老獪なる大魔法使いメイザース。
年齢は八十を越すと言われているが、堂々とした体躯に老いの陰りは一切なく、研ぎ澄まされた刃物のような厳しさが全身から立ち昇っている。
この老魔道師とまともに相対したことはないマイクロトフだったが、腕に抱いたカミューのため、躊躇なく歩を進めた。
「ふむ……どれもこれも読んだ本ばかりだ……つまらんな」
独りごちながら本棚の背表紙を眺めている男の横に立ったマイクロトフは、姿勢を正して名乗った。
「偉大なる魔道師メイザース殿……おれは元マチルダ青騎士団長を勤めておりましたマイクロトフと申します。貴君の大いなる知識と魔力を見込んで頼みます……どうか、力をお貸しいただきたい」
メイザースは丁重な挨拶に目を細め、好ましげにマイクロトフを見返した。それから悠然と腕を組み、改めて若い騎士団長を眺め回す。
「ふうむ……近頃の若者には珍しい折り目正しさ……気に入ったぞ、若いの」
「へー、あんたみたいな頑固ジジイに気に入られるとはねえ……やるじゃねーか、マイクロトフ」
笑いながら追いついてきたビクトールをちらりと見遣り、メイザースは溜め息を洩らした。
「おまえは作法がなっとらん。ティントの洞窟で出会ったときより感じていたが、もう少し口の聞き方に気をつけたらどうだ」
「へーへー、悪かったね」
へらへらと笑い飛ばすと、ようやくビクトールは表情を引き締めた。
「実は……笑い事じゃねえんだよ。あんた、身体の入れ替わりについて何か知らねーか?」
「入れ替わり……だと?」
怪訝そうに眉を寄せた老魔道師に、ウィンが続きを説明する。
「メイザースさん……実は今マイクロトフさんが抱いているむささび、赤騎士団長のカミューさんなんです」
「何だと?」
「朝、目が覚めたら身体が入れ替わっちゃっていたらしくて。カミューさんの身体にはムクムクの心が入っちゃっているんです」
内緒ですよ、と小声で付け加えるウィンだったが、メイザースは眉を寄せたまま深々と考え込んでいた。
「いい年をした成人男子が小動物を抱いてどうしたのかと思えば……そういう事情だったのか」
「ムクムク殿の方はさほどでもないようなのですが、カミューはむささびの身体に馴染めないようなのです」
「歩くのにもよたついていてな、気の毒なくらいなんだ」
マイクロトフの苦悩を帯びた言葉に、フリックが続けた。
深刻な討論に飽きてしまったのか、端正な青年の姿をした『ムクムク』はその場でくるくると回り始める。やや影になっているとはいえ、衆人の目が有る図書館だ。慌ててウィンは青年の腕に腕を絡めて制止に務めた。
「何と……あの優美なる若者が、この獣の肉体に……」
無意識らしい呟きにぴくりと反応するマイクロトフだが、ここはいちいち動じている場合ではないと思い直す。
「哀れなことだ……さぞ無念であろうな」
言いながら、何故かメイザースはマイクロトフの腕からむささびをもぎ取った。突然他の男に抱かれた『カミュー』は、だが抵抗する間もなく厳つい頬を擦り当てられる。
「おまえのような美貌の持ち主が、いつまでも小動物の肉体に封じられるのは許し難いことだ。案ずるな、赤騎士団長よ……このメイザース、あらん限りの尽力を約束するぞ」
「ムー……ムーム」
見た目には小動物を愛玩する老人、だが言動の不穏さは一同にも伝わってくる。どうやらこの魔道師、常日頃の赤騎士団長を憎からず思っているらしい。次第に険悪な表情と化していくマイクロトフに、常識人代表のフリックは慌てた。
「メ、メイザース。それで肝心の二人を元に戻す方法だが……何か心当たりがあるのか?」
「無論だ、私を誰だと思っている。偉大にして博識なる大魔法使いメイザースであるぞ」
ふん、と鼻を鳴らした男は、その隙に『カミュー』を奪還されていた。マイクロトフは腕に戻ったむささびをひしと抱き直し、メイザースが触れたあたりをしきりに撫でている。
些か不満そうにそれを睨んでから、彼は掌を翳した。見る間に空間が歪み、一冊の本が現れる。
「これは参考までに……肉体の入れ替わりについての事例が書かれた書物だ」
「へえ……、すごいな」
フリックの素直な感心に気を良くしたのか、メイザースはぐいと胸を張った。
「はいはい、あんたほど頼りになる男は同盟軍を見回してもいない、ってなもんだ。で、どうすりゃ元に戻る? 本に書いてあるのか?」
投げやりくさいビクトールの追従であるが、そんな賛美でも老人の心を満足させるらしい。メイザースは短く言い切った。
「テレポートだ」
意外な一言に一同は息を飲んだ。
「テレポートって……あの……?」
「瞬間移動魔法のアレか?」
そう、とメイザースは重々しく頷いた。
「簡単なことだ……むささびの心と赤騎士団長の心をテレポート魔法で移動させれば良い」
「か、簡単に言うけどな……」
「そのようなことが可能なのですか?」
やっと救いの光が見えたマイクロトフは、嫉妬じみた感情を忘れて丁寧に返した。
「だよな……テレポートったって、そんな……」
「おまえたちはテレポートという概念をどう心得る? あれは、物質を交換するというのが基本なのだ」
「交換? 移動でなくてか?」
「そうだ。良いか、ここにあるものをこちらに移動する。となると、それまでこちらにあったものと物質が重なるであろう? よって、代わりにこちらにあったものをここへ移す……つまり交換だ。おまえたちが所謂テレポート魔法と呼んで他の地へ飛ぶときには、同比重の空気が代わりに城に送り込まれているのだ。でなければ、おまえたちは飛んだ先の空気とぶつかり合って消滅してしまうことになる」
「そ、そうだったのか……」
「初めて知ったぜ……」
彼らは一様に感心を浮かべ、偉大なる魔道師に尊敬を示す。それからふと、城でテレポート魔法を操れる唯一の人物を思い浮かべ、途端に胸が冷えた。
「ふむ……何を考えておるのか、分かるぞ。だが、『瞬きの紋章』を攻撃魔法として使わずにテレポート魔法として使えるのは、あの娘一人だ。双方の心を元の肉体にテレポートすれば事態は解決する」
話題の少女ビッキーは、時折とんでもないヘマをやらかす。それ、と楽しげな掛け声と共に、目標とはまるで別の場所にテレポートさせられた経験は数多だ。自然、不安は過ぎるものの、城にテレポート魔法を駆使出来る人物は他にないとメイザースが言うなら、真理なのだろう。
マイクロトフは不安げなむささびをきつく抱き締め、宥めるように声を掛けた。
「ビッキー殿にお任せしよう。大丈夫、何があろうとおれがついているぞ」
「ムムー……」
むささびを慈しむ青騎士団長をしばし見詰め、メイザースは脇に立つビクトールの脇腹を突付いた。
「つかぬことを聞くが……あの青騎士団長は少々危ないのではないか? 幾ら身体が入れ替わっているとはいえ、獣相手に今にも接吻しそうな気配だぞ」
往年の魔道師の洞察力は鋭い。小声の問いながら、不運にも聞こえてしまったフリックと共に、ビクトールは力なく笑い返すばかりだった。