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 「はじめてのお泊まり」

 

「お嬢ちゃんたち夕飯だよ」

「あっ、おとうさん。リナちゃん」

「リナです。祝詞すてきですね。ときどき杜で聞いていました」

「いらっしゃい。香詩宮で時々お見かけしますね」

「このカタログ。リナちゃんのおとうさんなんだって」

「荻野閏さんの娘さん?」

「はい。香詩宮には父もよく散歩に来ます」

「閏さんにこんな可愛いお嬢さんがいたなんて知りませんでした」

「リナちゃんとは小学校から同じクラスだったの」

「じゃあ、いがいと近くにお住まいなのですね」

「はい、香詩宮の杜を抜けてつつじ町の住宅街です」

「アトリエもそこですか」

「はい」

「閏さんの浮遊する糸は不思議な動きをしますね。何処か霊的な感じがして、もし霊が見えたらあんな感じなのかな。閏さんはお元気ですか?」

「はい。おかげさまで元気です」

「制作の方は?展覧会のご予定とかあります?」

「あれが制作なのかな?変なことばかりしていますけど」

「やはり芸術家さんは変わってるんですかね」

「はい。変態さんですね」

「リナちゃん、変態さんって?」

「変態さんは変態さんですよ。こないだなんかね。風船に水を入れて朝日に向かって飛ばしてるの。『リナちゃん、お水がお日様の光で宝石のようにきれいだよ。いっしょにやらない?』って誘われたから、『うん、やってみる』って言ってやったの。でも一時間もやれば飽きるでしょ。パパは違うの。日が沈んでも今度は星や月に向かってやってるの。来る日も来る日も何日もだよ。これを変態さんといわず、何と言ったらいいの?ねえマホちゃん」

「変わってるね。やっぱり」

「きっと次の表現の何かになるんだろうね。さあ、夕飯にしよう」

「もうすぐ夏休みだね。リナちゃんち、今度遊びに行っていい?閏さんのアトリエ見たいんだけれど」

「ちょうどお休みだし、明日でもかまわないよ。内のパパは変態さんでも人が大好きなの。マホちゃんだっら大歓迎だよ」

廊下は煮物の匂いで食卓へと誘っていた。

 

「リナちゃん。ここに座って」

椅子を引きながら沙織が目配せした。

「アレルギーとか大丈夫?食べられないものあったら言ってね」

― うっかりしてた。電話した時、お母さんから聞いておくべきだったのに。

「エヘヘ。リナは好き嫌いないの。マホちゃんは?アレルギーとかあるの?」

「何食べても大丈夫」

香詩宮家の食卓は命を頂くという気持ちにさせた。鮎の塩焼きにしても、舞茸や獅子唐の天ぷらにしても、ゆでたアスパラやインゲン、枝豆にしても、海老のマリネにしても、グリーンサラダのミニトマトやブロッコリーにしても、酒のつまみなのか、葉ショウガやエシャレットにしても生きていた時のかたちをそのまま留めている。野菜中心ではあるが、赤、白、黄色に緑と色味がよかった。爽やかな印象を与えるのは、作った沙織の夏用の感性なのだろう。

「リナちゃん、おそう麺の薬味ね。こっちがネギで、そっちがミョウガよ」

リナは食べることがとても好きだった。でも、人前で食べることには、何故か恥じらいを感じていた。何処かうしろめたいような気分になった。

世界には貧しくて碌に食べられず、飢えた人々が大勢いることをそれとなく察してしまうせいなのだろうか?いやもっと直接的な他者を殺して食べるといったことが無意識に働いていたのかも知れない。

命を奪わなければ命ながらえることができない私たちに、味覚は快楽で応えてきた。この感覚はとても恐ろしい。美味しいという喜びの中に、口に入れたものたちを殺したという事実が含まれているのだ。味覚は奥底に殺す喜びを潜めていることになるのだから。

自身の親、兄弟、子どもたちが怪物か何かに食べられているところを目撃すれば、そやつのことを憎らしく思うに違いない。同じ事を自分らもしてるわけだから、罪の意識が生まれないはずはない。食べられた側の恐怖や悲しみをどんなに背負っていても、他者を殺して食べるという罪の意識は美味しいという喜びに変わってしまう。私たちは完全に命の味を覚えてしまったのだ。

このもって行き場のない気分を、口に入れたものたちを神として祭り、祝福し、感謝することで、腑に落としてきたのかも知れない。いや、身勝手に折り合いを付けたとでも言うべきか。

水とミネラルと二酸化炭素、そしてお日様の光によって有機物を作り、自立している植物のように、人は食べることから解放されるのだろうか?私たちが光合成機能を持つ日が何時か来るのだろうか?

たとえそうなったとしても一度覚えた命の味をそう簡単に手放すとは思えないのだが・・
「いただきます」

示し合わせていたかのように目を伏せて自然に合掌の姿勢になるから不思議である。この「いのり」の仕草にこそ、命を戴くことへの祖先から脈々と受け継がれてきた感謝と鎮魂の思いが無意識に込められているのだろう。

「リナちゃん。たくさん召し上がれ」

満面の笑みをうかべてリナは頷いた。

「ありがとう」

リナはミニトマトが大好きだった。瞳を閉じて口に含むと命の痛みが光に変わっていく。噛むと光の香りが口いっぱいに広がって満たされた。甘酸っぱい喜びが身体の芯から灯っていく。命と一つになっていく明るさはすぐに笑顔になって現れた。

「おいしい」

マホには一瞬、リナの顔がトマトになったように見えた。

リナトマト。ウ

「鮎ね。お隣のマー君から頂いたの。思川の上流で釣ってきたんですって。雨で川が増水したら、急に入れがかりになったそうよ」

「大漁だったんだ」

「それでお裾分け。いっぱい貰っちゃったの」

「この時期の鮎は美味しいから嬉しいね」

「さっきまで生きてたそうよ。鮎って、焼く前はね。西瓜の香りがするのよ」

「西瓜の香りがするの?」

「そうよ。骨まで軟らかいから丸ごと食べられるの。リナちゃん、鮎、食べたことある?」

「ないの。川魚、あまり食卓にのぼらないの」

「リナちゃん、わたしね。お魚の中で鮎が一番好きなの」

「リナはマグロかな」

「食べてみて」

鮎をどうやって持ったらよいのか?上手く箸を使いこなす自信がなかったリナは、指先で摘まんで食べることにした。頭からガブリと頬張ると、癖のないほのかな土の苦味が身の旨味と共に広がっていく。命に蓄えられた別の命たちの言葉が弾ける。その声を味として感じているのだろうか?川の中に溢れていた光がリナの胸に流れてくる。

― ああ、川の味がする。

「リナも鮎、大好き」

「ね」

マホの笑顔を見て、海の魚たちが急に遠いところのよそ者に感じられたリナは、何となく自分のいる場所が何処なのか分かったような気がして、その育んでくれた世界につま先を立てた。

― ここがいい。ウフフ・・

氷の転がる涼しげな音がした。大きなガラスの器に小分けに丸められているそう麺をマホが掬い取ったのである。ネギとミョウガとショウガを少しずつ入れたつゆにつけて、何気にちらっとリナを見た。鮎を食べ終えたばかりのリナが摘まんでいた親指と人差し指を交互にしゃぶっている。

「リナちゃん、おしぼり、これ使って」

「ありがとう」

マホが口をつぼめて麺をすすると、余分なつゆは器の方へと戻されていく。だしのきいたそう麺は喉を潤し胸を冷やした。おなかに行ってしまったそう麺を追いかけるみたいに後から薬味が効いてきた。口の中にその清涼感が残った。

「おいしい」

笑みを浮かべたマホに倣って、リナもそう麺に箸を伸ばした。

テーブルは味覚の魔法陣なのだろうか。目線が人と食べ物、そして人と人の間を行ったり来たりして至福のかたちを描いていく。味覚の魔法が求めた無邪気な笑顔が何故か命の味を際立たせているように思われた。

「ごちそうさまでした」

マホとリナがあとかたづけをした。

マホはスポンジに洗剤を数滴垂らし、二、三回揉んで泡立てると、リナに笑いかけながら手際よく食器を洗い始めた。リズミカルに腰を振ってノリノリでそれを受け取ったリナは、水で濯いで籠に立てていく。その様子が信じられないくらい楽しそうなのである。

「まるで姉妹のようだね」

「もうひとり産んでおけばよかったかしら?」

夫婦はお茶を飲みながら二人の仕草を見ていた。

「いいもんだね」

「可愛いわね」

リナが水滴のついた食器を拭き取ってマホに渡すと、それを元あった棚へと戻していく。あっという間にかたづいてしまった。

部屋に戻るとマホは押し入れから下着を取り出した。

「リナちゃん。わたしお風呂入ってくるから、好きなの見ててね」

「ありがとう」

そう言って着替えをもって行ってしまった部屋でひとり、リナはマホの好みが知りたくて、一通りCDに目を通した。勉強机の代わりなのか? 由緒がありそうなちゃぶ台に並べてみると、どうやら好みのミュージシャンがいるわけではなく、ジャケットの斬新なデザインで選んでいるらしい。しいて言えば、そういうデザインを使うミュージシャンが好みなのだろう。どんな曲なのかは出たとこ勝負といったところなのか。現代美術やシュール、SFやファンタジー、抽象や表現主義と、気に入ればマホはジャンルに拘らなかった。現代音楽も何枚か雑じっていた。残念なことにリナの知っているものは一枚もなかった。

― どんな本を読んでるのかしら?

CDを元あった処に戻しながら、本棚を見た。

人差し指で本の背を滑らせていく。波打つ指先を目で追いながら気になる物を探しているような仕草を段ごとに繰り返した。リナの指が止まることはなかった。

リナは襖で仕切られた畳の部屋の中でポツンとただ一つの位置を占めているちゃぶ台に目線を移して、そこで本を読むマホの姿を思い浮かべた。ほのかに白い残像が香った。

「ウフフ。マホちゃん」

古い和風建築のせいなのか。柱や襖が重すぎて女の子の部屋とはとても思えなかった。生活するための衣類や蒲団などは全て押し入れに収納されていたから、凡そ壁面の棚に棲む物たちだけがマホの一面を露わにするガイドだった。

本棚の隣には光に照らしだされ、自ら発光しているような水槽があった。その光の中をたくさんの紅い金魚が泳いでいる。

― ワー、大きな水槽。きれい。フフ。こんにちは。アッ、こんばんはかな? みんな元気だね。

この金魚たちがマホのことを最も象徴的に語っていたのだが、その時のリナには知るよしもなかった。

― あれー、何だろう。文字が書いてある。祝詞かな?

それが大祓の祝詞であることをリナは知らなかったし、黒い文字の向こうで泳ぐ者たちに

「何か伝えたいのかしら?」

 と、微笑みを浮かべるだけで読むこともなかった。ただぼんやりと何時までも金魚を見ていた。

 

風呂から上がるとマホはドライヤーで髪を梳かした。指通りがよくなると冷風に変えた。

 

「もうすぐ夏休みだね。リナちゃん、予定あるの?」

「ウフッ、傘を買いに行きたい。マホちゃんとお揃いのがいい」

「じゃあ、初日に行こうか?」

「近いの?」

「うんん、近くないよ」

「電車でいくの?」

「専門店にいかなくちゃないの。あの傘」

「そうだよね」

― 今年の夏休みはマホちゃんといっぱい過ごせたらいいのにな。

マホちゃんの予定は?」

「美術館に行ってみたい。観たい展覧会があるの。リナちゃん一緒に行ってくれる?」

「もちろん」

「ここにお蒲団敷くからね。リナちゃんも手伝って」

「うん」

「ちゃぶ台の足、折っちゃおうか?そっちたたんでくれる?」

「これでいい?」

「じゃあ、端に寄せるね」

「よいしょ」

「リナちゃんのお蒲団、取りに行こう。一緒に来て。」

広間の押し入れの中にあったお客様用の蒲団を沙織が気をきかせて隅に出してくれていた。

「上掛けはリナちゃんが持って行ってね。わたし、敷蒲団を運ぶから」

「うん」

「お蒲団、ちょうど部屋の真ん中に二つ並ぶように敷こうね」

「分かった。マホちゃん、頭をどっちにする?」

押し入れからマホの蒲団を出して、それをリナの蒲団の隣に敷くと、ぱっと咲いた桜の花びらが畳に淡い乙女心を通わせる。やっと女の子の部屋らしくなった。

「マホちゃん何時もこのお蒲団で寝てるの?」

「そうよ。可愛いい?薄いピンク色が好きなの」

「リナもパステルカラーが好き。でも傘は真っ紅がいいね」

「夏祭りにまたお泊まりに来て?おうちのひとに今から言っとけば大丈夫でしょう?」

「嬉しい」

「寝ようか?」

「マホちゃん、そっちに行ってもいい?」

「一つのお布団でねむる?」

「少しの間、こうしていたいの。だめ?」

リナは何も言わずただじっとしてマホの胸に顔を埋めていたかった。柔らかな膨らみの向こうから体温の僅かな温度差を伝えてくる。マホの鼓動に包まれたリナは、耳の中へと血液が流れていくような息づかいに変わっていく自分が少し恥ずかしく思われた。

― えっ。何かしら? この感じ。

リナの身体に沿って透明な淡い光が内側をなぞるように入ってきた。冷たく感じられたので体温よりも微妙に低いのだろう。人型の器に灌がれる水のようにリナの身体を満たしていくのが分かった。リナは自分が何か霊的なものを収めておくための器であることを思わざるを得なかった。

それがマホの霊体なのだとリナは直感で分かっていた。

― リナの中に今まであったものもマホちゃんの方へと流れていくのかしら?

一方的に入られているようには思えなかったのである。

「あのね、マホちゃん。変なこと聞くようだけど、リナ、マホちゃんの中に入って行ってない?」

「ウフフ、来てるよ。青白く発光する透明なリナちゃんが冷んやりとして気持ちいい。こうでもしないと汗ばんでしまうでしょう」

― こんなこと、どうやってやるのかしら?

香詩宮の杜で幼いころから見えない者たちと遊んできたマホは、霊体が体温を下げる働きを持っていることに慣れ親しんでいた。かの者の中に入った時のその痺れるような寒気が好きだった。逆に入られた時は命が震え神秘的な痺れに包まれた。リナの霊体はそれらとは明らかに違っていた。

「夏だもの。抱きあっていたら熱いでしょう。でもね。こうすれば冷んやりして気持ちよくない?」

「マホちゃんて不思議」

マホの言う通り触れ合った肌も冷たく感じられ、汗ばむことはなかった。

リナは素早く顔を上げマホにキスをして自分の床に帰ろうとしたのだが、マホに手を握られ、抱き戻されてしまった。

「リナちゃん。ありがとう。このままでいよう」

体温がひとまわり大きな体に包まれ、接しているところほど冷たく感じられた。

 

 

 

つづく

 

 

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