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甲州街道を歩く (32:甲府柳町宿) (山梨県甲府市) 2021.9.7




(写真は、叩けばカンカンと金属の音色がしたという「かんかん地蔵」)


 

山梨県の県庁所在地の「甲府」の地名は、「”甲”斐の国」の「”府”中」だったことに由来します。

宿場の機能が、甲府の中でも柳町に集中していたので「甲府柳町宿」と呼ばれました。

しかし、残念ながら柳町の町名は消え、現在は中央町に変わり、当時の宿場町としての面影を残すものは何もありません・・・

甲州街道は、当初は、ここ甲府柳町宿が終着でしたが、1604年に、中山道の下諏訪まで延長されました。

「甲府柳町宿」は、本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠21軒でした。

1519年、武田信玄の父の信虎が、「石和(いさわ)宿」からこの地の「躑躅ケ崎(つつじがさき)」に居館を構えました。

その後、秀吉の代に甲府城が築かれ、以降、城下町として発展しました。


 



NTT甲府支店西の交差点を左折すると「甲府柳町宿」に入ります。


この交差点が5つ目の「金手」です。

(この前の1つ目から4つ目の金手については「甲州街道を歩く:石和B」を、
その他の宿場町の金手については、「電車で行く東海道:掛川」、「バスで行く東海道:岡崎」を見てね。) 

                 

 

メインストリートを進み、上の写真の信号(問屋街入口)を右折します。

ここが6つ目の金手(枡形)です。



そして、突当りを左折します。

ここが7つ目の金手(枡形)です。

 

更に直ぐ突当りの上の写真の信号(桜町南)を右折します。

ここが、最後の金手(枡形)で、8つ目です。



上の写真の相生交差点を右折して進むと、甲州街道から外れてJR中央本線の甲府駅です。

余りの暑さに、駅ビルで涼みながら昼食を食べようと、一旦、甲府駅へ向かいます。   



生ビールを飲みながら、「煮込みかぼちゃ豚肉ほうとう」(1,320円)を食べます。 

   

カボチャがでデカい!

ボリューム満点で満腹になったので、再び甲州街道に戻ります。

更に進んだ下の写真の交差点(丸の内郵便局東)が「身延道追分」です。



交差点の左手に復元された「身延道道標」があり、「西 志んしゅうみち」と「南 みのぶみち」と刻まれています。



「志んしゅうみち(信州道)」とは、これから長野(信州)へ向かう甲州街道のことで、
「みのぶみち(身延道)」とは、日蓮宗の総本山である身延山久遠寺へ向かう街道のことです。




少し進むと、写真の「法輪寺」があります。



境内には、「武田有義」の墓と言われている「かんかん地蔵」があります。



叩けば「金磬(きんけい)」(注)の音がしたところから「かんかん地蔵」と呼ばれました。

(注)金磬:吊り下げて使う金属製の打楽器

説明版によると、「武田有義」は、最初は京都で平重盛に仕えていました。

しかし、「源頼朝」が平家追討の決起をすると、有義は、甲斐・源氏軍の総大将として、反平家の兵を挙げました。

そして、頼朝の死後、頼朝の側近だった梶原景時は、この有義を次期将軍に担いで「梶原景時の乱」を起こします。

しかし、この反乱は失敗に終わり、有義は九州の五島列島まで逃げて、その後、五島氏の祖となった、と書いてあります。

 

法輪寺を出て、上の写真の寿交番前の交差点を左に入ると、写真の「文珠神社」があります。





境内には、上の写真の「物言えば 唇寒し 秋の風」の「芭蕉句碑」があります。

(句意:人の短所をいった後は、後味が悪く、寂しい気持ちがする・・・何事につけても余計なことを言うと災いを招く。)



また境内には、上の写真の「山口素堂」の碑もあります。

山口素堂は、「目には青葉 山ほととぎす 初がつお」を詠んだことで知られる甲府藩士で、この近くを流れる濁川の治水事業に携わりました。

 


   

(写真は、甲府城の「山手渡櫓門」)    


”甲府城は武田信玄の城”、という誤ったイメージをお持ちの方が多いみたいです。


実際には、甲府城は、武田氏が滅亡した後に、豊臣秀吉の命により築城されました。

関東の徳川家康に睨みを利かせるための、秀吉の重要な戦略拠点でした。

江戸時代に入ると、当初は、徳川家の一門が城主となる特別な城でしたが、1704年、祖先が甲斐出身の「側用人・柳沢吉保」が城主となりました。

吉保が城主になると、城の整備が大幅に進み、城下町として大きく発展しました。



しかし、吉保の子の吉里が大和郡山(現在の奈良県大和郡山市周辺)に国替えになると、「甲斐国」は「幕府の直轄地」となり、
「甲府城」は「甲府勤番」(注)の支配下におかれました。


(注)「甲府勤番」:「甲府勤番」の職務は城の警備のみで、その責任者が「甲府勤番支配」で3,000石でした。

    江戸からの赴任は、甲州街道の険しい小仏峠と笹子峠を越えねばないため不人気の職で希望者が無く、後には、不良旗本の左遷の職とされるようになりました・・・

そして、享保年間の大火などにより、本丸御殿や銅門などが焼失、甲府城の壮麗な姿は次第に失われていきました。

明治時代に廃城となり、城内の主要な建物はほとんどが取り壊されました。

現在は、当時の城跡の一部が「舞鶴城公園」(甲府市歴史公園)として開放され、鉄門(くろがねもん)や稲荷櫓(いなりやぐら)などが復元されました。



 



JR甲府駅の南口を出て、駅前のヨドバシカメラの脇の道を抜けると、もう直ぐに甲府城の入口です。













上の写真は、甲府城の火薬庫の建物の「煙硝蔵」(えんしょうぐら)の跡です。



写真は、平成16年に再建された「稲荷櫓(やぐら)」です。



城内の鬼門(北東)に位置することから、艮櫓(うしとらやぐら)とも呼ばれ、武具蔵(ぶぐくら)として使われていました。



写真は、稲荷櫓の内部です。









(稲荷曲輪門)





(鉄門(くろがねもん))





上の写真は、「天守台」の石垣ですが、一つの石を二つに割った「兄弟石」がいくつかあります。

(赤丸印の中の2個と、2個の黄丸印が兄弟石です。)

   

(赤丸印が一つの石を二つに割った石割りの痕)



(石割りの説明版から)



(天守台)







(天守台からの眺め)





上の写真は「銅門(あかがねもん)」跡の当時の礎石です。



(銅門跡から本丸を望む:正面は天守台)



「山手渡櫓門」(やまのてわたりやぐらもん)







写真は、山手渡櫓門の内部です。





写真の「舞鶴城公園」の「内松影門」(うちかげまつもん)から甲府城を出ます。





「舞鶴跨線橋」で「JR中央本線」を渡り、甲府駅の反対側に出ます。



舞鶴跨線橋の上から眺めると、甲府駅の南口の「舞鶴城公園」も北口の「山手御門」も、甲府駅の南北の各々のホームの真ん前にあります。

という事は、中央本線は甲府城を迂回せずに、お城の真ん中を突っ切って線路を敷いたんだ!

まあ、明治政府は徳川憎しだったから、迂回なんて配慮はしなかったんでしょうね。



跨線橋の脇に、写真の「山手御門」があります。



 



山手御門の横には、上の写真の「甲府 時の鐘」と下の写真の「甲州夢小路」があります。



甲州夢小路は、江戸時代から昭和初期までの甲府の城下町を再現したものです。





観光バスの団体が来ていて、どの店も満員だったので、ここでの昼食を諦めて駅ビルへ向かいます。





(甲州牛スペシャルステーキ丼:1,870円)

 

 



 

   






(写真は、甲府駅の人気NO1の駅弁「ワインのめし」)


 

 石和温泉と甲府城に寄り道をしましたが、また旧甲州街道に戻って街道歩きを続けます。



「甲府柳町宿」のある甲府の市街地を抜けて、笛吹川に合流する「荒川」を荒川橋で渡ります。 



何故か、橋の真ん中にバス停が?・・・



荒川は、4〜9月は作場船による舟渡しで、それ以外の月は仮橋が架橋されました。



荒川を渡ると、直ぐに次の「貢川(くがわ)」を貢川橋で渡ります。 



橋の脇を右折します。





写真は、街道沿いの「そば信州」で、私はここの蕎麦を食べるのを楽しみにしていました。



しかし、何と!「信州」は、本日定休日です!

残念!



気を取り直して歩いて行くと、前田橋南交差点の先の左手に写真の「芸術の森公園」があります。



余りの暑さに、この公園の木陰で、一休みしながら水分補給します。 



更に甲州街道を歩いて行きます。

中央自動車道の高架の手前から、「甲府市」から「甲斐市」に入ります。



先に進むと右手に、上の写真の「名取温泉」があったので、ひと風呂浴びて休憩しよう、と温泉のビルに入ろうとしますが・・・

コロナのせいか、またまた休業中です!

更にどんどん歩いて行きますが、途中に史跡が全く無いので、だんだん不安に・・・

どうやら道を間違えたみたいです?



大きな川に突き当たり、堤防の下に、ガイドブックには記載されていない写真の神明宮が・・・



こんなに長い距離を気付かずに歩いてしまうとは!

痛恨の判断ミスです!

間違えた道の往復で、半日を無駄にしてしまいました・・・

分岐点(竜王新町交差点)まで戻り、交差点の周りをよく見廻すと?

ありました!!

 

旧甲州街道では初めて見る道案内の張り紙が!(赤丸印)

旧甲州街道は、この交差点を右折して、丸印の黄色の矢印の方向へ進むべきだったのです。 

これを見落として、バツ印の黄色の矢印の方向へ、街道を直進してしまいました・・・





大きく「甲州道中」書かれているのは、私と同じ間違いをする街道歩きの人が大勢いるからでしょうね。

 

「竜王駅」へ向かい、「甲府駅」で「特急列車」に乗り換えて、八王子経由で新横浜に帰ります。



上の写真の竜王駅前の「山県大弐」(やまがただいに)は、武田氏の家臣の子孫で、江戸時代中期の儒学者です。

大弐は「尊王攘夷」を唱えますが、幕府に捕らわれ、1767年に処刑されました。

それから百年後の幕末に、山県の唱えた「尊攘攘夷」は、討幕の大義名分となりました。

これにより、明治天皇は山県の偉業を讃え、正四位が下賜されました。



甲府駅で特急列車を待つ間に、写真の「ワインのめし」を買って、車中で食べます。



「ワインのめし」弁当と缶ビールを買おうとしたら、売店のおばさんが、うちの缶ビールよりも隣の売店のワインを買った方がこの弁当に合いますよ、とこっそり勧めてくれました。



   

確かに、ワインをとよく合う弁当で、色々な味が楽しめました。 





(写真は、一枚岩をくり抜いた石枠の「くり抜き石枠井戸」)



前回は、痛恨の判断ミスで分岐点間を間違え、このため半日を無駄にしてしまいました。


今朝は、始発電車で新横浜からJR中央線に乗り、八王子経由で、甲府の市街地の「竜王」駅で下車します。

前回間違えた分岐点の竜王新町の交差点からスタートします。



「甲州道中」の道案内の張り紙(赤丸印)に従って、黄色矢印の方向へ歩いて行きます







分岐点を少し入ると、道の脇に、上の写真の1824年建立の「丸石道祖神」がありました。



少し進むと、左手に、1606年創建の「称念寺」があります。



上の写真は、境内にある「くり抜き石枠井戸」です。

案内板によると、一枚岩をくり抜いた石枠の井戸で、ここを往来する旅人が休憩したところから、「お休み井戸」とも呼ばれたそうです。



本堂の脇には、上の写真の「石造六地蔵尊」もあります。

江戸時代初期のものだそうです。



称稔寺を出て、JR中央本線の踏切を渡ると、左手に下の写真の「石祠の道祖神」が祀られています。





白壁の塀の家を左手に見ながら進んでいくと、少しづつ上り坂になってきました。 



 



この坂が「赤坂」で、広大な「甲府盆地」の外輪山にあたります。

急な笹子峠を下って入った「甲府盆地」の中を、駒飼、鶴瀬、勝沼、栗原、石和、甲府柳町と延々と歩いて来ました。

そして、この甲府盆地をぐるりと取り巻く外輪山の切れ目の坂道(赤坂)に挑み、盆地の底から抜け出そうとしている訳です。

「赤坂」は、その名の通りの赤土の坂で、一旦雨が降るとぬかるんでしまい、行き倒れになる旅人が多かったそうです。 



この「赤坂」をどんどん上って行くと、右手に上の写真の巨大な石碑の「赤坂供養塔」があります。

表面には、大きな字で「南無阿弥陀仏」と刻まれています。

案内板によると、安政年間(1854〜60)に建立された無縁者を供養するための碑だそうです。

無縁者?、ここで行き倒れになった旅人のことかな〜?



この赤坂供養塔のすぐ先の左手には、1711年建立の「馬頭観音像」が祠の中に安置されています。







急な坂を少し上ると、右手の「諏方大明神」の鳥居の奥に、「諏訪神社」と「赤坂稲荷神社」が並んでいました。 









神社の境内には、上の写真の様に、有名な諏訪の御柱大祭のときに使う「御柱」が立っています。



更に急な坂を上って行きますが、振り返ると、「甲府盆地」が眼下に見えます。

短時間で、こんなに坂を上ったんだ!



上の写真の県営発電総合制御所の辺りまで来ると、道が平坦になったので、多分、この辺りが赤坂の頂上でしょう。



江戸時代には、この辺りに三軒茶屋があったそうですから、旅人は、急坂の難所を超えて、ホッと一休みしたのでしょうね。



ややこしい変則十字路の分岐点にさしかかったので、今度は間違えない様に、ガイドブックをよく見ながら、慎重に進みます。



変則十字路の信号交差点を直進し、上の写真のY字路を左に入ります。



すると、ここから急な下り坂になりました。 

坂をどんどん下って行くので、また間違えたら、この急坂を上って引き返さないといけません・・・



ガイドブックに記載された「長屋門の旧家」などの目印を確認しながら慎重に進みます。 

  

(なまこ壁の旧家)



   



更に下って行くと、右手に1570年開山の「自性院」があります。

 参道口には、丸石道祖神が祀られています。





案内板によると、参道の石畳は1765年の敷設だそうです。

自性院を出て更に進みます。



(なまこ壁の家)




(白壁の旧家)



やがて、下今井(仲町)に入りますが、この下今井上町の交差点が「穂坂道」の「追分」です。

穂坂道は、甲斐の国と信濃の国を結んでいます。

ここが穂坂道の起点で、ここを右折して信濃の国へ向かいます。



更に進んで、中部横断自動車道の高架をくぐります。 



JR中央本線のレンガ造架道橋をくぐります。 



レンガ造架道橋の手前に写真の「丸石道祖神」がありました。








(写真は、武田勝頼の妻が、燃える新府城を見て涙を流したという「泣石」)

 



旧甲州街道は、JR中央本線のレンガ造りの架道橋をくぐって行きます。



少し歩くと、上の写真の下今井の交差点に出るので、直進しないで脇道へ右折して進みます。









やがて右手に、写真の「泣石」があります。





説明版によると、1582年、織田・徳川の連合軍が迫る中、「武田勝頼」は、完成したばかりの「新府城」に自ら火を放ち、「岩殿山城」を目指して落ち延びて行きました。

(岩殿山城については、「甲州街道を歩く:駒橋」を見てね。)          

                                

武田勝頼の妻は、ここで新府城の方角を振り返り、燃え上がるお城を見て涙を流した、とあります。

これが「武田勝頼」一行の”死の彷徨”の始まりでした。

(武田勝頼を裏切って”死の彷徨”をさせた小山田信成については、「甲州街道を歩く:初狩」を見てね。)





暫く歩いて行くと志田に入ります。





なまこ壁の土蔵を過ぎると、右手に、1818年建立の下の写真の「丸石道祖神」があります。





丸石道祖神の先には、上の写真の「三界萬霊塔」があります。



また、1835年建立の小さな「二十二夜塔」も並んでいます。

これらの石塔群の道路向かいは、以下の4枚にまたがる写真の広大な「旧庄屋宅」です。











この旧庄屋宅を眺めながら進んでいくと、やがて、丸石道祖神の奥に1397年建立の「船形神社」の石の鳥居があります。





説明版によると、船形神社は、崩れた古墳の上に祀られていましたが、この崩れた古墳の石室が船形のように見えたところから船形神社と呼ばれたそうです。

更に進むと、やがて「宇津谷(うつや)」に入ります。



左手に、宇津谷の道祖神と呼ばれる、1802年建立の上の写真の「石祠道祖神」が祀られています。



宇津谷の塩崎町の六反川を渡った先を右折します。







少し進むと、右手の田んぼの中に写真の「一橋陣屋跡」がありました。

説明版によると、1746年、「徳川吉宗」の4男の「一橋宗尹(むねただ)」が、巨摩郡3万石の領地を支配するため、ここに「陣屋」を置いた、とあります。



この一橋陣屋の道路向いに、1378年創建の写真の「妙善寺」があります。



本堂の厨子には、室町時代の本尊の十一面観世音菩薩像を安置しているそうです。



妙善寺を出て右折すると、民家の石垣の上に「田畑の道祖神」と呼ばれる石祠が上の写真の様に祀られていました。



旧甲州街道は、ここから先は上り坂になり、上り詰めるとY字路になります。

ここに2基の「二十三夜塔」があります。

この二十三夜塔のY字路を左に進みます。















坂を下って行くと、県道甲府韮崎線に合流します。







「塩川橋」で「塩川」を渡ると、「甲斐市」から「韮崎(にらさき)市」に入ります。



塩川橋の西詰交差点から斜め右に入り、中央本線に沿って進みます。





上の写真の小さな黒沢橋を渡り、韮崎市立病院を過ぎると、まもなく韮崎宿に到着です!