椰子の木のあいだに覗く踊り子は何に向かって踊っているのか……。今回のチラシの元絵となった版画を見つめていると、踊り子の向こうにある「空白の密度」が騒めいてきて、そこにたくさんの物語を見させてくれます。
……たとえば、今は夜。ガムランの響きに誘われて椰子の木陰から顔を出すと無心で踊る踊り子の後ろ姿を見つける。ガムランの音色はいつになく甘い響きでフレーズを紡いでいくけど、決して「しん」とはしていない。むしろたくさんの人いきれと話し声、腰布の衣擦れ、土や草を踏む音、子どもは笑い、子どもは泣き、おとな達は粛々と、同時に下世話に、切れ目なくざわざわとこの場所にやってくる。オダラン(祭礼)の夜。寺院の奥に入っていく人、出てくる人、その行き来だけしか、本当は見えてない。それなのに、子ども達は騒ぎ立てながらも、時々立ち止まって真剣な眼差しで踊り子に、あるいは踊り子の先に見入っているのはどうしてだろう? そんな夜は、踊り子の向こうにたくさんの時間や記憶が一気に押し寄せてきているから? 鳥や虫や森や川や、ご先祖様や神様なんかもいて、そうした長い長い時間のすべてが入れ子になった深い深い闇、あるいはすべてが溶け合った光。過去と未来が一緒くたになったとき、そのずっと奥のほうから、本当に注意して耳をそば立てないと聞こえないような小さな響きが聞こえてくる。でも音の発信元を突き止めることには意味がない。だってその音は、どれをとっても、いくつもの音が響きあった「こだま」なのだから……。
(「戦場の旗手」2005.7.31より抜粋) |