散文

 

 

愛する時

 日が落ちてまだ二時間足らず、夜が深く感じるのは、歩道に人影がなく車だけが行き交う町外れの三叉路のせいか。日中吹き荒れた強風はやんだが、寒気が増してじっとしていると体が震えた。ヘッドライトの光を避けて電柱の陰に立ち続けること三十分余、失意が膨らんできた。

 昨夜もこの場所で一時間立ち尽くしていた。手紙による誘いだから間に合わなかったに違いない。今夜は来てくれると期待してのことだが、待ちぼうけかもしれないという思いが強まる。

 片桐江津子に惹かれたのは一年ほど前からだ。Kの個展会場で紹介されて以来、二、三度Kを介して接する機会があった。町境の農家の次女で大手工場の現場事務員という。「いい娘だぞ」と新婚のKは唆す言葉を囁いたが、私は世間並みの若者からは逸脱している自覚があり無関心を装った。

 だが、縁があるのか忘れかけたころ決まって出会う。この夏の夜、Kの個展会場の小宴で隣り合い、Kに促され夜道を自宅まで送り届けたことから恋情が高ずる。ちょうど不定期に発行していた小冊子が出来、その一冊を送るとすぐ好意的文意の礼状が届いた。いささか舞い上がり衝動的に返書を送る。鬱屈した日々の心情を吐露した恋文の趣があった。日をおかず返信が届く。

「あなたが固い殻の中に閉じこもっているようで悲しく思います。わたしのような者でも入る隙間はないのでしょうか」とあった。

 江津子が好意を寄せてくれている。胸中が弾んだ。折よく好ましい話が舞い込む。年上の知人が新工場を創業するので手伝ってくれと誘われた。それまでの勤めより好待遇で生活者としての意欲が湧く。同時に江津子への恋情が強まった。

 新しい仕事は順調に滑り出した。ひと月ほど埼玉のO市にある親工場へ研修に通い、マッチ箱のような小さな工場での稼動が始まる。創業社員として意欲的に働いた。この間、江津子とは手紙で互いの近況を知らせ合った。自分の家や家族のこと書く時、どうしても暗い気持ちになる。しかし、新しい仕事に就き少し希望が湧いていた。そんな日、江津子から手編みのクッションが送られてくる。「あなたの身近に置いて使ってくださるように祈っています」と添え書きがあった。体中の血が騒いだ。

 片桐江津子は二十五歳、私は二十九歳、Kは似合いだという。しかし、私の環境は最悪といってよかった。狭い家に老齢の祖母、中風の父、母、妹の五人がひしめいていた。それでも在京の弟二人を含め子供全員が働くようになっていたから、かつてのように月末に借金取りが来ることもなかったが、Kのいうように結婚など全く考えられなかった。

 江津子は絵心があるにせよ、常識的な娘であることは間違いない。そういう娘と付き合えば二年前と同じ愚行を犯すかもしれない。熱海で私は二人の娘を傷付け、自身も深く傷付いた。以来同じ轍を踏むまいと身を処していたのだ。

結果としての江津子への軽率な振る舞いを悔やみつつ、しかし恋情は消えず気持ちの整理ができぬまま日が過ぎた。いつまでもクッションの礼状を書かぬわけにはいかない。何度か書き直したが、どうしても心情的な文面になった。「…改めて私の生活環境を見直せば、あなたのことを好ましく思っています、といってはいけないのです。しかし、どうしても気持ちの整理ができず、私は見境もなく取り乱すばかりです。そして今、無性にあなたの顔が見たい。それだけでいい、と。土曜日の七時、R町の三叉路で待っています。急なことであなたの都合がつかないことを考え、日曜日も同時刻に待っています…」

 娘も二十五歳にもなれば、いい寄る男を見定める知恵もついているだろう。既に私の生活環境は頭に入っていることだし、急ぎ勘案したことだろう。見掛けのつり合いはともかく、交際相手として私が不つり合いと切り捨てて当然だ。それにしても二年前の教訓をさっぱり失念し、血迷うとは情けなかった。

 自己嫌悪を抱えつつさらに三十分余立ち尽くしていた。虚しく待つことが、愚行への償いのように思えた。…早苗やさと子はどうしているだろう? 裏切った二人の娘の心中を今さら慮ったところで詮方ないが、同時に性懲りもなく同じ愚行に走る自分が哀れだった。貧家の長男に生まれたこと、才覚も力量も劣ること、このことは天命なのだ。にもかかわらずたびたび失念して愚行を重ねる。性格的な弱さを承知していたが、そろそろ克服する時期ではないのか…。

 江津子は来なかった。一時間余の無為な時間が流れて三叉路を後にする。虚しさの中で、これでよかったと思った。仮に恋が始まれば、また娘を傷付けることになろう。Kの家に寄り少し酒でも馳走になって愚かさを紛らわそうと思った。

歩き始めて間もなく、タクシーが横に止まり、江津子が降りて来た。一瞬のうちに全身が熱くなった。

「ごめんなさい」と江津子は息を弾ませていった。いつも控え目で落ち着いた姿しか見ていなかったから、上ずった早口が別人のようだった。

「ごめんなさい、急いだんですが、なかなかタクシーが来なくて…」

 手紙が届いたのは昨日の午後という。勤め帰りに和裁教室で学ぶ日で、手紙を読んだのは帰宅した十時前だったそうだ。連絡を取る方法がなく気になって眠れなかったといった。今日は約束の時間通りに来るつもりでいたのに、出掛けに母親に用事を頼まれたりタクシーが遅れたりで、時間が守れなかったという。

 今し方までの虚しい感情が消え、顔がほてる。まるで少年だ。自戒しつつも、江津子と夜の道を歩き始めると急速に分別が消えた。寒気も車道を行き交う車の騒音も淡い背景になって、快い夢の中へ溶け込んでいく感覚になる。

「どっちに行く?」

 町中に向かう道よりも静かな町外れの方に自然に足が向く。季節のことや仕事のこと、表現のこと、彼女の稽古事のことなどを話し合いながら歩いた。いつしか人家が途切れ、田畑、雑木林が広がる暗い道になる。とりとめもなく続いていた対話がふっと途切れた。

「髪の毛、切ったね?」

 沈黙が不自然に感じ私は話題を探した。

「分かりました?」

 薄明かりの中で江津子が髪を撫ぜた。

「見た時すぐ分かった」

「何か髪型を変えたくなって」

「女性が髪型を変えるのは何かある時だって聞いたけど」

「そんなんじゃないです。ただ何となく短くしたかっただけです。おかしいですか?」

「悪くないと思うけど」

「そうですか、安心しました」

 そしてまた話が途切れた。曲がりくねった畑中の砂利道になる。月は見えないが、東の空にいくつかの星明りが霞んでいた。

「変な道に来たかな? 戻ろうか?」

「……」

「俺、夕食を済ませてきたから気が付かなかったけど、江津さん夕食は?」

「わたしも済ませてきました」

「じゃあコーヒーでも飲みに行く?」

「飲みたいですか? わたしはどちらでもいいです」

 江津子が足を取られてよろめいた。とっさに腕を支える。わずかな接触だが、彼女の体が硬く緊張したように感じられた。

江津子が自分に好意を持っていることは間違いない、と私は確信する。背筋が伸び自負心が溢れた。(江津さん、恋人いますか? いなければ、俺、立候補するけど…)。そんなせりふが心臓の動悸に後押しされるようにして咽喉元まで込み上げてくる。

しかし辛うじて分別が働いた。甘味な感覚に溺れて、展望もなく衝動に身を委ねた結果、二人の娘を傷付けた。まだわずか二年前のことだ。もはや償うことのできない背信の代償として、私は再び娘たちとはかかわるまいと律していたのではなかったか。それなのに性懲りもなく同じ轍を踏もうとしている…。

 黙って歩くのも限度がある。心の内奥がどうであろうと、誘ったのは私だ。応えて会ってくれた江津子を気まずくさせてはいけなかった。新婚のK、長女誕生のC、江津子の高校時代の恩師I氏のことなど、彼女の笑いを誘うようにして話した。

 江津子は問われれば短く答えたが、あくまで控え目だった。在学中のI氏には可愛がられたこと、私たちの絵画グループに誘われてうれしかったこと、勤め先の会社の職場は入社以来変わらぬこと、そして姉のみ既婚で一家五人の家族構成で両親は辛うじて生計の立つ規模の農業であることなど…。

「平凡で何のとりえもありません」といった。

「いや、幸せな環境です」

 そしてまた話が途切れると、いたずらに胸の鼓動が激しくなる。

 恋情は常識や分別を超えたところで生まれる。同じ轍を踏むこともあろう。理屈ではない。私は江津子への恋慕を正当化する思いを巡らしていた。それは切ない感覚だった。結果はともかく、この切ない感情を伝えようと決意したのは、長い沈黙が不自然に思えた後だ。心中で適切な言葉を選びながらも、なかなか決まり文句が見付からず、衝動的に吐き出した言葉はいささか乱暴だった。

「突然変なことをいうけど、江津さん、今、好きな人いますか? もしいないんだったら、俺が貰っちゃってもいいなって」

江津子は立ち止まり、無言で私を見詰めた。上ずっている時、私は乱暴な言葉を吐く癖がある。

「ごめん、無礼なことをいいました」

私が歩き出すと江津子は少し遅れて続いた。脳裡の片隅に二年前の顛末が甦った。似たようなあの時も、私は無責任な言葉を吐いていた。同じ轍を踏んでいる! どうしようもない! しかし私は開き直る。江津子への恋情に嘘はない。正直に語っただけだ。後は知るものか!

江津子は何もいわなかった。私は黙って歩いた。一歩遅れた距離で江津子は離れなかった。間もなく私の感情も落ち着く。

「いいかげんに歩いてきたけど、この方向に行けば江津さんの家の方に行きそうだね」

「ええ」

 やや甲高い江津子の声に落ち着きを感じ、私はほっとした。

 それにしても随分な道のりを歩いたことになる。歩き疲れたかと問うと、「いいえ」と江津子は答え、門限はあるのと問うと、「そんなものありません」と笑った。

 それからは沈黙が不自然にならぬ程度でとりとめのない言葉を交わしながら、さすがに歩き疲れてきた時、江津子の家の方向につながる道に出た。彼女に案内され近道という畑中の道に入る。やがて高い生け垣に囲まれた家々が連なる一区間に入る。夏の夜送り届けた時の記憶のある外灯の下で時間を確かめる。十二時になるところだった。

「遅くなった、叱られないかな」

「大丈夫です」

生け垣に沿った細道の西側が彼女の家だった。その周辺の家はみな広い敷地を有し、東側の家も高い生け垣に囲まれて、細道は暗い。

「今日はありがとう。会えてうれしかった」と私はいった。

 後ろ髪引かれる思いがあったが、それ以上気持ちが乱れぬうちに退こうと思った。

「わたしもうれしかったです。ありがとうございました」

 江津子は一礼して背を向けたが、数歩歩いたところで立ち止まり振り返った。そして何かいいよどむように「あの、さっきの…」と口ごもった。

「本当にごめん、乱暴なこといいました」

 ずっと気になっていたから、江津子の発語に私は敏感に反応した。

「いいえ、いいんです。…それにわたし答えていませんでしたから。…そんな人いません」と江津子はいった。

「……」

「でも、あんないい方ってあるでしょうか?」

「いや、本当にごめん」

「あんないい方ではなく、ちゃんといってほしいです」

江津子はきっぱりといった。

 急激に胸中が熱くなり私は江津子に近付いて、

「俺でいいの?」

「わたしでいいんですか?」

 江津子と向き合ったまま対話が途切れた。

 急激に私は少年に舞い戻っていた。二年前の愚行で心身に深い傷を負い、苦い教訓として身に着けていたはずなのに。

「ありがとう。うれしいよ」

われながら大仰で芝居じみた言葉と思ったが、歓喜の感情に嘘偽りはなかった。そしてそのあたりから、私は少年を脱して恋の経験を持つ青年に早替わりしていたのだ。そっと江津子を抱き寄せ「ありがとう、夢のようだ」と耳もとで囁いていた。江津子は抱かれるまま動かなかった。

「一昨年はC君、去年はK君が結婚して、おまえも考えろ、江津さんがいいっていわれていた。…後二、三年たてば人並みの暮らしができそうだけど確実な保証はない。こんなあやふやでは江津さんに近付くわけにはいかなかった。ずっと悩んでいた。…後二、三年待っていてくれるかな? 二、三年後なら何とかなりそうなんだ」

「待てると思います」

 江津子は落ち着いた声でいった。

「ありがとう。…でも江津さんの家族に反対されないかな?」

「いいえ、待っていろっていうなら、わたし待ちます」

 この深夜、約六キロの帰路を歩きながら、私は久しぶりの愉悦に浸っていた。脳裡の片隅で、孤独や欲望を克服できず、嘘や演技を施し、現実逃避する弱さを認めつつ、しかし、江津子への恋情に嘘偽りはないと言い訳する愚かさも自覚していた。

 

 

二月五日、三十歳の誕生日の朝、約束の時間より早めに私鉄の駅に行くと、駅舎入り口に江津子が待っていた。眩い思いで彼女に近付く。細身やや小柄、一見地味な顔立ちだが、私には申し分のない女性に思えた。

 師走の夜に恋人となって以来、週に一度の逢瀬を重ねていた。いつも夕方から夜にかけてのことで、時には日曜日の明るい日差しの下で会おうとしたが、どちらかが都合悪くなり実現しなかった。誕生日と日曜日が重なったこの日、念願の白昼の逢瀬を東京で過ごすことなる。私たちの仲は当分の間彼女の両親に内密にしておくことにしていたから、知人の目に触れやすい地元での逢瀬を避けたのだ。

 待合室でもホームでも知人と出会うことなく、私たちは座席指定の急行電車に乗った。江津子はずっと取り澄ました表情だった。人々の目を意識してのことだろうが、このところ暗闇の中で取り乱すことが多い彼女を思い返しておかしかった。

先夜も「わたしが重荷になったのでしょう」と突然いい出し、雑木林の中で座り込んだ。内心を見透かされたかのように私はぎくっとした。そのような言葉を誘い出す話をしていたわけではない。表現の難しさ、生きることの不安、そんな心の奥底の危うさを伝えたかった。ところが江津子は過敏に受け止め、私の負担になっていると感じたようだ。

 離れたところから見ていた時は、落ち着いた分別の備わっている娘に見えたが、肌の温もりや息遣いが伝わる親密な関係になると、時に彼女は小娘のような振る舞いに及んだ。私との相対関係がそうさせるのかもしれない。他人の前に出ると内面の脆さを隠そうと虚勢を張る性癖が私にはある。長男と次女という二人の育ち方も影響していたろう。何かにつけ主導権を取る私と従う江津子。そのくせ私は何事にも確固とした自信がなかった。

 電車が滑り出した。車内のざわめきが収まり、車窓に田園の景色が広がる。窓際の席の江津子がバッグからリボンの付いた小さな包みを取り出した。

「誕生日、おめでとうございます」

 改まった口調で包みを差し出した。

「ありがとう。開けていい?」

 ライターだった。

「ダンヒル…高かったろう?」

「……」

「大事に使うよ。江津さんの誕生日は六月二十六日だったね。忘れないようにするよ」

「忘れないでください」

 彼女は素直に笑った。目じりに小皺がよった。小娘ではなく二十五歳の女を私は感じた。江津子の誕生日まで四か月余、その日二人の仲はどうなっているか?

 楽観と悲観が交錯する。しかしそれ以上考えても仕方なかった。今、私は幸せの只中にいる。江津子の笑顔にも幸せがこぼれているではないか。ことさら過去の傷を晒すことはないし、どう展開するか分からない未来を必要以上に恐れても仕方ない。

 電車が傾斜し、車窓いっぱいに日差しが差し込む。私は席を立ち日除けのカーテン引いてやる。窓際にかけてあった江津子のコートに触りずり落ちた。かけようとするのを彼女は遮り、二人の下半身を覆うようにかけた。車内は暖房が効いていたが、江津子は恋人らしい気遣いをした。

 私は気障な青年になる。コートの下で彼女の手を探る。ちらっとはにかむような顔を見せた江津子は、しっかりと握り返してきた。

「家族が気付いたらしいんです」

 少し間をおいて江津子が囁くようにいった。

「俺のこと?」

「母がしつこく聞くんです…。会社の友達と行くというのに信用していないみたい…」

「……」

「一昨日は姉が遊びに来ていたのですが、母に聞いたらしく、好きな人ができたんかって…」

 会うと決まって彼女の帰宅が十二時過ぎになった。早く帰そうと思っていても帰したくなくなり、彼女も帰らなかった。親が心配して当然だろう。

私の内に裏腹な思いが湧く。江津子の親に秘密のまま推移していた方が責任能力の希薄な私には好都合なのに、逆に私の存在が知られたことが少し快かった。先がどうなるにせよ、娘の恋人として親に知ってもらいたい願望があったのだ。しかしこの話を続ければ深刻になる。明るい日の下で恋人らしく楽しみたいと願っての白昼の逢瀬だ。江津子も似た思いらしく、それ以上話をつながなかった。

 寄り添う姿勢のまま時が流れる。無言でも触れ合う腕や腰から互いの温みが伝わった。電車は疾走していても二人の時間は止まっている。最良の時の中にいるのを自覚する。

 終点の浅草駅までの一時間二十五分、着いてみれば束の間だ。至福の時は過ぎてみれば一瞬だが、その中にいる時は永遠の思いになる。

二人にはこれというあてはなかった。家族や友人知己の目のとどかぬ場所ならどこでもよかった。地下鉄で銀座へ行く。浅草駅のホームに降り立った時から、雑踏に翻弄され落ち着かぬ気持ちになる。彼女が紛れぬように手を取る。体を支える。そんなふうにしていると次第に雑踏が気にならなくなり、二人きりという感覚になった。

 銀座の雑踏を歩いた後、デパートに入り、江津子はハンカチと靴下を買った。地階食堂街の喫茶店でひと休みしてから、また雑踏に流されながら日比谷公園にたどり着く。そこにも結構人々がいて空いているベンチを探すほどだった。しかし意外に多い樹木群と多少はきれいな空気があるようで幾分気持ちが和らいだ。

 それにしても私たちはよそ行きの顔になっている。都会での逢瀬を楽しむ意図とは逆に電車内も駅も喫茶店も雑踏も、どこにいても絶えず何かに急かされている感じになって落ち着かなくなる。私たちは田舎者だった。また地下鉄に乗ることになり空席を確保するとほっとする。

上野に戻り駅構内のレストランで遅い昼食を取り、西洋美術館、都美術館を見て回る。逢瀬を楽しむのが主目的だから、名画群も二人にとって淡い印象しか残らなかった。どこも人々が溢れている。そのことが徐々に苦痛と疲労感を生む。そしてその感覚がふっと二、三年前のさと子や早苗との記憶につながった。今、あのころの愚かな私ではないといえるか? 生まれ変わったといえるか? 恥辱の日々をくぐり抜けたことで幾分か私は成長してはいる。しかし依然として展望を持てずにいるのではないか? 私は恋に恋しているだけの無責任な男ではないのか? 自分の負性を自覚しながら断罪できない狡さ弱さを紛らわす。江津子はすてきな女性だ。出会いは一期一会、この出会いを愛しむのが結果として相手を傷付けることになろうと、それは運命のような回避し難いこととして許されるのではないか。

「疲れた?」

江津子を思いやることで私は不安を紛らわす。

「少し…。でも大丈夫です」

江津子はほほ笑む。その胸中を私は都合よく解釈する。こうしているだけで彼女も満たされていると。

 せっかく来たのだしまだ時間もあるから浅草の寄席に入った。自分たちに一番欠けているのは屈託のない笑いと気付いたからだが、ひとり二人の落語を聞いたところで江津子は全く笑わず、私もおもしろくなく席を立つことになる。

 仲見世通りを歩く。江津子は家族への土産品を買ったが、私は買わなかった。期待したほど楽しいことはなかったが、そうして一日一緒にいることで彼女が一層身近に感じられた。駅構内のトイレで先に用を足し、入り口で彼女を待っていた時なと、まるで江津子が自分の持ち物でもあるかのような愛しさを覚えた。

 浅草駅に戻ったのは七時前、売店で弁当を買う。程よい待ち時間で七時発の急行で帰路に就く。車内で弁当を食べ、他愛のない話を切れ切れに交わす。満ち足りた時の流れは意外に早く足利市駅に着く。上野や浅草の人波がまだ目の中に残っているから、ほんのひと握りの乗降客しかいない駅や広場が暗く侘しく見えたが、生まれ育った土地には特有の大気でもあるのか、集札口を出て夜気を吸い込むとさっと疲労が消えていた。

示し合わせたわけではないのにタクシー乗り場を通り抜ける。まだ九時前、帰したくなく、帰りたくない暗黙の思いがあったのだ。

「東京は疲れる、空気が悪いんだろうね」

「……」

「降りたら直った。…どうする?」

 広場の端で立ち止まり顔を見合う。

「もう少しいいですか?」

間をおいて江津子がいった。

「俺はいいけど、疲れてない?」

「大丈夫です」

「家は?」

「お土産も買ってきましたし、平気です」

 江津子が珍しくおどけた口調でいった。

 この町には東西に流れる川を挟んで私鉄と国鉄の二つの路線がある。私たちが降りた私鉄の駅から川までは目と鼻の先だ。その土手上の道、川上の河川敷、多少人家のある通りを抜けての畑中の細道が、私たちの逢瀬のコースだった。私鉄の駅から江津子の家までは四キロはあろう。私の家は国鉄の駅近くにあり、私鉄の駅からは二キロほどある。

逢瀬にはいつも自転車を使った。勤めも共に自転車通勤だったし、二人の家の距離からして徒歩では遠すぎた。

 週に一度、近ごろは二度会うこともあったから対話は途切れがちになる。いつしか河川敷の雑木林の中に入っている。暗闇の中で手をつなぎ、体を支えたりしていると、早く帰そうという思いが薄れ、抱き締めたい思いが込み上げてくる。帰りたがらぬ彼女もそれを望んでいると思う。

 つないでいた手を引き寄せる。彼女は抗うことなく抱かれるままになる。二度目に会った夜に唇を合わせた。以来会うごとに抱擁愛撫が続く。そして男の性欲は度し難いと悟る。抱擁前は自制心があるのに、熱い吐息、生々しい彼女の体温が激情を増長させる。分別が四散して一線を踏み越えようと粗暴になる。幸いというべきか、それまで自失しているように見えた江津子が、その時になるとわれを取り戻す。そして私は恥じ入る。

「ごめんなさい…」

 彼女も混乱してどうしていいのか分からないのだろう。その気持ちが理解できる。だから度し難い激情に駆られるような危うい場は避けようとするが、裏腹にして危うい逢瀬を歩むことこそ恋人の証なのかもしれなかった。

「そろそろ帰ろう。駅まで戻ってタクシーにする? それともここから歩く?」

 またしても同じ愚行を繰り返し、私は自己嫌悪を感じていた。愛撫を重ねる逢瀬を(恋愛ごっこ)として楽しむほど私は色事師ではない。江津子への愛情に嘘偽りはない。彼女となら結婚したいと思う。しかし、現況は依然として結婚生活など覚束ない立場にあった。一家の大黒柱として家族を支える任を放棄できない。後二年、いや三年たてば状況はかなり好転しようと、淡い望みに賭けていたが、近しくなるにつれ具体的に設計図を描こうとすると、望みより失意が立ち塞がった。ということは結果として愛の行為も、結婚を餌に彼女を弄ぶことになる。そしてこうした私の苦悩を江津子も察し始めたのではないか。逢瀬に歓びつつも現実の不運な結末が予測され苦しんでいるようだ。

「もう帰ろう。今日一日楽しかった。江津さんが叱られないようにしよう」

「平気です、もう少し…」

 柔らかな抱擁の姿勢でいると、江津子はじっと動かずいつまでも帰ろうとしなくなる。性的な感情をしまい込んだ後の私は、決まって同じ轍を踏んでいるという忸怩とした思いになる。

 

 

逢瀬には楽しい話題を持ち込もうと思うが、私たちに明るい話題はなかった。一度Kの家に行ったが、なぜか江津子は気詰まりのようで長居しなかった。映画館にも入ったが、少し退屈になると、自分たちの大切な時間が奪われるような気持ちになり途中で出る始末だった。

めりはりのある話はなくても、二人だけでいる方が満ち足りた気持ちになる。些細な仕草や不用意な言葉で江津子が感情を乱したり、私が自己嫌悪を落ちても、抱擁し唇を合わせると、互いの熱い血潮と愛情を感じ、愉悦に包まれた。しかし、その至福の時は短く、次に長く切ない時が続く。それでも恋人を得る前の孤独な日々より、恋人がいることで生ずる切ない日々が愉悦であることには変わりなかった。おそらく江津子も同じだったろう。週に一度の逢瀬が続いた。

四月になる。この夜も町中の食堂で食事をした後、例によって暗闇の雑木林を歩いていると、「家に来てくれませんか」と江津子がさりげなくいった。問い質すと、両親が私の存在に気付き、連れて来いといっているそうだ。週に一度決まって深夜の帰宅となる娘を親が案ずるのは当然で、母親に問い詰められ私のことを匂わしたという。当然父親にも伝わり、人物を見定めたいとなるのも成り行きだろう。

 曖昧にうなずいて答えを紛らわす。二十歳前後の屈託ない若者のようには行けない。一般常識から見て私たちの交際は結婚を前提と見なされよう。私個人を見てもらうなら多少の自負はあるが、しかし、私の生活環境がまず評価の対象となろう。家族の多い貧家の長男と見定められ、好ましい結果が出るはずもない。江津子は私のことを年齢と職業、表現をしていること、それだけしか話していないという。彼女もまた世間の常識を知っていた。親たちが私の生活環境を盾に反対するに違いないと。

 だから後二、三年、私の生活環境が好転するまで秘密裡に愛を育んでいくことにしたわけだが、それにしても帰宅時間が度を越していた。私たちは恋に溺れ、秘密裡に運ぶべきことを逆に晒しているに等しかった。

 喜び勇んで訪問すべきではない。拙速は二人の仲に水を差す結果になろう。十分に準備して最善の配慮で訪問すべきだ。こうしたことを彼女に語りながら、しかし、何か詭弁を弄しているような気持ちになる。本当の気持ちを伝えるには、それほど多くの言葉はいらないのかもしれない。ところが黙っていると少し不安になり、つい余分なことを口に出してしまう。その余分な言葉が江津子の感情を刺激する。

「冷たいいい方ですね!」と彼女はいい、急に泣き出す。「わたしが重荷ならはっきりいってください…」

 江津子が感情を乱すと、私は言葉を失うのが常だった。何をいっても彼女は聞く耳を持たぬようになる。そして説得するつもりの言葉に詭弁を感じ、途方にくれる。仕方なく狡いやり方で収拾するしかない。乱暴に抱き締め愛撫する。少し抗うにしても江津子はやがて幾分か落ち着く。

 だが皮肉、次には私が混乱することになる。繰り返される愛撫の中で卑しさを自覚する。さと子、早苗を通して得た性愛の陶酔を闇雲に欲するのだ。道理の通らない無責任な性欲に翻弄される。

江津子は敏感な感覚を秘めていた。さと子や早苗との経験とは違う陶酔の姿に、私も高揚しいたずらに粗暴になる。しかし一線の手前まで自失している江津子が、越える域にくると必死に拒むのが常だった。私はお定まりの自己嫌悪に落ちる。

 その夜は行く行かぬの結論を先送りしたが、次の逢瀬、この夜もいつも通り、私にとって危うい思いを抑えることになる抱擁の後、堂々巡りのような話をしながら、江津子の家横の生け垣まで送り届けた時、珍しく雨戸の開く音がして生け垣の隙間から明かりが漏れ、庭先に痰を切り吐き捨てる音を身近にした。彼女の父親に違いなかった。私は一瞬身構えたが、私たちがそこに潜んでいるとは父親は知る由もなく雨戸が閉まった。

 壮年あるいは老年の男たちが痰を吐き捨てることは別段珍しいことではない。だが、この時、まだ若く痰を吐き捨てる見てくれの悪さに無縁な私は、江津子の父親がそこここにいる、ありふれた年寄りと多少とも侮る気持ちを持った。

俺は必要以上に臆病になっている。少しばかり家庭環境が悪いが、その他は人並み以上の力量を秘めている。少しばかり大きいといっても農家は農家、家素性云々ではなかろう。農家の次女にすぎない江津子と不つり合いなどといわれる筋合いはない。こんなふうに思った。

「江津さん、俺、ご両親に挨拶に行くよ」

「えっ?」

「今じゃない、日を改めてさ」

 江津子は私の顔を見詰め、そっと体を寄せていった。

「ありがとう…」

 それから帰そうとしても彼女は抱き付いたまま動かなくなる。そうなると例によって私は俗な男になっていく。そして一線に近付くと江津子が拒み私は決まって浅ましさを自覚して退くのが常だったが、この夜の江津子は意外にも拒まず、むしろ促すかのように体の力を抜いていった。私が両親に挨拶に行くということが、それほどうれしかったのか。

私は不純なものを感じた。ひとときの激情に酔う彼女の隙に付け入っていた。しかし「いいの…」と地面に崩れ落ちる江津子を抱きかかえながら、白く光る彼女の乳房の吸い付くような感触にわれを忘れ性愛に溺れていった…。

 陶酔の後、江津子は少し染みの付いた私の衣服をしきりに拭った。「いいよ、これくらい」と私は遮り、その後長い間彼女を抱き締めていた。

 帰路、私は生きていてよかったと思った。二十七歳の夏自殺を図って生き返ったが、以来生き返ったことに心底歓びを感じてはいなかったからだ。

 

 

 江津子の家へ行くと約束したものの、時がたつにつれ気が重くなった。中風の父、老齢の祖母、母と妹が狭い家にひしめき、一家の稼ぎ頭といえる私が、いかに個人的に好ましい若者であったとしても、娘の結婚相手として祝福する親がいるだろうか。

 私には結婚する資格がないといえた。にもかかわらず江津子に結婚を匂わして接近したのは、恋情という度し難い衝動だった。二、三年先、もっといえば五年遅ければ、少しはましな展望が開けたかもしれない。東京の杉並に下宿して外資系の会社に勤めている弟も、とうに帰郷して働いているはずだ。弟がいれば私が家を出て結婚生活を始めても、実家の暮らしは立つのではないか。こんなふうに楽観的に考えても、結局忸怩たる思いが残る。切なさ苛立ちを抑えつつ週末を迎える。

 別段取り決めたわけではないが、週末になると交互に電話をかけ逢瀬の時刻、場所を知らせ合っていた。今週は私が電話する番だ。先夜の事もあり、心待ちしているに違いなかった。

 工場の電話を使って江津子を呼び出す。現場事務員の彼女はいつでもすぐ出たが、この午後は席を外していてなかなか出なかった。待つ間、少し胸がときめく。

「もしもし…」

「無田です」

「こんにちは」

「都合悪くない?」

「大丈夫です」

「例の喫茶店、何時がいい?」

「六時ごろ」

「はい、じゃあね」

 工場の電話を私用に使っていること、周囲の同僚を気遣って用件のみのやりとりが常だった。江津子の勤務時間は八時半から五時半まで、時に残業になることもあるが今日は定時に退勤できるようだ。

逢瀬を重ねるようになってから、彼女は勤め帰りの稽古事も日程を変えていた。火曜日が華道教室、金曜日が和裁教室。私の工場も連日残業があったが、逢瀬の日は残業を断る。

 町中の喫茶店で落ち合い軽く夕食を済ませ、江津子を先に自転車で町中を抜ける。友人知己に出会ったことはなかった。ある意味で二人とも町の光景も季節の変動をほとんど見ていなかったといえる。土手上の道を下り、雑木林の目立たぬ場所に自転車を置いて、暗い窪地に座る。

 暗闇の中に落ち着くと、すぐさま私の体中に熱い感情が溢れてくる。家や工場では悲観的展望しか浮かばず鬱屈しているのに、彼女に会うと鬱々とした思いが消えている。しかし脳裡の片隅で確かな現実回避を自覚する。性的渇望をも自覚する。私は辛うじて自制する。

「元気ないみたい…。疲れてるんですか?」

 江津子がいった。私たちは既に相手の心身の状態が読み取れる近さにいたのだ。

「いや、元気だよ」

「でも、いつもと違います。話してくれないじゃないですか…」

「うん、何かいつもの調子で軽口を吐けなくなったよ。…俺、三十になっても、まだ子供みたいなところが残っているような気がする。あるいは男ってそんなものかもしれないけど、江津さんをいじめてばかりいるような気持ちになる。無理やりに抱いたり、身勝手で無責任なことばかりしてしまっている。…遅ればせだけど何か重い責任を感じる。そのくせ今、あなたを思いっきり乱暴に抱きたい衝動に駆られている。全く自分が分からなくなる…」

「重荷になっているんでしょう、わたしが?」

「…重荷ですっていうの、えらい無礼な言葉だと思っていたけど、よく考えると無礼じゃない、当たり前のことなんだ。だって、あなたみたいなすてきな人を俺の世界に引き込むことだものな。…江津さんがずっと育ってきた世界と比べたら月とすっぽんかもしれないんだ」

「そんなこと分かっています」

 江津子は少し怒ったようにいった。

 分かっていない、俺も何も分かっていないと思った。二人とも人生のほんのわずかな一面でかかわっているだけだ。恋する時には、人生の不条理も、生活の倦怠も紛れている。

 対話が途切れ、ふいに江津子の嗚咽が漏れた。私は切なくなり手を差し伸べ声をかけようとしたが、適切な言葉が見付からず、また肩に置いた手を彼女は振り払うようにして立ち上がった。

「わたしが重荷ならいいんです…」

 江津子が低く泣き始めた。私は困惑する。彼女を乱暴に抱き寄せながら、そうすることが何の問題解決にもならないことに虚しさを味わう。

「ごめん、江津さんを泣かせることしかできない…」

 邪な思いを絶って、いつまでも優しく抱きとめてやることが、この時、私にできる唯一のことかもしれなかった。

やがて江津子は辛うじて自分を取り戻し、「帰ります」と私を軽く押し退けた。

「機嫌を直してくれた?」

「……」

 江津子は答えずさっさと歩き隠すように倒してあった自転車を起こす。

「江津さん、機嫌を直してよ。このまま帰られたら俺眠れないよ」

「結局わたしのこと重荷なんでしょう…。それならもう会わなくてもいいんです」

「そういうことじゃないだろう、分からずをいわないでよ。…ご両親に話したんでしょう? 挨拶に行きますって…」

「もう、いいんです」

 自転車を押して歩き出すうち江津子はまた感情が混乱していくようだった。

 自転車に乗れる道になり、江津子は急くように自転車を漕いだ。私は黙って後に続いた。取り成す術が思い浮かばず虚しかったが、送り届けるしかなかった。田畑の道を抜け、集落の道に入り、江津子の家に続く細道で彼女は自転車から降りた。生け垣を通して江津子の家の明かりが見える。家人がまだ起きている。いい争うような対話はできない。低い声で話すしかない。自転車を引いたまま彼女に近付き、私はいった。

「江津さんのこと大好きなのに、どうして泣かせてしまうのだろう。われながら情けない。何だかすべてに慌てふためいてしまう。もっと落ち着いて知恵をしぼり出せば、きっと道が開けてくると思う。後二、三年、二人で力を合わせようと始めたのに…。十二月に初めて会った時に戻ろう、江津さん」

 逸らしていた顔を私に向けた江津子は、やや間をおいて自転車を生け垣に預けると「はい」とうなずいた。

「よかった」と私がいうと、彼女は飛び込むようにして抱き付いてきた。

 

 

 工場にいても家にいても、ふっと江津子が浮かび、思い惑う日々が続いた。決まって高く厚い壁に取り囲まれている心持ちになる。乗り越えることもぶち壊すこともできそうもない…。こんな精神状態では表現など手につかない。苛立って家人に八つ当たりすることになる。

それでも工場で働いている時の方が気分的に楽だった。仕事はほとんど単純作業だ。親会社が製作した広く長い巻きベルト状の研磨紙布を、一定の幅、長さに切断してエンドレス状に加工する。それらを束ね包装して出荷する。手先がそれほど器用とは思えぬ私だが、親会社で研修を受けた創業社員という地位にあり、対人関係に余計な神経を使わなくて済むのもよかった。

 創業時は社長の高校時代の同級生と、かつて社長と同人雑誌仲間だった私、そして工場近くに住む自営の運転手の計四人での船出だったが、三か月後には近所の主婦たちパートタイマーを合わせると十三人の従業員になり、三十坪のマッチ箱のような小さな工場も、さらに建て増しして六十坪と広い工場になっていた。

 いくつかの職場を渡り歩いてきた私は、熱海のホテル時代は例外にして、どの職場でも末席に位置し、常に上司のご機嫌をうかがい、自分の力を出し尽くすような仕事はしなかった。だが今は違った。人並みといえる報酬、指導する位置に立っていた。社長への恩義を感じ、社長も信頼してくれる恵まれた職場を得ていた。

「彼女だよ」

 四月末の土曜日の夕刻、江津子からの電話を取り次いでくれた社長は、そう私に声をかけた。週に一、二度の電話を使うから、私にその気配のあることは仲間たちに知られていた。

 社長は年齢に似ぬ温厚な人物だった。初めて出会った時、彼はG大学工学部で学んでいた。四歳年上の彼はかなりまとまりのある短編小説を書いていたが、言動は謙虚で当時の私の下手な小説を酷評しなかった。

 彼は大学を卒業して埼玉の工場に技術者として就職してから、きっぱり文学と縁を切った。そして十年余、この町に戻り親会社の支援で下請け工場を始めると私を誘ってくれたのだが、それなりに歳を取ったものの温厚な言動は変わらなかった。だが、江津子のことを考えていると、この好ましい現状も、あるいは障害になるかもしれなかった。というのも社長は在日朝鮮人二世だった。

 今日もまだ多くの日本人の深奥に、朝鮮人蔑視の思想感情が脈々と残っていると私は思う。まして江津子の両親は町外れの集落の農民、偏見のない人々といえようか。私はひとり悶々とするばかりだった。

人は解決策が見いだせない難問に立ち往生した時、親兄弟や友、敬愛する先人に相談するものだろう。私の場合、親兄弟も勤め先の社長もだめということになる。江津子を引き合わせたKも、もうひとりの親友といえるCにもどうも話す気にならなかった。一昨年、昨年と相次いだCとKの結婚生活が、私には苦渋の多いものに見えた。すったもんだの末結婚したCは障害を持つ子の父親になっていた。そしてKは姑、小姑の中で悪阻に苦しむ新妻に気遣い、いつも苛立っていた。そんな彼らよりもなお私の生活環境は劣っている。

 逢瀬で私はこうした展望のない鬱屈した思いをできるだけ覚られないようにした。最初に手を出したのは私であり無責任極まりない。少しでも惑うような発言をすれば、私が重荷になっているのでしょうと彼女は取り乱す。

 逢瀬の愛撫の時だけ生きている歓びを感じた。一切の雑念が消えて、二人だけの最上の時となる。過ぎてみれば束の間だが、その只中にいると時は消え、永遠の中にいるに等しかった。

「帰りたくない…」

 江津子は口癖のようにいった。私は卑小なのか、常に彼女より早く現実に戻る。

五月の連休の日に、とうとう江津子の家に挨拶に出向くことになる。その数日前の夜、内心は藁にも取りすがる思いで、表現上の師といえるM氏を訪ねた。長く役所に勤め、詩を書いているM氏に、近年は違和感を覚え意図的に遠ざかっていたが、それなりの要職にあるM氏の社会的な信用を、もしかすると貸してもらえるかもしれないと、身勝手な含みを持った訪問だった。五十五歳のM氏は柔和な顔で私の近況を聞くだけで、期待するような言動を見せなかった。しかし、辞去する時、私は気持ちが和んでいるのを感じた。ぼそぼそと語ったM氏の言葉が、いたずらに高揚する感情を静めてくれたようだ。

「…いいと思ってもうまくいかないこともある。腐れ縁みたいなものでも結果として添い遂げる仲もある。男と女の仲ほど分からないものはないんじゃないかな。縁としてかいいようのないもの…」

 自分のことは自分の責任で決めろと言外にいわれたのかもしれなかった。誠意を尽くして、それでだめなら仕方ない。やっと私は開き直る気持ちになった。

 好天のその日、奮発して国鉄の駅からタクシーで江津子の家に行った。一張羅の背広にネクタイを締めて目いっぱい好ましい青年を装ったつもりだった。目を輝かせた江津子が庭先に出迎えた。

 晴天の下で改めて見ると、想像していたよりも大きな構えの家で、庭木等もよく手入れされていた。茶の間とも応接間ともいえる広い部屋で両親と向かい合う。江津子は私とは少し離れて座った。

手土産を差し出してから、彼女との出会い、私の履歴と生活環境を話した。江津子の父親は五十三歳、母親は五十歳と聞いていたが、共に日焼けしたいかにも農家の人という顔立ちで、年齢より老けて見えた。地域の世話役という父親も、茶菓子を勧めるだけでほとんど口を挟まなかった母親も丁重で腰の低い人柄に見えた。

 私は巻き舌で時々どもる癖がある。しかし、この時は妙な虚飾もなく、案外滑らかに話せた。両親はこれといった質問をしなかった。ということは両親の知りたいことを過不足なく話せたことになる。私の話が途切れると、終始神妙な表情を崩さなかった父親は少し笑顔を見せ、

「よく分かりました。家内ともゆっくり考えさせてもらいます」といった。

蕎麦の出前を取るから昼食をと引き留められたが辞去した。いうべきことを伝えたという思いが快い疲労となっていた。それ以上の長居は気詰まりになる。

 バスの乗り場まで送って行くと江津子が付いて来た。逢瀬に通る道とは正反対の細道を案内される。集落を抜け畑中の細道を歩いた。バスの乗り場までは二十分ほど歩くという。およその道筋が分かった所で江津子を帰そうとしたが、一緒にいたいと帰らなかった。帰した方が両親の心情がよかろうと思ったが、甘えるような彼女が愛しくなる。大きく迂回して結局いつもの逢瀬の道を歩くことになる。

「もっと難しげなお父さんかと思ったけど、物分かりよさそうなお父さんだったね。江津さんが大事に育てられたのが分かったよ。…どういう答えをくださるか、五分五分のような気がする」

 江津子の家と両親を見て、自分の家庭とは大きな落差があることが確認できた。交際を断られる予測は五分五分と思った。認められるとする五分の予測は自負心だった。表現者という夢の実現に意欲を燃やす私を江津子は好いてくれたのだ。しかし、この私の自負は常識人には評価外であろうことも分かっていた…。

「ともかく来てよかった。いいたいことはいったし、俺の気持ちは伝わったと思うからね。後はご両親の判断だ。大切に育てた江津さんの行く末を案じるのはご両親の役目だからね。…何だか気持ちが軽くなって、だめだっていわれたら素直に引き下がってもいいような気持ちになっている…」

 江津子は口数が少なかった。いつもなら私が少しでも迷っているような曖昧なことをいえば、その言葉尻に過敏に反応して感情を乱したが、この時は私の来訪という明確な意思表示にひとまず心が満ち足りていたのか。

 それにしても恋人の行動は時に常軌を逸する。いくら何でも明るいうちには彼女を帰宅させるべきと思いつつ、日が暮れても雑木林の中の二人だけの秘密の場所で体を寄せ合っていたのだ。

 

 

 次の週末、江津子から連絡がなかった。

交際を反対され、意気消沈し電話をかける気力を失ったのか。ずっと良好な親子関係で育った彼女は、両親の断固反対に茫然自失しているのだろう…。

 連絡がないことを私はそう解釈した。やはりそうかと失意が生じたが、自分でも意外なほど平静だった。五分五分と口ではいっていたが、常識的な親の目から見て、私たちが良縁とは間違ってもいえなかったろう。彼女の両親の気持ちも理解できた。

 迷ったのは私の方から電話すべきかということだった。一応は共同責任で行ったことの結果を確かめる義務があった。しかし、私は電話をかける気持ちになれなかった。悪い知らせでは自分が否定されたような気持ちになろう。そしてあれこれ詮索すること自体がつらかった。

気分転換が必要だった。彼女と親密になって以来、滞っていた表現を取り出す。諸々の習作を整理していると少し気持ちが紛れた。失恋も素材といい聞かせる。熱海での経験と比較すれば、この切なさなど大したことではないはずだ。

 唐突に詩集の自費出版を思い付く。新しい創作にかかれば思索が不可欠、そして思索の隙間に雑念(江津子)が入ってくるだろう。処女詩集上梓は沈んだ気持ちをそれなりに高揚させた。書きためた詩の整理にかかる。CとKを訪ね、Cに表紙絵を、Kに本文中のカットを描いてもらうことにした。印刷製本等は彼ら二人の仲人でもあるデザインスタジオを営むI氏に依頼することにした。

用件が済むと当然のようにCもKも江津子とのことを尋ねた。私は現況を素直に話した。彼らもそれぞれの結婚が大いにもめたこともあり、したり顔で物言う資格はなかったから常識的な対応策をいうだけだった。

I氏のデザインスタジオへはCとKも同行した。私たちは絵画グループのメンバーだったから定期的に顔を合わせていたのだ。I氏は数年前まで私立の女子高校の美術教師を務め、江津子は在職中の教え子だったわけだ。用件が済むと当然のように酒宴になる。やがてKが江津子の話題を持ち出した。

「あの娘はいい子だよ」とI氏はいい、Kが私と江津子の仲と現状を話した。KはI氏に「ひと肌脱いでもらいたいけど」と笑った。

「僕でよければ…」とI氏はいってくれたが、私はもう少し様子をみてからと遠慮する。自分のことは自分で始末したいという思いが急に強くなった。妙な強がりかもしれないが、たかが恋愛という思いがしてきたのだった。

私は酒が強くはない。けれど鬱屈を紛らわせたい思いもあった。定量を越える飲酒になる。

 翌朝の出勤は二日酔いで遅刻する。昼近くまで気分が悪く仕事にならなかったが、同僚たちが笑いながら補ってくれた。工場で私は上々の人間関係でいられるのは幸いだった。

 次の日、昼休みに敷地に椅子を出し休んでいると電話を取り次がれる。江津子と思って胸が騒いだ。

「どうして電話してくれないんですか?」

 いきなり尖った江津子の声だった。

「江津さんの電話を待っていた」

 それきり彼女は黙っている。

「もしもし、反対された?」

「……」

「江津さんがつらい思いでいると思った。下手に慰めたって、どうにかなるものじゃないし…」

「……」

「もしもし…」

「……」

沈黙が続き、カシャリと硬貨の落ちる音がした。公衆電話からかけているようだ。

「わたしが電話しなければいつまでも放っておくんですか…」と江津子がいった。

「そういうつもりじゃないけど、君のつらさを俺なりに受け止めているつもりだった」

「…反対されました」

「そうだろうと思った。…もう会うなっていわれた?」

「…一日会社を休みました。会社も行くな、やめちゃいって…」

 今度は私が言葉を失う。しかし黙っているわけにもいかない。

「つらい思いをさせてすまない。…でも俺も切ないんだ。会いたいけど我慢していた。君の気持ちが落ち着いたら会って話そうと我慢していた」

「…会いたい」

「…俺だって飛んで行きたい気持ちだ」

 江津子の息遣いが愛しくなる。少し距離を置いて見詰め直そうとする思いが四散し、胸が熱くなる。

「…今夜、会えます?」

「俺は大丈夫だけど、叱られるだろう?」

「お花の教室に行く日です。十時までに帰れば…」

 何度逢瀬を重ねても、会う前は弾む思いになったが、この夕はさすがに気持ちが揺れていた。見慣れた江津子の自転車が喫茶店の店前に既にあった。

 いつもの窓際の席に江津子はいた。軽く声をかけて向かい合う。水色のセーターにベージュのカーデガン、白いスカート姿が爽やかに見えた。夜や電話での対話になると悲観的、感傷的な雰囲気になるが、たとえ他に客の姿がなくても、そういう場所では江津子は落ち着いた姿形を崩さなかった。コーヒーが運ばれてひと口付けてから、

「つらい思いをさせて悪いね」と私はいった。「五分五分だなんて見通しが甘かった。でも、ご両親を恨んではいけない。君のためによかろうと思ってのことだからね」

「……」

「俺がもし君の両親の立場だったら、やっぱり諸手を挙げて賛成しなかろう。本当ごめん」

「……」

 食欲はなかったがサンドウィッチを注文した。江津子は食欲がないといったが一片無理に食べさせた。

 江津子と両親のやり取りを私は質さなかった。反対されたという事実で十分な答えに思えた。細かなことを聞けば、私も彼女もさらにつらくなろう。明るく振る舞おうと詩集出版の話をした。話しながら咄嗟に思い付き、江津子にニックネームがあるか聞いた。その名を詩集の扉に記したいと申し出る。

どんな人も多少の誇張や嘘はつくものだろう。本当のことを知って深く傷付くこともあろうし、嘘で立ち直ることもあろう。詩集出版を思い付いた時、江津子に捧げるという意識はなかった。彼女とかかわることで生じている切なさ、虚しさを紛らわし、気力の高揚を願ってのことだった。

 しかし、沈んだ表情で向かい合っているその時、嘘は方便となる。江津子の目が少し明るくなった。

「小さな時(ちゅうこう)っていわれていました」

「(ちゅうこう)?」

「ネズミみたいに、ちょろちょろ、ちょこちょこしていたそうです」

「(ちゅうこう)に捧ぐ。いいな。…知っているのは江津さんと家族、そして俺だけ」

「妹も弟も知らないと思います。すぐ江津ちゃんと呼ばれるようになりましたから」

「それからはずっとニックネームはなかった?」

「ええ」

 嘘に嘘を重ね破綻した熱海のことがふっと甦った。あれ以来、正直に生きてきたつもりだが、窮地に陥るとまた悪癖が舞い戻るのか。これまで江津子に語ったことは大筋で嘘はない。詩集出版は唐突だが、それとて江津子との仲から生じた結果といえる。「(ちゅうこう)に捧ぐ」は内奥に隠れていた意識が出てきたのだ。

 詩集の内容を話していると江津子の表情が和んできた。私は自分の偏りを自覚する。私は表現することを拠りどころとしているが、裏返せば普通の男のように生きることに、何やら欠陥があるからではないか。それは弱さといってもいい。自覚する以上に極端に弱い人間ではなかったか。それゆえに何事かを行うと他人を巻き添えにしてしまう。熱海での二人の娘への仕打ちは、この負性が露呈した事件ではなかったか。弱い人間は優しく接してくれる他人に取りすがり離さない。私は落ち着いた態度で江津子を和ませながら、常に熟慮しているふりをしているだけで、内奥の正体から目をそむけているのではないか。

「ああ、やっと笑った…」

 I氏の家での酒宴の折、KやCのちょっとした笑い話に頬を崩した江津子に、私は大仰にいった。

「俺にいわせれば江津さんは泣き虫だけど、本当は芯のしっかりした人だと思う。むしろ俺の方が本当は弱虫かもしれない。予測していたけど改めて反対と聞いて内心はがっくりしたんだ。でも、江津さんの気持ちさえ変わらなければ、俺は頑張る。許してもらえるまで辛抱強く頑張るよ」

「そういってもらえるとうれしいです」

「江津さんの気持ちは変わらないんだね?」

「変わりません」

 江津子はひそめた声できっぱりといった。

「うれしいよ。…今日は早く帰るんだな。そろそろ出よう」

 

 

 六月も週に一度の逢瀬が続いた。ただそれまでのように土曜日ではなく、火曜日か金曜日の夜だった。江津子は火曜日が華道教室、金曜日には和裁教室に通っていた。その授業を途中で退席するか休むかしての逢瀬だ。交際に断固反対という父親とのいらぬ摩擦を避けるため、帰宅時間は十時までを守った。

 私たちの話題は乏しかった。周囲に祝福された仲なら新生活への夢や設計図を心弾ませて語れたろうが、そこを禁句にしては話すことがないに等しい。結果として抱擁愛撫の束の間の陶酔を共有するための時と場の趣となった。

 熱海でのさと子や早苗との経験を通して、私はいつしか女の体の反応を量れるようになっていた。抱擁愛撫時の江津子の陶酔の様が快かった。私とかかわることが苦悩となる彼女に、束の間でも陶酔を贈れればという思いがあった。こういってはきれい事か? 私もまた彼女以上に日々の不本意を寸時亡失させる快楽を欲したのでもある。

 江津子が与えてくれる束の間の陶酔、その余韻に浸る愉悦の時も、これまたわずかな時間で、その後に決まって鬱屈の念が生ずる。私の内にある理知は乏しく、まるで感覚的人格になっている趣があった。葛藤を整理する時間がほしいが、時間があっても整理も解決もできないこともある。問題はひとえに私自身にかかっているのに、何かに紛らわしたり責任転嫁していたともいえた。そして日が流れ、二十二日、江津子の二十六歳の誕生日になる。

前夜に会っていたが、特別な日、六時にいつもの喫茶店で落ち合った。プレゼントを探しに一緒に装身具店へ行く。装身具に無知な私は金額で品定めするしかないが、彼女の好みもあろうから選んでもらうことにした。江津子が選んだ三つのネックレスの中で一番高額の物を購入する。私のひと月の小遣い銭に相当する額だった。店員の前では表情を崩さずにいた江津子だったが、店を出ると邪気のない笑顔を見せて「ありがとうございます。大事に使います」といった。

 私たちはそこでそれぞれの帰路へ向かうはずだった。毎年江津子(ら子供たち)の誕生日を忘れない母親が祝いの膳を用意しているとのことだったから。ところが「送ってくれないんですか?」と江津子はいわれると、会うたびに得る愉悦に引き込まれるかのように踵を返す。

 町中を抜け、橋を渡り、土手上の道を行く。時間が常よりもゆっくりと流れてほしいと思う。道が分かれる所にきて一瞬胸が高鳴る。雑木林の方向へ導き抱擁愛撫の世界に没入したい欲望に駆られる。だが、既に七時を回っていた。江津子の帰宅が遅れれば余分な詮索を招こう。何とか自制心が働いた。宵の口でも畑中の道は暗い。こうした闇の中でしか交じり合えぬ仲だが、それゆえか二人だけという思いが際立つのでもある。江津子の家に近付く。深夜ではないから生け垣の側までは送らない。

「人の目に触れるといけないから、ここで引き返すよ」と自転車を止めると、江津子も降りて、「今日はありがとうございます。うれしかった」といった。

「江津さんのうれしそうな笑顔を見て、俺もうれしかった」

「明日、予定あります? お花の教室の懇親会があります。一時からなんですが、三時過ぎにはお開きになると思います」

「大丈夫、家は?」

「平気です」

 江津子の父親がどんな思いでいるか想像できるが、そう四六時中神経を尖らせているわけでもなかろう。日曜日に会うのは東京以来なかったから、すぐその気になっていた。

 帰路、私鉄の駅近くまで来た時降雨になり、ずぶ濡れで帰宅した。気持ちが高揚しているから風邪をひくこともなかった。

 雨は次の日の午後になってもやまず、徒歩で待ち合わせの喫茶店へ行った。珍しく江津子が遅れて来る。降雨の日でもやはり日曜日、店内はあらかた客で埋まっていた。前後、横の席にも男女がおり何か落ち着かず、短い時間で店を出る。江津子もいつもの自転車ではなく、家から懇親会場までタクシーで行ったそうだ。傘をさすと幾分かは姿が隠れる感じになるが、それでも裏道を歩くことになる。これといって行くあてもなく、彼女の家の方向とは逆へ歩く。

「何時まで大丈夫かな?」

「夕食時までに帰れば…。妹も弟も、昨夜は揃って十二時近くに帰って…」

「その後、お父さんは?」

「何もいいません」

 気が付くと、私の家の方向へ歩いていた。市街地の端といえるが、大通りから外れると住宅地となる。江津子は私の家の方角さえ知らない。私も彼女に自分の家を見せたくなかった。みすぼらしい家を見せて彼女を失望させたくなかったのだ。これは私たちの仲がまだ確固としたものではなく危ういこと、そして私の内にはどうしようもない虚栄と劣等感があることを意味した。

「この道の方向に俺の家がある。江津さんが見たらあまりのみすぼらしい貧乏家で、たぶん暗い気持ちになるだろう。だから今は見てもらいたくない。見せたくない…」

 江津子は何もいわなかった。

 少し小降りになったが依然として降り続く。周囲に人の姿はなかった。長い塀に囲まれた大きな家々が並び建つ一区画になる。雑木の茂る空き地もある。江津子が自分の傘をすぼめ私の傘に入った。

「こうしていると俺、子供みたいになる…」

「……」

 左半身が濡れないように江津子は私の腕に右手をからめ寄り添う。感情が熱くなり私は抱擁愛撫を求める。悪知恵は働くものだ。少し先に土手がある。だが、この雨では河川敷で抱擁するわけにはいかない。ましてまだ昼間だ。そうだ、格好の場所がある! 工場だ。

 私の勤める工場の敷地はそれほど広くはないが、周囲が畑に囲まれていた。正門は通りに面していたが、裏門のある細道は飛び飛びに人家があるものの車の往来はほとんどない。裏門から敷地に入り倉庫に行こう。スレート造りの倉庫は出荷に使う段ボール置き場で、鍵はなくいつでも出入り可能だった。社長の家はそこから五十メートルほど先の所にある。仮に用事ができたとしても事務室までのことだろう。間違っても段ボール倉庫に来ることはない。

「この先に工場がある。だれもいない」

(江津さん、抱きたい)と胸中でいう。人目の心配がない所でも、最初は惑う仕草を見せる彼女だが、愛撫に引き込むと瞬時に陶酔の海に溺れる近時だった。

 幾分暗くなってきた裏門に続く細道で人に会うこともなく、私たちは工場の敷地に入った。この字形の工場を並んで見る。騒音も人の気配もないスレート造りの建物は全く味気ない光景だった。私は神経を研ぎ澄ませ周囲に人影もなく、自分たちが工場敷地に入ったことをだれにも目撃されていないことを確信する。そして倉庫の扉をそっと開け、少しためらいの表情を見せる江津子を引き入れた。

 大小の段ボールが積み重ねてある中を、仮にだれかが入って来ても発見されにくいように、奥に窪みのようなスペースを素早く作った。その動作を見ていた江津子は、すぐ私の意図(願い)を理解したようだ。手を引くと素直に窪みに入った。私は何もいわず抱き締める。唇を重ねる。私の手が江津子の衣服の下に伸びる時、幾分か抗う気配を見せる彼女だが、乳房にたどり着くと熱い息を弾ませる。江津子の陶酔を優しく支援する。かつての早苗への行為のように一直線な自己陶酔に陥らぬだけ私は成長していたともいえた。それは愛の行為だった。単に性欲を満たすための行為ではなかった。江津子を陶酔に導く以外に、私は無力という思いがあった。

 陶酔の時が過ぎて、私たちは元の道を引き返した。私は江津子との愛が、過去の女性とは明らかに違っているのを感じる。かつては性の充足の後に決まって虚しさを感じたものだ。しかし、江津子と相合傘で歩きながら、抱擁愛撫を求めている時と変わらぬ、いやその時よりも愛しさを覚えていた。

 国鉄の駅まで歩き、そこからタクシーで江津子を帰した。遠ざかる窓越しに彼女は小さく手を振った。稀有な至福の時を私は自覚した。

 だが、至福の時は瞬間に等しい。余韻のように愉悦を味わって帰宅すると、難題そのものといえる家と家族がのしかかってくる。

 父も母も祖母も哀れだった。父は辛うじて小学校を卒業したが、戦争に翻弄された時代でもあり、乏しい収入しか得られぬ職場を転々とする不運を背負っていた。揚げ句には還暦を越えたばかりで中風となる。

 母も父と似たような不運な半生といえた。小学校もろくに通えず子守り奉公に出され、父と見合いした時は何度目かの女中奉公をしていた。三男一女と実母の暮らしを支えたのは母だった。戦後(かつぎや)といわれたころからの行商をやめたのは父の介護が必要になった近時のことだ。

 夜、寝床の中で改めて状況確認を繰り返すことになる。まず家(祖母、両親、妹)の生計問題。老齢の祖母、軽症とはいえ中風の父の二人は全くの(お荷物)で、近年までは行商で家計の半分を支えた母も、もはや父の介護役を免れず、妹の収入はたかがしれていた。

救いは弟が二人いることだ。四つ下の次男は勉強机もないような環境に育ちながら、なぜか常に学業成績がよく高校へは篤志家の援助で行き、大学は奨学金とアルバイトで学んだ。卒業と同時に上京、外資系器機メーカーの設計部に勤めた。

三男は私と大差ない学業成績で、中学を出ると鮨職人になると上京、錦糸町の鮨店に住み込み、二年前に信州松本の河豚料理店に転職した。次男は時折母に送金してくる。

江津子に近付いた時、二、三年先なら(明るい展望が描ける)といったのは、弟二人の自立が確かなものとなり、場合によっては家の支えになり得るという希望的解釈があったからだ。次男の職場は待遇も上等だが、性格的に会社勤めは性に合わないようで、秋には帰省して学習塾を営む計画を立てていた。彼は子供のころから堅実な性格だった。家に戻り学習塾(当初はその筋に勤め、やがて借家を借りる計画)を始めれば長男としての私の負担は軽減する。虫のよい希望だが、弟に(家長)の役を委ねることも可能だろう。結婚を理由に私が家を出やすくなる。仮に月々実家へ援助をしても借家くらい借りられよう。江津子がつましい生活を拒まなければ、ひとまず結婚生活が始められる。

秋になれば、そして来年、再来年と年ごとに環境は好転していくはずだ。最初からそう計画したのに、江津子の親に会ったことが拙速だった…。

 だが、俎上に載ってしまった以上は対応しなければならない。それとなく江津子がもらした話では、父親が断固反対するそれなりの理由があった。私と江津子が親しくなった時期に、江津子に見合い話が持ち込まれていたのだ。彼女は私のことがあったから、父親が切り出した見合い話に一瞥もくれなかったが、父親にとっては願ってもない縁談だったようだ。もっとも入魂な人からの世話で、しかも相手の青年は資産、役職とも申し分のないO農協の組合長の次男だった。世間的には古風で義理堅い父親は、妻子に対して絶対的権威を振りかざす人らしかった。かつて江津子の姉も恋愛問題でもめて、結局父親の勧めた見合い結婚をしたそうだ。ただし、その連れ合いは過不足ない人らしく、姉は二児をもうけ一応幸せに暮らしているそうだが…。

 今は辛抱するしかない。時間をかけて生活環境を改善し、焦らずに彼女の父親を説得し許しを乞うしかない。耐え忍ぶことで育んだものが、やがて何よりの財産になろう。

 こんなもっともらしい正論を話しながら、七月初旬のまだ梅雨の明けぬ夕、私たちはI氏の事務所を訪問していた。表向きの用件は詩集の進捗具合を確かめることだったが、改めて自分たちの仲をI氏に披露する意図があった。結婚が個人の問題ではなく家や親族との調和の問題となる習俗の中では、俗に社会的信用を有する人々の支援が力になる。江津子の恩師というI氏の社会的財産を借用しようと目論む思いがあった。

 しかし、私たちの仲の内実は話さなかった。まだ正式に助力を願う時でもなかった。数日後にゲラ刷りが上がるそうで、私としては気持ちが弾んだが、江津子は恩師の前でずっと気恥ずかしそうな趣だった。

 それでもI氏訪問は江津子には快かったことらしく、小雨の中を片手に傘をさしての自転車での帰路、高校在学中のI氏の滑稽なエピソードを笑いながら話した。彼女の家の生け垣の細道で自転車を降りる。十時にはまだ三十分ほど残り時間があった。この夜、私たちはまだ抱擁していなかった。逢瀬のたびの抱擁愛撫は恋仲の確認のようなもので、私たちには必要不可欠の思いが共通していたと思う。ひとつの傘の下でひとつになる。生け垣の向こうから家人の気配は伝わってこない。時に彼女の妹弟が遅く帰宅するというが、その薄暗い細道はまるで私たちのためにあるようなものに思えた。

 

 

 日が流れ、逢瀬が続く。しかし私たちの状況は何も変わっていなかった。

「こんなことばかりするの、いやです!」

突然、江津子は私の手を払いのけ、急ぎ身繕って数歩退いた。梅雨が明けて連日の酷暑となり、私たちが忍び合う田畑の中の叢もまだ余熱が残っていた。

 初めて見せる彼女の毅然とした拒絶の態度に、私は狼狽し、次に恥じ入る。会った時から沈みがちで、「軽い夏風邪かもしれません」と体調不良を訴えていたのに、漫然とした習慣で抱擁愛撫に引き込んでいた。繰り返される行為に、「子供ができないでしょうか…妊娠したら、困ります」とつぶやいたのは先夜のことだ。娘なら当然抱く危惧で、私もまたかつての早苗とのいきさつもあり承知はしていた。

危うい綱渡りの意識があった。江津子が妊娠すれば彼女の父親もやむなく結婚を認めるのではないか。既成事実を覆すより認めるのが世の中の習性だろう。そんな自分勝手な思いがあった。

「ごめん。…いやらしくて情けない」

 次の言葉が出ない。性欲に翻弄される自制心のなさを自己嫌悪とともに反省する。しばらく沈黙が続く。足が疼いた。薮蚊に刺された。無様な格好になる。

「帰ろう。大丈夫、もう悪いことしません」

 叢に隠すように置いた自転車を引き出し江津子に渡す。彼女を先に田畑を縫う細道に出る。江津子の家までさほどない距離だが、自己嫌悪は静まらず、いつものように生け垣の暗闇で自転車を降りても謝る言葉しか出てこなかった。

「いいんです、もう…。そんなに自分を責めないでください」

 そういわれると幾分か気持ちは楽になったが、やはり自己嫌悪は消えなかった。

「お帰り」

 しかし江津子は帰らなかった。微妙な心理状態から咄嗟に吐いた言葉であったにせよ、初めての強い抗いに、私が動揺していることを察しての気遣いらしかった。

「本当にお帰りよ」

 しかし、帰らない。気まずく別れたくないのだろう。

「母が、よさそうな人って…いってました」

「俺のこと?」

「父とはずっと口を聞いていませんけど、母は少し分かってくれるようです」

「そう、ありがたいね」

「姉も話を聞いてくれて、少し気持ちが和みました」

「最初に話したように、二、三年先のことなんだよね。それが急にバタバタしちゃって…」

 また話が途切れる。叢での逢瀬が短縮されたから十時には間があった。私の乱れた感情が次第に収まって、江津子の気遣いと愛情を感じ始める。

「詩集まだできません?」

 さらに江津子が話題を作る。決めた門限いっぱいまでいたいのだろう。

「詩集みたいなものは普通の印刷屋さんではやりたがらない。部数が少ないわりに手間がかかる。頼んでから一年、下手をすると二年もかかることがあるらしい。でもIさんの顔で早くできそう。九月中には…」

「楽しみですね」

「秋には東京に就職していた弟が帰ってくる。取りあえずどこかの塾に勤めて、できるだけ早く自分で塾を開くつもりらしい。今の家は狭くて見るからに貧乏家でとてもだめだから、借家を借りてやることになるけど、弟が戻れば俺が家を出られる…。それほどいいアパートは無理だけど、そこそこのアパートでなら暮らせるだろう。江津さんは贅沢いわないよね。俺としてはどんな所でも江津さんと暮らせれば、それだけでいい…」

「わたし今だって贅沢な暮らしなどしていません。これからも贅沢しようなんて思っていませんから」

「…俺は普通の若者とは少し違っているのかもしれない。ずっと前から何かいつも心が満たされない不本意っていうか、冷え冷えとした思いを抱えて生きてきた。恋もしたけどだめだった。結果として相手を傷付けただけだ。相手より俺がだめだった。…もう恋なんてしまいと思った。それなのに江津さんと出会って気持ちがばかなほど揺すぶられ、とうとう手を出してしまった。江津さんは俺には余る人だ。幸せにできるか本当のところは自信がない。でもあなたのことを思うとどうにもならなくなる。…江津さんが俺を迎え入れてくれ、一緒に歩いてくれるっていってくれた時、天にも昇る気持ちだった。こうして会っていると、切ないほど幸せだと思う。時々あなたに乱暴をして悲しい思いをさせてしまうけど、言い訳みたいでいやだけど、江津さんへの俺の思いを伝えたいからかもしれない。週に一度あなたにこうして会えるから、後の六日間の虚しさ切なさが辛抱できる…」

 江津子が私を抱き締めてきた。いつもの受動的な抱擁ではなく彼女から唇を合わせてきた。彼女の愛撫を受けながら、私は自分の悪癖に後ろめたさを覚えた。江津子への愛情には嘘はないが、言葉に大仰な形容と虚飾を付け過ぎている。余分な虚飾は時に事実を紛らわすばかりか、よからぬ方向へ押しやる。私はそうした失態を重ねていたのではなかったか。

 けれども日々の不本意にいたずらに鬱屈している私は、束の間とはいえ抱擁愛撫の心身が一体化する陶酔に溺れていく。愛する者にとって陶酔の共有は連なる日々の活力になろうが、私と江津子には現実逃避の趣が強かったといえなくもなかった。

 

 

 前触れもなく、江津子の父親がバイクを駆けて訪ねて来たのは八月初旬の日曜日のことだった。いつもより遅い朝食を済ませた私たち家族が、それぞれの日課に移る前の寛いでいた時で、父と妹、祖母が急ぎ別間に退き、私と母が応接した。

 五月に江津子の家に挨拶に出掛ける前、母に「口約束した娘がいる」と打ち明け、その後も江津子の両親が反対の意向なこと、それでも「何年か先のことだから、時間をかけて説得するつもり…」と話してあったが、江津子の父親の来訪はなぜか予測しなかった。よく考えれば、私が結婚を申し込んだ以上、その返答に来宅は当然のことだろう。努めて平静に応接しようとしたが、内心は狼狽の極みにあった。来訪の前触れがあれば貧相な家、家族も、それなりに装うことができたが、後の祭りだった。

 江津子の父親は母と初対面の挨拶をし、手土産を差し出すと、私に向かって単刀直入に次のような趣旨を語った。

 好いた者同士が結ばれるのが理想だが、暮らしは長い年月のこと、それぞれ親兄弟や世間の付き合いが加わってくる。当人だけが孤立して暮らせるというものではない。当方としての事情もあり、縁がなかったことにしていただきたい…。

 江津子の父親は落ち着いた丁重な言葉遣いで、細かい言い訳などを排した明確な意思表示だった。父親の言葉が途切れた時、母が結論を切り崩すような言葉をつないだが、私は遮った。

「分かりました。わざわざ来ていただいて、ありがとうございました」

 なおも何かいおうとする母を抑え、私は江津子の父親の退出を促す態度を取った。

 差し出した麦茶に口を付けることなく江津子の父親が帰った後、家中に切ない空気が漂った。別間に退いていた中風の父に言葉がないのは常のことだが、母も妹も祖母も、私同様の屈辱感に打ちひしがれて言葉を失っていたようだ。

 見渡せば建坪二十坪のあばら家だった。土間のある台所は多少広かったが、座敷は三間しかない。四畳半ふたつと六畳、障子は一個所しかなく、カーテンが間仕切りになっていた。どこで話そうと筒抜けの家中、雨漏りの跡の残る天井板は垂れ下がり、畳は窪み、柱は傾いでいた。まさにみすぼらしい貧家。その長男。恥辱と屈辱が私の胸中で渦巻いた。

「出掛ける。昼飯はいいよ」

 そうするしかなかった。半分ぼけている父は事態を正確に理解したか危ういが、母や妹、祖母は私の受けた屈辱をそれなりに察し、虚しさ切なさを味わっていたろう。顔を付き合わせていてはつらくなるばかりだ。家を出ると不覚にも目頭が熱くなった。

 父親は江津子にはいわず来たと思われた。彼女に会ったのは五日前、父親の気配は全く話題にもならなかった。しかし事前に分かったとしても結果は大差なかったろう。老齢の祖母、中風の父、介護に明け暮れる母。妹が自立していようと、一家を支えているのは私だ。そんな男にどうして娘を嫁がせるというのか。どんな父親も江津子の父親と同じ答えを出すのは当然だったろう。私は冷静に物事を受け止めようとしていたが、やはり動揺していた。隠していた恥部を暴かれたような屈辱感がたまらなかった。

 所在ない時は、KかCの家に行くのが常だったが、この時、彼らを訪ねる気力がなかった。おまえは強がりをいうからな、と彼らは常々いった。彼らとて意地を張る点では似ていたが、彼らが妻帯してからというものは、私が子供じみて思えることがあった。子供は放っておいてもやがて大人になるものだろうが、例外的に大人になりそこねる子供もいるのではないか。私の熱海での振る舞いがそういえた。そしてこの時、三十歳と歳は重ねても大人になれない自分を感じた。

 どこにも行き場がないような心許ない時、かつては映画館がわずかに安らげる場所だった。残念ながら興をそぐ映画で途中で退出することになる。書店に寄り、おそらく途中で放り出すに違いない本を二冊購入し、また別の映画館へ入る。

 何とか気持ちを紛らわせる映画で最後まで見たが、席を立つと同時にまた虚しさが込み上げてきた。江津子と付き合いがなかった時、常連客といえたジャズ喫茶に寄る。いつ行っても閑散としている店が珍しく込んでいた。町外れにある私立大学の学生たちの集いという。中性的な店のママが久しぶりの私にあれこれと話しかけ、その屈託のない態度が幾分か気持ちを和ませた。自分の適量を越して飲んだ。帰宅したころ酔いが回りぐっすり眠れればいいと思った。気持ちの切り替えの下手な私は、つらいことがあると常に尾を引いたのだ。

 何があろうと朝は来る。悶々としてなかなか寝付かれなかったが、それでもいつしか眠っていた。目覚めれば本能的に動き出す。昨日の虚しさ切なさが甦っても蹲っている時間はなく、母と妹が支度した朝食を急ぎ済ませる。工場は自転車で十五分ほどの所にあった。いつも始業時間十分前には出社し、社長、工場長とその日の工程等を打ち合わせる。簡単な朝礼の後、それぞれの工程の作業が始まる。大半は単純作業だった。それぞれの工程に数人ずつが従事する。私は副工場長ということで(遊軍)のような役割だった。全体が流れ作業でも忙しい工程と暇になる工程がある。その忙しい工程の(援軍)の役なので一日同じ工程にいることはない。だが、この日は欠勤者が出で一日同じ工程に留まっていた。

 熟練した単純作業では体や手が勝手に動く。頭の中で作業以外の別のことを考えることができる。こんな時には創作の諸々のヒントが生まれることが多いが、この日はやはり江津子の父親の姿が浮かびつらかった。

 

 

 江津子の父親が来た日から一週間が過ぎ、工場が三日間の旧盆の休みになる。心底の澱は消えず鬱とした気分ながら、それでも私はいくらか自分の成長を自覚した。熱海での経験が役立っていた。この世にはどうにもならないことがある。今はひとまず時間(距離)をおくしかない。つらいのは私だけではなく、程度の差はあっても私の家族もつらさをかみしめているはずだ。そして江津子も父親も、私や家族同様の思いでいるのは間違いなかったろう。江津子から連絡がないのも当然と思った。父親に厳然と諭され、失意に打ちひしがれているに違いなかった。

 やることがあるのが救いだった。九月半ばに展覧会があり、その出品作に取り掛かる。I、C、Kらとのグループ展で、毎年春先に開催していたが去年は会場の公民館が改修中で中止されていた。(江津子は一昨年の展に初出品したが、今年はどうなるか?)

 先のことをあれこれ詮索するより、目の前の鬱を打ち消すことが第一だった。久しぶりに絵筆を握る。シャガールやクレーを好む私の水彩画は、画業への意気込みが異なるCやKにいわせると、所詮は余技と評価外だったが、詩や散文を書くのと違って幾分楽しかった。結局三日間の休み中、私はほとんど外に出ず水彩画に没頭した。描き上げた直後はよしと思っても時間の経過とともに不満が生じ、辛うじて二点を出品作として残し、後は破り捨てた。

 そしてまた勤めの日々となる。工場で仕事をしている時は気持ちが紛れたが、帰宅して寛ぐ時間になるとやはり気持ちが揺れた。江津子の息遣い、体の温み、陶酔の感覚が甦る。最後に接した日から既に二十日たっていた。会いたいと思った。その手筈を考えたりする。しかし実行できなかった。

鬱屈が八つ当たり的な思念に変わる。当初は父親の対応や江津子の沈黙を当然のこととして受け入れたのに、次第に屈辱への憤りになる。それは江津子へ不服にもなった。どんなに反対されようと江津子が取りすがって来てほしかった。しかし、娘は弱い。あるいは自分の方から接触を図るべきかとも思ったが、それもまた恥辱に思えた。

 結局何の考えもまとまらぬまま、いささか自虐的な八月が終わる。酷暑の中、大型の扇風機をかけながらの工場中の作業。夜、活字を追うだけで頭に入らない読書。私は耐えるしかなかった。九月には多少とも心和む出来事が訪れる。グループ展で江津子に会う機会があるかもしれない。詩集もできる。そして弟が帰郷する…。ひたすらやせ我慢の日々だった。

 工場にKから電話があったのは初旬の土曜日の昼休みのこと、電話のベルが鳴るたびに、江津子からかもしれないと胸が騒いだが、友の声に胸が和んだ。江津子との付き合いが始まる前は週に一度は訪ねる親密さだったが、このひと月顔を合わせていなかった。明日、グループ展の打ち合わせでCらとI氏宅で落ち合おうという話だった。

 翌日曜日の午後Kの家に寄り一緒にI氏宅に行く。既にCもいた。グラフックデザイナーのI氏の手でポスターが出来上がっており、出品者名簿や作品目録等を記すパンフレットの原稿を仕上げる。そしてお決まりの酒宴になった。

 切ない話になる。I氏、K、私はこの一年余、Cの長女の様子を見ては密かに案じていたが、Cが初めて障害を負って誕生した長女のことを告白した。ダウン症候群といわれる障害で、Cはその子の誕生以降、その病の起因や養育上の留意点等を大いに学んだようで、遺伝体質ではなく自然発生であること、健常児より内臓器官が弱いこと、感染症に冒されやすいこと、知能発達が遅れるゆえ早期養育で知能障害を軽減すること等を語った。

 親しい仲でも口出しをためらうことがあるように、I氏、K、私はずっと奥歯にものが挟まっているような気持ちでいたが、事実が分かってもC夫婦の内奥を察してかける言葉も見いだせずうなずくしかなかった。それでもCは友に話したことで幾分かは気持ちが和んだようで、事実を事実として受け入れるしかなく、精いっぱい育てるしかないと明るくいった。

Cは定職を放棄して支援者の工場でのアルバイトと、幼稚園での絵画教室の先生と、いわば乏しい収入しかなかったが、看護婦だった夫人が病院に勤めることになったという。夫婦がそれぞれ働くとしてどちらが多い収入を得られるかとなった時、Cより夫人の方が安定した収入になる。Cは主夫となり画業と長女の養育を両立させることになる…。

 Kもまた苦難の生活の中にいた。彼の結婚もC同様に大いにもめ、家出して来た十歳年下の細君がすぐ妊娠する。定職を捨てて絵画教室で生計を立てていたのが、絵画教室の収入などたかがしれている…。

「いやあ、暗い話ばかりだねぇ」とI氏は笑い、全員が苦笑した。

 I氏だけが辛うじて安定した生活を営んでいるともいえた。夫人は教師。ふたりの女の子は小学六年生と中学三年生。ただし教職から自由業に転身してまだ数年、彼の収入だけでは一家を支えられるとはいえなそうだ。やはり夫人の収入があればこそのようだった。

 暗い話ばかりしていてもどうなるものでもない。それから彼らは意識的に笑いを誘う話題を見付けて酒の肴にした。私の詩集の話も出る。月半ばには出来上がるそうだ。グループ展とも重なり、打ち上げの宴と出版記念会を併せてやろうということになる。当然の成り行きでKが江津子とのその後のことを尋ねた。

 友に聞いてほしいという思いと、話したところで事態は変わるまいと意地を張る思いが交錯していたが、やはり切羽詰っていたから重い口を開く。

「おまえは変なところで意地を張る。なりふり構わず押し通せばいいんだ」とCはいった。

「俺んとこのようにいざとなったら駆け落ちすればいいんだよ」

 Kもそういったが、彼らのような情熱が私にはない。結局話を紛らわしていた。グループ展には江津子も出品するようにとKは連絡を取ったそうだが、今回は作品ができないと辞退の連絡があったそうだ。江津子とKの妹は職場は違うが同じ工場の社員だった。

 数年前までなら彼らとの宴は未明まで続いたろうが、CもKも家庭の事情を抱え始めていたから、ほどほどの時刻でおひらきになる。帰り際、「君、江津さんのこと、僕でよければ中に立つよ」とI氏はいった。ありがたかったが、もう少し様子を見ると答える。

私は自信をなくしていた。自分の家、家族という重荷が改めてのしかかっているのをひしひしと感じ取っていた。Cには土地という財産があった。Kには少年のような情熱がある。だが、私には土地も情熱もなく、悲観主義が内奥に巣食っている。熱海でのさと子、早苗との無責任な刹那的逢瀬に溺れた轍を踏んでいる。このまま江津子に振られた方が互いのためにいいといえないか。そうでなければこの先も自分の性格の欠点を克服できぬまま愚行を繰り返すだろう。

 

 

 工場や家で周囲に人目がある時は紛れていても、夜、寝床に入ると、会えずにいる日にちを数え、江津子の姿形、肌触り、息遣いが生々しく甦り悶々とする。こちらから連絡するのが筋と、明日は電話しようと決意するが、その昼間になると何か躊躇して受話器が取れない。しばらく遠ざかっていた劣等感が舞い戻り心身を金縛りにしているようだった。

 幸か不幸か、この時期、工場の受注量が減り残業がなくなる。七時には寛げる時間となり身の置き場のない思いになる。ジャズ喫茶に出掛ける夜が重なった。まだKやCが独身だったころ、この店は私たちの溜まり場の趣があったが、KやCがいなくても親しむ者も少なくなく、所在なさを紛らわすには格好の場所だった。

 KやCを避けたのは江津子とのことを質されるのが煩わしかったからだ。彼らもその結婚がまとまるまでは、それぞれがかなり取り乱し、醜態に見えた。私も熱海で十分に醜態を演じた。恥の上塗りはできないと思った。

 会わなくなって三十五日目の火曜日、いつもとは違う日になる。作業工程に技術変更があり、研修に親工場に派遣された。納品に行くトラックに同乗してのことで、研修は三時間ほどで終了した。遅い昼食を従業員食堂で食べ始めた時、一時の始業時間になりひとり取り残される。同僚の運転手は納品後、原料を積み終えていたが、私が食休みしてから帰途に就こうと、懇意の者がいる職場へ油を売りに行った。

食事を終えたばこを一服している時、ふいに気持ちが揺れた。がらんとした食堂兼休憩室にある公衆電話が胸を騒がせたのだ。そんな場所からなぜ江津子に電話する気になったのか? 役目を終え気分が軽くなっていたこと、全く環境の違う場所にいることが妙な開放感となり、気持ちのこだわりを白紙に戻す効果をもたらしたのかもしれない。

前後の見境をなくしていると意識しつつ私はダイアルを回していた。電話はすぐつながった。部署名を答える江津子の声に、名乗ってから、次の言葉に詰まる。江津子も言葉がない。

「…変わりない?」

「…はい」

 彼女の周囲に同僚がいれば込み入った話はできない。その気配をうかがうようにしていると、

「…ごめんなさいね、父が…」と江津子がいった。

 どうやら周囲に同僚はいなそうだ。

「つらい思いをさせて、俺の方こそごめんなさいだね…」

「…いつ連絡をくれるか、待っていたんです。ずっと怒っておられると…」

「怒ってなんかいないよ。ただ情けなく、虚しかった」

「……」

「元気そうでよかった」

 言葉が途切れる。息遣いが伝わってくる。愛しさが込み上げ会いたくなった。会わぬ日が重なるごとに胸底の不安が増幅し、彼女の姿勢が一転して拒絶されるのではないかという恐れが常にうごめいていた。

「いつ電話くれるか待っていたんです。心細くて…」

 心変わりしていないとほっとする。

「気持ちがぐらつかなかった? 俺の方はダメージを受けた。今も」

「……」

「予測していたんだけどね。それでも応えた。…悪い方へ悪い方へ考えてつらかった」

「…改めて強く反対され、わたしもやはりショックでした。…しばらく会社に行くなって。でも会社休みませんでした。…目が腫れているって、みんなにいわれて。…何度も電話しようかと思ったんですが、父がひどいことをいうので、あなたがきっと怒っていると…怖くて…」

「江津さんの気持ちが変わらないのなら、どんな目に遭っても平気だよ」

「…わたしの気持ちは変わりません」

「ありがとう、とってもうれしいよ」

 受話器から同僚たちらしい声が伝わってきた。

「人が来たね、また電話する。ありがとう、安心してとてもうれしい」

「はい」

「切るよ」

「はい」

 電話を切った時、私の表情は四時間前に親工場に来た時とは別人になっていたろう。江津子の父親が来宅した日から三十五日、ずっと暗く湿っていた胸中が見る間に明るく温かくなる。そしてこの夜、さらなる至福に包まれた。工場に戻り、作業工程変更を同僚たちに伝授し、一段落して一服している時、電話を取り次がれる。

「会いたいです」と江津子はいった。

 その夕、久しぶりに例の喫茶店へ胸を弾ませて向かう。江津子は先に来ていた。この日は華道教室に行く日だが休んだと江津子はいった。私たちは三十五日前の二人に戻っていた。

その後、父親とはずっと口をきいていないと江津子はいった。前後の席が空席なので積もる話もできたが、向き合うとあえて話す必要を感じなくなる。気持ちが高揚して空腹を紛らわせているのか、注文したサンドイッチが運ばれてきてもさほど食欲がなかった。江津子も稽古日は帰宅してからの食事となるという。それでも一切れでも食べるように勧めると素直に従った。

 店を出て改めて季節を味わう。日中の残暑が夜の町によどむようにして残っていた。先に立って自転車を漕ぎながら道を曲がるたびに彼女を振り返る。明らかな二人連れと見られないようにか、江津子は澄ました表情で少し距離を置いている。裏道を行き、狭い木橋を渡る。土手上の道を行く。さほど車の通らない砂利道だ。分岐点に来て自転車を降りる。腕時計の時間を確かめる。

「今、八時。何時までに帰ればいい?」

「九時半くらい…」

「大切な一時間半だね。どっちに行く?」

 痛切に私は抱擁愛撫を欲する。江津子も同じと思う。真っ直ぐ土手上の道を行けば雑木林、左の土手下に下れば江津子への家に続く畑田の中の叢。どちらでもいい。一刻も速く彼女を抱き締めたかった。

 

 

 九月中旬の金、土、日曜の三日間グループ展が公民館で開催された。出品者は九人。C、K、私が三十代で、後はI氏たち四十代六人、教員と自営業者で全員が半具象ないし抽象絵画だった。四十代の二人は東京近郊に居住、それぞれ一家言を持ち日曜画家の域を越えていた。若い部類のC、Kも画業での生計を目論んでいたから、詩、散文と間口が広いだけが取り得の私にはいささか敷居の高い思いの出品だった。

 最終日には会場で小宴があった。そこで即席の私の詩集出版祝宴をやる予定だったが、あいにく製本が遅れて間に合わなかった。この類の印刷物は納期遅延が常のことといえた。

 江津子は土曜日の勤め帰りに寄った。K以外に親しむ人がおらず、当り障りのない立ち話で帰ったそうだ。その日私は会場に行かなかった。顔を出すつもりでいたが、勤めから帰ると父の様子がおかしく、かかり付けの医師の往診を家族と待つはめになった。診断によると大事には至らないとのことだが、いささか暗い気分になる。

 父の左半身に麻痺が現れたのは数年前からだ。自転車でリヤカーを引く配達仕事が危ういと勤め先から指摘され、仕事をやめざるを得なくなる。父は昔から口数が少なく才覚に欠け、一家の大黒柱としては落第だった。(補う母が苦労したわけだが)やることがなくなった父はますます無気力になり、当然の帰結で中風の倣いに従うように心身の機能が悪化し、この一年余は母の介護が不可欠になっていた。

 江津子との明日を思う時、父の存在は重い負担になった。父を疎み憎む思いが絶えず生じた。父が世間並みに働きのある男だったなら、母の苦労も軽減されたろうし、何より私の現状も違っていたろう。物心付いた時から私は貧しさを自覚し、中学に入学と同時にアルバイトを始め、学業など眼中にない少年として育った。今となってみれば不運だ。創作のたびに基礎能力の欠如を自覚する。その源を無能な父のせいにして、その哀れな姿にやりきれない思いを募らせていた。

 心弾むことがない日々なら、こうした父に関する諸々に鬱となり悲観主義に陥るのだが、グループ展の終わった翌々日の火曜日の午後、I氏から詩集が出来上がったと工場に電話がかかる。B4版、四十ページの粗末な詩集だが二百部は結構な重さで自転車の荷台では運べまいから、印刷工場から直接自宅に届けるように手配したという。最初の一冊を江津子に読ませたいと思った。幸い彼女は華道教室へ通う日、早速工場へ電話を入れた。

「できたんですか?」

 江津子の弾んだ声に落ち合う店を知らせる。いつもの喫茶店ではなく、座敷のある店にした。

 残業がないから六時前に帰宅する。四個の詩集の包みが届いていた。私が心弾ませているのを、母も祖母も和んだ表情で見ている。妹はまだ勤めから帰っていなかった。

急ぎ(カラスの行水)で身だしなみを整える。弟が二十六日に帰って来ると母がいった。退職の整理が二十五日に済むそうで翌日荷物を送り、その足で帰るそうだ。家中がまた狭くなるが弟が塾に勤めれば家計が心強くなる。これも吉兆の部類だ。私は江津子が待つ和風レストランへ自転車のペダルを力強く漕いだ。

 その店はいつ行っても満席ということはなかった。かなり古い造りで座敷席が三つあり、懐具合のよい時は密室の雰囲気になるそこに向かい合うのだった。この夜は私にとって最良の時、当然その席を取り好物のとんかつとビールを一本注文した。

 江津子は詩集の頁を丁寧にめくった後、本扉裏の(ちゅうこうに捧ぐ)を再度見詰め、「ありがとう、うれしい」と小声でいった。

 注文のとんかつとビールが運ばれて来る。ビールで乾杯した。気持ちが高揚している私は好物を前に食欲が増進する。江津子はビールでお腹が膨れたと半分も食べず「もったいないから食べてください」と私に差し出した。彼女の食べ残しも平らげる。江津子の微笑が何よりの返礼だった。抱擁愛撫にわれを忘れても、すぐさま憂いがにじむ逢瀬時の江津子だったから。

十冊くらい売りますからという江津子に、取りあえず持参した部数を渡す。私の詩集など売れるとは思えないが、彼女には押し売りしたい気持ちが高じていたのだろう。

 詩集の内容を補うような話をしながら、久しぶりに長居して、店を出たのは八時過ぎ。四十五日ぶりに会った初旬の日からまた週に一度の逢瀬が再開されている。前夜と同じように畦道の奥の叢にたどり着く。江津子が週に二度、習い事に通う日の帰宅時間十時までが、私たちの抱擁愛撫の至福の時となる。

 その叢は、私たちが負う事情の中から得られる最良の時空といえた。夏の名残と秋の気配の漂う薄明かりの下で、私たちは言葉のない時間を欲する。お互いの背負う環境を遠ざけることで二人だけになれる。

 二人だけになった時、私は自分の役割を強く意識する。自分とかかわることで苦しむ江津子を、せめてこのわずかな時でも至福を味わわせたいと…。

物心付いてからというもの、日々愉悦ということがあったろうか。

九月末から十月中旬までの日々が、もしかすると私にとってそれに類する日々だったのかもしれない。

 自費出版詩集『悪魔の子』を百部、先達の詩人たちに送付(贈呈)したところ、ひそかに敬愛するJ・Nから思いがけぬ礼状が届いた。J・Nは萩原朔太郎亡き後の日本を代表する詩人と声威ある人だ。彼以外にも先達と仰ぐ四人の詩人が励ましの礼状をくれた。

 私は詩人の卵としても、小説家の卵としても、常に自己流の創作で、その類の同人誌に加わり切磋琢磨するという方法を取らない。地域の詩人との交流もM氏以外は数人しか付き合いがなかった。孤立した創作は自負と劣等意識を絶えず生んだが、不本意な現実ゆえ創作が拠りどころとなっていた。こうした中でJ・Nらの礼状は何よりの激励と受け取れた。

 詩集が十五冊も売れたのもちょっとした愉悦だった。預けた十冊を売った江津子は、たぶん友人知人に押し売りしたのだろうが、出入りする書店に置いた五冊全部が売れたのは意外だった。

 帰省した弟の就職先がすぐ見付かったのも何よりのことだった。弟は有名大学出ではなかったが、外資系の会社に勤めたこともあり英語に関しての能力を評価されたようで、一応は大手の学習塾に英語担当講師として採用された。

 週に一度、江津子との逢瀬も続いた。薄明かりの雑木林の中や、満天の星空を仰ぐ田畑の奥の叢で、私たちは余分な言葉を必要とせず、自然に愛し合った。濡れた唇をむさぶり、乳房に触れる時、既に江津子は陶酔の海へ船出している。まるでこの時しか一体になれないかのように、私たちは没頭した。むせび泣くようにして昇天する江津子の中で、私もまた至福を自覚するのだった。

 私たちは熱く抱擁したまま至福の時を過ごした。それは世俗の時間では小一時間に満たなかったろうが、私たちにとって永遠に似ていたろう。

 世俗の時間に舞い戻るのはいつも私が先だった。それは私が男であること、年上であること、世俗の愚劣な経験を彼女より多く持っているせいかもしれなかった。帰宅を促しても、すぐには立ち上がらない江津子だった。女は男より至福の余韻が長いのだろう。秒読みのように時刻を教え、門限ぎりぎりに帰宅することになった。

 

 

 十月下旬、K夫婦に男児が誕生した。母子とも健やかで他人事ながら安堵する。前年に不運な障害を持って誕生したCの長女のことが常に脳裡の片隅にあったのだ。このことをKも私も口には出さなかったが…。

 私は親しい友二人が結婚した後、彼らとの親密さが薄れ始めるのを感じた。彼らが子の親になり、否応なく家庭人になっていくのを垣間見るにつれ、さらに距離が遠ざかるのを感じた。これは当然なことだろう。そしてこの孤立感は、私が平均値を有する若者なら、やがては自然に亡失することだったろう。さしたる時を置かずに結婚し父親になる…。現にその近くにたどり着いているといえた。結婚を約束する江津子という娘が、少し体を寄せれば触れ合う距離にいたのだ。しかし、私はCやKのように家庭を持つ男の場所に進めない、進もうとしない自分を感じた。

 私は深奥で絶えず貧しさや無能を過敏に意識し、劣等感克服に終始していたのだ。このような陰気な男には、せっかく巡り会った幸運の女神も呆れて退いて行く。生涯最良の日々は長く続かなかった。

秋というより冬の気配が濃い夜のこと、会うなり江津子が困惑の表情で「変なんです」といった。何が変なのか、その後をいわず、考え込む。いつもの喫茶店、周囲に客がいるから聞かれたくない話だろうと、早々に席を立ち、例によって雑木林の二人だけの場所に落ち着き、改めて少し様子のおかしい江津子を問い質した。

「…妊娠したかもしれません」

 江津子は力のない声でいった。

 寸時言葉を失う。迂闊というより無責任だった。夏に彼女に指摘された時は反省し留意し、またひと月余り会わなかったから問題はなかったが、詩集のこと、弟のこと、再びの熱愛と気持ちが舞い上がり無責任になっていた。

 江津子が妊娠すれば事態が変わる。彼女の親も渋々二人の仲を追認する。夏の時はそう考えたが、そんな甘い見通しは消えていた。仮に彼女の親の対応が思惑通りになったとしても、そうなれば今度は私(や私の家族)に決定的な負担が覆い被さることになる。私の自立には障壁が多く、その克服には数年の歳月が不可欠だった。しかしこの時、私が狼狽していてはいけない。江津子の心理状態を最悪にする。責任を全うする私を演じる義務と責任があった。

「ごめん、苦しめてばかりで。でも、もしそうなら、俺、一生懸命、死に物狂いでやるよ」

 何を死に物狂いでやるのか言葉足らずだが、真意は責任を取りたいといいたかった。だが、それは気持ちの上のことで、責任を取るにしても無力であることは変わりなかった。

「そんな顔をしないでください。わたしもいけなかったんですから」

 江津子は表情を和らげた。私の心中を慮ったのだ。共同責任だという彼女に幾分気持ちが軽くなったが、危うい場に立っていることには変わりない。早急にしかるべき検査をした方がいい、一緒に付き添っていくと私は申し出た。

 もう少し様子を見ると江津子はいった。親密な関係にあるといっても女体の細かな状態は語り難いのだろう。彼女は話題を変えた。

 江津子が職場や会社の業績を話すのは初めてだった。同僚評も会社への総括も的を得ている。逢瀬では私との相対関係で小娘になりがちな彼女だが、勤続八年の二十六歳の娘は当然のこと社会性を身に着けていた。このことは取りも直さず、いずれ私との恋も正確に見定め結論を導き出せることを意味する。やがて彼女が恋愛という幻想から覚める時がくる…。事態が事態だけに、いつものように抱擁愛撫に引き込めず、帰宅する彼女の後ろ姿を私は切ない思いで見送るしかなかった。

 その夜半、父に異変が起きた。母や妹の声に目覚めると、父が玄関先で母に取り押さえられていた。夜中だというのに出掛けようとしていたらしい。人相が変わっていた。狂気の目だった。これまでの父は、家族が気付かなかった軽い発作で心身に障害が生じていたが、まだぼけ老人とか徘徊老人の域ではなく、母の世話を素直に受けていたのだ。が、この夜は執拗に外出する構えを通し、母と妹と争っていた。日ごろの父は体中の力が抜けているかのように弱々しい動きなのに、争う硬直した体には凶暴な力が満ち溢れている感じだった。母と妹では父を止められず、乞われて私と弟が父を抱え上げて寝所に戻した。父はなおも出掛けようとし、私は掛け布団の上から父を押さえ付け、「しっかりしろ、おやじ! 夜中だぞ!」と怒鳴り付けた。父はなおも抗ったが、動けないことを覚ったのかやがて静かになった。

「もう大丈夫だよ」と母がいい、私は父の上から下りた。情けなかった。悪い予測が当たったのだ。幼児の記憶に寝たきりの祖父の醜態が残っている。中気の遺伝子が祖父から父に受け継がれ、徐々に悪化していく…。父はその後ももぞもぞと動き母に諭されていたが、再度這い出すこともなく助かった。

 翌朝、父は静かに眠っていた。勤めのある私と妹は七時には朝食をする。勤めが午後からの弟と母、祖母、父は私と妹が出勤した後に食卓を囲む。父は奇妙に食欲があるようだった。

 その夜もまた父の騒動が生じた。どうやら本格的なぼけ症状が発症したようだ。かかり付けの医師の往診を頼むように母に進言したが、即効薬も特効薬もないことを私はそれなりに承知していた。江津子が妊娠したかもしれないという難題も重なって、暗い気持ちになる。

 その江津子から「大丈夫でした」と工場に電話があったのは、妊娠したかもしれないといわれた四日後の十一月に入った日だ。

「よかったね」と心底安堵したが、何か気持ちに引っかかるものがあった。それが何なのか探る気力が湧かず、ただ猛省する思いが残った。愛情と性欲を分けなければならないと。

 この夜、私は江津子に触れなかった。最初の逢瀬から抱擁したように、逢瀬には常に抱擁愛撫があったから、初めての椿事といえた。別れ際には江津子も幾分かこのことに不審を感じたに違いない。かすかな戸惑いを匂わせ、すぐには立ち去らなかった。

 

 

 父の病に関して問い質した母に、主治医は深刻な病状ではないといったそうだが、この病の性質からして快復は絶望的と私は思った。母によれば、父は昼間は比較的おとなしく新聞を読もうとしたり、テレビを見ていたりするというが、おおむね仮眠していて昼夜が逆転しているようだ。静かに眠る夜が数日続くこともあったが、徘徊状態が始まると決まって数夜続いた。主治医の処方箋では、怒ったり押さえ付けたりするのは逆効果で、根気よくいい聞かせるしかないという。

 急速か徐々かは分からないが、いずれにせよ父は祖父のように、やがて寝たきりの痴呆老人になる。介護の母の負担が重くなると同時に私たち家族にも陰鬱な日々が連なるだろう。やはり幸運の女神に見限られたようだった。

家族を支える気力も能力もなく、連れ合い(母)に苦労をかけるだけかけて、さらにぶざまな姿を晒すだけ。そんな父はいらない。早く死んでもらいたい! そんな思いが深奥でくすぶった。私の思念は偏り、袋小路に迷い込み蹲っていく。

 鬱屈した日常の中で唯一の救い(愉悦)の江津子との逢瀬にも、忸怩とした思いが澱のように胸底に残るようになる。逢瀬の抱擁愛撫による至福を封印すれば、ただの歓談になってしまう。場所も時間も限定された中では心弾む見聞も話題も持ち込めない。まるで制約に耐えるための逢瀬の趣となる。

 考えることがまとまらず、むしろ混乱していく。自分がばらばらになる感じだった。そんな状況でこそ自分を見定める必要があったろう。どうしようもない本能(弱さ)を抑制する力(意思)がどの程度備わったか。

熱海で私は弱さに溺れ、二人の女を傷付けた。そこまでは弱さ愚かさとして辛うじて容認できる。問題は自殺を企てたことだ。それは論外の弱さではなかったか。三年たって私は成長したか?

 ほとんど成長していないと思った。逞しく生きるということは世俗の仕組みを理解し、受け入れ、妥協しながら、可能な限りの自己利益を確保する知恵と方策だろう。しかし私は世俗の仕組みを理解し、受け入れ始めてはいても、知恵と方策の力を持ち得ていないといえた。

 江津子への愛に嘘偽りはない。だが、江津子との結婚は愛だけでは成立しない。その生活は世俗の領域であり、知恵と方策なくしては成り立つはずもなかった。愛を世俗の中で生かすためには具体的な知恵と方策が不可欠だ。ところが私は愛を世俗につなぐ段階で金縛りに遭ったように蹲っている。

 江津子への愛を世俗の中でも生かそうとするなら、なりふり構わず、彼女の両親の前にひれ伏して、何度断られても懇願し続け、さらに最悪といえる自分の家庭環境を全力で改善する努力をすることだろう。ところが私はいたずらに傍観しているだけで何ひとつとして能動的に動いてはいない。これは一体どういうことだろう。私は自分が意識する以上にあきれ果てるほどの無能者ではないか。それは最も嫌悪し憎悪する父と同類ということになる!

 私は江津子と恋仲になって以来、最も深い絶望に陥り、考え込んだ末、十一か月間順調に推移していた逢瀬を直前で延期した。工場の仕事に重大なトラブルが発生し、その修復のためと嘘をついた。電話を切った後も気持ちの揺れが続いた。会いたいという思いは江津子の温みによって癒しを求める願望だったろう。好ましくない行為でも感覚的な充足を求めて突き進むことがある。気持ちに余裕のない時に陥りやすい行為だった。それは辛うじて抑制できたが、なお不本意な思いが残った。嘘だ。最初は他愛のない嘘でも、その嘘を見破られぬためにさらに嘘を重ねるのが常だ。それはやがて大きな破綻につながる。熱海での経験から、江津子への小さな嘘が何か厭な感覚を残した。

 その数日後の火曜日、工場の昼休みに江津子から電話がかかった。依然として気持ちが晴れず、対応策を見いだせずにいた私は、江津子の声に感情が潤い会いたい思いが高揚したが、仕事のトラブルは修復したと嘘の辻褄を合わせた後、言葉はくぐもり失語症のような受け答えになる。しかし前夜のいきさつもあり、逢瀬を約する義務があった。気持ちが乱れたままの逢瀬では言動が逸脱しかねないが、会いたい思いが高じる。江津子は一時間程度の残業になるので、お花の教室を休むという。七時半にいつもの喫茶店で落ち合うことになった。

 失意に沈んだ時、素直に表情に表わす人と、ひたすら封じ込め虚勢を張る人がいる。私は後者だった。喫茶店で軽食を済ませ、例によって雑木林の逢瀬の場所に落ち着く。もはや初冬の気配だが、季節の移ろいを見定める気持ちのゆとりが私にはない。感情が波打って混乱を抑えるのに終始する。

 目新しい話題は何もない。それぞれの家族の動向は禁句に等しくなっていたし、私の表現のことも語り尽くされていた。江津子も自分から話題を作らない。問えば最低限度答えるだけだ。会話が途切れたままになる。

触れようと思えばちょっと傾くだけで触れる位置で、互いの息遣いを感じ取っている緊張があった。ふっと江津子の吐息が漏れ、無言で腰にすがり付いてきた。窮屈な姿勢で抱き合う。柔らかく熱い江津子の体の重みと、香水か化粧品かの微かな香りが私の内に染み込んでいく。互いの鼓動が重なる。

 …十一か月前の師走、恋仲になった時が一番幸せだった。仲が深まるにつれ苦しみが増している。甘い切なさに虚しさが入り混じっている。

 ずっと不自然な抱擁でいたので窮屈になる。姿勢を正そうとしたのだが、抱擁を解くと思ったのか江津子が抗うようにすがり付いた。なだめるように言葉にならぬ声をかけ彼女を横たえる。下半身を離して重なり合う姿勢になる。私は少し成長していた。自然に唇が合わさり、江津子の熱い反応が脳裡を刺激し始めても性欲に溺れることなく抑制できた。

 帰路、私は思った。(性欲を自制できたからといって事態が好転するとは限らない。どうもがこうと江津子に執着すればするほど彼女は傷付くのではないか。同じ轍を踏んでいるようだ…)

 

 

 私たち家族には父の痴呆騒動の解決策が見いだせなかった。母は朝夕、仏壇の前に鎮座して経文を唱えた。戦後のわが家がもっとも苦しかった時期に日蓮宗の一派に入信していたのだ。母の信仰を(苦しい時の神頼み)と批判したこともあるが、苦労が察せるようになってからは、その信仰を理解できた。信仰が母を支えたからこそ私たち子供が成長した。

私には立派なことをいう資格がなかった。この数年こそ一家の大黒柱といえたが、その直前にはぶざまに横たわり、母や弟妹ら家族を何ともやりきれない思いに突き落としたものだ。自殺が未遂に終わり、湘南の救急病院に収容された私の枕辺に、有り金をかき集めて駆け付けた母の心中はいかばかりだったろう。

 まるで耐え忍ぶことが母の生のようだった。それに比べれば私の忍耐など軽い。好いた娘と一緒になれないなどということは、世間にざらにあることで、苦労のうちに入らなかったろう。

 私たちは不幸のどん底にいるわけではなかった。むしろ安穏の域といえなくもなかった。父の病を除けば、老齢なりに息災の祖母、幾分か糖尿病の兆しがあるとはいえ経済的困窮からは抜け出して、時に観劇を愉しめるようになった母、縫製工場で働きつつ娘の稽古事を学び始めている妹、念願の学習塾経営に一歩近付きつつある弟、そして私は安定した業績の工場で確かな席を占めていた。松本で暮らす三男は別にして、私たち家族は六人で調和が取れているのかもしれなかった。六人の中で特に働き頭の私の役割が重要なのはいうまでもない。私ひとりが突出したり、あるいは離脱すれば、わが家は大きく崩れるだろう。しばらく前、身勝手に考えた弟に大黒柱を委ねるという考えは、身勝手というよりもはや家族への裏切りに思えた。江津子の親が断固反対するのも客観性に裏打ちされた妥当な結論であり、私の置かれた状況を勘案すれば彼女との結婚は諦めるべきなのかもしれなかった。

 こうした結論が出るのは付き合い始める前から予測できたことだ。にもかかわらず付き合い始めたのは、新しい職場が順境であるゆえの過剰な期待と、父の一応の息災が前提であり、また過分に弟に依存する身勝手があった。職場への期待と弟の転職はおおむね順調だが、父の痴呆発症は予測以上に家族全員への負担となった。勝気で気短な母はヒステリー症状となり祖母が巻き添えになる。母に似て勝気だが素直な性格の妹も、学究肌で世事に疎い弟までが声を荒げることになる。このような状況下では家族の崩壊を招く江津子との結婚を推し進める気力が萎えた。

 けれども、こうした事情は江津子には覚られまいとした。よくよく考えれば、このような難題を承知の上で克服するからと手を差し伸べたのだ。ろくな努力もせず、だめだと諦めるのはあまりにも無責任だったろう。父に似た無能を自覚し、嫌悪し憎悪するなら闘うことが先決だ。理屈では分かっていたが…。

 週に一度の逢瀬は途切れずに続いていた。努めて明るく振る舞っていても、やはり江津子には沈んだ思念が伝わるようだ。

「何か変です」といわれる。

 父の発症は話さない方がよいと思っていた。そうでなくても二人には明るい話題が皆無なのだ。

「このところ何か疲れているように見えます」

「そうかな、別に変わらないつもりだけど」

「何か沈んでいるように見えます」

「江津さんだって、そう見えるよ。…帰る時の後ろ姿を見送っていると、俺、江津さんをいじめているような切ない思いになる…」

 ごく自然に抱擁愛撫は続いていたが、私は一線を引き、越えないように律していた。高揚した感覚を突然断ち切るようなものといえたから、生理的な苦痛をもたらしたが、耐えることで自分のある種の力量を試しているような自覚があった。

 官能の至福に関しては男の私より女の江津子の方が優れた感受力を備えている。妊娠を恐れた当初は私以上に自制心を働かせたが、愉悦の感覚に陶酔し始めると「…いいの」とわれをなくしていく。彼女の歓喜の姿に私もまた一瞬われをなくし愛欲の海に飛び込みそうになる。

「…江津さん、もう帰ろう。これ以上いると江津さんをいじめたくなる。…一番困るのは江津さんだよ」

 私はなにものかに対して意固地になっているのかもしれなかった。この言葉が切り札になる。江津子は自分を取り戻し恥らうように身繕いをする。

私の自制心は男としてあるいは厭味かもしれない。裏返して考えれば手練手管に似ていなくもない。事実、私の胸中に諦念が芽生えているのに反して、江津子の私への傾倒が強くなるのを感じた。

 

 

 十一月末の日曜日、江津子と電車で前橋へ出掛けた。彼女が学ぶ華道教室の先生一派の家元展に誘われたのだ。私は華道や茶道には無関心だが、珍しく江津子に強く誘われ、久しぶりの真昼の逢瀬に気持ちが和んだ。

町中の広い展示場を縦横に使った家元とその子息の作品群は、それなりに悪くはなかったが、伝統的表現と無縁に育った者にはさらなる感興を刺激するものではなかった。

会場の受付に着物姿の娘たちがいて、江津子はそのひとりと挨拶した。観客も多くあちこちに着飾った女性たちが目立ち、退出際にもそのひとりと江津子は短く言葉を交わした。紹介はされなかったが、江津子がさり気なく私の存在を彼女たちに垣間見せているように思えた。私たちの仲はずっと他人に秘めることに終始していたから、江津子の意外な態度だった。

妊娠かもしれないと案じた一件以後、私は若者特有の無軌道な性欲を封じた。その自制に、彼女は私の精神的な愛を感じ取ったのかもしれない。性の交わりがあるからといって確固とした愛があるとはいえない。生きるのは肉体だが、肉体を生かすのは精神だ。しかし、そうであるにしても、私は不本意に彼女を欺いているような気持ちも生じた。禁欲が詐術に等しくなる。

 会館を出るとかなり強い風が吹いていた。駅からバスで来た時は穏やかな日和だったが、改めて空っ風の町であることを思い出す。私にとって初めての前橋だが、二度ほど来たことがあるという彼女に従って歩く。広い通りに高い建物が並び県庁所在地らしい賑わいがあった。

いつになく生気を感じる江津子だった。常に帰宅時間を留意する暗闇の逢瀬とは違って心身が伸びやかになっていたのだろう。それは私も同じだった。脇道に入りしばらく歩くと狭いが速い水流の川に出た。護岸がコンクリートで固められた町中の川だが水は澄んでいた。幼子と散歩する若い母親の姿が幾組か見えた。ベンチに並んで腰掛けて寛ぐ。

「どこかに朔太郎の詩碑があったんですけど」と江津子がいった。

「生家の書斎も保存されているそうだよ」

「行ってみます?」

「見たい?」

「あなたは?」

「詩を書き始めたころは朔太郎が好きだったけど、ある時期から病的な感じがしてね。生家も病的な雰囲気じゃないかな」

「……」

「陰気なのは健康に悪いよね。俺たちもどちらかというと、いつも暗いな。少し風が強いけど寒いほどじゃない。お天気もよくて、江津さんも明るい顔をしている。俺、とても気分がいい。陰気な朔太郎なんか見るのはよそう」

 江津子がほほ笑んだ。

「お腹すきません?」

「すいた」

 私も屈託のない笑顔になっていると思った。

 川岸から繁華街は近かった。こぎれいな商店や食べ物の店の並ぶ一区画で二階建てのレストランに入る。一階の席は家族連れで半分ほど埋まっており、ウエイトレスが同伴席らしい二階へ案内した。和洋両方のメニューがあり、私は好物のとんかつ、江津子はピザを注文した。二組の男女客が窓際と奥の席にいたが、離れた私たちの壁際の席も落ち着いた雰囲気だった。

 注文した品が運ばれる。とんかつとピザの組み合わせが妙な気がして微苦笑する。江津子が怪訝な顔をした。自分たちの組み合わせも、あるいは妙なものかもしれないと思った。言葉少なく食事を済ませる。

 いつの場合も会話をリードするのは私だが、話題を作る気持ちが薄れる。めったにない彼女の能動的な姿が、屈折した心情を押しやり和ませていた。

「退屈ですか?」

「いや、久しぶりにいい気分転換になった」

 レストランで結構長居した。展覧会を見る以外に予定はなかったのだ。悩みが紛れていれば無為も愉悦に似てくる。店を出てから繁華街を歩いた。「ちょっといいですか?」と江津子にいわれデパートに入る。婦人服売り場で彼女はセーターを買い、紳士服売り場で「この色合い似合うと思います」と私に厚手のシャツを買った。互いへのプレゼントということにしてお金をやり取りした。

 たまにはいいだろう、と私は思った。それぞれの背後の厳しい現実をひと時忘れて、初めて恋情を確認し合った時に似た愉悦感に浸る。

「今日の江津さん、すてきだよ」

私は歯の浮くようなせりふを意識していう。ベージュのコート、淡いピンクのツーピース、白いローヒール、誕生祝いのネックレスをしていること、この程度しかいい当てられない服装に関して無粋な私だが、江津子はうれしそうに微笑した。

愉悦の時は緩やかに流れる。随分歩いたのに疲れを感じなかった。それでもひと休みしようとまた喫茶店に入る。ゆっくりと咽喉を潤してから店を出ると、いつしか黄昏時になっていた。空っ風は収まったが気温が低くなったようだ。冬の気配と、帰路を思うことから、それに続くそれぞれの事情が不本意に甦ってくる。遅かれ早かれ現実に戻るが、例えわずかでもその時間を引き延ばしたい思いになるが、不快な現実の引力に引きずられるかのように駅が近付いてくる。

 帰りたくないといっても、なじみのない町にとどまるのも何とも薄ら寒い。駅舎に入り時刻表を見る。さほどの待ち時間もなく発車する電車がある。なにものかの力に押し流されるかのように切符を買い、改札口を抜けホームに立ってしまう。

往きの和んだ感情は既にしぼんでいる。電車は案外込んでいたが、並んで座ることができた。人込みということもありずっと無言になる。足利駅に着いたのは七時過ぎ、広場を抜け路地に入ると、まだ宵の口なのに人家を包む闇が濃かった。その裏道はいつもの帰り道ではなく二人が初めて歩く道だった。前橋へは国鉄両毛線を使ったからだ。足利駅と私の家は近く当然徒歩だが、江津子の家は遠くタクシーでの往復となる。

 私たちは国鉄の駅前広場のタクシー乗り場を通り越してきた。降車してすぐ別れたくない暗黙の了解があり、習慣的に私鉄の駅の方向へ向かう。

私鉄の駅につながる鉄橋の手前まできた時、江津子は足を止め、「今日はまだ帰らなくていいです。パーティーに出るから遅くなるっていってきました」といった。

 別れる時の切なさが数時間か延びるだけで、どのみち不本意な思いからは逃れられないが、私もまた彼女といることに執着する。

夕食の時刻だが、なぜか私は空腹を覚えず、尋ねると江津子も同じことをいう。随分歩いたから体の調子が狂ったのか。しかし精神が高揚しているのだろう、ほとんど疲労を感じなかった。

「チョコ持ってますけど食べます?」

「そうだな、腹が減ってないからって食事時に食べないのはいいことじゃないよね。カロリーが高いものを補給しておくのもいいね」

 江津子はハンドバッグの中から封を切ってないチョコレートを取り出し、包装紙を剥いて差し出した。私は甘党だった。結構おいしいので、ひと包み平らげた。江津子は別の小さな包みのものを食べた。

「チョコをいつも持ってるの?」

「お稽古の時、夕食が遅くなるでしょう。お腹がすいた時用にいつもバッグに入れてあるんです」

 幾分か咽喉の渇きを覚えたが、土手上のことゆえ紛らわす。歩くことは二人だけが味わえる愉悦だったろう。

いつもの逢瀬とは逆方向の土手道を歩き出す。その方向には私が慣れ親しんだ河川敷があった。少年のころから折々に散策した場所だ。一帯には人家が少なく、移転した競馬場跡の雑草に覆われた馬場、馬券売り場だった建物等が残っていた。その南に荒地と桑畑、そして渡良瀬川が蛇行して流れている。

 薄雲があり月光は鈍く、目を凝らしても見える星の数が少なかった。寄り添うように歩いているから体が触れ、ごく自然に手をつなぐ。意外に冷たかった彼女の手がすぐ温んだ。

私は二重人格になる。彼女の体温を感受すると同時に抱擁愛撫を欲する私と、まるでさかりの付いた犬猫ではないかと自制する私だ。この時は後者の私が勝ったようで、河川敷に下りず土手の上を歩いて行った。

川向こうの暗闇に私鉄電車の明るい窓々が流れて行く。

「きれい」と江津子がいった。「東武線でしょう? あんなところを走っているんですね」

 私も闇の中を車窓の光が流れる光景を見知っていたが、何年ぶりに見ることになる。

「こっちには両毛線が通っている。向こうよりずっと近い。ガタン、ゴトンがよく聴こえる距離だよ」と、私は人家の詰まる逆方向を指差した。

「駅は?」

「すぐそこ、家込みで見えないが…。歩いて十分もかからない」

「…あなたの家も近くですね?」

「ここから五分とかからない」

「……」

「向こうにこんもりとした影が見えるだろう? 岩山といって神社がある。子供のころはお化けが出るっていって評判だった。鬱蒼とした木々があってね…」

 人に出会わないのが不思議だった。私たちのような者が二、三組は散策しているのが常のように思ったが。

「寒くはない?」

「大丈夫です」

十一月末日、晩秋とも初冬ともいえようが、共にコートを着ているせいか、あるいはまだ秋の気配が色濃いのか。もっとも暑さ寒さなど二人でいれば問題外だったが。

「この道はどこへ行くんですか?」

「三、四キロ先にC君の家近くの橋がある」

「…あなたの工場も、この方向じゃなかったですか?」

「もうすぐ…」

 梅雨時の夜、工場の倉庫での抱擁愛撫の情景が甦った。私はまた分裂し混乱する。…今日は久しぶりに和んだ逢瀬ではなかったか。抱擁愛撫がなくても愛しさを感受した日ではなかったか。たまには抱擁愛撫のない逢瀬もいいのではないか。…混迷するばかりで決断できない。

「そろそろ引き返そうか?」

 そう口走るしかなかった。目を凝らし腕時計を確かめる。八時を回ったところだった。

「駅まで十分、タクシーに乗れば九時には着くな」

「まだ帰りたくありません」

 握っていた手に少し力がこもり、江津子の声の抑揚が少し変化していた。

「何時までに帰ればいいの?」

「今夜は遅くなってもいいんです。迷惑ですか?」

「そんなことはない。いられるものならひと晩中いたいよ。だけど江津さんが困るだろうから」

「今日は遅くなるってちゃんと話してあります。大丈夫です」

「じゃ、ぎりぎりまでいるか。町へ戻って飯でも食う? 随分と歩いたので胃がびっくりして食欲を忘れているけど」

「お腹すいていません。チョコ食べたのが効いています。わたしいつも夕食は少なめなんです」

「そうか、俺もチョコが効いているんだ。腹が減らないので変だなって思った。でも咽喉が渇いたな。自販機で買おう」

 手を引いて土手を下りた。それほどの家込みではない住宅地の路地をいくつか抜けて、少し広い道に出る。意図的に工場への方向に向かっていた。江津子が抱擁愛撫を求めている。久しぶりの最良の逢瀬を抱擁愛撫の歓びで締め括りたいと願っている。私の勝手な解釈かもしれないが、節度のある抱擁愛撫こそ恋人の愛情表現と思った。

 酒屋の店先に自動販売機があった。私はコーヒー、江津子にはお茶を買う。口を開けず手にしたまま、私は指差していった。

「あそこに報知器の赤い明かりが見えるだろう? その先が工場。ひと休みしよう」

 江津子は軽くうなずき、私は歩き出す。道に人影はなく、工場の門の手前に着いた時、遠く前方に車のヘッドライトが見えたが、なぜか私は警戒心を抱かなかった。気持ちがある方向に傾いていたのだ。近辺には工場にパートタイマーで働く主婦の家々があったが、夜は外灯の少ない静かな町外れの住宅地だ。

工場の敷地には門のところと建物の軒先、構内の三か所に外灯が点いているが、敷地全体が明るいとはいえない。私は江津子の手を取り、構内を足早に抜け倉庫の扉をそっと開けた。彼女を招き入れて扉を閉める。

「漆黒の闇だ」と私は少し笑いを含めていう。

 倉庫には南北に窓があった。瞬時立ち尽くすが、徐々に目が馴染み窓からの薄明かりで互いが確かめられるようになる。段ボールを移動して座れる空間を作った。並んで座りそれぞれの飲み物で咽喉を潤す。

「本当によく歩いたね。足は疲れているはずだけど気持ちは疲れを感じない。江津さんといるから疲れないんだな」

「二、三年前までは会社のサークルでよく山登りに行きました。歩くの結構強いと思います」

 私は缶コーヒーを飲み干した。江津子は半分ほど残っているようで手に持ったままでいた。その缶を取り入り口の机の上に置く。机上には段ボールの入出庫のメモ帖が置いてあった。

「帰る時、忘れないように持っていこう。覚えていてね」

 私はもうためらわなかった。江津子を立たせ優しく抱き締めて口付ける。互いの鼓動が伝わり、合わさった唇のわずかな透き間から江津子の言葉にならぬ声が漏れ始める。やがて彼女の体中から力が抜け崩れ落ちる。支えながら、私は奥の段ボールの上に江津子を横たわらせ、重なる。私の手は彼女の衣服の下に潜り、背中から腰、乳房へと移動する。江津子はむせび泣く。私の性的欲情が頂点に達する。手が彼女の尻へ、尻から秘所へと突き進んでいるのだ。

(だめ! これ以上はだめだ!)

 私は必死に手を戻す。

「江津さんを困らせないよ、俺は…」

 絡んだ彼女の体から退こうとすると、江津子は幼女の(いやいや)のように首を振り強くしがみ付いてきた。

「いいんです…今は…大丈夫です」

 江津子に導かれるようにもう一度激しく唇を重ねたが、私の性的欲情は少し弱まり感情も平静に向かいつつあった。

「そろそろ帰ろう。これ以上ここにいると、また江津さんを滅茶苦茶にしたくなる。この前みたいに江津さんが困るようなことになったらかわいそうだからね」

 少しおどける口調で私はいった。

 ところが江津子は(いやいや)をして、取りすがるように私の首に両腕を強く絡ませ、呻き声でいったのだ。

「…いいんです…今は、大丈夫なんです…抱いてください…」

 

 

 愉悦と後ろめたさが入り混じる混迷が胸中で渦巻いていた。江津子を思うといたずらに切なく、そして決まって己の無能さを自覚する…。そんな私の内情など無視するかのように日々は素早く流れる。

比較的に穏やかな日和が続く金曜日の工場の昼休み、江津子が電話をくれた。勤め帰りに和裁教室に通う日で、都合で八時には退出できるという。いつもの喫茶店で落ち合うことになった。

 先夜の逢瀬での充足は江津子の強い傾倒を再確認させ、至福とでもいうべき感覚が五日過ぎた今も生々しく甦る。愛すること、愛されることを単純に考えればまさに至福だが、この思いを世俗の中に生かそうとすると途端に壁が立ち塞がる。思念は依然として堂々巡りするばかりだった。

工場の作業が残業になり、急ぎ帰宅して入浴し夕食を済ませると程よい時刻になる。騒ぐ胸中と逆に家の中は暗い空気が淀んでいた。数日来風邪で臥せる祖母と並んで父の寝具が敷かれてある。母の介護で父が入浴していた。心身の調子がよい時は父ひとりで入浴できなくもないが、このところ好調時がめっきり減り母の負担が重くなっていた。

 気持ちに余裕がある時は物事をよい方に考えようとする。仮に祖母と両親だけの暮らしだったら、救いようがなく落ち込む状況だろう。弟妹の、それぞれの順境が暗い家庭の空気を和らげてくれる。妹は週に二日、勤め帰りに料理と華道の教室に通っていた。数人の親しむ友もいる。弟の勤めも順調で、教える時間帯が夕方から夜にかけてだから、昼間は家や図書館で勉強していた。子供のころからの勉強好き、そこそこの経済状態の家庭に育ったなら学者の道へ進めたろうが、愚痴を吐かぬ弟だった。現実を素直に受け入れ、状況の中で最善を尽くしている。申し分のない弟妹だった。

 風呂から出た父がパジャマ姿で卓袱台の前に座った。私は出掛ける支度ができていたが、弟妹がまだ帰っていないから、母が風呂から出てから声をかけて出掛けようと思ったのだ。

「気持ちいいだろう?」と私は父に声をかける。

 父はかすかにうなずいた。めっきり言葉少なになっている。表情の変化も乏しい。喜怒哀楽のバランスが崩れ憤怒だけが残っているともいえた。徘徊や不始末を叱る母や私に、体を硬直させ能面のような顔で抗う。その時の姿はまるで父とは別人のようだった。

 母が台所から這う格好で出て来て、蹲った。

「どうした?」

「…少し気持ちが悪い…」

「上せた?」

 母は卓袱台まで這って、卓上に両肘を乗せて顔を埋めた。

「横になった方がいい…」といって私は言葉を失う。物心付いてからというもの常に気丈な母だったが、近年は時に衰えを見せていた。明らかに介護疲れだろう。

「…大丈夫、ちょっと上せただけだから」

私は母の歳を正確には答えられない。五十六、七だろう。恵まれぬ生い立ち、小学校もろくに通えず働きずくめだった母、そろそろ不具合が出ておかしくない。

「大丈夫、上せただけだから。いいよ、出掛けて」

 都合よく妹が帰って来た。普段とは違う母の様子にすぐ気付き、

「どうしたの?」

「風呂で上せたらしい、気持ちが悪いって」

 私がいうと、

「大丈夫だよ」と母がいった。「ちょっと上せただけ、大丈夫」

母は強いて姿勢を正す感じだった。

「出掛けるの?」と妹。「いいよ、出掛けて」

 母、弟妹、そして祖母、もしかすると父も、私が交際する娘の親に、交際を反対されつつもなお交際していることを知っている。家族たちはまるで腫れ物に触るような思いで私を見詰めていると思う。このことが時として負担に感じた。

 約束の時間から少し遅れて落ち合い、いつもの雑木林、畑中の逢瀬の場で江津子に普段通りに接しながら、私は感情が沈んでいるのを自覚していた。おのずと言葉が途切れがちになる。

「何かありました?」

 そう江津子にいわれ、ありふれた話題を持ち出し、生臭くならぬ節度を保った抱擁愛撫で門限までの時を過ごす。江津子が珍しく妹弟の話をした。二つ違いの妹は隣町の会社に事務員として勤めているが、大柄で陽性、江津子とは姿形も性格もかなり違うという。交友関係も広くよく遊んでいるそうだ。弟は高校を出てまだ勤めたばかり、学生気質が抜け切らず家ではわがままを通しているそうだ。両親も妹弟には甘いという。

 このところの私たちは、互いの家族のことを話題にすることを避けていた。互いの家族状況が明らかになるほどつらくなったのだ。仕方なく二人の明日に効用のない話ばかりしていた。私の表現のことをいくら語っても、二人の明日の糧にはならなかった。

 どんなに恵まれた環境下の恋人とて、例え望んでも四六時中抱擁愛撫していては苦痛になる。世俗の雑事をこなしてこそ人生となる。その上での恋人なのだ。肩が触れる間隔で並んで座り、私は哀切を覚える。おそらく江津子も似た思いを共有しているのではないか。

 風はない。コートを羽織っているが、ほとんど寒気を感じない。夜空を仰ぎ星々を眺める。

「もうすぐ一年だね」

「……」

「江津さんにつらい思いばかりさせているようだな、俺…」

「……」

 少し間があった。江津子が低く嗚咽し、ハンカチを取り出して目頭に当てた。切なかった。

 門限の時刻になる。いつものように叢に隠すようにして置いた自転車を取り出し、江津子を先に後から付いて行く。父親に露見しないように彼女の家の生け垣までは送らず引き返すのが常だった。

その時、背後からの車が近付いてきた。あいにく身を隠す場所がなくヘッドライトに晒される。車は江津子の家から五、六軒先と思われる辺りで左折した。近隣の人が運転する車らしかった。

厭な感じになったが、口に出しても仕方なかった。江津子は改めて「ありがとう、じゃあ」といって帰ったが、近隣の人の目に晒され、告げ口をされるような予感がした。

 

 

 悪い予感が当たったようだ。江津子の身に何かよからぬことが起きている…。

私たちは週に一度、空いても十日に一度は逢瀬を重ねていたのに、既に半月会っていなかった。月初めの別れ際、近隣の人らしい車のヘッドライトに晒された時、厭な予感がしたが、一週間後の火曜日に江津子の勤め先に電話を入れると欠勤と告げられた。次の夜、不運が重なる。母の具合が悪くなった。立ちくらみがすると早々に床に入ったが、翌朝も気分が優れず、父の主治医に往診してもらった。昼間は弟がいるから私と妹は勤めに出たが、帰宅して診察の結果を聞くと、糖尿病の気配があり日赤病院で精密検査を受けた方がよいと紹介状を書いてくれたという。

翌日、弟が付き添い日赤に受診に出掛けたが、詳しい結果は数日後に出るにしても、糖尿病が結構悪くなっているということだった。母は立ちくらみした時に左足首をひねったようで、歩行の方も支障を来たす。父の介護は昼間は弟が代行し、夜は勤めから帰った妹がすることになる。

私は(でくのぼう)だった。弟妹が父母の世話をするのを側で見詰めているだけだ。そのくせ一番気を病んでいるのは私だったろう。工場で仕事をしている時は、江津子のことも家庭のことも紛れるものだが、さすがに暗い気持ちが付きまとった。

 金曜日、私は朝から落ち着かなかった。電話して江津子のよからぬ事態を知ることがつらかったのだ。私たちを取り囲むものが最悪の状態になりつつあること、これを認めるしかない。母の検査結果は蛋白が出始めているといい、通院治療が不可欠な病状となった。諦念が胸中に広がり始めていた。運がない、縁がないと思った。ことごとく恋は実らない。痛い目に遭う。それは己を知らない無知から生ずるもののようだった。自己嫌悪が生じ、諦念と相俟って身の置き場のない感覚になる…。

 私は萎縮し蹲っている自分を認識していた。難事に出遭った時、客観性を失う。このような時、知恵ある人の助言なり助けを乞うことは恥ではない。自尊心は難事を乗り越えてこそ生かされるものだろう。江津子を心底必要とするなら、誰彼を選ばず助力を請えばいい。まず友のK、Cに事情を打ち明け、彼らの知恵を借りる。そして社会的信用のあるM氏、あるいはI氏、社長たちの助力を願う。結果は運命の神の裁量だろうが、自分にできる最善の努力をすることこそ、江津子への愛情(誠意)といえるだろう。しかし、心身が金縛りになって呻吟する自分を意識していた。

私はひ弱な、それでいて偏屈な性格だった。貧しい環境下ではあっても第一子だったから、幼児期は存分に可愛がられたが、何事か不本意があると押し入れの中に閉じこもったり、外の電柱の陰に立ち尽くしていたりと意地を張る子だった。今また不本意な事態に意固地になって、昼休みにとうとう江津子に電話しなかった。

 それで気が済む類のことではない。女々しく混乱し続ける。同じ轍を踏んでいた。しばらく消えていた熱海での早苗との一件が甦ってくる。(悪いのは俺だ)。無能なくせに欲望に押しやられて暴走する。当然の帰結として(罪)が残る。熱海の時は、(罪)に押しつぶされて自裁したが、今度は経験が生かされそうだ。破局を迎えても事実を素直に受け止められそうだった。

 開き直り、しぶとい男になれ! 色恋沙汰で労力を使うより、ほかにやるべきことがあるのではなかったか! 失恋は男が成長する過程の潤滑油のようなものだ。自分を励ます。

 側に同僚たちがいて、作業が延々と続いている。うっすらと埃が舞う騒音の中で、少しずつ平静を取り戻す。一見何の屈託もなく見える同僚たちも、その内実は絶えず大波小波に揺れているものだろう。不条理、不本意に揉まれつつ進むのが人生だろう。そして他人と比較して幸不幸を喜び、あるいは悲しんだところで詮方ないことだ。幸不幸は認識の違いに過ぎない。客観的に見て私は決して不幸とはいえない。

わが家の暮らしは豊かとはいえないし、家族の状態も最良には遠い。しかし、最悪ではなかろう。明日も知れぬというほどの切迫した状況ではない。母の発病も差し当たって命にかかわる病状ではないし、痴呆の父の介護は弟妹、私が代行すれば凌げる。この程度の内実の家庭は別段珍しいことではあるまい。

 単純作業に没頭する中で私は次第に落ち着きを取り戻し、重ねて自分が不幸ではないと思った。工場の仕事も人間関係も、そして待遇にも不満はなかった。十六歳から働き始め六つ目の職場だった。私が創作し表現をしていることを社長以下全員が知っている。好ましい環境の職場といえた。

 年末年始の休みを補うため前倒しの生産が必要で、この日も二時間の残業になっていた。定時と残業の合間に十五分の休憩があり、パンと飲み物が支給される。そして作業が再開され一時間ほど過ぎた時、騒音の中に電話のベルを聞く。電話機は作業場の端、事務机の上にあった。江津子だと思った。

 受話器を取ると、ためらうような江津子の声が私を確認すると、言葉が途切れた。

「火曜日に電話したらお休みだった。風邪でもひいた?」と私。

「……」

「何か悪いこと、厭なことが起こった?」

「…父に強く叱られました…一緒にいるところを近所の人に見られたんです…」

 江津子の言葉が重かった。和裁教室からの帰路らしかった。騒音が高くなり言葉が聞き取れなくなる。作業工程で時折強い騒音が響く工場内だった。

 切れ切れの言葉をつなぎ合わせると、予測した通り江津子は苦境に立たされていた。やはり先夜のヘッドライトに晒されたのが発端で、父親に強く叱られ殴られたらしい。腫れて痣のある顔では勤めに出られず二日ほど欠勤したようだ。勤務中ということもあり私は自分でも意外なほど冷静に応答していた。江津子は混乱の中にいるようだった。

 作業の手順で私が必要になる時刻だった。同僚の方を見ると果たして待機している。後ろ髪引かれる思いになるが仕方ない。

「ともかく今は冷却期間を置くしかない。しばらく会うのは止めよう。当分の間電話だけにしよう…」

 ひとまず電話を切るしかない。江津子はなお何か口ごもる気配で、なかなか受話器を置かなかった。

「今は仕方ないよな。…俺たちだけがつらいんじゃない。江津さんの両親もつらいはずだ。少し時間を置くしかない、ね」

 江津子の受話器を置く音を聞いてから私も受話器を置いた。

何事もなかったように私は作業に移ったが、体中に熱いものと冷たいものが入り混じってドキドキと心臓の鼓動が高鳴っていた。

 

 

 工場の年末年始の休みが大晦日から三日までとなる。もう少し休みたいという意見も多かったが、研磨紙布ベルトの需要が順調に伸びており注文量が山積していた。ともすれば下請け工場は過酷な条件での生産を強いられる。主婦や老齢者のパートタイマーを増員してはいたが、それでも全員が過剰な勤務状況になった。こんな好景気にしてはボーナスが少ないと不平を漏らす者もいたが、私個人は待遇に不満はなかった。

 私は生来金銭欲が弱いようだ。小学五、六年生のころから貧しさを意識し、中学生になった時にはアルバイトを厭わなかった。以来働くことを美徳と疑わずにいたが、学歴の壁もあり職種も限定され、そして性格の由来するものか、あるいは不運なのか常に職場の環境に違和感を覚え、働く意欲とは別なところで離職せざるを得なかった。つまるところ好ましく働ける職場を願うことが第一義で待遇云々は二の次になった。こうした意味合いでこの研磨紙布ベルト加工の下請け工場は申し分なかった。社長は私の人柄・技量を評価してくれ、同僚たちも一目置いてくれていた。

 ボーナスの支給額に不平をいう同僚を見ていて、改めて経済的向上心、金銭欲の希薄さを意識する。それは同僚たちと私の価値観が異なっていることを示していた。私は観念的資質の性格といえた。貧しさから逃れようと働いても、あるレベルまで達すると、それ以上の執着がなくなる。貪欲さが欠けていては新しい環境を構築することなどできなかったろう。

 江津子との逢瀬が途切れている日数を数える女々しい性格を意識する。切なさと苛立ちを抑え込みながら、自分の深く重い劣等意識が今日の事態を生んでいると思った。貧しい生い立ち、不運な家庭環境を悲観的に考え過ぎている。客観的に見ればそれほど悲惨ではない。これに類する状況の人々は数多くいるだろう。問題は私自身の過敏な、あるいは偏狭な感受性に由来する。私が恋をするのは、無意識の劣等感克服法だったかもしれない。二十代前半までは恋以前の状況で屈辱に陥った。家族というみすぼらしい負性を逃れて、自分ひとりの評価を求めた。熱海で自信を得、好ましい娘を手中にし、さらなる娘も手中にした。恋人たちを得、自分に自信を持つことだけが目的だった…。今はこう総括できる。結婚生活を営むことが目的ではなく、恋愛そのことだけが目的だった。熱海では劣等感克服に成功したが、恋愛の先につながる現実を見抜けぬ浅はかな私は手厳しい罰を受けた…。

 江津子への傾倒を意識した時、熱海時代より成長した自負があった。だから恋が始まった時、恋愛の先の結婚生活を見据えていた。しかし、予期せぬ難事が生じた。母の発病は家庭の土台を揺るがすに等しい。二、三年待っていてくれれば(私が家を出ることができるだろう)と、都合よく計画したが、逆に二、三年と月日がたつにつれ状況が悪化するだろう。現代の医学で父の脳軟化症が完治する可能性は全くなかったし、母の糖尿病も悪化を辛うじて留める治療法しかないはずだ…。

 江津子からの電話はなかった。私も電話しなかった。感情が騒いだが、劣等感とも屈辱感、あるいは恥辱感とでもいう客観的思念が押し留めた。父の哀しい狼藉が定期便のように襲って来る。身体の不本意もあって母はヒステリー状態になり父を糾弾した。平穏な夜が三日と続かなかった。

 それでも弟妹がいることで救われる。弟妹は私のように神経質には考えていないように思えた。心身不如意の父がいて母の介護を必要とする。その母が不具合となった。残った家族が補うしかない。感情や理屈抜きで補うしかない。弟は「しょうがねぇな」と愚痴をもらし、妹は「父ちゃん、しっかりしてよ!」と叱りながらも母を補っていた。

 兄弟でも得手不得手がある。中学卒業と同時に住み込み店員をした私は洗濯掃除が得意科目といえた。三十日夜、母の指南の下、妹のこねどりで私と弟が杵を振り餅つきをした。大晦日の掃除も私たち子供三人で済ませた。痴呆の父、糖尿病発症の母、歩行がやや不自由な老齢の祖母。この三人には不本意な日々かもしれない。しかし、私たち子供三人が定職に就き、そこそこの収入を運んで来る家庭は、長らく窮乏生活を強いられた日々を脱して、経済的には小康状態といえたろう。こうした一面から見れば、私たち家族は決して不遇の底にいるとはいえなかった。

 こう考え、諸々の不本意はひたすら辛抱が肝要といい聞かせながら、けれども虚しさが漂う三が日だった。私は社長宅へ年始に行った以外ずっと家にいた。文学上の師といえるM氏に対しても世間並みの儀礼をしなかった。同志であり親友ともいえるCとKの家にも行かなかった。彼らが結婚してからというものは、独身時代のような付き合い方ができなくなった。

 その三日間、水彩画を描いた。言葉の表現よりも曖昧な形態と色彩の表現の方が抵抗なく没入できた。

 四日から勤めが始まる。初日は三時で早仕舞いになった。同僚の数人と連れ立ってボウリング場へ行った。ゲームの後、居酒屋で飲食する。他愛のない付き合いだが気持ちが紛れ、それなりに楽しかった。

 その夜、父がまた騒いだ。介護する弟が珍しく声を荒げた。「そんなに怒ったって仕方ないよ」と母になだめられる。だれかが興奮するとだれかがなだめ役になる。家族の絆を感じた。

寝付きの悪い夜が続くのは仕方なかった。依然として数日の間隔を置いての父の醜態が続いていたこともあり、眠れぬまま江津子のことをあれこれ考えることになる。自分の至らなさが徐々に明白になる。相手の立場で誠実に考えたことがなかった。さと子の時も早苗の時もそうだ。常に自分に都合よい解釈をしていただけだ。

これ以上は無理だな、別れるしかないな…という思いが湧いていた。今なら最悪の恥辱に陥ることなく済むのではないか。無理を通し、江津子がずたずたになり、結果として憎しみの眼差しで突き放されることになれば、罪悪感に連なる劣等意識に付きまとわれるだろう。そんな抜き差しならぬ傷を負う前に別れるのが知恵というものではなかろうか。

 江津子からも音沙汰がないということは、彼女もまた私と同様な思いに至っているのではないか。

物事には流れがあるようだ。幸運な流れがあり、不運な流れがある。流れに逆らう生き方もあろうが、それは目指す事柄によって選択すべきことだろう。若者にとって恋愛は重大事だろうが、青春期を越えた男女には恋愛の価値はそれほどの重大事ではなくなるのではないか。好いた者同士が結ばれるのは理想でも、世の中は不本意によって成り立っているのではないか。そして多くの人々は不本意に耐えて生きて行くのではないか。不本意こそ厳然たる実相なのだ。

 私は江津子を愛しむ。彼女が幸せになることを願う。彼女と別れのはつらいが、それが結果として彼女を幸せにするとすれば、そうするべきではないのか。差し当たって私には江津子を幸せにする力がないのだから…。

 

 

 勤めがあるのが救いだった。工場にいれば考え込んではいられない。責任のある役割があり、しくじってはいけない作業があった。朝夕にはこの季節でも汗ばむ荷物の積み下ろしがあり、率先して働く。咽喉を潤す一杯の水にささやかな充足がある。…恋愛は人生のわずかな部分だ。そこがどうであろうと仕事に差し障りがあってはいけない。もはや少年ではない。自分にいい聞かす。

 土曜日の午後、Cが作業場に顔を見せた。工場前の道が彼の家につながっていたから時折寄る。社長以下同僚たちとも顔見知りで新年の挨拶をする。私もちょうど作業の区切り時、作業場の軒先に出て一服する。少し風が吹いていたが冬晴れ、寒気はなかった。

「どう?」とCはいった。

「うん」

 Cとの出会いはガス会社に勤めた十八歳の時で、二つ年上の彼には何かと支えられたものだ。彼が結婚してからは独身時代のような付き合いはできなくなったが、顔を合わせるだけで幾分か気持ちが和む。

「車を買い換えた」と彼は門寄りの構内に駐車してある白い軽自動車を目で指した。

「新車?」

「うん」

 その車を見に行く。私は免許もなく車の所有など考えたこともない。

「大したもんだな」

「月賦だよ」

 細君が看護婦職に復帰してから、その送迎にCは中古車を使っていた。彼の家は町外れ、バスの路線も遠く夜勤のある細君の通勤には不便な地域。細君は自転車しか乗れない。Cの送迎が必要不可欠だった。

「忙しそうだな」

「うん」

「昨日、Kのところに寄った。あいつのところも大変だな。いらいらしていた」

「しばらく行っていない。赤ん坊は元気?」

「うん」

 Cの長女の消息を尋ねる。障害を負っている幼女もそれなりの教育が肝要らしく、そうした子供たちを支援する施設に週三日通っているという。細君の夜勤もあるから絶えず送迎しているような日々だとCは笑った。

「江津さんの方はどう?」とCが尋ねた。

「うん、…だめだな」

「…何が?」

「親父の具合が悪くなってな。そこにきておふくろの調子悪くなった。糖尿なんだ」

「…厄介だな」

 次の作業の支度ができる頃合だった。重い話題を避ける意図もある。たばこをもみ消す。

「何でもすんなり行くことなんかない。いつだって問題があるさ。…遊びに来いよ。ゆっくり話そう」

 Cの結婚もいろいろと難儀なことがあった末のことだ。Kも同じ。しかし、彼らの場合は介護を必要とする家族はいなかった。当人たちが突き進めば結婚できた。私の場合は…。

 結婚を前提とした恋愛に障害が現われ、当人たちの知恵が行き詰まった時、周囲の知恵ある人の助力を乞うのは世の常だろうが、私はCにもKにも、また二人よりも世俗的に力があるとされるI氏、M氏、社長にも助けを求める気持ちが湧かなかった。自虐的な性質だったのだ。

 江津子と会わなくなって三十五日、辛うじて平常心を保っているが、時折感情が高ぶり無性に会いたくなった。しかし、目を開けば、家族の姿が立ち塞がる。そこから逃げ出すわけにはいかなかった。すぐ感情が静まり、諦念が浮かび上がってくる。私は現実をしっかりと見極め、そこに生きる最善の方策を選ばねばならなかった。

 結果として傷付け傷付いたことで終わるにしても、その途上に無類の歓びがあった。それで十分といえないか。この哀切は客観を退け熱情に溺れた代償だ。

 寝床に入ると考えまいとしても考えてしまう。夜毎の寝付きが悪くなって、下戸の体質を押してコップ半分のウイスキーを飲むようになった。

 Cが工場に寄った二日後の月曜日の昼休みKから電話がかかった。

「Cに聞いたけど、いろいろ具合が悪いようだな? 聞いたところでろくに力にもなれまいが、江津さんのこと、俺も気になっているんだ。お前のことだから余計なお世話っていうだろうが、しばらく話してないし顔を見せろよ」

 素っ気ない応答をしながらも、私はCやKの友情を感じた。

 その夜、Kの家を訪ねた。彼の家も決して恵まれた状態とはいえない。結婚を機に急遽夫婦用に十二坪ほどの住居兼アトリエを増築したが、母親、適齢期といえる妹二人が住むにはなお狭かったろう。それでも母親は息災、妹たちも健康で勤めに出ているだけ、私の家族状態よりはよかった。二か月半になるという赤ん坊は元気だった。どこの赤ん坊も誕生時はくしゃくしゃ顔に見えるが、目鼻立ちがくっきりしてきて可愛いの一語に尽きる。

「抱いてみます?」と細君に差し出され、ほんの少し借りた。奇妙な温みと重さが残った。細君に手渡し、ほっとした時、ふいに障害を負ったCの長女を思い出した。ダウン症は妊婦を選ばず、ある確率のもとで誕生するそうだ。ここにも運不運がある。

赤ん坊を中心にしてKの家族たちと談笑はきりがない。Cの話ではぎすぎすした雰囲気かと予測したが、全員の調子がいいのか和やかだった。

「ちょっとお前に見せたいものがある」とKにアトリエに招かれる。制作中の作品を見せるふりをして、Kは私の近況を聞こうとした。細君が酒と肴を運んでくれ立ち去ると、ひと口咽喉を潤してからKは単刀直入に尋ねた。

「江津さんとのこと、思わしくないって?」

「…俺の方の事態が最悪になってね」

「親父さんが具合悪いのは聞いていたけど、おふくろさんも悪いって?」

「親父の具合がこのところひどくて介護疲れもあったと思うが、糖尿病って分かった。無理はできないって」

「そうか…」

 Kは言葉を探すようにしてコップ酒を飲む。私も飲むしかなかった。

「悪い時は悪いことが重なるからな…」

 Kは喜怒哀楽の激しい男で気持ちが顔に出る。親身に案じてくれていることが伝わってくる。

「しょうがないよ…」

「いい状況なんてなかなかない。しかし問題はお前と江津さんの意思だ。二人の気持ちさえ決まっていれば、悪い状況でも道は開けてくるはずだ」

「耐えていれば状況がよくなるってものじゃない。ますます悪くなる。少し距離を置いてみよう…そういうことだが、俺の方はいくら考えても同じ結論になる」

 私はビールならコップ二杯、酒なら一杯で息苦しくなる下戸だが、連夜の寝酒に胃袋が慣れてきたのか、冷酒が意外に口当たりがよくコップが空になった。注ぎ足そうとするKを制して、

「もういいよ。…気にかけてくれてうれしいが、どうも逆立ちしてもだめのような気がする」

私は強いて明るくいった。

「お前は変に潔癖だから、ぱっぱって決めたがるけど、拙速ってこともあるぞ。簡単に結論を出すなよ。とにかくじっくり時間をかけて可能性を探れよ。俺やCじゃ頼りにならないが、I氏もMさんもいるじゃないか。こういう場合は年の功ってこともある。I氏の出番を作ろうよ」

「いや、そういうことより、もっと肝心なことが崩れている。そこが形にならなくてはどうにもならないよ」

 話が途切れた。赤ん坊の泣き声がする。K夫婦と赤ん坊はアトリエで寝ていることだろうし、話も続かない。腰を上げるとKは引き止める口調になったが、「また来る」と立ち上がった。

 KとCに事情を打ち明けたことで、悲観的状況に変化が起こるはずもなかった。彼らの友情はある意味では無力だった。むしろ彼らに話したことで、江津子との破局が改めて近付いた感覚があった。諦念が全身を染めつつあるのを私は認識していた。

 

 

 「成人の日」の前夜、I氏宅での酒宴に加わった。翌日勤めが休みだし、CとKに誘われて欠席するのは、いかにも狭量偏屈に思えた。気持ちが重かったが虚勢を張るようなものだ。そんな私の内実を察してのことだろう、CもKも江津子の話を持ち出さなかった。

I氏は仕事の話ばかりした。教員をしていたころとは比べものにならない厳しい現実を延々と語った。随分とストレスがたまっていたようだ。年下でも気心の知れた仲間ゆえのことだろうが、同時に酒量も進み早々に酩酊の態となった。当然のことI氏は画業への執着を失っていた。その立場上、美術より現実との格闘が優先順位になる。それに比べれば家庭を持ったばかりのCとKは、創作と家庭に費やす労力の配分に苦心する話になった。

 私はもっぱら聞き役で、時折促されてもお茶を濁すだけだった。CやKのように美術(芸術)にかかわる生活の糧を最初から考えていなかったし、詩も小説もまだ確信を持って創作しているとはいえなかった。

ともあれ江津子との一件が俎上に乗らずほっとしたが、帰り際に玄関先に見送りに出たI氏が、酔眼で「どうしてる、江津子君?」と耳もとで囁いた。曖昧に笑い下戸のCの運転する車に乗り込んだが、帰宅して裏腹な思いに気付いた。I氏は江津子の恩師。I氏の仲介によって事態が好転する淡い期待が意識下にあったのかもしれない。

もはや万策尽きたと、熟慮の末の結論が出ているのに、会わなくなって四十日と日数を数えているのは未練心だった。他動的な力で引き裂かれる恋仲に未練が残って当然だ。しかし、その他動的な力に立ち向かう能力がない以上、退くしかない。女々しい未練は日々の活力を削ぐ。

生きるということは、世の中の範疇や流れの中にいることだろう。好き勝手に生きようとすれば破綻する。家族や世間に抗う恋愛は結果として破滅する。そして恋愛は長い人生の中で米粒ほどの部分でしかない。いつまでも宙ぶらりんの状態でいるより、未練を断ち切って別離への行動を起こす時かもしれなかった。

 意を決し江津子に連絡しようとすると胸の動悸が高まり、電話機から退くことが数度重なる。工場の電話機は殺風景なスチール机の上にある。時に作業の騒音が高くなると受話器の声が聴き取り難くなる。それに用件も重い。公衆電話を使うことにした。

 その日、工場の昼休み、外に出ると空っ風が吹き荒れていた。自転車で五分ほどの所にある食堂で急ぎ定食の昼食を済ませ、食堂のさらに先にある電話ボックスに入った。同僚たちの目を避けたのだ。

この朝、覚悟を決めた。前夜、父が醜態を晒し、私は父を布団ごと簀巻きにした。痴呆者にそのような措置は逆効果と諭されていたのに、日ごろの鬱積が爆発して暴挙に及んだ。自己嫌悪でろくに眠れなかった。そのやり切れぬ思いが諦念を固めた。

 ダイアルを回す。呼び出し音がしたと同時に「はい」と江津子の声が応えた。幾度も聴いたやや高音の声質、間違うはずもない。

「江津さん…」

「ああ…」と江津子は小さくいって少しの沈黙があった。

「電話、大丈夫?」

「ええ」

 側に会話を聞かれて都合悪い同僚がいないようだった。

「元気?」

「…はい」

「随分日にちがたったね。そろそろ会って話さなくてはいけないと思って…都合はどう?」

「はい…」

「夕方ではなく昼間都合つかないかな…」

「はい」

「今度の日曜日どうだろう?」

「…午後なら大丈夫と思います」

「そう、どこで落ち合おうか?」

「……」

「東武駅でどう?」

 この一年余、落ち合う場所は常に夕方の喫茶店だった。すぐに夜になり、自然に暗闇の愛撫となった。だが、もはやそういう逢瀬とは違う。感情に惑わされず、現実を見定め確認するには明るい日差しの下が最適だったろう。

「昼前に妹と買い物に行くんで一時ごろには行けると思います」

「そう、待ってます」

 これまでも電話でのやりとりはいつも素っ気なかった。しかし、つらい内実を抱えてのこの時のやりとりは、私たちの明日の虚しさを暗示しているかのように切ない余韻を残した。

 電話ボックスを出で、寒風に抗うように私は勢いよく自転車を漕いで工場に戻ると、常よりも多く同僚たちに話しかけ、沈みがちな気持ちを奮い立たせた。こういう時こそ作業には神経を使わねばならない。しかし、やがて単調な作業を続けていると否応なくその時の心構えをあれこれと思い巡らしているのだった。

 ぶざまに取り乱すことだけは慎もう。江津子は被害者に等しい。今日の結果を招いた原因はすべて私にあると思った。

 

 

 一月末の日曜日、朝から風が強く、未明には父の痴呆騒動があった。先夜の簀巻きの一件のように、私がまた興奮するのを抑えるかのように、弟妹、母が率先して父の面倒をみていた。

日曜日の朝食時間はいつもより遅い。この朝も妹が支度した。母の病が明らかになって以来、妹が台所に入ることが増えている。母の負担を減らそうとする気遣いだった。

 朝食を終えたのが十時過ぎ、食休みもせず着替える。手持ちの衣服の中で最良の物を選んだ。「出掛けるの」と母がいう。「会がある。昼飯も夕飯いいよ」といい残し家を出る。

 数日寒い日になると昨夜のテレビの天気予報だったが、それほどの寒気は感じなかった。めったに着ないコートを着込んでいるせいか、それとも緊張しているせいか?

 江津子と会うのは一時、三時間近い無為な時間をどう過ごすか考えもなく、ただ家にいたくなかった。江津子と恋仲になる前、所在ない折はCの家に行くのが常だった。しかし、彼が家庭を持って以来足が向かなくなっているし、ましてや数時間後に迫った江津子との別離が心身を虚ろに染め、気持ちが狭くなっている。

 裏道を歩く。時折強い空っ風が吹き抜けた。道は舗装されていても、風に乗って砂埃が襲って来る。心の中がざわつく。このような不本意な時、夜なら行き付けのジャズ喫茶かスナックに逃げ込むが、昼では映画館くらいしか逃れる場所がない。だが今日は逃げ出すわけにはいかない。書店と古本屋を巡って時間を潰すことにした。

 書店を三つ、古本屋を二軒回って、結局一冊も買わなかった。気持ちが沈んでいては、興をそそる書物も見いだせない。立ち通しだったから腰を下ろしたくなる。腕時計は十二時三十分、程よい時刻、駅に向かう。

 駅に着くなり売店で缶コーヒーを買い、待合室の椅子に座り咽喉を潤した。離れた席に座っていた老女数人の会話が耳に入る。寒い日であること、強風なこと、この冬一番の寒冷な日らしいこと…。私は冷静なつもりでいたが、やはり心奥が張り詰めている。寒暖の感受が紛れていた。

 駅舎内には勤め人らしい姿はなく、家族連れ、連れ立った若い娘たちの姿が多かった。椅子に座っているのは中高年の男女たちで、若者たちは立ったまま生気を発散していた。さり気なく、私はそのひとりひとりを目で追う。

 気持ちが鬱屈している折、よく散歩したものだが、駅の待合室に座ることもしばしばあった。いろんな人がいる。いろんな事情がある。いろんな生き方がある。人々の人生を憶測していると、次第に気持ちが和らぐものだった。

 電車が到着し人々が入れ替わる。人々は電車に乗るか、降りて来る人を待つか、それぞれの目的を持っている。私も待っているわけだが、待ち人が来ればつらい出来事が始まる。人々は一見したところ、つらい出来事へ向かっているようには見えないが、あるいは私に類似した出来事を抱えていないとはいえない…。

 待合室の大時計が十二時近くになる。席を立ち駅舎の入り口に行く。江津子が徒歩か自転車かタクシーか何で来るのか分からなかったが、と、二台続いて近付いて来た後ろのタクシーの座席に彼女の姿を認めた。料金を支払っている江津子に近付く。タクシーを降りた江津子と目が合った。

「こんにちは」と彼女は生まじめな顔でいった。ベージュのコート、淡いピンクのマフラーが映えていた。

 私は笑顔を作った。そう、作ったというべきだ。複雑な思いが一気に込み上げるのを抑えて、自然に迎えようとした。駅舎の端の方向へ導くように歩く。他人に聞かれたくない、二人だけの対話が望ましかった。小荷物等を扱う建物の横で向かい合う。

「元気そうでよかった」

 そういったみたが、彼女が元気かそうでないかをその顔色や姿で判別したわけではない。最初のひとことが見付からなかったのだ。

 江津子は少し頬を緩めたが、すぐ生まじめな顔に戻った。これまでの逢瀬の常で、落ち合った時の彼女はそういう表情をしていた。

「どこか静かなところで話したいな…」

 日差しがあっても相変わらずの風、その中を歩きながら話す気持ちにはなれない。いつもの喫茶店もレストランもそぐわなかった。愛撫を前提にした逢瀬ではない。つらく虚しい明日を背負う決意表明の場所は、何ものも連想させない場所が適していたろう。しかし、そういう場所が思い付かなかった。別離を決意しても、その場所までは考えてはいなかった。

「何時まで大丈夫?」

「…別に、大丈夫です」

 それ以上彼女の事情は尋ねまいと思った。開き直ると急速に胸中が温んだ。江津子の顔、その姿を身近にすると唐突に愛おしさが募る。

「昼食はまだだね?」

「ええ」

 そういったものの食欲はなかった。それに行き付けの店は何か厭だった。今まで行ったことのない場所、最初で最後の場所…。思い巡らしながら、胸中が混乱してくる。情欲が生じたのだ。そうした目的の逢瀬ではない。唇をかみ締めた。

「朝飯が遅かった、まだ食欲がない」

「わたしも…」

「じゃ後にしよう」

 言葉が途切れる。二人だけになれる場所が思い付かない。風が吹き付けた。子供のころから慣らされている空っ風だが、時に陰鬱になる。早く風の当たらない場所へ行かねば…と、ふっとA荘の名が浮かんだ。

この町の北方には低い山並みが連なっている。その山間の一角にある表向きは割烹旅館だが、内実は連れ込み宿としても利用されている…。だれに聞いたか定かではないが、懐に余裕のある男女が利用する場所として、私(たち)には無縁だった。だが今日は特別だ。最初で最後の逢瀬。幸い給与が支給されたばかり、財布にはひと月分の小遣い銭が入っている。

「A荘って知ってる?」

「…?」

「行ったことはないけど、結構山の中にある割烹旅館らしい…」

「……」

「ああいうとこ厭かな?」

「……」

江津子は依然硬い表情だった。彼女も今日の内実を、その結果を予測し覚悟を決めているように思われた。

「…どこか心当たりある?」

 江津子は首を振った。

「今まで行ったことのない静かなところ…分かんないけどA荘に行ってみよう。厭だったら出ればいい」

 江津子がかすかにうなずく。

「タクシーだな」

 江津子の肩に軽く触れ、促すようにしてタクシーの乗り場に行く。電車の到着時を過ぎていたから客待ちの車は一台しかなかった。運転手に声をかけ、この時刻A荘は営業しているだろうかと尋ねた。

「やっていると思います」

 初老の運転手は答え、自動ドアが開いた。

 車内は暖房が効き過ぎていた。タクシーが走り出してから、初めて落ち合った時、タクシーで駆け付けて来た江津子が、息弾ませて遅れたことを詫びた姿を思い出した…。

 町中を抜けて、曲がりくねった狭い川沿いの道を走る。舗装された山間の登り道になる。二、三か所急坂を過ぎると広場になり建物が見えた。意外に近かった。

玄関先に車を止め、運転手は小走りに中に入って行った。温泉地によく見られる木造の古い建物で、運転手はすぐに戻った。玄関に従業員らしい初老の女の姿が見えた。

「オーケーです」と運転手がいった。

料金の倍の金を渡し「お世話さま」と車を出る。私の後ろに江津子が寄り添うように立つ。タクシーが砂埃を上げて去った。山中の建物だから周囲は樹木群だ。冬枯れの木々の中に松の木が多く見られた。玄関先に立つ女に近付くと、「いらっしゃいまし」とお辞儀をして招かれる。上がり框にスリッパが揃えられてあった。

 正面壁面に大きな日本画が飾られてあった。早朝の森林の風景画だ。右手の廊下を行く。すぐに渡り廊下になった。風が吹き抜けた。それでも山陰ゆえか町中よりも弱かった。静かに歩いても所々で廊下が軋んだ。山に遮られ日差しが届かない。

案内されたのは離れ屋の造りで、格子戸のすべりが悪かったが、襖はきれいで畳も新しかった。部屋の右手の窓半分に日差しが射していた。方向感覚が紛れていたが、そちらが南になるようだ。四畳半、真ん中に炬燵が設えられ、片隅に電話機、茶道具一式と魔法瓶が置いてあった。

「お寒うございますか? そちらのお部屋にストーブがあります。お点けしましょうか?」と女がいった。

「いや、それほど寒くはありません。炬燵だけでいいんじゃないかな…」

 江津子に問うように見たが、彼女はうつむいて答えなかった。

「寒くなったら勝手に点けます。炬燵だけでいいです」

「はい。…あの、お泊りになられますか?」

「いや、夕方には帰ります」

「はい」

「ビール、いやお酒にします。お酒二、三本と何か肴を見繕ってお願いします」

「かしこまりました」

 女は出て行った。

 不慣れな場所では私が先に動かねばならない。コートを脱ぎ炬燵に入る。間をおいて江津子もコートを脱ぎ炬燵前に座った。

「ちょうどいい暖かさだよ」

江津子にも手足を入れるようにいう。硬い表情のまま少し膝を崩したが入らなかった。

「静かでいいところだ。ほかに客がいない感じだな。…あの人、品のいい人だ。女中さんじゃなく女将かな」

 少し緊張が溶けている。こういう場所に来ることは想像もしなかったが、いざ来てしまうと案外簡単なことだった。茶道具のところから灰皿を運んでたばこを一服する。

二人だけになって胸奥がざわつき出した。別離を告げる言葉を幾度となく暗誦してきたのに混乱してくる。そして江津子への愛おしさが込み上げてきた。

 江津子は炬燵の上の灰皿を見ていた。しかし、視線がそこにあるだけで、彼女も何事かを思い巡らしているようだった。江津子も虚ろさ、切なさを耐えているのだろう。

逢瀬で何か気まずい時、私は意図的に軽口を吐くのが常だったが、言葉が浮かばない。気まずくても女が注文の品を運んで来るまで待つ。話の途中で来られては困る。待つ時間が何とも切なかった。

江津子は依然として硬い表情をしていた。緊張を和らげる話題はないか? 江津子の髪の毛がだいぶ長くなっていた。それを話そうとしてためらう。江津子はやつれて見えた。それも当然だろう。話すべきことではなかった。

この冬一番の寒さと天気予報はいっていたようだが、なぜかそれほどの寒気を感じない。渡り廊下を来た時は結構風を感じたが、部屋に入るとその気配がなくなっている。安普請ではないにしても風の気配を感じるはずなのに。

「江津さん、恐い顔をしているよ。いつもの江津さんの顔になってください」

私は少しおどけていった。

「…恐い顔をしているのは、あなたです」

江津子は抗議するような口調でいった。

「そうか、そうだね…」

しかし、それ以上冗句をいう余裕が生まれなかった。二本目のたばこを吸い終わった時、待ちかねた女が姿を見せる。女は必要最小限のことを伝え素早く去った。酒と肴を前にようやく二人だけになる。

 改まって互いの盃に注ぎ合い、私は一気に、江津子は少し口に付けて盃を置いた。下戸の私ゆえ、盃一杯の熱燗の酒が胸中を熱くした。熱さが溶けるのを待って、私はゆっくりと炬燵を出て彼女の横に正座した。

「…江津さん、本当にごめんなさい。どうか許してください」

 そういってひれ伏すように畳に顔をすり付けた。

「やめてください!」と江津子は甲高い声でいった。そしてにじり寄り私の肩を揺すった。

「悪いのはわたしです!」

「いや、悪いのは俺だ。絶対的に俺がいけない」

「そんなことをいわないで…」

 江津子の声がくぐもった。

「何をいってもしょうもない言い訳になる…」

話すべき言葉を整理してきたつもりだったが、最初に何をいっても言い訳になると切り出すと、私は言葉を失った。

「お炬燵に入って。そんな格好、厭です」

 江津子は私の体を押すようにしていった。

 私たちは元の姿勢に戻った。江津子が酌をしてくれた。一気に飲み干したが、最初の一杯と違って胸は熱くならなかった。刺身と焼き魚、酢の物等の肴を改めて見詰める。食欲が紛れていた。

 別離の言葉など必要はないのかもしれない。四十五日の疎遠で、恋が破局を迎えたことを彼女は承知していたのだろう。私は手酌でもう一杯盃を干した。

「何とかなると思った。本当にそう思った。…でも結果として君のお父さんが正しかった。無念です。…江津さんと出会った時、本当に希望があった。新しい仕事は順調だったし、家族の状態もいい方向へ向かっていた。うまくいくと思った。だから江津さんに近付いたんだ。…言い訳になるけど少し聞いてね。おやじの脳軟化症は織り込み済みだった。それくらい乗り越えられると思った。それなのにまさかおふくろが病気になるとは…」

「あたしを憎んでいいわ」と江津子がいった。

「どうして、江津さんを?」

 しかし江津子はそれ以上言葉をつながなかった。

 言葉が途切れる。語らなくても江津子が別離を受け止めている。あれこれ語らなくて済むことで私は少し救われる。言い訳は自己嫌悪を増長させるだけだ。

「理屈では納得していても、胸が痛むんだ…」

「あたしを憎んで」とまた江津子がいった。

 江津子は生まじめな顔のままだった。逢瀬の折、ちょっとしたことで取り乱し嗚咽した彼女だが、覚悟を決めているからだろう。

 窓に射していた日差しが退いた。私はまたたばこを吸った。長い沈黙に何か話さなくてはと急き立てられるような思いが生じる。

「…江津さんと出会って、とても幸せだった。この四十五日は、ずっとつらく切なかったし、今もどうにも言葉にならない気持ちだけど、それでも俺は幸せだと思う。江津さんと出会ったことは俺の一生の宝物になるだろう」

 気障な言葉を自覚していた。しかし、感謝の気持ちに嘘偽りはなかった。視線は空をさまよう。江津子を見れば切なく、酒肴には興を催さず、四畳半の天井、壁、窓を虚ろに眺める。と、嗚咽が漏れた。江津子がハンカチを取り出して目頭を抑えた。

 にわかに江津子の生々しい息遣い、体温を感じた。この一年親しんだ性愛の感覚が甦った。落ち合ってからも、ふっふっとその感覚が芽生えたが、別離の日ゆえのこと無意識に抑えこんでいたようだ。江津子の嗚咽が続いた。私には何の力もなかった。彼女が泣きやむまで待つしかなかった。

 部屋が急に薄暗くなった。炬燵を出て部屋の明かりを点ける。隣の部屋を仕切る襖の上に掛け時計があり三時を指していた。江津子の嗚咽が静まる。何本か目のたばこをくわえた時、

「何もいってくれないんですか!」と江津子が少し声を尖らせていった。

「自分の無力さが情けなくて腹立たしくて、でも、これが現実なんだ。否応もない…江津さんは何も悪くない。すべては俺が悪い。そして償うこともできない。謝って済むことじゃない…」

 いきなり江津子は炬燵を離れ、体当たりするように私にしがみ付いて来た。そして声を押し殺してまた泣く江津子を抱き締めながら、私も目頭が熱くなった。

 私たちは長い間そうしていた。親しんだ江津子の黒髪、淡い香水の匂いと体温が私の体に浸透する。感覚と感情が理屈を押し退ける。不本意、理不尽への憤怒が性欲に転化する。

「…江津さん、抱いていい?」

 江津子は自失している。少し体を離し彼女の顔を見て同じ言葉を繰り返す。江津子がうなずいた。

 束の間であろうと目的を見いだせば虚しさは紛れる。後先のことより、この時の充足を欲する。

 襖を開ける。やや薄暗い。床の間、押し入れあるひんやりとした八畳間だ。明かりを点ける。東西に障子とガラス戸が二重になっている造りで、東の方にはやや広い廊下があり小さいテーブルと椅子が二脚あった。床の間に山水の掛け軸が掛かり、隅に小さなスタンドとストーブがあった。大型の灯油ストーブに点火してから廊下に出てみる。右手に洗面所とトイレ、突き当たりが風呂場だった。

「いい部屋だよ」

 炬燵前の江津子に報告する。ストーブが火勢を増し、ひんやりとしていた八畳間が温もってきた。

「おいでよ」

 二度促し、江津子がゆっくりと入って来た。そっと部屋を見渡す。

「落ち着いたいい部屋だろう」

 江津子の瞼が赤く腫れていた。常に薄化粧の彼女が泣いたことでさらに素顔に近くなっていた。心細げな姿形だった。私は感傷を避けるように勢いよく押し入れを開けた。寝具が重なっていた。枕、枕カバー、敷布も分かるように置かれてあった。

 ためらいは不用だった。邪な希求があろうと、目的を見付けた以上は進むしかない。私は江津子を欲していた。そうすることでしか、彼女への複雑な思いを伝える術がなかった。

 敷布団を敷く。敷布を広げ一方を江津子に手渡した。二人で愛し合う場を作った。部屋がかなり暖まった。準備が整った時、ふいにあからさまな思いが生じた。もはや虚飾や遠慮は不用の時ゆえの思いだった。

「江津さん、お願いがある…」

 彼女の前に立っていった。

「……」

「江津さんのすべてを見ておきたい。瞼に焼き付けておきたい…」

 言葉の真意を江津子はすぐには理解できなかったようだ。

「片隅でいい、俺のことを覚えていて欲しい…」

 私は急いで衣服を脱ぎ下着一枚の姿になった。江津子は私の願いを理解したようだ。静かに背を向けると衣服を脱ぎ下着姿になった。先に私が全裸になった。少し寒気を感じたが、すぐに紛れた。江津子がゆっくりと下着を脱いで正対した。私は少し後じさりして江津子の姿を凝視した。バランスのいい白い裸身だった。江津子は羞恥心を退けていた。まるで何ものかに立ち向かうかのように直立の姿勢だった。

「ありがとう」

 私は江津子に近付き礼をいってから、そっと抱き締めた。

 それから私たちは言葉らしい言葉を交わすことなく二時間ほどの共有の時を過ごした。

 寝具を元の場所に戻し、部屋の乱れを整え、内線電話で会計とタクシーの手配を依頼した時、すっかり部屋の外は濃い闇に包まれていた。

                                       (了)

 

 

 

 

  その日まで

 

 

 喫煙

 喫煙癖が募るばかりだ。寝起きに二、三本は吸う。夜半に目覚めては起き出して吸う。昼間も夜も所在無く吸う。一日三十本は吸っているだろう。喫煙を始めたのは二十歳から。六十代後半まで一日二十本は吸っていた。六十代後半になって気管支喘息を発症、息苦しさに閉口、否応なく禁煙となった。七十代前半までの七、八年はたばこを手にしなかった。それが再び吸うようになったのは妻の介護で疲労困憊し、ストレスを律し切れなくなってのことだった。

 その妻が死んで一年余たつが喫煙癖は治まらない。ひとり暮らしになって箍が外れたように精神の均衡を失ってしまった。すべてに対して意欲が湧かない。無気力に自堕落に辛うじて日々を過ごしている。鬱病といえるだろう。が、医者に診てもらう気にもならない。七十七歳の鬱病患者など笑止と思う。余命が数えられる年齢である。

 幸いなことに(幸いといえるか考えどころだが)自殺願望は生じていない。落ちるところまで落ちてみようという思いがある。しかし、このままの自堕落さでは遅かれ早かれ肺気腫か肺癌を発病するのではないか。否もう発症しているかもしれない…。

 

 

 

 

 余命

 

 故人となった松澤宥、河原温、と書いてもたいがいの人は知らないだろうが、現代美術の域に類する私にとって彼らは大いなる先達であり、その謦咳に接しえたことは喜びだった。彼らは揃って八十数歳で死去した。共に矍鑠として長寿を全うしそうに思われたが、八十数歳は鬼門なのだろう。

 その年齢まであと五、六年、よたよたしながらも私は生きられるだろうか。こう思うのもやろうとすることが残っているからだ。であるなら、この無気力自堕落を振り払って歯を食いしばってなさねばならないのに、鬱とは不思議なものだ。

 危うさ

 すべてに関心を失っている現在の私は、知人たちの表現(個展やグループ展)を義理で見聞するだけで、印象批評すらする気力も湧かないが、こんな中でひとつ(ひとり)だけ物言う気になる作家(作品)がいる。詩人のM・Yだ。彼の作品は三つ見ている。すべてインスタレーションでひとつはガムテープを張り巡らした作品、ひとつは新聞紙を積み重ねた作品、最新作は割り箸をつないで枯れ木状に仕上げた作品で、いずれもの作品も危うい印象を与える、辛うじて作品化が成り立っているような作品だった。彼は詩人らしく、これらの作品に抽象的なコメントを寄り添わせていたが、私はそれらのコメントにほとんど同意せず、むしろ拒否反応を覚えたが、にもかかわらず、危うい形態の作品に感興を覚えた。

 その作品には、現代の表現物の危うさ、作家自身の日常生活者としての危うい現状が網羅されているように推測できた。これこそ現代の美術(表現)の一断面として存在意義があると思える。

 外出

 夕方六時になると車で家を出る。外食(夕食)をするためだ。行き先は決まって足利。三、四十分の行程だ。夕食のメニューは日によって異なる。今のところ十種類程度、店は七店舗ほどだ。とんかつ(とんかつ屋)、天もりそば(蕎麦店)、鉄火丼・牛丼・カレー(牛丼屋)、鮨(寿司店)、パスタ(レストラン)、うどん(うどん店)、おでん(コンビニ)等だ。

 妻が死ぬ前からのことだから、もう二年以上この習慣が続いている。家で夕食を作る気にはなれない。侘しくて惨めに思えるのだ。それに一日中ひとりで家にいると息苦しくいたたまれなくなる。だから外出は解放感をもたらす。

 外食の後はジャズ喫茶Oに寄る。相客がいることもあるが、概ね私ひとりの時が多い。気心の知れたママと小一時間雑談を交わしながらコーヒーを味わう。

 Oにいる時、私は客観的になれる。孤独なのは私ひとりではない。明日の飯に困っているわけではない。ありがたいことだ。なにものかへ感謝しなければならない。

 こんな私にできることは書くこと表現することしかないのだが。

 寝酒

 昼間無気力に座椅子にもられていると、うとうとと寝込んでしまう。結果夜眠れなくなる。眠れぬままあれこれ考えることを、考えられるだけよいと思っていたうちはよいが、二時三時四時と不眠が続くのでさすがに困惑、寝酒を飲むようになった。安ワインをコップ二杯ほどで最初のうちは眠れたが、そのうち飲んでも逆に目が冴えてしまうことが多くなった。で、昼夜逆転の日々が多くなりこれまた困惑、飲み方を工夫するようになった。

 夕方外食に出掛け、帰路ジャズ喫茶Oに寄りコーヒーで食休みをして帰宅、九時過ぎにワインを口にすることになる。テレビのニュースを見るか、執筆をするかはその日の気分の善し悪しで異なるが、いずれにしてもそれからコップ三杯の飲酒で十二時まで寛いでいると、うまくいけば眠気を催してくる。胸の動悸が治まってこないとうまく眠れないようだ。それでも寝床に入ってすんなり眠れることは少ない。小一時間眠りを待ちながら、眠れぬ時はさらにワインを飲みたす。一時か二時までに眠れる時は幸いといった塩梅だ。

 結局昼間寝込まないことが不眠から逃れる方策なのだが、そのためには昼間の無気力の克服が第一ということになる。分かっていて実行できぬところが鬱病たる所以だ。

 性的な夢

 夢はしょっちゅう見ているが、その内容を取り出すのが難儀だ。意識が散漫になっていて追及する気力も希薄になっている。そんな中で最近見た夢でふたつ引っかかる夢があった。ひとつは若い長身の美女に媚を売られているもので、困惑し、自分が既に不能者になっていることを自覚する夢だった。もうひとつは二十六歳の時にかかわった娘が年増女になって結婚している私を誘惑に来た夢。

 男は性的な夢をいくつまで見るものか。

 寄る辺なき日々

 昼夜逆転の日々が常態化して起き出すのが昼近く、食欲はなく、食パン一枚とゆで卵を牛乳で流し込むのが常だ。それからも気分不良が続き、座椅子にもたれてうとうとしていることが多い。夕方になっても気分不良が解消されないが、そのままいるわけにもいかず、意を決して車に乗り出す。歩行は覚束なくなっていても運転に支障がないだけ幸いというものだ。足利の店で外食、ジャズ喫茶Oに寄りコーヒーで寛ぐころ、幾分気分が良好になる。それから小一時間で帰宅、テレビのニュースを見ながらワインを飲み始める。そして十時過ぎなお気分が良好なら執筆する。気分が乗らなければそのままニュースをはしごしてほろ酔いまでワインを飲み続ける。すんなり眠れることと執筆する気力が湧くことを願うが、思うようにいかない。

 今書きあぐんでいるのは「寄る辺なき日々」と題した妻の死からの日々を描く私小説だ。鬱病発症以来、心身の衰弱、意欲の減退は顕著で、これが私の書く最後の私小説になるだろう。

 追悼集

 

 妻が死んだのは去年の六月、今年の六月に一周忌をすませた。来年の三回忌に合わせて追悼集を出したい、と妻の姉の発案である。首を傾げたが、妻への姉の情に感謝すべきだろう。

 妻の生前の創作活動を私は常に首を傾げていた。およそ生に前向きなところが見られず、悲観的な創作群ばかりだった。それでも辛うじて作品の態を成したのはT・Oという主宰者に負うところが大だった。そのへんの事情は姉も承知しており、T・Oの協力を仰ぐという。

 やぶさかではないが、それでも躊躇する思いが残る。肉親の情よりも、妻が、追悼集を出すほどの作家として自立していたかを問答するからだ。それでも妻の姉の発案に同意することにしたのは、つれあいとしての哀切を測られているような気がするからだ。

 人の人格は生来の資質と育った環境が相まって形成されるという定説に従えば、宿痾を負って生きざるを得なかった妻には常に不本意が付いてまわっていた。その不本意な救い難い現実に、かすかな光を与えたのが創作活動だったといえば、辛うじて追悼集を発刊する意味を見いだせる、こう考えるからだ。

 散歩

 久しぶりにT・Oが姿を見せた。ある企画展への出品の準備が概ね終わって一息ということである。企画展は三つ四つの美術館をほぼ一年にわたり巡回するそうで、インスタレーションとレクチャーで参加する彼は、この間忙しそうだ。普通の美術家と違って極端に先鋭な彼の作品はなかなか受け入れ難いが、少数の理解者の後援もあって、いくつかの美術館で展示できるのは幸いというものだ。彼は私が抑鬱状態に喘いでいることを承知していて、何かと励ましてくれ、私も珍しく気分良好なこともあり話が弾んだ。

 昼過ぎ近くの蕎麦屋で昼食を済ませると、T・Oは散歩に誘った。蹲って暮らしている私の足を慮ってのことだ。厭とはいえず付き合う。休み休みくたくたになって二キロほど歩いた。足腰が弱ると心身も衰える。分かっていて無精を決めている私にT・Oの配慮だった。

 本音で話せる友人がひとりふたりと先に逝ってしまい、身近にいる友人と呼べるのは五指で足りる。そんな中訪ねてくれるのはT・Oひとりともいえる。訪問客があると慌ててトイレを掃除したり、散らかり放題の座敷を整理したりする。そういう常識を取り戻させてくれる。

 妻の遺産

 亡妻の悪口に類することは書きたくないが、良い思い出といえるものは、本当にわずかしかない。そのわずかなことすら夢幻のような気がする。まことに不幸な女だったというしかない。

 発達障害、アルコール依存症、性格障害という宿痾に脳梗塞を併発した亡妻と暮らすことで、私は徹底的に打ちのめされた。私もまた性格的に異常を来たしたといえる。この日々のことは別の稿で書いた(ような気がする)からここでは繰り返さないが、一年余過ぎた今、改めて身辺を確認すると皮肉な事象に気付かされる。打ちのめされた代償というか報酬というか、そうしたものによってひと時の安穏を得ている自覚だ。

 亡妻は遺産として住居を遺してくれた。なにがしかの保険金を遺してくれた。おかげでとぼしい年金暮らしでも数年は悠悠自適の趣を保てる。で、自己の存在理由を問う出版物を自費出版しようかどうか思案する始末だ。暮らし向きが立つのも存在を問えるのも、結果として亡妻あってのこととすれば、悪口に類するこの稿は残すべきか迷う。

 出版計画

 妻の遺産で二百万ばかり使えば使える金がある。十代から創作活動をしてきたので作り散らかした作品群はかなりある。作品集として自費出版しようかと思案している。

 際立った才能のない私は、これまで作品は自費出版の詩集が一冊あるのみで、概ね個展かグループ展、同人誌か個人誌に発表してきた。

 一応の体裁を整えた本として、詩、インスタレーションの写真、パフォーマンスの写真、箴言集、散文等による一冊、短編小説集による一冊、長編小説による一冊の三冊を考えている。

 こう考えながら日々の自堕落無気力な習性のなせる業か、否定的見解が生ずる。

 際立った才能のない私の凡庸な作品集を遺したところで世間に何の役に立とうかという思いである。

 これまで多くの誠実であるが凡庸な作家を、その死と遺された作品を看取ってきた。それらの作家と作品は、ごくごく一部の好事家のわずかな域に記憶されているだけで、世間に類を及ぼすことは皆無に近い。作家の死によってその作品の命脈も絶たれるのが常といえまいか。とすれば、私の出版計画もほとんど自己満足の域を出ないのではないか、という思いになる。

 ふたりの消息

 名古屋に住むJ・Mが消息を絶ったのはかれこれ十年ほど前のことだ。ちょうど夫人を喪ってからのことで、愛妻家の彼の心中を慮って、私も無言を通していた。二十年余、年に一度は会い、しょっちゅう電話し合い、手紙をやりとりしていた仲なのに、つれない仕打ちだが、彼の悲しみが和むのを待つのがいいと思ったからだ。しかし消息は途絶えたままだ。彼を敬愛するT・Oによると最近電話があり、心身の不調ありありとのことだ。私が妻を喪って以降抑鬱状態に陥っているように、彼も歩行困難の態で鬱状態の只中にあるようだ。

 私を新聞社に入社させてくれた、もうひとりの恩人J・Sも音信が途絶えたままだ。発行する個人誌を送れば決まって感想を書いてくれ、年賀状を送ってくれていたのに、もう五年ほど音信がない。彼はふたつ三つ年下だが、退職後は講師の口を見付け講義し、句作と山登りに励んでいたはずなのに、長い沈黙を、私は悪い方向に考えてしまう。愛飲家の彼はその筋の病に倒れてしまったのではないか、と。

 電話すれば事態が明らかになるはずである。にもかかわらず、私は電話する気になれず、ふたりの恩人の声をじっと待っている。

 弟と妹

 月に一度、妹が電話をかけてくる。どお、変わりない? うん、元気だよ。そっちは変わりないかい。変わりなくしているよ。

 この程度の短い会話である。訳あって義弟とは絶交状態になっている。いわば妹は板挟み状態に置かれている。だから月に一度は店に顔出ししていた私も今年になって一度も行っていない。どんな訳があろうと、絶縁状態がいいとは思わないが、義弟の気持ちが和まぬかぎり、この状態を続けるしかない。気苦労をかけて妹にはすまないと思うが。

 月な一度程度、弟(二男)がやって来る。細君の実家の畑を耕しており、収穫物を持ってきてくれる。私同様年金暮らしで健康のため畑仕事をしているそうだ。その傍ら弟は今、中国語を習っているという。弟は英語もまあ堪能の部類、囲碁将棋も指せるし、勉強家である。ただし糖尿病がかなり進行していて健康に不安がある。私より三つ年下だが長生きしてもらいたいものだ。私の死の後始末は弟にしてもらうしかないと思うからだ。

 松本にいるもうひとりの弟(三男)のことはいうべき言葉が見いだせない。七十にして脳梗塞を患い、生活保護を受けて細々と暮らしている彼に哀切の念を抱くばかりだ。

 ギャンブル卒業

 ボートレース場の駐車場からスタンドのある本場まで二百メートル程度ある。その距離を歩くのに二度程度休むほど歩行困難のありさまになっていた。一年余ほとんど歩かない生活をしているので、すっかり足腰が衰えてしまった。畢竟ボートレース場行きが止まってしまっている。足腰が弱るのは心身に影響をもたらすから改善しなければならないが、ギャンブルに飽きがきたのは結構なことといえるだろう。

 私にとってギャンブルは遊びだったようだ。表現営為に関すること以外に道楽はない。遊びは肝要ともいえるだろうが、もう遊んでいる時間はなくなっているともいえるだろう。まず書きかけの原稿を仕上げること、死後に備えて身辺を整理しておくこと、そのための心身の力を蓄える努力をすることで精いっぱいのことといえそうだ。

 読書離れ

 妻の死以降、精神の均衡を失って、すっかりものを読まなくなっている。毎朝、新聞をめくるが見出しをなぞるだけで、読むのは人生相談欄と四コマ漫画だけといってよい。この一年余で読んだのは雑誌『芸術新潮』の「つげ義春特集」と雑誌『現代詩手帳』に載ったT・Oの表現に関する詩人で学芸員K・Eの評論、同人誌『タクラマカン』、そして友人のT・Kの詩集『ミステリアスな家系』、松澤宥選詩集『「星またはストリップ・ショウ』、秋亜綺羅詩集『ひよこの空想力飛行ゲーム』くらいだ。読めばそれなりに内容が感受できるだけ、まだ救いようがある。思うに私の脳は無気力の域が強まっているのだろう。

 内科・眼科・歯科通い

 月に一度の割合で内科・眼科・歯科医院へ通っている。内科は糖尿病の治療のためで投薬を受けている。目下のHbA1は六・五で危険領域寸前ということである。糖尿病患者は食事療法が肝要といわれるが、私の食事はおよそ療法とはかけ離れている。運を天に委ねているというより、勝手気ままなものだ。糖尿病は万病の元といわれ、おおくの合併症を生むようだ。その時はその時のこととして諦めに似た気持ちでいる。

 眼科は糖尿病発症とほぼ同時期に眼底出血を起こし通いはじめ、そろそろ七、八年になろうか。白内障の兆しもあり飲み薬と目薬を処方されている。医師は糖尿病の悪化に注意するように常にいっている。眼底出血も白内障も比較的落ち着いているそうだが、これまた天に運を任せる気持ちでいる。

 歯科へは歯垢を取りに通っている。むし歯予防のためもある。部分入れ歯が三か所あり、月に一度通うことで折々の不具合も治療してもらっている。歯医者嫌いの人が多いが、この点私は珍しく謙虚・勤勉といえそうだ。

 遺言作成

 四、五年前に遺言を作成したが、その時は妻が存命で、当然妻あての遺言だった。妻に先立たれた今、私の死後の後始末を(否応なく)してくれるのは弟(二男)と妹になり、改めて遺言を書いておく必要がある。

 今のところ死の予感はないが、何せ心身の衰弱が顕著で、脳疾患で没する血統のある身、いつなんどき急死するか分からない。備えは早い方がよいというものだろう。

 預貯金の収納場、必要な書類等の収納場は既に弟妹に教えてある。その他の雑事の問題は、すべて廃棄することで片付くから、それほど厄介ではなかろう。問題は死後の始末だ。葬儀・告別式は無用。遺骨は足利の渡良瀬川に散骨する。これが遺言の骨子だ。

 M・KとT・Y

 一時期疎遠な時はあったが、M・Kとは二十代から彼が亡くなるまでの五十年間親しい友人だった。博学で生真面目な彼はことに演劇と音楽に造詣深く、特に演劇の道に食指ありとみたが、三十歳のころから意外にも絵画制作に心酔し、画業に専念、絵画教室を生業として一生を閉じた。生前は買業を抑制、作品はほとんど手付かずに残された。共稼ぎでM・Kを支えた細君も苦学して大学を出た子息もM・Kのよき理解者で、没後も遺族の手で数回の遺作展を開催している。五十年作品を保存しておいて欲しいと遺言した由だ。今は無名だが、いつか日の当たる時がくると確信していたのだろう。遺族はM・Kの遺言を忠実に守っている。

 もうひとりの親友だった写真家T・Yも三十代から四十年にわたる交友で、彼も常に旺盛な活動歴を誇っていたものだ。七十を前に癌を宣告された時の心中を察すると哀切を覚える。というのも彼は前述のM・Kとは真逆に家族から孤立していた。細君も三人の子もおよそ彼の創作活動に無関心で、死の直前に準備していた個展用の作品群も、その死と直後さっさと細君によって整理されていたのだ。遺作展をという友人たちの発案も生じたが、何せ細君の冷淡さ無理解に接すると、二言もないありさまとなった。

 作家の業績が残るのは遺族の敬愛によって顕著となる。省みて、私の場合はどうか? 凡庸な作品群、遺族のない身、作品群が散逸し消え去るさだめにある。

 原点

 書くことが活力を取り戻す方法と自らを励まし、拙い文章を絞り出してきたが、功を奏したか、少し元気が出てきた。この一年余、私は何かに怯えていたようだ。無気力に蹲っていたことで当然のように心身の衰弱をきたし、その先の死を恐れていたともいえる。健常時、死は至福、座して死を待つ、と私は広言していたのだが、真逆の事態に陥っていたわけだ。

 改めて考える。私は死を恐れていない。その無私を、あらゆる執着からの解放を至福とする。恐れるのは死後の始末を親族に煩わせることだった。人間は始末に悪い。誕生時もたれかの世話になり、死後もたれかの世話になる。私はたれの世話にもならず、すっと消えるようにこの世からおさらばしたいという強い願望があるのだ…。

 それにしても私の人生は結構おもしろかったと思う。二十六歳の時自殺を図ったが、生き延びて五十年余、いろいろな体験をさせてもらった。あの時に死なずに生き長らえたことで、諸々の不本意すら愉悦であると今はいえそうだ。

 前のページ                                                  次のページ