東海道を歩く(39:知立宿) 11km
(写真は、知立の松並木)
知立(ちりゅう)は、昔、池鯉鮒(ちりゅう)と書いたそうです。
江戸時代に、東海道三社のひとつであった知立神社の池を泳ぐコイやフナから
「池鯉鮒(ちりゅう)」宿の名前がついたそうです。
う〜ん! 難しい! 読めません!
そう言えば、年末のテレビの”何これ珍百景”で、池鯉鮒さんの読み方クイズをやっていました。
知立宿は、約500mの見事な「知立の松並木」から始まります。
”並木八丁”と呼ばれる松並木の中ほどに、馬の像があります。
江戸時代には、松並木で馬市が行われたそうです。
これは、広重も描いた馬市の開催地として有名だったからだそうです。
知立の松並木は、写真の様に、並木の外側に更に道があります。
これは、馬市の時に馬をつなぐためのスペースだったらしいです。
松並木を抜けると、旧東海道は、国道一号の地下道をくぐり、国道の北側から南側に移ります。
名鉄本線の支線である名鉄三河線の踏切を渡ると、知立宿
の商店街が始まります。
ここで、知立名物焼き立ての白あんと黒あんの「あんまき」を買います。
上品なアンコで、甘さも程良く美味しいです。
旧東海道から少し南へ入った所に名鉄知立駅があり、本日はここで宿をとり、翌朝、8時前に
知立をスタートし、間宿である有松宿を経由して鳴海宿へ向かいます。
翌朝、知立宿を抜けて、逢妻(あいづま)川を渡ると、国道1号と合流し、自動車や
電子部品などの工場が点在します。
トラックの排気ガスに悩まされながら歩いていると、大きな音が工場のスピーカーから
”ラジオ体操第一”です!
工員さん達の始業前の体操なのでしょうけど、懐かしい〜!
更に、西へ歩いてゆくと、尾張の国と三河の国の国境である「境橋」がありました。
川の土手で一休みして、水分を補給します。
川の土手に自転車を止めて、朝ご飯でしょうか、オジサンが、オニギリを頬張っています。
オジサンと目が合ったので挨拶をすると、これから得意先
回りを始めるところ、とのこと。
世間話をしたあとで、オジサンは、”今年は、ヒドイ年だったけど、来年は、あなたにとって、
良い年であります様に!”
と言って、自転車を漕いで行きました。
オジサン、ありがとう!
国道一号との合流と分離を繰り返しながら、更に4キロ程進むと、急にトイレへ行きたく
なりました・・・
この時期、昼間で晴れてはいても、風が身を切る様に冷たく、水分補給した水が汗で出る
ことはありません・・・
ちょうど、名鉄の前後駅の前後だったので(ダジャレ?)、駅のトイレを使おうかと思いましたが、
切符を買わないと中に入れません・・・
駅の周りをウロウロしていると、駅の駐車場にトイレが・・・
助かった!
この時期は、水分補給よりもトイレの確保が優先です。
前後駅から、更に、1キロ余り歩いて、名鉄本線のガードをくぐると、すぐ左手が、
桶狭間古戦場跡です。
この周辺は、「桶狭間」の古戦場だったところで、整備された小さいけれども綺麗な公園に
なっていました。
歴史上、最も華麗な逆転劇と言われる「桶狭間の戦い」の場所です。
1560年、今川義元が率いる大軍2万5千に対し、約十分の一の軍勢で挑んだ織田信長が、
天候の急変を機に、この桶狭間で休息していた今川軍に奇襲をかけました。
今川義元は、あっけなく戦死し、織田軍が圧勝します。
今川義元が、上の写真の木に、馬をつないで休息しているところを急襲され、討たれた
そうです。
へ〜! その木が今も残っているんだ!
この古戦場跡公園に、今川義元の墓がありました。
更に、1キロ程歩くと、岡崎宿と鳴海宿の中間に位置する有松宿に着きました。
知立宿から有松宿までは約9キロです。
(知立宿から鳴海宿まで約11キロです。)
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