受難の日


その朝、新同盟軍本拠地の城には普段と変わりない穏やかな陽光が降り注いでいた。
ハイランド王国との戦いの最中にありながらも、ここは人々の住処でもある。そろそろ朝の早い住民が起き出す刻限、ひとしきり訓練の汗を流した元マチルダ青騎士団長マイクロトフが住居に充てられた地区へ戻ろうとしていた。
マイクロトフの歩調は早い。
何しろ、これから愛しい恋人を眠りから取り戻さねばならないという使命に燃えているからだ。
青騎士団と対を為す赤騎士団を率いるカミューが、朝に弱いというのは公然の秘密である。黙っていれば昼近くまで寝過すこともざらだが、緊張が高まれば自然と覚醒する器用な体質でもあり、つとめに支障を来すことは皆無だったから、これまで取り立てて問題とされたことはない。
カミューの信条は『そこそこ』という類のものらしい。無駄に気を張り巡らせることもなく、やれることを適度にこなす。我武者羅という言葉が似合わない点では、これほどマイクロトフと両極端な人間もいない。
結局、自分にないものを求めることから二人は惹かれ合い、いつしか友情以上の関係を育むようになったわけだ。
騎士団を離反して新同盟軍の本拠地に移った当時、居城は突然の住民増員に追いつかなかった。
騎士らは大部屋に雑魚寝の有り様、さすがに要人に礼を払った指導者の厚情で団長二人には個室が与えられたが、それも二人で一部屋といった状況だった。
カミューは案内された部屋で二人きりになった途端、『何だか慎ましやかな愛の巣みたいだ』と口走って、粗末な処遇など無縁の崇高な使命感に拳を震わせていたマイクロトフをよろめかせたが、それはある意味正論だった。
城が増築に増築を重ねて部屋が分かれた今も、障りがない程度の親密な夜は送られていた。正に、愛の巣である。
扉を叩き、いつも通り応えがないのに苦笑しながらマイクロトフは歩を進めた。開け放たれた窓に揺れるカーテンを認めるなり、僅かに顔をしかめる。
カミューは時折こうして窓を開けたまま就寝する。
マイクロトフに言わせれば不用心きわまりない行動なのだが、デュナン湖を渡る夜風が心地良いのだというのがカミューの主張だった。
万一、賊が押し入ったとしても、我が身を守るだけの十分な力を持った彼であることを知るだけに強く諫めることも出来ないが、マイクロトフとしては気の揉めるところだ。
やれやれと首を振りながらカーテンを引き、朝日を迎え入れた。それから大股に部屋を横切り、壁ぎわのベッドを覗き込む。そこでは上掛けがこんもりと盛り上がっていた。
これも見慣れた光景だ。
カミューは優美なる姿に似ず、寝相が悪いのである。
布団に潜り込んで眠るのは日常的で、時折ベッドから落ちかけていることもある。一部の隙もない冷静沈着な赤騎士団長でありながら、そんなひどく幼げな一面を見るのもマイクロトフの喜びのひとつであった。
「カミュー……朝だぞ、起きろ」
甘く呼び掛けながら上掛けを捲ろうとしたとき、最愛の恋人と同衾している存在に気づいた。
ぎくりとして慌てて布を取り去ると、そこに現れたのは一体のむささびであった。
赤いマント、むっくりとした体躯のふかふかの生き物がカミューとひしと抱き合って眠っている。
これが人間であったなら、愕然としながらの愁嘆場が繰り広げられるところかもしれない。しかし、さすがにむささび相手に嫉妬する気にもなれず、苦笑は深まった。
このむささびは、何でも指導者ウィンの幼馴染みとやらで、宿星の元に集った歴然たる仲間の一員なのだ。
最初は戸惑ったものだが、どうやら意志の疎通も少しは可能で、戦闘の役に立っているのか否かはさておき、熾烈な戦いに臨む仲間たちの心を和ませる存在である────ようだ。
「ムクムク殿……そこはおれの定位置ですぞ」
軽く揶揄しながらマイクロトフはぐっすりと眠りこけるむささびをひょいと抱き上げた。窓から放り出したらそのまま落下しそうなほど熟睡しているのを見て、やむなく部屋の隅に横たえる。それから改めてベッドに戻り、むささびを抱き締める格好のまま未だ眠り続けるカミューに見入った。
白く輝ける頬、陽に透ける薄茶の髪。
そして髪よりもやや色濃く長い睫に覆われた目許────
今日も完璧な美しさである。
マイクロトフは己の恋人の美貌をしばし堪能し、それからベッドの隙間に腰を落とした。
「カミュー……」
起こすのに気が咎めるほど安らかな眠りを貪る恋人を切なく思いつつ、そっと指先を髪に埋める。その感触によって覚醒を促されたのか、マイクロトフが愛してやまない琥珀色の瞳がゆっくりと開いた。
マイクロトフは再度柔らかく呼び掛けた。
「朝だぞ、もう起きろ」
「………………ム?」
返ってきたのは妙な反応であった。
寝惚けているのかと微笑みながら、マイクロトフはゆっくりと唇を寄せた。いつものように目覚めのキスを交わそうとした彼は、だが凄まじい拒絶を受けた。
「ムムーーーーーッ!!!」
「カ、カミュー?」
両手両足を突っ張ってマイクロトフを押し退けようともがくカミューには、普段の穏やかさもなければ親愛の眼差しもない。ただ驚愕したように目を見開き、全身でマイクロトフの抱擁から逃れようと暴れるばかりだ。
「ど、どうした? いったい何が……」
「ムッ、ムムム、ムムムーーーッ」
あまりに激しい抵抗に遭い、マイクロトフはベッドから立ち上がった。途端にカミューは壁ぎわまでいざっていって、警戒心も露にマイクロトフを睨み付けてきた。
「カミュー……?」

 

おかしい。
態度も妙だが、何より唇から零れる響きが人語を為していない。
これはカミューというよりは、むしろ────

 

「……ム?」
今度は背後から同様の呻きが起きる。困惑しながら振り返ったマイクロトフは、先ほど横たえたムクムクが起き上がり、我が身を撫で擦っているのに眉を寄せた。
「ムムム? ムッムム……」
ベッドの上でも。
「ムムムム! ムムーーッ、ムムム〜〜〜〜」
前からも後ろからも聞こえてくるのはむささびの声。マイクロトフは目が回りそうになった。
「いったい何なのだ! 頼むから普通にしゃべってくれ!」
さすがに耐え兼ねて叫んだマイクロトフは、とても嫌な予感に苛まれていた。
そこでムクムクが足元に駆け寄ってきて、大きな瞳で彼を見上げる。もの言いたげな瞳の輝きを見た刹那、嫌な予感は確信に変わった。
恐る恐るベッド上のカミューを一瞥してから、足元にへばりついているむささびを見下ろす。搾り出した声は掠れていた。
「────おまえがカミューなのか?」
小さなむささびは泣きそうな形相で幾度も頷いた。
「すると……こちらはムクムク殿?」
慕わしい恋人の姿をした存在は、ポリポリと腹部を掻きながら唸る。
「ムッ」

 

 

 

平穏な朝は、悪夢の朝へと一変した。

 


まずは悩んでみる。

 

とにかく人を呼ばねば!

 

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