感じた、大きく温かな手のひら
振り返れば、あの頃と微塵も変わらない御姿
「…っ秀吉、様」
優しく微笑まれ、ゆっくりと家康の手を指差す大きな大きな秀吉様の手
「…半兵衛様っ」
私の瞳をじっと見つめ、にっこりと笑い頷いてくれる半兵衛様
子供にでもするように頭を撫でてくれるのは幼い頃から変わらない白くお美しい手
「…形部」
今にもひきつった笑い声が聞こえそうなほどの笑みを浮かべる形部
肩を押すのは包帯にまみれた優しい手
「…っ!」
その笑みを見ただけで、誰も、怒りなど、憎しみなど、無いのだと知った
私は秀吉様亡き後の私の生きる意味を、家康に見出していただけだったのだと気付いた
「…私は」
贖罪の言葉を口にする前に、秀吉様の手が私の背を押した
ただ安らかに笑って、家康の手の伸ばされる方へ
秀吉様も、半兵衛様も、形部も、笑っていた
大丈夫だとでも言いたげに頷いて、私の背を押してくれた
手が離れた瞬間三人の姿は揺らぎ、水の向こうにおぼろげに霞んでいく
それを一瞥し、私は家康の手を取るために水面に手を伸ばした
ただ、家康の涙を止める為に手を伸ばした
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