輝く影の住み処

江尻潔

 

 私たちはからだの部分の重さを感じとれるだろうか。日常生活のなかで、確かに頭が重い、足がだるいという感覚をおぼえることがあるが、それは何らかの異常がその部分にあるため自覚されるものである。健康であるならばよほど意識しないかぎりからだの部分の重さは分からない。しかし、それらは確実に重さがあるのだ。物質として形をなし機能しているにもかかわらず、重さを感じないのは私たちがそれら各部分の総体であり、部分は私たち自身であるからだ。ただこれらが何らかの異常をきたした場合、ただちに「痛み」や「重み」でもってその存在を主張する。このとき、その部分は「他者」となる。では「魂」の場合はどうであろうか。「魂」はいったいからだのどこにあるのか。はたして物質として形をなしているのだろうか。私は前稿において私たち自身が一つの「書物」であり、それは何者かによって読むことが禁じられていると述べた。私たちの「からだ」が記述そのものであり距離が「0」であるためだ。しかし、その読解は「痛み」を鍵とすることで不可能ではないことが前稿で見てきたオバナの〈ウィルスの視覚 共同作業〉前半部によって証された。オバナは入れ子式になった「からだ」の各部位に「痛み」を介して語らしめた。〈ウィルスの視覚共同作業〉の後半3回はいよいよ身体の核にあたる「魂」の層にまでおよぶ。思えば「魂」はからだの一部であって一部ではなく「もの」であって「もの」ではない。この特殊な部分をいかにして意識に昇らせるか。オバナのとった手法は「痛み」より普遍的な「重き」によって自覚を促すものであった。その試みが[ウィルスの視覚 共同作業 有隣館《闇の中》から寺前荘《ねむり》SPACE it《あるいは夢によってめざめる》]である。

 この共同作業には「魂の重」という副題が付いており、会場は表記のとおりニケ所ある。寺前荘(高崎市小鳥町はオバナの友人井上太郎氏のすまいである。SPACE it(高崎市赤板町)は造形作家加藤アキラ氏宅の一部を井上氏が改造しギャラリーにしたもので、昭和初期の古い木造家屋に真白い大きな箱が挿入されたような造りである。これ自体井上氏の作品なのだ。共同作業参加者はまず、寺前荘に行くよう指示される。寺前荘の「い」と「ろ」の部屋が会場になっているが、「ろ」の部屋は借主である井上氏自身によって床張りに改装され「寺前荘・土間ギャラリー2」として彼自身の個展も開催された場所である。一方「い」の部屋は井上氏が寝起きする生活の場である。その二つの部屋にオバナの作品が展示された。この作品は一辺12cmに切り出された重さ45kgの御影石の立方体に「魂の重」という文字がスタンプで記されている。一見、墓石を思わせるこの作品が「い」と「ろ」の部屋に整然と並べられた。ギャラリー然とした「ろ」の部屋はともかくとして「い」の部屋は井上氏の布団や洗濯物などあって生活臭が生々しく漂っており、それらの間を縫うように石が等間隔に配置されていた。参加者は「い」と「ろ」どちらでも好きな方から任意の石を一つ取り、これに自分が大切に思う人やものの名を記して、およそ2kmはなれたSPACE itに運ぶようオバナにより指示される。SPACE itでは運ばれた石が参加者により好きなように置かれる。さらにSPACE itではオバナの知人友人が会期中一日一人ずつ依頼され、石を運んで来る参加者の応対をつとめた。彼らはオバナより特別な要望は受けておらず、逆に何をやっても差支えないと言われている。以上、長くなったがこれがこの〈共同作業〉のあらましである。

 この作業では二つのことが主眼となる。一つは「魂の重」の認識である。繰り返しになるが、私たちの体は健康であるかぎり「手の重さ」、「足の重さ」、「頭の重さ」など体の各部分の重さを感じないようにできている。具合が悪くなったとき、これらの「部分」は「痛み」や「重み」でうったえる。そのとき、これら「部分」は「他者」となる。極言すればこれらの「痛み」や「重み」がはっきり分かるのはその部分がからだから切り離されたときだろう。この「痛み」や「重み」を認識するのは意識の中心である「魂」だということは確かだ。では「魂」自体の「重さ」をいかに認識するか、オバナが配慮し工夫したのはこの一点だ。オバナは「魂」を「他者」として認識させることから始める。つまり自分の最も思い入れのある人やものの名を石に記すことにより石の重さと「魂」の重さを等価なものとして認識させる。つまり、ここでオバナは「魂」の一部を切り離し外部へ投影するよう促しており、これを身体でたとえるなら己の手や足を切り離しその重みを認識せよということになる。私は参加してよほど自分の名を記そうとしたが、オバナの主旨より自分の名であろうと最も大切な者の名であろうと大差ないことに気づいた。最も大切な者もまた自己の「魂」の投影にすぎず己の「魂」の一部であることにかわりない。「魂」を「他者」として取り出すにあたり「最も大切なもの」という「核」があった方が取り出し易いのだ。取り出された「魂」を運ばなくてはならないのだが、石が重いためどうしても両手で持つようになり、ましてや最も大切なものの名が記されているため大事に抱えざるを得なくなる。ちょうどこの仕草は位牌や遺影を運ぶときを想わせる。この「魂」はおよそ2km離れたSPACE itに運ばれるわけだが、いったいこの「場所」はいかなる「ところ」なのか。ここにオバナのもう一つのねらいがある。この共同作業のタイトルにSPACE it《あるいは夢によって目覚める》とあるとおり、この空間は夢の中なのだ。筆者は夢とは魂の移動と考えている。覚醒時には自意識がはたらき潜在意識はおもてに現れない。しかし、その潜在意識が自意識にまで昇ってくるときがある。それは夢のなかにおいてである。それはちょうど日中太陽の光によってかき消されていた星々が日没後またたきはじめるのと似ている。眠っているとき太陽である自意識が弱まり、微弱な潜在意識がまたたく。この光に照らされた光景が夢なのだ。このとき自意識を司る魂の一部はその座を他の諸々の潜在意識に譲る。しかし、その魂は完全に消え去るのではなくそれら潜在意識が送るしるしを読み取る。これは「からだ」という書物に記された記述なのだ。オバナにより私たちは己の「魂」を自身の手によりSPACE itへ、すなわち「夢見の状態」へ運ぶよう仕向けられる。そこにはすでに先に運ばれた「魂」が思い思いに置かれている。これらは潜在意識として読み替えることができる。その他者としての様々な意識のなかに己の自意識を置く。ここでは自意識は潜在意識の群れに囲まれ圧倒される。様々な人によって記された「大切なものの名」のなかに自己の石を置いた時、これら見知らぬ人やものの名がなぜか自分の「からだ」に記されたもののように思えてくる。これらはずっと気づかれないままでいた「しるし」なのだ。さらにオバナは9人の知人、友人に一日ずつその場に留まるよう依瀬しているが、思うにこれは「夢」を演出してもらいたいというオバナのねらいが隠されている。依頼された人達はいわば夢見の空間の主としてその場を占領する。潜在意識の顕現として「他者」の意識が全面に押し出されるわけである。9日間で九つの「夢」が連続するわけだが、「夢」は依頼をうけた人達の個性によって様々に繰り広げられた。賑やかな「夢」もあれば、静かな「夢」もある。あまりにも微弱なため意識されないものもあったかもしれない。しかし、訪れた者は自分の「魂」を置き、その「夢」の主と会話し、「魂」をあずけて立ち去る構成は共通している。私が行ったときはちょうど足利の写真家山田利男氏が[Space JACK]と銘打ち、ニューハーフの人々を撮った写真をこれまた不規則にところせましと貼り、みごとな「夢」を展開していた。[Space JACK]というタイトルがもののみごとに「夢」の本質を言い当てていて興味深い。夢とは自意識の空間を潜在意識をはじめとする「他者」に乗っ取られて見るものだからだ。これは「個展」という「自意識の空間」を他者に明け渡したオバナの「夢」でもあるわけだ。なお、SPACE itに置き去りにされた石は後日オバナによりそれを運んだ人物のもとへ郵送される予定である。私たちの「魂」の一部が再び帰ってくるわけだ。ただし「自分」以外の「魂」がやってくる場合もおおいに考えうる。それは私たちの自意識に昇ってきた潜在意識であり気づかないままでいた自分自身なのだ。以上、[ウィルスの視覚 共同作業 有隣館《閣の中》から寺前荘《ねむり》SPACE it《あるいは夢によってめざめる》]を私なりに記述してみた。ここで注意したいのはオバナが「夢からめざめる」とせず「夢によってめざめる」としている点である。潜在意識が重要なサインを夢により自意識に送り込んだとき、その夢を忘れないようにと覚醒させる場合があるという。オバナはこのことを意識していたのかもしれない。いずれにせよ夢によって目覚めた以上、その夢を記述せねばならない。これが次なる[ウィルスの視覚 共同作業 寺前荘《ねむり》 SPACE it《あるいは夢によって目覚める》からMOVE《だれか》]の課題である。

 この〈共同作業〉は、前稿の注に記載した〈共同作業さがしものはなんですか〉で渡された指示書がもとになっている。その内容は同封のチューインガムを噛み、噛み終わったらそれをやはり同封してある透明な袋に入れ、シールに名前を書いて封印し、オバナまで郵送してくれというものであった。この指示書には「締切りは820日まで」とあるから少なくともガムが返送されてから2ケ月弱経たのち開催された。ガムを送った者にはそれと引き替えにテレホンカードが送られてきた。銀色の美しいもので表には会場であるギャラリーMOVE(群馬県赤城村)の電話番号が大きくプリントされていた。同封された案内状にはこのテレホンカードを使って会場に電話するよう指示があった。さらにこの案内状には「ひぃふぅみぃよる いっむうななや なく」と記されていた。このことばは古神道の[ひふみの神歌]を連想させる。この神歌は「一二三四五六七人九十百千万」の数霊と47の清音の言霊をあらわし、深遠な意味をもつという。それをオバナがアレンジしたものだろう。また電話は番号を介して「ことば」を送る装置であり、さらにテレホンカードも使用度数という「数」と「ことば」が密接に隣り合っている。いずれにしろ「数」と「ことば」二つがリンクする場を設定しようとする意思が感じられる。さらにガムが登場するが、考えてみればガムは嚥下されず再び口の外へ出される特殊な食べ物である。いったいオバナはこれらの道具によって何を気づかせようというのか。一つは言葉を発する器官と食べる器官が同一であるということだろう。同じ口を介してなされることだが一方は外部へ発せられ、一方は内部に取り込まれる。ものを呑み込みつつことばを発することはほとんど不可能である。ここに一つの秘密が隠されているのかもしれない。思えば「しゃべる」ということばと「食べる」ということばは音も似ている。さらに言えば、私たちは幼い頃ことばを苦心して学んだという記憶がない。気づいたらことばが身についていたのだ。ことばは魂の素材であり、ことばにより意思や概念が明確な輪郭を現し、自我も規定される。かつて魂はことばを「食べた」のだ。身体がものを食べ成長するのと同様、魂もことばを食べ成長したのだ。ことばを習得することにより、はじめて人は「人の魂」を持つ。「人の魂」と「動物の魂」のもっとも大きな違いは、この「ことば」の有無にあり、「人の魂」の強さは「ことば」の力によるのだ。ここで興味深いことが出来する。では「ことば」の素はいったい何かということである。これは魂以外の何ものでもない。ある種の意思の働き、たとえば何かを食べたい、他者と一つになりたい、あるいは何かを伝達したいという「傾き」に明確な方向性を与えるのは「ことば」であり、この場合ことばの源はこの魂の漠とした「傾き」にあると言える。いずれにせよことばと魂は密接な関わりがある。以上のことを踏まえたうえで、夢から覚めた魂にことばを語らしめるというこの共同作業の主たるねらいに話をもどそう。まず、オバナはテレホンカードを参加者に送り電話を会場にかけさせた。電話を取るのはたまたま居合わせた「参加者」である。多くの場合、知らぬ者同志が会話を交わすことになる。その時、何を語ることになるのか。相手が誰であるかの確認と、自分が何者であるか相手に伝えること、この二つではないだろうか。電話であるため、ことばと声で情報を相互に交換しなくてはならない。私たちはあらためて未知の人を知ること、自分を未知の人に伝えることをことのほか難しいことに気づくだろう。自分で自分のことははっきりと把握していると思っていてもこのような状況ではたちどころにあやふやなものとなる。自意識のおよぶ範囲はこのようにたかが知れている。では何によって自己を示すのか。ここでガムが登場する。ガムは「食べる」と「しゃべる」この二つが重なり合った領域に属しているものではないか。ひとたびロに入れ阻噛し、再び外へ出す。この行為は日本神話に出てくるアマテラスオホミカミとスサノオノミコトの「うけひ」の場面を思い起こさせる。スサノオがタカマガハラに参上したその凄まじさに驚いたアマテラスは彼が自分の国を奪おうとしているのではないかと思った。しかし、スサノオは「異心無し」と心の誠を訴えた。そこでお互いの持ち物を交換して物実とし噛み砕き息を吹きかけ生まれ出る「神」によってその心の真偽を見定めた。それによりスサノオの心の誠が証されたわけだが、噛み終えたガムを送らせるというオバナの行為は一種の「うけひ」ではないのか。「ガム」を「物実」とし送り主の魂が何を「食べて」きたのかを明確にしようとしたのではないか。壁に展示された、送られて2ケ月弱を経た「ガム」は「物実」として機能し変色したりカビが生える。噛んだ主の、いわばことばになる以前の魂の記述がこの「ガム」によって示され、いかなる「うそ」も「いつわり」も通用しない。これは潜在意識に語らせる有効な手段なのだ。この「物実により生成したもの」に最も近いことばとして[ひふみ]が登場する。数とことばのあいだに位置するこの「ことば」は意味よりその音と響きによって聞く者の心を波だたせる。これは「ことば」というよりむしろ「波の束」なのだ。[ひふみ]において「波」は「数」に置き替えられている。文字通りことばが出現する水際に鳴り響くうねりなのだ。[ひふみ]をこの共同作業のタイトルに添えることにより「物実により生成したもの」をいかにことばに変換するかという大きな課題が提示されている。これが出来ない限り完全な「夢の記述」は不可能なのだ。この共同作業では「響き」と「物実により生成したもの」二つが接近しつつも残念ながら明確な「変換」がなされていない。

 ‘9812月、館林SPACEUに於いて〈ウィルスの視覚共同作業〉の掉尾をなす[星を見よ]が開催された。ニケ年弱かけて、最初に〈共同作業〉が行われた場所に戻ってきたわけだ。この〈共同作業〉では「夢」から覚めた「場所」が示される。SPACEUの会場を暗室にし、目の高さに5cm幅の鏡を四囲に廻らし、鏡には約7cm間隔に直径34mmの穴が一直線に穿たれている。穴の奥に一つ一つ豆電球がともされ、そのため穴は星のように輝く。総延長176mの鏡の帯に穿たれた「星」の数は全部で240あった。穴を覗こうと目を近づけると穴から漏れる光に照らされた自分の目が鏡に映る。瞳と鏡の穴が重なり自分の目に穴があき、輝いているように見え、一瞬ぞっとした。目もまた一つの穴であり目を入り口として己の内面に参入しようという目論見である。眠っているあいだ眼球は上を向いており、さらに夢をみているとき眼球は動いているという。ここでは覚醒時にそれが起こっている気がする。ふだん外部を見るための器官である目が内部を見つめる機能も持っているのではないかということに気づく。通常その機能がはたらくのは夢のなかにおいてであるが、ここでは確かに目覚めた状態でその機能がはたらいている。私たちは[星を見よ]において目覚めたわけだ。しかし、日常の空間に目覚めたのではない。もう一つの「空間」すなわち己の内部空間に目覚めたわけである。私たちは一連の〈共同作業〉により日常から闇へ、闇からねむりへ、ねむりから夢へ、夢から覚醒へと導かれたが、この覚醒は意識の目覚めなのだ。目覚めて何を見ることになるのだろうか。

 穴を覗くとそこには人の名があった。今までの共同作業参加者あるいはオバナと親しい人物224人の名が「未」という文字で繋がれている。私は自分の名を見つけることができた。ここで再び日本神話の一節を思い出す。それはスクナヒコナノミコトに去られたオオクニヌシノミコトの物語である。

 オオクニヌシはスクナヒコナとともに国造りに励んだが、やがてスクナヒコナは常世国へ帰ってしまう。そのためオオクニヌシは深く愁い、自分とともに国造りをしてくれる者がはたしているだろうかと問うた。すると海の彼方から光が出現し、たちどころに迫ってきてオオクニヌシに言った。「もし私がいなかったならば、お前は果たしてこの国を治めることができたであろうか。私がいることによってお前はその偉業を成し得たのだ」。オオクニヌシはその光に向かって何者であるのか問うた。すると光は「汝が幸魂、奇魂 なり」と答え大和の国の三輪山に祀るようオオクニヌシに命じた。

 オオクニヌシが途方にくれているとき、自分の魂が現われ、彼を導いた物語である「幸魂」は往く先を予見し、よく身を守り幸をもたらしてくれる魂であり、「奇魂」は事物の本質を認識する霊性であり、ものごとを成就するはたらきを持ったものである。いずれも、小じんまりとまとまった自意識を超えそれを導く、より高次の「自己」なのだ。これらも潜在意識と見なされるが、ここで注意したいのは私たちが「食べた」と思われるウィルスから魚類、両生類、爬虫類、を経て哺乳類に至る「魂」とはまた別個のものだということである。これらの「魂」は私たちの「魂」の土台をなし私たちの「魂」はその上にいわば「柱」のように立っている。これら私たちの「魂」を支える諸々の意識体は確かに私たちを導くが、それは恐れや驚き、快・不快など原初的で荒々しい感覚で意識させる。一方、「幸魂・奇魂」は直感的であり、波長がこまやかである。けっしてこの「柱」の基盤から出てきたものではないのだ。これらはいったいどこから来たのか。おそらくそれは「柱」の上方からである。私たちの魂の「柱」の上部はなにかに通じているのだ。ここで、私たち自身もまたより大きな「あるもの」を支える部分にすぎないことに気づかざるを得ない。その「あるもの」と接する魂の部分が「幸魂・奇魂」と名づけられているのではないか。オバナの[星を見よ]という作品はまさにこの「幸魂・奇魂」を表現したものに他ならない。私たちは自身の意識により見る範囲をかなり制限されている。それは多くの場合、私たちの内にあるものを素材として外部へ投影することにより認識しているからだ。こちらから投げかける意識の「光」に反射するものしか見えない。いわば巨大な合わせ鐘のなかに私たちはいるようなものなのだ。オバナは意識がよりこまやかならば「鏡」を突き抜けその先にあるものにまで光(=意識)は到達しうるという。[星を見よ]の鏡に穿たれた穴はまさに自意識で見える像を突き抜け、その先へいたる通り道でもあるのだ。その穴の彼方よりもう一つの「光」が私たちの「名」を伴って迫り来る。それぞれの名がそれぞれの光に包まれ輝き、未だ出現せざるものを表す「未」という文字で繋がれている。その光は夢から覚めた私たちがはじめて見る意識の光であり、私たちの内にありながらより高次なものと結ばれている。オバナのこの作品により私たちは星として祀られているわけだ。私たちのさらなる課題は新たに出現したこの「光=意識」によってすべてのものを見直し、ものの本質を見極めるとともに、この「光=意識」によってはじめて出現する存在に気づくことであろう。

 以上、オバナの〈ウィルスの視覚 共同作業〉を一通り見てきた。私たちは内面の旅を経て再び目覚めたわけだが、全体を通して見ると、合わせ鏡の闇の中に潜む光と最後に現れた星の光により私たちの存在する「場」が示されていることに気づく。この両極をなす二つの光のあいだに様々なものが出現し、私たちはその中を行きつ戻りつしている。両者はどちらも私たちの内なる「光」であり、私たちの「生」を規定している。私たちは「地から発する光」と天にまたたく「星の光」を結ぶ一本の「柱」なのだ。ここにおいて私たちのいる「場所」と私たちの全き「すがた」が明らかになる。しかし、オバナは最後に現れた[星を見よ]の光を「虚光」と名づけた。ここには重要な意味が潜んでいる。なぜなら「虚光」は「星の光」よりも高次のものだからだ。もはやそれは潜在意識を含めた「自己」の内にあるものではない。意識の「光」もとどかぬ彼方に輝くもう一つの「光源」。これまで私たちは光と闇が幾重にも入れ子式になっていることを見てきた。宇宙もまた巨大な「闇」だとするとその外部はまばゆいばかりの「光」で満たされているのかもしれない。とにかく「虚光」という概念はそのような「外なる光」を思わせる。それが鏡に映った私たちの「虚の目」から発して来る。オバナのさらなる課題は「虚光」の究明であろう。この「光」にたどり着くには幾重にも層をなす「鏡」を一つ一つ開いていかねばならない。最後には私たちの意識の光はとどかず、私たちのすがたはもはやそこには無いだろう。しかし、新たな「光」がそこにさしているはずである。「虚光」とはこの新たな「光」のことではないだろうか。そして、この新たな「光」はすでに私たちの「幸魂・奇魂」を照らしているはずである。言い換えるならば「星の光」にこの新たな「光」はわずかながら含まれている。オバナはこのことを直感しあえて「虚光」と名づけたのではないか。この「虚光」からみればおそらく私たちは「ウィルス」のようなものにすぎないであろう。

 オバナは〈ウィルスの視覚 共同作業〉の最後にもう一つ謎めいた「書物」があることを私たちに示す。その「書物」のなかでは私たちはわずか一行の記述でしかない。その「書物」とは私たちを包摂する巨大な「からだ」である。そこでは私たちは「ウィルス」の座にいる。この「からだ」に記述されたものを私たちは文字通り「ウィルスの視覚」でもって読み解かねばならない。言うまでもなく、「ウィルスの視覚」こそ唯一有効な手段なのだ。この壮大な「からだ」をもつものからすれば私たちは「輝く影」にしかすぎない。しかし、かのものは、私たちに読み解かれるのを待っている。

(‘99322記)

 

 

 

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