表現者としての自己総括

 

詩人として

 

 昭和初期の貧しい時代…。

 父は辛うじて小学校へ通えたが、母は数年通っただけで女中奉公に出された。こんな男女が所帯を持ち三男一女の親となった。そんな家庭の長男として私は育った。文化も芸術も無縁な環境だった。

 中学生になると放課後に近所の鼻緒製造所でアルバイトをした。貧しい家計を少しでも助けたいという思いからだった。中学を卒業すると間をおかず東京日本橋の薪炭商の住み込み店員となった。

 自分をある程度の客観性を持って意識し始めたのはこの時からだ。強い劣等感に苦しむようになる。

 

 

 

 あとがき

 

 と、ここまでが春山清のパソコンに残されていた。

 残念ながら目次にある『 表現者としての自己総括』「小説家として」「概念芸術家として」の記載はない。おそらく「詩人として」も書きかけであろう。

 これを補えそうな内容が『春山清 カタログ 汎表現研究センター』(二〇〇七年)の中に次のようにある。このカタログが本書の基になったと思われる。

 

【略歴】

 はるやまきよし

 一九三七年二月五日、栃木県足利市生まれ。十六歳から東京日本橋横山町の薪炭商の住み込み店員を皮切りに、郷里のガス会社製造部員、熱海伊豆山温泉郷のホテルフロント、郷里の工場工員、高崎市の茶店員、前橋市の地方紙校閲部員等の職業を転々としつつ文学・美術等の表現を重ねる。一九九七年から桐生市在住。家族は妻と猫一匹。

 

【詩作品口上】

 詩を書き始めたのは十八歳の時、勤めていたガス会社の(工事係の土方)仕事や貧家の長男という家庭環境が不本意で、鬱屈した思いからの詩作だった。しかしやがて心情を綴る抵抗詩や生活詩は、詩の神髄とは異なることに気付く。詩人は病的な感性か個性的な知性なくしては叶わぬことを悟り、いったん詩作を遠ざける。

 再度詩作を再開するのは還暦後のことだが、コンセプチャルアートあるいは箴言ともいえるもので詩らしい詩ではない。今後も詩らしい詩ではない詩を書きたいと思っている。ともあれ、詩の定義が曖昧だった過去の詩もどき五篇を掲げる。ご笑読あれ。

 掲げられていたのは、「鎧」「冬の蠅」「知らないうちが花なのよ」「闘病記」「詩もどき」の五篇である。

 

【散文口上】

 小説を書き始めたのは十九歳の時。前年に一年間詩作してみて、詩才がないと自覚、世の中の仕組みや人間の業への反抗には、詩よりも散文の方が明確なメッセージとなると思ったものだ。

 手本にした作家(や作品)はヘミングウェイの短編、ヘンリー・ミラー、山本周五郎、

椎名麟三、丹羽文雄、吉行淳之介、島尾敏雄、埴谷雄高らだが、自身の血肉になったかは甚だ疑問だ。私なりに精進したが、無念なことに肝心の才能がなかった。

 作家の力量は(その作品の)冒頭の十行も読めば、おおよそ量れるといわれる。私がどの程度の作家かは承知しているが、それでも意地汚く一縷の望みを抱く。それなりの出来と贔屓目の四作の冒頭を次に掲げる。

 掲げられていたのは、「熱海伊豆山長竹ホテル」「愛する時」「スペインへ」「何に依って」である。

 

【視覚表現口上】

 絵画・彫刻作品なら美術表現と素直にいえるが、インスタレーション(仮設表現)やパフォーマンス(身体表現)、(そして私の行っている言語による表現)コンセプチャルアートとなると、美術表現と呼ぶのには少し違和感が生ずる。そこで私は絵画や彫刻等オーソドックスな表現から仮設表現、身体表現、概念芸術その他を含めて視覚表現といっている。

 私が視覚表現を始めたのは二十歳の時だ。前々年に詩、前年に小説を書き始めているのにさらに新たな表現を重ねようとしたのは、複合的な表現への意欲からだつた。無知な青年の意欲は恐れを知らない。ろくに文法も知らないのに詩や小説を書こうとしていたが、絵画には文法はなかつたから無学者には好都合な表現かもしれなかった。

 青年期には交友関係が大いなる影響を及ぼす。勤めていた職場に二つ年上の(現・美術家の)長重之がいたし、週に二度は訪ねては語った一つ年上の(故・画家)小林道夫の二人との好誼が血肉となった。

 後に東京の画廊でのインスタレーションによる個展群は、長という先導役の存在なしでは考えられなかったし、散文の創作上の(てにおは)は小林に負うところが大だった。

 やがて物質の引用によるインスタレーション作品ではなく、思索を核心とするパフォーマンス、言語表現に移ってゆくが、これもまた水上旬、松澤宥の知遇を受けたことが創作意欲の推進力となった。

 

【汎表現研究センター口上】

 汎表現研究センターは春山清の別称です。春山は十代から肉体労働の職を転々としつつ、言語・視覚表現営為を生きる便としてきました。そして折々に自己省察を重ねていましたが、常に「不本意と虚無」が立ち塞がるのを如何ともし難いのでした。この悪循環を断ち切るために生業を離脱した還暦時に自己総括を行い、それまでの生と表現を自己否定せざるを得ませんでした。

 春山の過去の生や表現は主観過剰なもので、春山個人の疲労や傷を癒し日々を支えましたが、畢竟個人的な閉ざされた営為だったのです。春山はもっとも肝要な「人類の一員」という普遍性を失念していたのでした。

 この認識・意識をもって改めて自身と人類の現況を見渡せば、春山の生や表現はいうに及ばず、多くの人々(表現者も)が文明の利器や繁栄を享受しつつも結果として虚妄(という不幸)の渦中に在るといえそうです。生者必滅の理のごとく、どうもがいても、やがて人類・地球・太陽系と滅亡の運命ですが、それまでの「瞬時にして永遠」ともいえる人間の日々を、可能な限り「不本意と虚無」がもたらす不幸から超越する示唆ないし試論こそ、生と表現の神髄ではないでしょうか。

 伝統的保守的表現よりも、新たな表現を思索検討する場、分子生物学的根源論、宇宙論的究極論と同等の表現を模索することが、明日の生と表現に不可欠と確信し、ここに汎表現研究センターを開設した次第です。

一九八八年

 ここでの活動に「虚無会」がある。展覧会ではなく個人誌に活路を見いだしてきた春山ならではのイベントといえる。

 

【虚無会口上】

 私たち人間の喜怒哀楽、生死は現象(事象)です。

 すべての物事(事象)には、大元(根源)があります。

 その根源(究極)が今日只今の事象を生んでいます。

 

 虚無会は、任意の場、任意月九日午後九時からの九分間の瞑想と、その前後の歓談を介して、究極根源を辿ろうとする思索・研鑽の場です。

 

【個人誌口上】

 私は五十年余、詩や散文を書いてきたが、三十歳の時に私家版詩集『悪魔の子』を上梓した以外に著書はない。二、三十代のころ、いくつかの同人誌に十五、六編ほどの詩と散文を発表したが、これは例外で、書いた詩や散文のほとんどは個人誌に掲載してきた。

 これまでに個人誌を四誌発行した。二十八歳の時に創刊した『愛』(十六号で終刊)、五十歳の時に創刊した『離脱』(十二号で終刊)、五十三歳の時に創刊した『PAN』(三十号で終刊)、そして六十七歳の時に創刊した『著作』(十二号で終刊)。ほかに別冊や特別号、号外などを十号、合計すると八十号ほど発行したことになる。

 自作発表の場を個人誌に固執したわけではない。個人誌にしか発表の場がなかったのだ。同人誌では常に制約を感じ窮屈で留まれなかった。文芸誌の新人賞応募ではとんと当選しなかった。その他その筋のところからの原稿依頼もほとんどなかった。俗にいえば、才能も運もないことになる。

 

 

 以上だが、本書は春山清が生涯をかけて模索した表現の全体像が見て取れる。明らかに自己総括としての意味合いが強い。だとすれば、『散文』のところに小説があった方が自然ではないのか。本書とほぼ同じ構成の『春山清 カタログ 汎表現研究センター』(二〇〇七年)には、小説四作の冒頭が掲げられている。小説を別の上梓でと考えていたとしても本書から外す理由にはならない。予定されていなかったが先にあげた四作の中から「愛する時」を加えることにした。

平成二十八年 水無月  編集 タカユキオバナ

 

 

 

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