タカユキオバナノート

天から飛来した人の素

江尻潔

 

 私たちにとって最も身近な自然とは何か。

 タカユキオバナ(1958年栃木県生まれ)の作品に向き合うとき、まずこの問いかけから始めなくてはならない。私はこの問いに対して次のように答えたい。それは私たちの「からだ」に他ならないと。私たちのからだは何十億年もの長い年月をかけて自然発生した進化の記憶であり魚から両生類、爬虫類を経て哺乳類にいたるその歩みは母親の胎内で後づけられる。いわばその「前段階」を「食べる」ことによって出現を目指したのだ。では私たちの最初の〈きざし〉は何なのか。これは宇宙の発生とともにある。私たちのからだは宇宙のちりであり星と同じである。銀河を流れて漂着した星の子なのだ。よってからだには宇宙の記憶も刻まれている。しかし、私たちはそれらの記述をほとんど読みとることができない。その証拠に自身の魂の出自を言明できないままでいる。それは記述と私たちの距離が「0」であり、私たち自身が記述だからだ。私たち自身が「書物」でありそれは何者かによって読むことが禁じられている。だが、本当にこの「書物」を読み解くことは不可能なのだろうか。タカユキオバナの仕事はこの「からだ」の読解から始まる。

 オバナは‘972Art Year1997において足利JAZZオーネットと館林のSPACEUを会場とし〈ウィルス型の視覚〉を発表した。この作品は縦2m43.8㎝の鏡を任意の幅(130㎝~5㎝)に切断し、壁に設置したものである。ちょうど視線の高さにDNAの塩基配列の記号が横に貼られ鏡の幅は遺伝子の分子構造を示すものだと分かる。私たちのすがたは遺伝子上に映しだされるわけだ。そして見るものは自分自身を読み解くよう強いられる。しかし、視線の高さに前述の〈塩基配列〉があるため自分の目は映らない。思えば私たちの目は外部にのみ向けられ内部を見ることができない。鏡に映し出された私たちのすがたはちょうど目隠しされているように見える。これは自身の記述を読み解くことの困難性、「内なる眼」の得難さを示唆している。しかし、明らかにこの作品は読解を促す。ここでは自身の内面に目を向け記述する作業を行うにあたり有効な手段が模索されている。その結果導き出されたのがこの〈ウィルス型の視覚〉である。思えば私たちの身体は数多くの進化の過程が入れ子式に重なりあって出来ている。私たちの「生」を一皮めくればそこには累々たる屍の山が横たわっている。その中で私たちから最も遠く離れておりしかも実際に構成している要素、それはウィルスではないだろうか。DNAの構造はウィルスの死骸が素になっているという説があるそうだが、この内なる「遠い存在」より今ある私たちのすがたを眺めれば私たち自身の「解読」は可能となる。オバナはこのことに気付き〈ウィルス型の視覚〉を展開する。その視点とは言うまでもなく〈DNAの塩基配列―ウィルスの「座」―にある。DNAには私たち自身の記述があり、さらに私たちを転写する.文字どおり鏡と同じ機能を有するわけだ。四面の壁に配されたこれらの鏡はDNAそのものを表し、しかもそれらが合わせ鏡となって無限に私たちを転写しつづける。合わせ鏡の深奥に行けば行くほど光量は乏しくなり闇につつまれる。私たちは光に内包された闇から出現したのだ。この闇こそ私たちの源―ウィルスの場に他ならない。

 ほぼ1年後の‘981月同じくSPACEUにおいて〈ウィルスの視覚 共同作業〉を発表。展示スペースにはガラスのテーブルが置かれ、その上にきれいな包装紙に包まれたキャンディが無造作に積まれていた。観者は好みのものを一つ選んで食べ、用意してあるラベルに自分の氏名、住所を記入し包装紙に貼りつける。そして壁面の任意の場所にピンで止める。なお壁の中央には「ここはどこ」と記されていた。この作品は観者が参加することにより初めて可能なのだ。会期が長くなればその分、壁の包装紙は増え、はっきりした完成の時点がない。オバナによればキャンディは「死骸」であり包装紙は「欲」であるという。つまり私たちは生きるため他者を殺して食べなくてはならぬ存在であり、包装紙はその「死骸生産者」のより多く売りたいという「欲」の現れなのだ。中身を食べた者の名と住所を記した包装紙は日々増え続ける。それは私たちが生きるために奪った魂なのだ。私たち自身により打ち付けられたものであるはずなのにそれらは何か別の力がはたらいて壁に留まっているような印象を与える。ちょうどそれは私がなぜここにいるのか理由が分からないにもかかわらず留まりつづけている有様と似ている。この印象は壁の「ここはどこ」という「問い」により強められ、さらに観者はオバナにより「ここはどこ」という言葉をテープに吹き込むよう促される。いやがおうでも「ここはどこ」であるのか考えざるを得なくなる。帰りにオバナより「ウエ様」と表書きのある封筒を渡される。そこには光合成機能をもつ「人類」の記述があり、他者を殺して食べることから解放された者たちの意識がいかなるものなのか、またその意識が生み出す世界がどのようなものなのかという「問い」が記されている。私たちは生きるため日々他者の命を奪っているという、意識にはほとんど浮かんでこない、しかし決定的な事実―私たちの生活の諸々の制約はおおかたこの「事実」に根ざしている―を気づかせる試みである。「ウエ様」とは「飢え様」のことに他ならない。私たちは絶えず「飢え」に衝き動かされて生きている。「飢え」により生命は維持され生殖もなされる。「ここ」に留まりつづけているのも「飢え」によるのかもしれない。

 やがてオバナより〈共同作業〉参加者に作品が届く。厚さ1㎝のボードの表に会場で自分が食べたキャンディの包装舐のカラーコピーが貼られ、包装紙に貼付した自筆の住所・氏名がそのまま宛名となっていた。カラーコピーが貼られた真裏はくりぬかれ小さな本が内蔵されている。本の表紙には塩基配列が記され、中身は訪れた人々が書き残した「住所・氏名」のコピーであった。それらが一つに綴じられ塩基配列の記号によって繋がれている。名前および住所はここでは異質のものに見えてくる。ふだん私たちは自分の名や住所を自明のものとして扱っているが、なぜ「わたし」がこのような「名」でこのような「場所」に住んでいるのか答えられない。私たちはこのように自分自身について記述できないままでいる。その「私たち」が一つに綴じられ「本」のかたちをとる。それは私たちそのもの―「読むことが禁じられている本」なのだ。ウィルスの視覚を提唱することによりようやく本のすがたをとって「私たち」があらわれる。しかし、その読み方はまだ明確に打ち出されていない。

 ‘983月、再び足利JAZZオーネットを会場に〈ウィルスの視覚共同作業 SPACEU《日常》からJAZZオーネット《闇の入り口》へ 満たされない魂 たべればそこがきえてゆく〉が開催された。オーネットの暗い天井には様々な菓子類が吊され訪れた者は各々好みのものを取り食べる。私たちはSPACEUの合わせ鏡の深奥の闇の入口に立たされる。今度は自分で食べたものの包装紙を透明な封筒に入れ、それに住所・氏名を書いたラベルを貼り会場に据えられた〈闇のポスト〉に投函する。〈闇のポスト〉は私たちの身体を思わせ、そこに「名」が入ってゆく。からだの内部において記述を読み取る段階に入ったわけだ。天井から吊された菓子類はやはり「死骸」であり、さらに私たちの「欲」の対象である。「死骸」であり「欲」であるそれらはあたかも星々のように暗い天井に光る。私たちは他者を食べ自身の「痛み」を消し去り、その空虚を埋めていく。満たされると痛みはなくなりその疼いていたところがどこであったのか自覚できなくなる。これが私たちの「からだ」の仕組みなのだ。同時に天井から吊されていた「他者」も消え去る。「他者」もまた「痛み」であり痛みは痛みによって除去される。「たべればそこがきえてゆく」の「そこ」とは「痛み」そのものであることが分かる。ではこの「痛み」はいったい何処に行ってしまったのだろうか。〈闇のポスト〉への投函はそのことを考えさせる手立てである。食べられたものの「死骸」にはそれを食べた者の名が記され内面の記述を読み取る旅が始まる。これは自己を「ウィルス」の視点にまでもってゆこうとする行為なのだ。その「闇」から吐き出されたものとして再び「本」が届く。「本」は漆黒の封筒に入っており〈闇のポスト〉に投函した自分の「名」がそのまま宛名となって貼付されていた。つまり〈闇のポスト〉への投函はとりもなおさず自分に宛てたものだったのだ。〈闇のポスト〉を経て再び「痛み」は帰ってきた。しかもそこには「からだ」の記述があらたに書き込んであるはずだ。封筒は自分の名によって封印され「本」の内容を見るにはまず自分自身を切り開かねばならない。開封するとはたしてそこには真っ白な奉紙を八つにたたんでつくられた「本」が入っていた。「本」の裏面に会場で食べたものの包装紙のカラー・コピーが貼付されている。観音開きとなっている表紙にはやはり自分の名により封印がほどこしてあり再び「自分自身」に刃をあてがわねばならない。開くとそこには訪れた人々の「名」が横に連ねられており、自分の名がはいるべき場所は例の塩基配列が占めていた。さらに先を見ようとするとそこには同様の自分の「名の封印があり都合三度切り裂くことになる。開くとそこには正方形の鏡があり、その上には「光」その下には「闇」と記されていた。これは闇に封じ込められた光なのだ。SPACEUで示された合わせ鏡による光に包まれた闇の内にあるもの、つまりウィルスの意識がここではからずも明示される。ここにおいて私たちは光と闇が入れ子式になっていることに気づかされる。また、この闇は私たち自身の「からだ」でもあるのだ。〈闇のポスト〉は「からだ」の比喩であり、からだの情報が「本」に記述される訳だ。私たちは「自身」に刃をあて開き、身体の内奥深く下ってゆく。そしてそこにあるもう一つの光源に辿り着く。この光とはいったい何なのだろうか。これこそ食べられたものたちの意識=ウィルスの意識ではないだろうか。これらは私たちの奥深く沈殿し潜在意識となる。翻って考えるならば「痛み」は「潜在意識」となって掃ってきた。そしてそれは「光」に変換されて私たちの内にある。夜ごと私たちは夢を見るが、夢を照らし出しているのはこの「光」ではないのか。夢によって私たちの魂は傷付けられ癒されるがそれはこの夢の「光」が「痛み」を源としているからに他ならない。SPACEUで鏡により示された「光のなかの闇」は私たちの身体奥深くにある「光」と重なる。これはウィルスが私たちの素であり、同時に私たちの中に包摂され息づいているという証左なのだ。ここにウィルスの意識に自己が映り込みこの「不可解な書物=私たち自身」の読み方が明示された。しかし、ここで一つ気になることがある。それは鏡自体はけっして自らひかり輝かないということだ。それ自体輝いたら何も映し出せなくなる。鏡はあくまで意識の「光」にたいする受容機関なのだ。では闇に包まれた光そのものは一体いかなるものなのだろうか。これについては‘987月、桐生有隣館で行われた〈ウィルスの視覚 共同作業 JAZZオーネット《闇の入り口》から有隣館《闇の中》へ さがしものはなんですか〉によって示される。

 副題のとおり、この企画は闇の中において行われた。いよいよ闇の中―有隣館の酒蔵の暗がりに私たちは立ち入ることとなる。闇に入る際、オバナより一つの指示が与えられる。それは自分の住所・氏名が貼付されている封筒を見付けよというものだった。私たちは持参した懐中電灯の明りをたよりに闇に入る。足元には白いガーゼでおおわれ封筒が等間隔におかれている。参加者は自分の名を探すため一つ一つ白布をめくらねばならず、まるで死者の顔と対峙している気になる。各々の封筒は「死」という文字が無数に記された紙の帯によって繋がれている。「死」という絆で結ばれた私たちの「名」。闇のなかに沈められた自分の名をわずかな光をたよりに捜し出す。しかし、名はなかなか見出せない。自明であるはずの自分が他者に感じられてくる。1月、SPACEUにおいて開催された〈ウィルスの視覚 共同作業〉の参加者より録音した「ここはどこ」という声が繰り返される。いつしか「ここはどこ」は「わたしはどこ」となり「ここ」も「わたし」も分からなくなる。場所からも自己からも切り離されて闇にまぎれ闇と向き合う。やがてこれに似た行為をかつておこなったのではないかという気になる。ちょうど失われた記憶が呼び戻される感覚に似たものだった。しかし、この感覚はいったいどこから来るのだろう。もしかしたら「わたし」はこの世界に出現する以前、自己の「からだ」を見出すべく彷徨っていたのかもしれない。ときたま封筒が持ち帰られたあとに出くわす。白布をめくるとあの「本」に内蔵された鏡とおなじものがあらわれ自分の携えている小さな光によって反射する。反射した光の彼方におぼろに自分の顔が浮かび上がるが、自分の顔ではないようだ。いうならばこれは他者に映り込んだ自己のすがたなのかもしれない。ではこの光はどこから来ているのか。思うにこの光は意識そのものであり自分で自分を見たいという欲求から生じている。他者に映し込むことにより自己は確認される。自己は他者との関係によってはじめて成立している。他者を「鏡」として自己のすがたを映し込み、そのとき生じるずれや差異により自己をつくりあげる。よって他者の数だけ自己は存在することになる。

 筆者はついに自分の名を見出すことができなかった。はたして自分の名を捜し当てたとしたら、いかなる印象を得ただろうか。おそらく奇妙な安堵感であろう。しかし、「名」をはぎとって下にあらわれた鏡に映るすがたはいかなるものだっただろうか。おそらくそこには何も映らなかったのではないか。なぜならば私自身の「鏡」は私の意識としての「光」とあまりにも近い距離にあるためだ。それ自体輝く鏡は何も映し出せない。これは自分の眼が自分のすがたをとらえられないのと似ている。「眼は身体とともにあり距離感がない。自分の眼で自分のすがたを見ることは不可能なのだ。(鏡に映った自分のすがたは左右逆であり虚像にすぎない)。また自分の後姿も同様に見ることがでない。自分自身にとって自分が隠されているという謎。しかし、自分のすがたがはっきりと見えるときがある。それは夢のなかにおいてである。ときたま夢では自分自身のすがた他者のようにまったきすがたで見えることがある。そのときあきらかに自分自身の意識はからだの外にあり、自分の行いを傍らから見ている。ではこの「自分」を照らし出している光とはなんなのか。この光こそ「鏡」から離れた「光」=意識ではなかろうか。夢のなかでは遠い「光」があらわれ「鏡」に自分の像が結ばれる。日常を支配している自意識が弱められ、微弱な「潜在意識」が優位に立ったのだ。この、遠い「光」=「潜在意識」こそ自己の内にありながら遠く隔たったもの ―〈ウィルスの視覚〉に他ならない。あるいは私たちが「星の子」であるとするなら「星の光」とも言える。私たちが夜空を見上げるのもそれら星の「意識=光」と共鳴しているためであろう。星は闇のなかで瞬き、私たちの意識も闇で輝いている。また星は自ら光り輝く「鏡」であるため自分自身を映せず、自分が何者であるのか分からない。これも私たちと共通している。ウィルスが私たちの素であるならば星々は私たちの進化したすがたなのかもしれない。ここにおいてミクロとマクロは重なり円環をなす。もし私が有隣館の会場において自分の名を見出すことができ、その下に隠された鏡に自分のすがたを映し出すことができたとしたら私が手にしていた光は夢を照らす「光」であったということになるであろう。それはウィルスの視覚であり星の光でもあるのだ。この「光」のもと初めて私たちは自分自身という「書物」にしるされた記述を読み取ることになる。そこに何が書かれているかは次稿にゆずりたい。というのはこの時点では「夢」がまだ始まっていないからだ。「夢」は次なる共同作業〈有隣館《闇の中》から寺前荘《ねむり》SPACE it《あるいは夢によってめざめる》〉において示される。

 いずれにしろオバナの〈共同作業〉はともすれば日々の生活にかき消され自意識により隠されてしまう私たちの「からだ」や「潜在意識」の根源的な層へと私たちを導く。そして私たちは微視的にはウィルスの巨視的には星々の、日常においては人々の、新しい「星座」を見つけなければならないことに気づく。三つの星座が一つに重なるとき、私たちの新たな歩みが始まるだろう。タカユキオバナの仕事はその第一歩なのだ。

                  (‘98923記)

 

 

 

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