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47:関


東海道を歩く (47:関宿) 7km




(写真は関宿の町並み)

亀山宿を抜けて、ずっと鈴鹿川と並行に歩き、JR関西線の踏切を渡ると、関宿の入口である
「東追分」です。






次の写真は、百五銀行です。



写真の関まちなみ資料館(300円)で、関宿の町並みについての説明を受け、パンフレットを
貰います。





関宿は、国の重要伝統的建造物保存地区に指定され、往時のままの町並みが残る宿場町
です。



時代劇のセットの中にいる様な錯覚に陥ります!



これまでの53次の宿場町の中で、一番長くて、しかも一番完全なかたちで残る町並みに
感動します!!

約2キロにわたって、完全に江戸時代の宿場町の町並みが保存されているのは驚きです!

圧巻です!!



宿場町の情緒にたっぷりと浸って、楽しみながらゆっくりと歩きます。

更にすごいのは、全ての関宿の保存建造物には、実際に人が、普通に住んでいる、ということ
です!

これは、よほどの住民の協力と熱意がないと出来ないことですよね!



上の写真は、高札場です。

下の写真は、川北本陣跡です。



関宿には、鈴鹿の関所があり、「鈴鹿の関」宿が省略されて「関」宿になったそうです。

”関の山”(”これ以上は無理”)の語源となった「関宿の山車(だし)」は、狭い道幅ギリギリの
山車の大きさと、山車の膨大な費用が”これ以上は無理”というところから来ているそうです。





へ〜!そうなんだ! 知らなかったな〜!





上の写真の老舗・深川屋は、江戸時代のそのままの建物で、関宿名物の「関の戸」を売って
います。

取っておきたくなる様な箱に入っています。

見た目は、黄粉をまぶした様な感じですが、食べてみると、砂利っとした触感の砂糖
(阿波特産の和三盆)です。

お菓子は、500円玉に厚みを付けて少し大きくした感じで、小さいながらもしっかりした味です。





上の写真の古い木の看板の老舗・前田屋製菓で、関宿名物の「志ら玉」を売っています。
平べったい饅頭で、赤と黄色と緑の小さい飾りが、見た目は可愛らしいです。

こしあんが、あっさりして上品で、美味しいですよ。

旧東海道を右にそれて、今晩の宿・関ロッジへ向かいます。

鈴鹿峠越えが、少しでも楽になる様に、今晩の宿は、鈴鹿峠の登り口に一番近い
国民宿舎・関ロッジ(3,000円)を予約しています。



関ロッジでは、明日への鋭気を養うために、写真の関宿名物のぼたん鍋(イノシシ肉)を
注文しました。



臭みも無くて、あっさり味で美味しいです。

明日は、いよいよ、箱根と並ぶ西の難所・鈴鹿峠を目指します。

インターネットによると、不定期のバスが一日に1本通るのみだそうです。

でも、不定期の路線バスなんて、あるハズないですからね。

インターネットはいい加減だから、行ってみないと分かりません・・・

箱根はキツかったけど、果たして鈴鹿は?

箱根峠より厳しい難所はないだろうと、タカをくくっていましたが、いよいよになると、膝痛で
弱気になってしまっていることもあり、”鈴鹿峠恐怖症”になったみたいで、ホントに不安に
なってきました。

関宿から坂下(さかのした)宿まで約7キロです。

(但し、関宿から坂下宿までは明日歩きます。)




バスで行く東海道「第9回-2」 (関宿) 2012.12.8


「47:関宿」

宿場の入口に、東海道と伊勢別街道の分岐点である「東の追分」があり、写真の鳥居、常夜灯、
道標が残っています。



ちなみに「西の追分」は、宿場の反対側の出口にあり、東海道と奈良へ向かう大和街道の分岐点
でした。

関宿は、東海道、大和街道、伊勢別街道の3街道の分岐点に位置していたので、お伊勢参りの
団体ツアーが盛んになった

江戸時代には1日の通行人が1万5千人もあったそうです!

東西文化圏の境目に”関”宿があったため、「”関”より西」「”関”より東」という意味で、現在の
「関西」「関東」の語源になった、という説もあるそうです。





東海道沿いの旅籠名の大部分の看板については、京都側は、上の写真の様に「長谷屋」と
”漢字”で書かれ、江戸側は、下の写真の様に「はせや」と”仮名”で書かれています。

これは、当時、京都の人は教養が高く漢字が読めたので”漢字”表記、江戸の人は教養が低く
漢字が読めなかったので”仮名”表記だった、という説があるそうです。
(驚き!)

こんな学説!、関東の人は怒った方がよいのでは!!

以下の写真は関宿の町並みです。









(山車の倉庫)

「関宿」と言えば、何と言っても「関の小万(少女)」です!

  ♪関の小万が亀山通ひ♪

  ♪月に雪駄が二十五足♪

以下は、鈴鹿馬子唄にも唄われた「関の小万」の物語です。

関の「小万」は、下の写真の会津屋(旧旅籠山田屋)に住んでいました。


江戸時代には、小万は、女の身でありながら、父の仇討ちを果たした烈女として有名だった
そうです。

小万の父は、九州久留米・有馬氏の家来の剣道指南役でしたが、遺恨により同輩の小林軍太夫
に殺されました。

身重の妻(小万の母)は夫の仇を討つため旅に出ましたが、鈴鹿峠を越え、関宿についた頃には、
旅の疲れが重なって、行き倒れ同様の有様でした。

山田屋の主人は、この妻を手厚く看病します。

妻は、ここで小万を産みますが、小万の将来を宿の主人に託して死んでしまいます。

小万は、成長して養父から両親のことを聞かされ、女の身ながら、亡き母の志を継いで、
亡父の仇討ちをする決心をします。


小万は、15才から風雪にもめげず、関宿から亀山の道場に通って、修行につとめ、武道に
励みます。



上の写真の「小万のもたれ松」 は、小万が、剣術の稽古に、関宿から亀山宿まで通っていたときに、
悪さをする若者を避けるため、身を隠した松だそうです。

そして、1783年、ついに、運良く仇と巡り会うことが出来て本懐を遂げました。

これにより、関の小万の名前は、一躍、全国に広まりますが、その後も山田屋にとどまって
養父母に仕え、1803年、三十六歳の若さで亡くなりました。
 
小万の墓は、この山田屋(現在の会津屋)近くの福蔵寺にあります。

福蔵寺は、もともとは、織田信孝の菩提寺ですが、下の二つの写真の墓を比べてみると分かる様に、
信孝の墓よりも小万の墓の方が立派です!



46:亀山
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