夢の記録

 

 市民会館の展示場で中年女性三人とパフォーマンスのリハーサルを行う。それほど親しくない彼女たちと、どういういきさつで表現することになったのか。(壮年の)私は依然として八方美人的姿勢だ。

「立ち会ってください」とA女史に頼まれて彼女の前に立つと、その肉感的な存在感につと劣情を感じた。悟られまいと平静を装う。彼女は上半身を裸になり、腹部に針を刺し始めた。私は腹部から視線を逸らし、彼女の眼を見詰め続けた。少しして、「おもしろくないですか?」と彼女はいい、「別のにします」と衣服を羽織った。

 小休止することになり集うと、「この会場、何かピンとこないわ」とB女史がいい、C女史も賛同した。でも既に会場を借りてあるのに。

それにしても私はどんなパフォーマンスをやるつもりか。そして中年女性三人と組む必然性があるのか。思いがけぬ劣情は何を意味するのか、ますます混乱してくる。

 

 

 Yが私に悪意を持っているのは分かっていたが、団体旅行だし、できるだけ離れていれば厭なことも生じまいと思っていたが、運悪いことに彼と同室の部屋割りになってしまった。それでも大した問題もなく一夜が過ぎて、翌日十時の出発まで自由行動となり、旅館を出て土産物の店に並ぶ一角に行くと、急に出発時刻が変更になったとだれかがいった。で、慌ててバスの発着場へ行くと、果たして皆の顔がバスの窓に映っている。急ぎ乗ろうとドアに向かうが、どういうことか急に閉まって、クラクションが鳴り、発進する。大声を出して運転席の方に走り手を振ったが、何ということか、こともあろうに運転席にいるのはYだった。バスは(壮年の)私を振り切るようにぐいっと走り出した。

 この観光地から電車を乗り継いで帰宅するのにいくらかかるだろう。バスの後ろ姿を追いながら財布の中身を計算していた。

 

 

夢記識

 

 妻が不貞を働いたと告白した。相手のことは明確にいわず、ふてくされている。(壮年の)私は根掘り葉掘り問い質そうとするが、妻はのたりのたりとして細かなことは明かさない。妻は次第に別人のような存在感を漂わせる。

 

 O・Kが自宅アトリエを新築し、その披露に友人知己を招き、(壮年の)私も出掛けた。招待客が多く、スポーツカーも数台見受けられた。O・Kは多くの人々に囲まれており、ちょっと挨拶を交わしただけで、とても会話をする余裕もなかった。知った人もなく、広い敷地と自宅アトリエを見回っただけで退去した。それにしても、遠路遥々駆け付けた私への彼の対応は素っ気なく、やはり好まれていないようだ。そして著名人にすりよるような自分の心情を情けなく思った。

 

 C君がアトリエを新築、招かれて出掛けた。屋根はあるがろくに外壁のない鉄骨造り三階のアトリエは、とても完成した建物には思われなかったが、各階に版画制作用の機械が揃っていて、いかにも美術家の仕事場らしかった。

「お前も版画を手掛けてみろよ」とC君はいい、機械を自由に使っていいといった。急に厚情を見せるのは彼が何かを企んでいる時の癖だ。が、何を企んでいるのか、咄嗟には思い付かなかった。

 

 数人と逃げ惑っている。場所は路地が入り組んだ古い下町で、行き止まりの路地では家の中を通り抜けたりする。そういう家は無人か空き家のようだ。追手の正体がはっきりしないが、仲間の数人は必死の言動なのでつい私も同化する。一向にきりのない逃走劇なので疲れてくる。工場の跡地らしい少し広い場所に出た。ふと気付くと、私は青年の姿になっている。

 

 画材店兼画廊で個展を開くことになり、作品を搬入する。展がない時は商品置き場になっている画廊には、主人家族の私物も置いてあり、それらを片付けながらの飾り付けになる。ふと気付くと、持ち込んだ作品の中に自分の作品ではないものが紛れていた。どうもC君の作品のようだ。と、当の彼が姿を見せ「飾り付けを手伝おうか」という。彼に借りを作りたくないので自分ひとりでできる規模だからというと、「いや、俺の作品が紛れ込んでいなかったかな」という。狐に化かされたような気分だが、彼とまた関わりが生ずるのが厭だった。

 

 マサルさんの世話で商店に勤めることになった。初日は夢中で過ぎ、賄いの食事を馳走になり、二階八畳間でマサルさんを含めた店員六人が寝た。少し驚いたのは寝具が豪華なことだった。住み込み店員の使用する寝具にしては上等すぎる。果たして翌朝、六人分の寝具を押入れに仕舞うのは難儀だった。ふわふわして厚い寝具は二つの押入れでも収納し難かった。仕事に慣れた他の店員は配達に出掛け、私は八十過ぎの主人と店番をすることになった。何度も店の前の道路を掃き掃除する。主人は優しかった。七十六歳の私を雇ってくれてありがたいことだ。

 

(二十五歳の)私はガス会社に勤めていたが、もうひと月余無断欠勤をしていた。会社側からも何の連絡もない。常識的にいえば馘首の手続き中と思われ、今日明日のうちにも係員が来宅するだろう。私はガス会社の仕事や仕打ちに絶望していて、どんなに乞われてももう勤める気はない。だからわざと会社側が迷惑な無断欠勤を続けているのだった。

 表面上のんきに家中の片付け仕事をしているが、内心はこれまた絶望的だった。母は髪の毛が真っ白で腰が曲がり、弟はこれまた失業中でわが家の経済状態は最悪なのだ。絶望の底にありながらどれだけ平常心でいられるものか、自分の力量を測っている。

 

 アメリカに滞在中、イチローと会う。ちょうど懐具合が乏しくなり、イチローに相談、彼と同じ行為をすれば報酬が貰えるというので乗る。まず古本屋に行き、豪華本を五冊受け取りイチローと一緒にクラブに行く。古本を渡す相手がなかなか見付からず困惑する。居合わせる外国人たちに邪魔をされる。そのころになってイチロー共々麻薬取引に巻き込まれていることに気付く。イチローは自若泰然としているが、(壮年の)私は困惑の極にある。

 

 文化会館に新しい形での展を提案に行く。係員は慇懃無礼で軽くあしなわれてしまった。憤懣やる方ないので文化会館を俯瞰することにして、久しぶりに鳥のように近隣を飛ぶ。空から見下ろすと狭い小さな町であることに改めて気付く。この町、この会場で先鋭な展は無理だなと慰める。

 

 新聞社勤務時代の恩人S(論説委員)に呼ばれて十五年ぶりに旧職場の編集局を訪ねる。Sは重役にもなっていた。若い女性記者を紹介され、彼女と組んで仕事をしてみないかという。身分は嘱託だが結構采配の振るえるポストだという。現代美術に関する企画、展の運営で、関連する啓蒙記事全般も監修するという。地方紙とはいえ三十万部の発行部数を数える新聞社の後ろ盾という考えもしなかった幸運な仕事だ。夢心地になり辛うじて即答を逸らす。降って湧いたような幸運を疑ってしまったのだ。

 かつての同僚の顔を見てこいとSにいわれ、整理部長になっているH、写真部長になっているМを訪ね旧交を温める。在職中親しかったHに事情を話す社長の後ろ盾だからやってみたらという。Sと社長は近年とみに親密という。「しかしねえ、もう俺は七十六歳だよ、心身共に萎えていて前線で戦えるか不安だよ」と私がいうと、「何、もう七十六歳になったの? 若そうに見えるけど年齢は争えないよ、激務はやめた方がいいよ」とHはつれないことをいった。

 確かに、現代美術は老年の出る幕はないだろう。有為な若者がいないわけではない。彼らに比して私の力量は凡庸である。せっかくのSの厚意だが辞退した方が不幸に至る芽を摘みとることになろう。もう俺の時代は終わったのだ。

 

 桜祭りの会場の一隅で新聞社勤務時代の同僚たちと同窓会を兼ねた酒宴の後、改めて桜花の下をそぞろ歩いた。屋台もたくさん店を張っていて土曜日ということもあり人出で賑わっており、いつしか同僚たちとはぐれてしまった。隣接する小学校の校庭が開放されていて、よさこい踊り大会が催されており、ほろ酔いで眺めていると、いきなり腕に取りすがられた。Uさんだった。「冷のお酒は酔いますね」といいながら寄り添ってくる。「この桜並木随分と長いんですってね。酔い覚ましに少し歩きませんか」

 ふちなしの眼鏡をかけているが彼女はまだ充分に美しい。腕を組んだまま歩くことになった。そろそろ退職する時期ではないか。既婚者のはずだが、酔っているにしろ少し度を越した仕草ではなかろうか。しかし私は胸を弾ませながら長い桜並木をゆっくりと歩いて行った。

 

 東北を旅していて持ち金がなくなり高崎までの切符しか買えなかった。高崎には友人が何人かいる。ともかくも高崎に着いた。早速公衆電話の電話帳で加藤さん宅に電話を入れたがあいにく不在。で、冨岡君宅に数字を押す。こちらも出ない。少し間をおいてかけ直すことにした。そこに佇んでいても仕方ないので駅前の通りをぶらぶらした。手元不如意で他人に金を借りることなど青春時代以来のことだ。何となく心細くなった。財布の中には五百円ほどしかない。足利までは千円はかからない。たった五百円のことで気持ちが沈んでいく。帰宅しても失意しかない。(壮年の私は)勤めを辞めて目下無職だ。一家の柱役だったのに、このていたらくでは情けない。母親の失意を覆い隠す顔が浮かぶ。

 

 片岡千恵蔵が付け人も連れずにふらりと寄った。桜が満開の季節なので桜並木へ案内する。屋台のやきそばを食べた。すれ違う人々が千恵蔵に気付いて笑顔を向ける。乞われて彼は気軽にサインをしていた。随分と歩いて町中に戻る。喫茶店に入り咽喉を潤した。店内にグループの絵画が展示されていた。千恵蔵はその一点(ばらの花を描いた)が気に入ったようで購入したいといい出した。三万円という金額が提示してあった。彼は手持ちが一万円しかないので残りの金額を(壮年の)私に貸して欲しいという。恥ずかしながら私の財布には五千円しか入っていなかった。売約ということで後日清算することにした。大スター千恵蔵が一万円しか持っていないのが不可解だった。それにもまして自分が五千円しか持っていないのが情けなかった。

 

 利害関係で対立する人々が一堂に会し会議を始めたが収拾がつかない。今にも暴力沙汰になりかねぬ中で(壮年の)私はひたすら日和見に徹していた。「これじゃ痛み分けじゃな」と隣席の男がいった。ばりっとしたスーツ姿の中年男だが目付きは明らかにその筋の人で相槌を打つと、「こんな会議はほっぽらかして飲みに行かないかね」と誘われた。行く行かないをいう間もなく男は席を立ち私をうながした。引きつけられように後に続く。

 連れて行かれたのは料亭だった。構えは立派だが離れの建物は座敷も荒んでいて畳が擦り切れていた。係もなかなか来ず、そのうち座敷が動き出した。回転木馬みたいに座敷全体が回って、庭の景観が見事だった。「席料が五万かかるが金はあるかね」と男がいった。財布の中には二万円ほどしか入っていない。「しけてるな、じゃあ、俺が立て替えておくから後で必ず返せよ」と男はいった。厭な成り行きになったが逃げ出すことができない。

 

 大浴場に行くと修学旅行の高校生の一団らしい若者たちでいっぱいで、すぐには入浴できなかった。脱衣所で待ちくたびれてから入浴すると、今度は老人たちが大勢入浴していた。ゆっくり湯あみを楽しむ雰囲気ではないので早々に退去すると、何と(壮年の)私はランニングとパンツ姿のまま入浴していたのだった。それどころか脱衣かごの側に財布が落ちていた。そんなに慌てふためいて入浴する必要はないのに、何としたことだろう。急ぎ財布の中身を確かめると現金とキャッシュカードが抜かれていた。免許証が残されているのがわずかな救いだった。現金は仕方ないがキャッシュカードは早速紛失届を行わなければならない。うかつさに自己嫌悪を抱きながらフロントへ急いだ。ところが迷路のような廊下が続いていて、なかなかフロントにたどり着けない。幸い今日は日曜日であることに気付き少しほっとする。

 帰路、駅に向かう道で若い美人に追いつかれざま、「お兄ちゃん」と声をかけられた。そういわれてその美人が妹に似ていることに気付いた。似ているのではなく妹のようだった。急に若返った妹の風姿は女優のようで夢のようだなと思った。帰りの電車賃をだれかに借りる必要があったので、これ幸い、妹に借りようと思った。

 

 若い娘が私に痴漢されたと突然詰問に来た。身に覚えはなく押し問答しているうち、娘の兄という二人の若者も来てちゃぶ台をひっくり返したりの狼藉に及ぶ。母と弟ら家族は狼狽し、兄たちは諭しても聞く耳を持たず仕方なく警察を呼ぶことにした。

 やってきた警官は改めて娘のいい分を聴き、私の身体検査をした。痴漢をするほどの元気がないことが証明されたが、兄たちは納得せず柱をのこぎりで切り出した。警官が阻止し事なきを得たが、娘も兄たちも納得せず警官に制止されても罵倒を繰り返す。近所の人たちが何事かと集まりいい恥さらしになってしまった。老境に差し掛かっている私はもはや性的欲求を全く覚えない昨今なので、憤懣やるかたないが、世の中には話の分からないめちゃくちゃな人がいるのだと半ば納得する。

 

 六十歳が間近な嘱託の私は職場(新聞社)の席が危うくなっているのを感じる。少し前、渉外の役への異動の打診があったが、いよいよ本決まりになりつつあるようだ。まず社宅を見てくるようにいわれ、線路沿いの古い木造家屋を見にきたが、その一軒の家に上司から電話が入り、職場異動後は服装に留意するように細々と諭される。外交の仕事は身だしなみ第一でばりっとしたスーツ姿で靴も上等な物をという。小学生へのものいいに似て不快になるが、なにせ弱い立場素直に聞くしかない。

 電話を切るすぐ今度は連携業者の役員らしい男から電話がある。彼は新聞社の上司のいったような身だしなみのことをいった後、急に呻き声を上げた。呻き声が長く続くので、「お加減が悪いのですか?」と丁寧語で尋ねるが、返答はなくいたずらに呻き声が続くばかりだ。

 

 四十歳を過ぎても独り身の私に見合い写真が届いた。結婚など億劫として乗り気がなかったが、何気なく見た相手の写真に何かひらめくものを感じた。二十代に裏切った娘の面影があったのだ。優柔不断な応答をしていると、世話人は脈ありと感じたのだろう。強引に女を遊びに来させたのだ。やはり裏切った娘に似ていて、娘よりもはるかに気働きのある三十五歳の女だった。負性は彼女がバツイチで子がいるということだった。と、小学一二年生と思しき男の子が五つか六つくらいの女の子を連れてやってきた。子がいるといっても一人だろうと思っていたが、二人もいるとは思わず、これはだめだと思った。とても父親になる覚悟も力もないからだった。本人は好印象だが、二人も子がいては話にならない。どのように断るか、相手を傷付けないように断るか考え込んだ。

 後日談がある。女にはもう一人乳飲み子がいるというのだ。一生独り身を通すと日ごろ広言していたのに、独身主義者としては腰が据わっていないと微苦笑ものだった。

 

 黄昏時、中橋の歩道の端に布団を敷いて妻と二人で寝ていた。車も通行人も途絶えた静かな時間で、下方には同じようなカップルが寝ている。セックスをしようと妻を促すと、したくないと起き出してしまった。仕方なく私も起き出して身支度をし、その後布団の始末に困惑する。とても一人では持ち運べない。妻は知らんぷりで立ち去って行く。

 

 狭い六畳間に布団が折り重なるように敷いてある。が、寝ているのは(壮年の)私と妻の二人だけで、布団を被ってセックスをしているのだった。他の家族は出掛けたようだ。母と祖母の姿がある。母は台所に出入りし祖母は端の布団を片付け始めた。そして私たちの事態に気付いて、布団の片付けを中断する。祖母の配慮をありがたく思い、早々にセックスを済ませようとするが、なかなか果てがこない。

 

 積載量二トンのトラック、親工場から原材料を積んで帰路に就いたが、途中で区画整理工事の一画に入り迂回を重ねているうち違う道路に迷う込み、方向感覚を失ってしまった。それどころか帰着するのが下請け工場なのか、自宅なのかも曖昧になり、いたずらに走り回ることになった。そのうち狭い路地に入り込み、動けなくなった。バックで抜け出すしかない羽目になりのろのろと後進する。長く続く狭い路地で永遠に窮地が続くかのようだ。

 

 J・Mがひょっこり訪ねて来た。十年ぶりほどの再会である。彼は六、七年ほど前伴侶を亡くし、前後して音信が間遠となり近年は音信不通となっていた。とりあえず彼を敬愛するT・Oを呼び寄せ酒宴となる。J・Mは亡くなった伴侶のいきさつを言葉に濁し、六月に亡くなった私の伴侶を悼む言葉を低く呟いた。「意識が消滅しない限り生き続けているのですよね」といった。そして意図的に話題をT・Oの近年の表現に移し、その至難さを労った。酒豪のJ・Mに引き込まれるように、珍しくT・Oも盃を重ね、私も定量を超えていった。J・Mの話題は例によって多岐にわたったが、喪った細君の話は封印していた。それだけ哀切の念が色濃く残っていると思った。愚妻の介護とその死によって鬱病に罹ってしまっている私は、無常の念をかみしめていた。

 

 

 

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