「昇格おめでとう、……良かったな、カミュー」
        甘い低音が耳朶に囁けば、
        「こうも短い間に、二度も同じように祝って貰えるとは思っていなかったけれどね」
        やや複雑を残した調子で若き赤騎士隊長は返した。
        第十部隊長の辞令を受けたのは僅か十日ほど前のことである。そのときも男は───青騎士団・第五隊長マイクロトフは、こうして傍に寄り添って、我が事のように喜びを顕にしたものだ。
        某調査で「身持ちが固い」と称されたカミューだが、それもその筈、彼はこの親友と生涯を誓い合った仲だった。街の乙女──加えて男連中──に熱い眼差しを注がれたところで、何の意味もない。カミューにとって、この世で最も美しいのはマイクロトフの闇色の瞳、最も大切なのはマイクロトフと共に在る一瞬なのだから。
        隊長職就任を祝われてくすぐったい心地を噛み締めたのも束の間、前任の第十隊長からの引継ぎを経て、漸く新体制が固まりつつあった矢先に事件は起きた。彼と一緒に新隊長に任ぜられた第九隊長が、初めての任務で重傷を負い長期の療養に入ってしまったのである。
        この人物は、晴れて掴んだ位階に舞い上がっていた。気張り過ぎていた。
        領内の魔物を退治するつとめの最中、配下の騎士が止めるのも聞かずに深追いし、逆に魔物から袋叩きにされてしまったのだ。かろうじて救い出されたが、命を落とさなかっただけ儲けものといったところだろう。
        位階者が長期に渡ってつとめを執れぬ場合、一旦地位を返上しなければならない。そうなった場合、空位となる席には下位者が繰り上がるのが常であった。
        カミューを快く思わない他の騎士隊長たちも、これには何も言えない。上位者が欠けたら下のものが埋めていく。ごく常識的な慣習を曲げれば、周囲にどう思われるか。
        まして白騎士団長ゴルドーもカミューに関心があるらしいと知った今、ここは慎重を期すべきだという保身がはたらいたようだ。結局カミューの第九隊長就任は信任を受けたのだった。
        議場での男たちの不満そうな顔つきを過らせて、ふと青年の表情が曇る。逸早く気付いたマイクロトフが、そろそろと手を重ねながら問うた。
        「大丈夫か? 何か嫌な思いをさせられているのではないか?」
        「そんなことはないよ」
        「隠さなくて良い。青騎士団内でも、みんな口々に言っているぞ。おまえはもっと早く位階を賜っても良かったのだ。おまえほどの才覚を持つ騎士はいない。おれのような男でさえ第五隊長にまで進んだのに、何故おまえが騎士隊長になれないのか、と……みんなで赤騎士団中枢の理不尽に苛立っていたのだから」
        それを聞いてカミューは微笑んだ。
        「運もあるよ。騎士団の位階は、当事者が引退なさるか、お亡くなりになるかで席が空くのだからね。後者を望める筈もなし、ただ実直につとめながら待つしかない」
        「カミュー……」
        控え目な言いように感動して、マイクロトフは青年をきつく抱き締めた。
        「青騎士団の上位者方は、引き際を心得ておられる。少しでも若いものに劣ると感じるや否や、即座に退団を決めてこられた。だからおれでも上へ行けたのだ。比べて、赤騎士団は……言っては何だが、あまり功を立てておられるとも聞かない。青騎士団では「地位に固執する者の集まり」とまで囁かれているぞ」
        「それは言いすぎだよ」
        吹き出して、カミューは愛しげに男の髪を梳いた。
        「だが、カミュー。彼らが今までおまえを昇格させなかったのだって、どうせ詰まらぬやっかみか何かなのだろう?」
        「確かにグラスランド出身だというのが弱みになっている感はあるけれどね」
        静かにカミューは首を振る。
        「おまえが言うような方ばかりではないよ。例えば副長や第七隊長は、何かとわたしを気に掛け、庇ってくださるんだ。出自など気にするな、恐れず、思うように手腕を揮えと言ってくださる」
        そうか、とマイクロトフに安堵の笑みが浮かんだ。
        「見る人はちゃんと見てくれているのだな……」
        「わたしは別に、地位を求めてはいないんだ。自分が騎士団で果たした行為の結果についてくる付録程度にしか思っていない。ただ……あまりおまえと差がつくと、おまえに相応しい人間でないと言われているようで、それはつらかったけれどね」
        「……馬鹿な」
        一気に燃え上がる体躯の熱に浮かされながら、マイクロトフは幾度も首を振った。
        「おれの方こそ、おまえに相応しい男である自信が持てずにいるのに……」
        「───わたしにはおまえが居る。それだけで、どんな針の筵にも耐えられるさ」
        「カミュー……」
        最後にポツリと自らの置かれた現状を零した青年の頬に、励ますように片手を当てたマイクロトフは、柔らかな吐息の洩れる唇を優しく塞いだのだった。
         
         
         
         
        同じ頃、城の食堂では。
        数人の赤騎士隊長がテーブルを囲んでヒソヒソと話し合っていた。
        「本当に辞める気かね?」
        問われた第六隊長の顔はげっそりと窶れている。落ち窪んだ目は血走り、その下にはどす黒い隈が浮かび、まさに死相さながらだ。
        「もはや耐えられませぬ。騎士隊長職を与る身、こんな結末は不本意なれど、命には替えられない」
        言いながら彼は、一通の封筒を座の中央に投げ出す。取り上げ、確認した第二隊長が低く呻いた。
        「……やはりそれが理由か」
        差出人は「ファントム」、赤騎士隊長の間では禁忌となりつつある名だ。
        幾日か前、同じ面子が食事を取っているところへ城のメイド嬢が書簡を届けにきた。廊下に落ちていたのを拾ったのだという。宛先が「赤騎士団・位階者ご一同」となっていたので、たまたま目についた騎士隊長の集団に渡そうと考えたらしい。
        「書状を落とすとは不届きな」と、彼らは事務官の不注意を口々に詰ったが、いざ差出人を見て硬直した。忘れもしない、それは会議場に投石した極悪人の署名だったのだ。
         
        『位階者各位に告ぐ。己が胸に手を当てて考えるが良い。赤騎士隊長カミューに劣りながら、彼より上位に就くものは、直ちに騎士団を去れ。さもなくば貴公らに禍が訪れよう』
         
        またか、と一同は思った。脅しが功を奏したと自惚れた痴れ者が、図々しくも再度の要求をしてきたのだ、と。
        最初はカミュー本人かと疑いもした。だが、調べたところ、窓硝子が割られた日、彼は城に不在だった。
        次に、彼と親しいものという説が出たが、これもすぐに打ち消された。社交的に見えて、カミューは交友範囲が非常に狭かったのである。
        友と呼べる相手は、同期入団の青騎士団・第五隊長マイクロトフくらいのものだが、この男ほど「ファントム」らしからぬ人物はいない。正義感が形を取って服を着たら彼になるのでは、と噂されるほどの男。たとえ親友のためであろうと、他人を脅したり、城の窓を壊したり、そんな行動に出るとは思えぬ騎士なのだ。
        となれば、一方的にカミューを慕うものの仕業だろう。
        何しろ彼は、「フェロの紋章」の強化版を宿しているのではないかと首を捻りたくなるほど、老若男女を問わず人気がある。魔性の力に魅入られたものが、カミューのためと信じ込み、衝き動かされているのに違いない。
        騎士たちは以降、若き騎士隊長の周辺観察に努めたが、怪しい人物は浮かばぬままだった。
        そこへきて、あるときから第六隊長の様子がおかしくなった。仲間たちが「まさか、な」と冷えた笑いを浮かべる中で刻々と窶れていった。
        そして今日、終に彼は周りの隊長らに退団の意を打ち明けたのだった。
         
        「にっくき「ファントム」、真っ先にわたくしに目をつけるとは……。確かに先の戦では部隊に大きな損害を出しました。けれど、わたくしの所為ではない。わたくしだけが責められる謂われはないというのに」
        ぴく、と一同は強張った。
        この場に集った騎士隊長の共通項の一つに、戦場における及び腰というものがある。部隊最奥にひっそり身を隠し、部下を盾に戦況を乗り切ってきたのだ。
        けれど先日のハイランド戦では、これが最悪を招いた。影に隠れていたため事態の把握が遅れ、部下の多くを傷つけた。敵の別働隊に急襲された騎士団長と第一部隊への援護にも回れなかった。
        第六隊長が「ファントム」の標的になったのなら、自身らも同じだ───騎士たちは口にせぬまま、密かに戦く。
        「……で、どんな禍が訪れたというのだ?」
        一人が言うと、第六隊長は顔を歪めた。
        「口にするのもおぞましい、思い出すだけで身も凍るような……」
        「だから、どんなだ。ハキハキ言え」
        はい、と男は両肩を落とす。
        「カエル、にございます……」
        男たちは聞き間違えたのかと身を乗り出したが、再度繰り返された言葉に呆気に取られた。
        「昨夜、自室に戻って休もうと致しましたところ、山盛りの蛙が布団の中に───」
         
        予兆はあったのだという。
        一同に脅迫文が届いたその日に、第六隊長が自室の机の引き出しを開けると、中から何かが飛び出してきた。ぎゃっと叫んでよくよく見れば、それは小さな雨蛙であった。窓から忍び込み、何時の間にか引き出しに納まっていたのだろうと、そのときは特に何を考えるでもなかった。
        だが。
        蛙の訪問は連日続いた。箪笥を開けても、風呂桶の中にも、常に蛙が潜んでいるようになった。
         
        「この部屋には隙間が多いのだろうかと、次第に憂鬱になっていたのですが……」
         
        昨晩は酷かった。
        一風呂浴びたときには「今日は居ないな」と安堵したのに、上掛け布団を捲った彼は、驚愕のあまり叫ぶことも出来なかった。
        純白の敷布の上には無数の蛙が蠢めいていた。行動を制限していた上掛けが取り払われたのを幸いに、それらは一斉にピョンピョンと跳ね始め、尻持ちをついて震える男の膝にまで這い上がってきたのである。
         
        「そ、それは……」
        「なかなかに凄まじい光景であるような……」
        一同は絶句しつつ、虚ろな笑みを垂れ流す第六隊長に眺め入る。
        「後で気付きましたら、机上に奴めの文が……。「耐えの姿勢、なかなか見事」と記されていました。けれどもう限界です。敷布を取り替えたところで、二度と心安らかに眠るなど出来そうにありません。この先、いつまた蛙に襲撃されるかと思うだけで死にそうです。という訳で……皆様、お世話になりました。わたくしは、命あるうちに騎士団を辞します」
        そう言い残して、彼はふらふらと立ち上がった。ひょっこり蛙が横切るのではないかと、それこそ足元を凝視して、一歩ごとにびくついている。
        男が完全に食堂を出るのを待って、一人が呟いた。
        「……愚かな。たかが蛙ごときで、栄誉を捨てるとは」
        「気味の良いものではないでしょうが、それくらい乗り切る気概なくば、隊長職など勤まりませぬのになあ」
        ははは、と笑い合った次には、重い空気が垂れ込める。
        「……まこと、「ファントム」の仕業なのだろうか」
        「だとすれば、我らも用心した方が良いのでは……」
        それにしても、と一斉に溜め息が洩れた。
        「実に姑息な攻撃ですな。石を投げる、蛙を仕込む……、何に用心したら良いものやら」
        「各人、自室前に張り番を置いては如何かと」
        「馬鹿者。位階者ともあろうものが、怯えているのかと見られるではないか。しっかと窓を閉め、施錠するしかあるまい」
        「しかし、滅多に使われぬとは言え、合鍵は幾つもございますからなあ……」
        迫り来る魔の手から逃れる有効なるすべも見つからず、一人が悔しそうにぼやいた。
        「……これで第六位が空き、下位者が繰り上がる。その中にはカミューも入っている訳か。気に入らぬ、「ファントム」の思いのままに事が進んでいるではないか」
        「魔性の美貌に魂を抜かれた副長や第七隊長はともかく、我らだけでも団結せねばなりませぬな」
        然様、と座の最高位である第一隊長が握った拳を震わせた。
        「蛙ごときに恐れを為しては騎士の恥。良いか、各人、心を強く持て。そして一日も早く「ファントム」を捕えるのだ」
        どうやら騎士団内の一員であるらしい敵。そうそう長く正体を伏せ続けられはしないだろう。姑息な脅迫に負けて、下位者に──特にカミューには──地位を譲るなど言語道断、「騎士隊長」の呼称が自身らにもたらしてくれる優越を手放すことは絶対に出来ない。
        「捕えた暁には「ファントム」め、逆に蛙責めにしてくれようぞ」
        「おお……それは楽しそうですな」
        不意にどっと沸いたテーブルを、他の席で食事を取っていた騎士が不思議そうに見詰めていた。
         
        騎士隊長たちは、まだまだ敵の恐ろしさを舐めていた。
        魔物の名を冠した「彼」が、闇に潜んで間近に在るのを認めようとせずにいた。
        こうして、赤騎士団の常軌を逸した位階変動は始ったのである。
         
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